「信頼」って、個人的には距離を置きたいことばです。
「信頼」が人を縛る
中島義道氏の「人間嫌いのルール」より。
信頼は、善きにせよ悪しきにせよ人を縛る。よって、人から縛られたくない人間嫌いは、こうした信頼関係から自然に身を退く。
人間嫌いにとっての理想的人間関係とは、相手を心配することなく、相手から支配されることのない、相手に信頼や愛を押しつけることも、相手から信頼や愛を押しつけられることもない関係である。
これ、たいへん同感です。過度な信頼は人を縛り、もしもその信頼が裏切られたとき、怒りに駆られてしまうんですよね。「おまえを信頼してたのに!裏切ったな!」と。
その意味において、ぼくは人を縛らないためにも、誰かを心からは信頼したくないですし、縛られたくないので、心からの信頼は遠慮したいです。
一方で、信頼が仕事上のコミュニケーションコストを下げることも確かです。不信が前提にあると、仕事のなかで「説明」が増えます。面倒なコミュニケーションが増える分、効率は悪くなり、モチベーションも下がります。
「おまえになら任せられる。あとは好きなようにやってくれ」と仕事を依頼される気持ちよさは、みなさんも感じたことがあるでしょう。「逐一説明を求める」よりも、「信頼して任せる」方が、仕事の質もスピードも高まります。
信頼ということばひとつとっても、その作法があるということなのでしょう。
まず、中島氏が書かれているように、「相手を心配することなく」というのはひとつのポイントです。
「誰かを信頼している」ときに、相手のことをふと「心配」になってしまったとするならば、それは不健全な信頼です。「あの場では”おまえに任せる!”と言ったけど、やっぱり心配になってきた…」なんて信頼は、ほんとうの意味での信頼とはいえないでしょう。
また、「相手から支配されることのない」というのも大切です。
「おれはおまえを信頼してるんだ!」ということばの背後に「だから裏切るな、おれの意向に従え、おれの思い通りに動くんだ」というコントロール欲求が隠れているようなら、言うまでもなくこの「信頼」は嘘っぱちです。信頼の名のもとに、相手をコントロールしようとしているだけです。信頼とは真逆の態度です。
裏を返すと「健全な信頼」とは、
・相手を心配することなく、安心して任せるという態度
・相手をコントロールしようとせず、あらゆる結果を受け入れる態度
に裏打ちされたものだといえるでしょう。
無論、このような信頼関係は非常に理想的なものであって、実際の生活で実践するのはなかなか困難です。
なので、現実的な解決策としては「ほどほどに人を信頼する」というレベルに、信頼の度合いを抑えておくのがよいのでしょう。
つまり、「あなたに任せます」と信頼はするのですが、その裏では「まぁ、こちらの期待過剰かもしれないので、思うような結果が出なくても、それはわたしの見る目がなかっただけの話だ」という諦めを、同時に抱くということです。そう考えれば、もし信頼を裏切られたとしても、無用な怒りに囚われることもありません。
ぼくが仕事上で駆使している「信頼」は、だいたいこんな「ほどほどの信頼」だったりします。しょせん他人ですし、100%信頼するなんてことはできませんからね…。
ちなみに中島氏は、書中で兼好法師の発言も引いています。この気分、とてもわかります。
よろづのことは頼むべからず。おろかなる人は、深くものを頼むゆゑに、恨み、怒ることあり。
(すべてのことは頼みにできない。おろかな人は、深くものを頼みにするために、(期待を裏切られて)恨んだり、怒ったりすることがある。)
人間嫌いな方は読んでおくべき一冊です。提示されているのはかなりマッチョな生き方ですが、救われる人も多いでしょう。
私は、もっとラディカルなことを考えているのだ。家族や友人や恋人など、古典的で自然で麗しくも親密な、すなわち互いを縛る人間関係をいっさい絶った、しかも人と人との結びつきを実現することが可能かというテーマである。私はそれを探ってみたい。そこに真に自由な人間関係があるのではないかと思うからである。