一本足の蛸 このページをアンテナに追加 RSSフィード

「なぜなら彼女は一本足の蛸です。彼女の足は他の誰にも繋がっていません。人として生まれながら人類や他の生命体の何とも共有する部分を持たないのです。真の孤独とは、彼女のために用意された言葉ですよ」

谷川流『絶望系 閉じられた世界』電撃文庫(2005),p.243

2013-02-24

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死の扉 (創元推理文庫)

死の扉 (創元推理文庫)

『死の扉』は長らく「幻の名作」として知られていたので、昨年1月に新訳で復刊された折に一度は書店で手にとってみたのだが、その時には買わずに棚に戻した。買わなかった理由は3つあって、ひとつめは未読本がたくさん積んであるのにこれ以上本を買ってどうしようというのかという自制心が働いたこと、ふたつめは積んである本の中に『死の扉』の旧訳もあるということ、みっつめは……これは説明を控えておくことにしよう。この文章を最後まで読めば自ずと明らかになるだろうから。

さて、一度は見送った『死の扉』だが、一年後になって急遽買って読むことになった。毎月、ミステリ好きが集まって読書会をしているのだが、2月の課題本が『死の扉』に決まったからだ。

で、昨日読み終えたところだが、なるほどこれは名作だと感じた。メイントリックは今となっては古びてしまった感があり、単に犯人と動機を言い当てるだけなら全体の半分も読めば十分だろう。鮎川哲也の某長篇に同じトリックを用いたものがあり、そちらを先に読んでいるとさらな真相に気づくのが容易になる。なお、『死の扉』が日本に紹介されたのは1957年で、鮎川哲也は当然その頃にこれを読んでいるはずだが、かの20世紀最高の推理作家*1の名誉のために言っておけば、彼は前例のあるトリックを単純に再使用したのではなく、別の有名作品を踏まえたミスディレクションを施しており、全く別の作品に仕上がっている。この文章は鮎川哲也について論じる場ではないので詳述は避けるが、ちょうどカーター・ディクスンが『貴婦人として死す』で先行する某有名作品に挑戦したのとちょうどパラレルな関係になっているように思われる。

さて、『死の扉』に話を戻そう。

すぐに犯人も動機もわかってしまうのは、我々が『死の扉』の半世紀後に生きているからで、それはこの小説の欠点ではない。むしろ、バレバレの犯人であっても証拠らしい証拠がほとんどないのにどうやって犯人であることを指摘するのか、という工夫を評価すべきだろう。最終的に探偵役のキャロラス・ディーンは犯人に対してトリックを仕掛けて犯人を捕まえるのだが、それに至るまでの推理の過程を聞かされると、作中の随所に丁寧に伏線が張られていたことに感心する。この伏線の妙は21世紀になっても決して古びることがない。『死の扉』が名作だと感じた所以だ。

そういうわけで、今となってはこの本を読んだことに全く悔いはないのだが、途中、何度も行き詰って、読むのをやめてしまうと思った。それは、地味な会話のやりとりのなかに解決に至る重要な手がかりを密かに仕込む小説にありがちなことだが、中盤のサスペンスが非常に不足していたからだ。だが、それだけではない。最初のページから既にくじけそうになっていた。

次にこの小説の冒頭2段落を引用する。ぜひ、しっかりと読んでいただきたい。

エミリー・パーヴィスが殺された前日、ニューミンスターという小さな町は、イングランドで言うところの酷暑だった。すなわち、日照時間が六時間以上あり、そのうちの二時間は塗りたてのペンキをふくらませ、老紳士にアルパカ地の夏服に着替えさせるほどの暑さだったということだ。

当のエミリー・パーヴィスは天候に気づいた風もなかったし、そのことが愉快な話題になっても相手にしなかった。実際、店のカウンターを挟んで、取引相手と胡散臭い話をするのを除けば、彼女は話の腰を折った。そして、エミリー・パーヴィス相手の取引は、地元では有無を言わせないものと考えられていた。

しっかりと読んだうえで、「イングランドで言うところの酷暑」に思いを巡らせていただきたい。なんらかのイメージが浮かんだだろうか? よくわからなかった人はもう一度上の引用文を読んで、自分なりの考えがまとまったら、次を読んでほしい。

エミリー・パーヴィスが殺された前日、小さなニューミンスターの町はイギリスでよくいわれる熱病におそわれていた。つまり、太陽が照っている時間がすくなくとも六時間あって、そのうちの二時間は新しいペンキをふくらませ、老人にアルパカの上衣を着させるほどのはげしい暑さなのだった。

エミリー・パーヴィス自身は気候などに関心を抱いている様子がなく、誰かが商談でそのことにふれても、相手にならなかった。彼女はふだんから店のカウンターで商売の会話を隠しごとでもしているような小さな声でかわすほか、誰とも話をしたがらなかった。そして、エミリー・パーヴィスの場合、商売といっても彼女が売るだけの一方的のもののような印象があった。

これは、『死の扉』の旧訳の冒頭2段落だ。

今なら「一方的の」ではなく「一方的な」と書くほうが自然だろうが、これは半世紀以上前の訳。奥付をみると東京創元社「東京」が小さく書かれている*2

新旧ふたつの訳を読み比べてほしい。

多くを語る必要はあるまい。

*1:異論は一切受け付けない。

*2東京風月堂「東京」が小さく書かれているのと同じ理由だろう。

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