【プレイバック芸能スキャンダル史】
フィンガー5 米国留学で人気低迷、解散へ
【芸能】
沖縄出身アイドルグループの元祖といえば、フィンガー5。73年8月リリースの「個人授業」に続き、「恋のダイヤル6700」「学園天国」とミリオンセラーを連発して、一躍、人気者となった。だが、75年8月には一家全員で渡米してしまう。2年で1億3000万円を稼いだといわれた人気グループの“日本脱出作戦”にはさまざまな臆測が乱れ飛んだ。
渡米計画は所属事務所が75年7月以降のスケジュールを取らなくなったことから発覚した。単なる観光や休暇ではなく永住も視野に入れ、音楽や踊りのレッスンを行うとともに米芸能ユニオンに加盟、仕事があれば仕事を取る計画だった。
メンバーは長男の玉元一夫(当時19)以下、光男(同17)、正男(同16)と、年少者の晃(同13)、妙子(同12)の5人きょうだい。晃と妙子は義務教育があるため、地方興行を入れにくいなど芸能活動に制約があった。移住は米国の労働規制が緩く、仕事が取りやすいためとの報道も流れた。
メーンボーカルの晃の変声期が理由との声も出た。晃のハイトーンが出なくなったため、イメージチェンジを図る必要から、渡米するというものだ。この他、同年5月で契約切れを迎える所属事務所からの独立問題が理由との噂も流れた。渡米を前に一家は上智大学の外国人女子学生を先生に英語のレッスンを受け、英語の歌詞の発音を直してもらうなどの準備を進めた。
8月のさよならコンサートツアーでは正男が虫垂炎で倒れるなど波乱が起きたが、一家は8月25日に旅立った。米国ではハリウッドやショーの見学や、黒人教師について音楽と踊りを本格的に学ぶなどの活動を行い、10月に米国の芸能ユニオンに加盟。しかし、目立った活動はできないまま同月下旬に一夫がグループを脱退、単身帰国した。
一夫は不動産会社に入社。父親の玉元松市氏は一夫が入社した会社に投資して会長に就任。一夫が抜けた穴にはいとこの具志堅実(当時8)が加入した。
その後、米国滞在中の75年11月に「帰ってくるよ」をリリース。翌76年2月9日に帰国。米滞在費用は2000万円を超えたという。帰国第1弾の新曲「ジェット・マシーン」は舞台衣装と編曲を米国黒人編曲家が担当し、ブラックミュージック路線を意識したものとなった。
もっとも、大ヒットとはならず、費用だけがかかり、ブランクがあいた米国留学が人気低迷の原因ともっぱらだった。結局、78年6月リリースの「悩ませないで」を最後に実質的に解散。80年に光男、正男、晃の3人が「ザ・フィンガーズ」として再デビュー、長髪に口ひげというロックミュージシャンスタイルへとイメチェンしたが、大きな話題にはならなかった。晃は現在も芸能活動を継続、正男も料理店経営のかたわらライブを行っている。
◇1975年8月 1日、バンバン「『いちご白書』をもう一度」リリース。4日、日本赤軍がマレーシア・クアラルンプールの米国大使館等を占拠。15日、三木首相が終戦記念日に靖国神社参拝。現職首相で初。28日、興人が事実上倒産。負債総額1500億円。