2011年09月20日

反原発運動に挫折した日々

 もう25年も前のことですが、高校生の頃、私は反原発・反核燃運動に参加していました。参加といっても小さなことです。ミニコミ誌に核燃問題を書いたり、勉強会・講演会にちょっと行ってみたり、その程度です。高校の部活は物理部でした(それと吹奏楽部)。物理部と言っても物理とは何の関係もなく、もっぱら社会問題について、ああだこうだと、高校生がくっちゃべる、そんなサークルっぽい部活でした。広瀬隆の『東京に原発を』や、あとは別冊宝島だったか、いくつか、読み回したりしていました。そういえば『ガロ』持ってきていた先輩もいました。『ガロ』と原発とはたぶん関係ないですが、社会批判という意味ではあったかな。
 当時はスリーマイルの原発事故の後でもあり、原発にお花畑の未来を描くなどということはもうそんな時代ではありませんでした。既に反核燃・反原発の声はありました。「トイレのないマンション」という言葉も既に使われていました。もちろん明瞭に反原発を主張する人は少ないですが、不安や疑問を感じている人は少なくありませんでした。その点は25年前も今もさほど変わらないと思います
 反原発・反核燃にかかわっていた高校生の私でしたが、その後挫折を経験し、やがて反原発運動から距離を置き、冷めた目で見るようなってしまいました。それには大きく2つの理由がありました。1つは反対派の人の発言に躓いたこと。もう1つは、とても個人的なこと。今、そのことを顧みて書きます。この文章は私の反省文。

1.都会が危険にならなきゃそれでいいのか。

 どの集会だったか定かではありませんが、六ヶ所村核燃反対集会に私は出ていました。ゲストスピーカーが核燃の問題点をいろいろ語る。その一人だったと思うのですが(もう記憶が定かではない)、「もし六ヶ所再処理工場で大事故で起こったら、仙台や東京が大変なことになる。だから中止すべきだ」そういう訴えでした。そのとき17歳の多感な少年だった私は、それを聞いて、疑問というか不信感が湧いてきました
 原発・核燃推進派も都会のためにやっている。でもこの反対派も都会のために反対している。なぜ六ヶ所のことを考えないのか。六ヶ所再処理工場で大事故が起こったら、真っ先に地元住民が被害を受けるのに・・・私はそのことばを聞いて、憤ったというか、失望してしまいました。反対派も所詮そんなもんかと。自分の生活のことしか考えられないのかと。今、大人になって、43歳になって、あの反対派の人の気持ちもよく分かるようになりました。きっとあの人も、自分のことだけを考えたのではないだろうし、そう訴えざるを得ない気持ちも分かります。しかし少年の頭では理解できませんでした。理解する気もありませんでした。「六ヶ所で大事故が起こったら仙台や東京が危険な目にあう」などという反対派の発言が理解できませんでした。そこに躓いた。それが私の中で、反原発運動に対して白けてしまった大きな理由の1つでした。

2. ムラサキツクユサの市川定夫先生

 以前、自分の色弱を理由に、工学部をやめて生物系に移ったと書きましたが、生物系に移ったのには、もっと積極的な理由がありました。一つは高校図書館で読んだ『分子生物学の夜明け』。ほとんど理解できませんでしたが、しかし生物学に新しい世界を感じました。とりわけ分子生物学を切り開いたのが物理学者たちだった、というのが興味をそそられました。
 もう一つが「バイオテクノロジー」でした。高校生というのはそういう先進技術を無批判に受容するところがあります(たとえば原子炉研究所の小出裕章氏は高校生のときに、原発がこれからの技術と信じてその道に進んだ、と述懐していた。まあ小出先生と自分を重ねるなんておこがましいのだが)。バイオテクノロジーは社会に幸福をもたらす夢の技術と信じていました(原発を批判しておきながら、バイオテクノロジーにお花畑の未来を描くという自己矛盾を平気で抱えていた)。
 そして第三にムラサキツクユサの市川定夫先生です(たしか六ヶ所村だったと思うが)反核燃・反原発の講演会に市川定夫先生が講師として来ました。残念ながら私は行けなかったのですが、父がその講演に出席した(と記憶している)。父はその少し前に市川定夫先生の本を買っていました。私も後からその本が気になって読みました。市川定夫先生は放射線遺伝学の分野で、特に放射線障害について、ムラサキツユクサをモデル生物として選んで研究していました。高校生ながら私が感銘を受けたのは、市川先生はただ知的関心を満たすためだけに研究をしているのではなく、それを反核・反原発という社会的文脈に自らの身を置いて研究をしているという点にありました。

