現代というものは便利になったもので、ネットを活用して色々な人とコミュニケーションをとったり、あるいはいろいろな人の本音の乗った文章を見ることができます。そういう意味でブログはインターネットの中でも優れた発明であると思います。
私は自分自身の興味の方向性から、今は見た目問題の当事者のブログなどを暇を見ては拝見させてもらっています。
そんな中いろいろな人の心の内から吐露される言葉を見ては毎度毎度言葉に表せないような思いが胸に渦巻く。
その思いは何なのか。文章を読み終えて感じるのは、単純に別けてしまうのは失礼なことだが、ざっくりと大別して、自分のことをポジティブに捉えている人と、ネガティブに捉えている人がいるということに私の中のセンサーが反応する。単純に別けてしまうのは失礼なことと表現したのは、何事も10人10色であるからだ。十人十色とは言ってもそれでも私の心の中のセンサーの針がプラスに傾く文章とマイナスに振れる文章とがある。必ずどちらかに振れる。
昔はそんな私であった。だからといって人生をネガティブに捉えている人の気持ちが分かるなどとは思ってはいない。人の心はそんなに単純なものではない。泥沼の中に居て泥に足をとられた人の感覚は陸地に立っている他人様には解らない。一歩前に出ればいいじゃないかと思える光景も、当事者にすればその一歩がなかなかでないのが本当のところだ。私はある意味泥沼の中からやっとこさ陸地に辿り着けた一人であると思う。それには三十数年を費やした。周りの助けもあった。
ネガティブに人生を捉えている人の中には、ポジティブに生きている人をとらえて 「そんなものは偽善である」「平気なフリをして生きていても心の中は真っ黒だ」「単なる自己実現の売名行為である」 と言う人も居るだろうと思う。そう思うのも自由であろうと思う。
先天性の見た目問題の当事者に限って言えば、おそらく100人いれば99人までが人生の最初の幾ばくかの年数をネガティブに生きているものだと思う。最初からポジティブに生きれる菩薩のような当事者なんてそうそう居ないだろう。居たとしても100年に一人か数百年に一人かそんなものではないか。そもそもが見た目問題当事者であるということが稀有だからだ。しかし人間は自分を変えることのできる生き物であると思うし、他の動物と違って精神性の突出した生命体であるとも思っている。人間が動物と違って尊い存在でありえるのはその精神性に由来している。そこを否定すると人間は動物となんら変わりのない存在に成り下がってしまう。
唯物論者は心などというものは脳細胞の反応にすぎないと言うが、それならばこの心の痛みは何か?と問いたい。
日々誰もが何かに悩み苦しむ様子も脳細胞の反射にすぎないのであれば自殺だって合法にすればいい。脳細胞がコンピューターチップのようなものならばそうすればいい。機能不全を起しているものやパーツが欠損しているモノがいれば機械と同じく処分すればいい。だが実際は違う。
心が痛む時には胸が苦しくなる。締め付けられる。悲しい時には胸からこみ上げる。心は手にとって見せることの出来ないものではあるけれども、しかし反面多くの人がその存在を認めるものであり、感じているものであろうと思う。決して脳から発せられる微細な電流の作用による結果の表れなどではない。
心というものは目に見えないものであり普段蔑ろにしがちであるからこそ、大切にしなければならないものでもあるとは言えないだろうか。
この話を続けるととりとめもなく広がって生死観まで話さなければならなくなるので今日はここまで。