「関係の空気」 「場の空気」 に共感できる主張が載っていたのでご紹介。これぼくも気をつけています。
冷泉氏は日本語教育を「コミュニケーション重視」にするために、教育現場では「です、ます」のコミュニケーションを教えることが必要だと語っています。
会話においては「です、ます」をあえて敬語の一種としないほうが良いのではないだろうか。むしろ「です、ます」こそ日本語の会話の標準スタイルなのだとして、学校教育でも社会の中でもしっかりとそのコミュニケーション能力を磨くことが必要なのではないだろうか。
(中略)年齢や社会的な上下にかかわらず、初対面の人間同士はこの「です、ます」という標準会話によって最初の信頼関係を確立すべきだし、公的な場、とりわけ利害や前提知識に差のある人間の集まった場でも「です、ます」を通すことで、その場の参加者全員と等距離の関係を築くべきだろう。
(中略)スポーツの指導なども同じだ。
「馬鹿野郎、罰としてうさぎ跳び百回だ」
という文化ではなく
「悪くはなかったですね。でも、重心移動を工夫してみてください。弱点に気がつくはずですよ」というような文化を確立しなくては、最終的に世界に通用するような人材は育たないだろう。
これ激しく同意です。ぼくも初対面の人とは、どんなことがあっても「です、ます」を標準にしています。「です、ます」を崩すのは、よほど仲の良い友人ぐらいなものです。
とはいえ、特に年下に対して「です、ます」で接することに対して、ぼくらは違和感を覚えるよう、叩き込まれてしまっているのも事実です。
先日青木さんという中学生と会って2時間ほど話したのですが、ふとしたときに「です、ます」が崩れそうになる自分に驚くとともに、嫌悪感を抱きました。「中学生」というだけで、少なからず無意識的に見下してしまっていた、ということですから…。
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「です、ます」の語法を使うメリットは、関係性がフラットになり、弱い立場に置かれていた人たちが意見を発露しやすくなることです。この語法を用いることで、権威主義が介在する余地が少なくなります。
たとえば遅刻した部下を叱責しようとするときも、「だ、である」だと
「社会人にもなって遅刻するなんて、何を考えているんだ!」
になりますが、「です、ます」だと
「遅刻するのというのは、社会人として望ましい態度ではありません。どうして遅刻したのですか?」
という口調になり、部下の意見が発露されやすくなります。単に言い方を変えるだけで、コミュニケーションのあり方が大きく変わるのです。
キャラ的に今更取り返しがつかない方も多いかもしれませんが、勇気を出して「だ、である」から「です、ます」へシフトすることはたいへん有意義だと思います。ぜひ気をつけてコミュニケーションを取ってみてください。
日本語学校に勤める冷泉氏による本書、その他さまざまな日本語コミュニケーションの分析が収録されており、非常にエキサイティングです。Amazonでも高評価。古本は1円ですので、ご興味ある方はぜひ。