 私は市川定夫先生のいる大学の理学部に行きたくなりました。そこが私の志望校でした。これと決めたらそこに向かって突き進む。若さか性格か。ともかく市川定夫先生の元で学びたかったのです。しかし試験に落ちてしまった・・・結局、ほにゃらら大に行くことに決めました(ずっとそのことを後悔していました)。一週間ぐらい、私は布団の中で泣いていました・・・今思えばちっぽけなことですが、18歳の若者にとっては大きな挫折、人生で初めて味わいました・・・そしてほにゃらら大に行ったのですが、やっぱり来るんじゃなかったと思いました。アイデンティティークライシスを起こしていました。来る目的も意思もない学校。他の学部で入学一月後に自殺した人がいるという話を聞いて、私はそんな気はないけれども、分かる気がしました。受け直そうかと思ったけれど、金も意気地もありませんでした。私の大学生活は白けていました。そして図書館で仏教関係の本を読み漁っていた日々・・・
 大学だけがすべてと思ったわけではないし、今振り返るとほにゃらら大でよかったと思います(なにより数は少ないけど友人の存在。そして恩師の高原先生の存在。この先生にはいろいろと教えられたし助けられもした。内側に熱いものを持っている先生)。ただ、私の中では、ムラサキツユクサの市川定夫先生のことがぷっつり消えてしまった時でした。自分の中で反原発に対する気持ちがぷっつり消えた瞬間でした。その恨みというわけでもないのですが、反原発運動に対して白けてしまいました。皮肉も言いました。大学に、急に反原発に目覚めた人がいて、「こんなに原発って危ないんだよ!」って言っていたのですが、その人に対して私は次々と、批判のための批判、質問のための質問をし、揚げ足を取って、とうとう泣かせてしまいました。後味悪かったなぁ・・・それ以来、私の中では原発問題は何も言うまいと思いました。原発の危険性を訴え続けている人にも、原発を推進する人にも、私は何も言うまいと。原発について貝になっていました。3.11が来るまで、ずっと・・・

 なぜあのまま原発問題にかかわっていかなかったのだろうかという思いが、3.11以降、ずっと私の心の中にありました。もちろん私が何かをしてきたとしても福島第一原発事故を止められたとは思いません。ですが、自分の中ではずっと、申し訳ない思いがしています。なぜ私は誠実な歩みができなかったのだろうか。なぜ自分が疑問や怒りを感じていることを封じ込めてしまったのだろうか。なぜそんなちっぽけな理由でやめてしまったのだろうかと(18歳の若者には大きな問題だったけど)。あの時の私に向かって言いたいのです。くじけるな、がんばれ、あきらめるなと。どこに行ってもそこで新しい出会いがある。その新しい出会いの中できっと何かができると、今、私は、18歳の自分に言いたいのです。

 福島のみなさん。本当に申し訳ありません。私はこの25年間、反原発運動から距離を置いていました。自分で言うのもなんですが、チェルノブイリ事故前から反原発運動にかかわろうと思っていた数少ない高校生だったと思います。自分の中ではそれなりに気づきはありました。しかし、それを今思えば取るに足りない理由で、距離を置いてしまいました。この25年間何もしてこなかった自分を恥じています。本当に申し訳ありませんでした。
 今、私はできるところから、福島や伊那のためになにかしていきたいと思ってやっていますが、それは何か理想に燃えてとか、正義感に燃えてとか(そういう部分もないわけではないですが)、そういうことではなく、ただ自分自身に対するリベンジなのです。
posted by 伊那谷牧師 at 13:10| Comment(4) | 放射線や電磁波と病気 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なるほど、そうでしたか・・・と思いました。研究職などというものを目指して、あの先生に師事したいという気持ちで勉強したということが、分野は国文学で、まるで違いますが、かつての私にもありました。「あの先生」の実物にあって、すぐにがっかりしてしまったのですが。
 
Posted by Miz at 2011年09月23日 09:39
反原発運動に限らず、相手方(原発でいえば推進派)の言動や国家権力の弾圧よりも「味方」の心無い言動に触れて「心が折れる」ということは私も経験しました。そんなときでも、目の前にいる人のためでなく「神に向かって歩み続ける」こと、また推進派であれ、心無い言動をする人であれ「神の子」である(どこかに神性を宿している)という確信を持ち続けることができればいいのではないかと思います。

キリスト者ではありませんが、高校生のときにチェコのコミュニスト、ユリウス・フチークの「絞首台からのレポート」を読み人間に対する基本的信頼ということを学びました。

「反原発運動」から離れていても、伊那谷牧師さんが日々誠実に人に向き合ってこられたことは無駄な時間ではないと思います。「反省」に感銘を受けて、やはり高校生のときに反原発に目覚めた一人として、コメントさせていただきました。
Posted by 染森信也 at 2011年10月08日 11:34
>人間に対する基本的信頼ということを学びました。

あんたそういうふうに生きてないじゃん

ネットじゃカッコいいことばかり書き込み
やがって。

ところで山猫鍼灸院はどうなったのよ?
Posted by 染森さんよ at 2012年03月11日 13:02
>「味方」の心無い言動に触れて 
国試前の大変な時にクラス旅行の準備をしてくれていた人に対して『遊ぶことにばかりかまけてないで勉強会でも開いたらどうだ』などど言い放つ人間には私も『心無い言葉』を滝のように浴びせかけたい 
Posted by 染森さんよ at 2012年07月12日 21:17
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