菊間 千乃(きくま ゆきの、1972年3月5日 - )は、東京都出身。平成期(1990年代後半-)のフジテレビジョン フジテレビアナウンサー。血液型AB型、身長160cm。イギリス留学経験あり。
光塩女子学院中等科、高等科卒。一浪後早稲田大学法学部卒業。卒論は破産法について。その後、1995年フジテレビ入社。国際連合公用語英語検定試験(国連英検)B級・実用英語技能検定(英検)準1級所持。なお菊間自身は小学校時代からアナウンサーと早大入学を目指していたというが、大学受験に失敗した際、実父は早慶でなくともいいだろうと言ったという。
「発掘!あるある大事典」、「2時のホント」、「FNNスーパーニュース」(スポーツキャスター)など、数々の人気番組に出演。1998年9月、当時リポーターを務めていた「めざましテレビ」の「それゆけキクマ!」のコーナーで避難器具の体験リポート(生中継)中にマンション5階から転落。腰の骨を折る重傷を負い入院するも翌年復帰した。
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菊間アナ落下事故は放送事故ではなく、放送中の事故ですが放送事故の代表選手となってしまいました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
落下現場 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(挿絵 NAO WHITE BEACHさん) (挿絵 ガンマさん) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ニュース | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フジ菊間アナが5階から転落! 2日午前7時半ごろ、東京都足立区谷在家のビルでフジテレビのアナウンサー、菊間千乃(ゆきの)さん(26)が、避難器具の体験リポート中に、5階から約13メートル下のマットに落下、腰の骨を折り、全治3カ月の重傷を負った。同局のモーニングショー「めざましテレビ」の生中継中の事故だった。 警視庁西新井署の調べでは、器具は体に巻いたベルトに、厚さ0・5センチ、幅2・5センチ、長さ30メートルのロープをつなげ、腰につけた滑車でスピードを調整しながら降りる「セーフリーダウン」という新製品。ロープの先端は、ビル5階室内のロングソファにフックで固定されていた。同署では、このフックの固定が完全ではなかったとみて、原因を調べている。 菊間アナが落下するアクシデントは、同番組の挑戦コーナー「それ行け!キクマ」の中で、起きた。同局によると、菊間アナは、窓わくに手をかけぶら下がった状態から、手を離して徐々に降下しようとしたところ、突然、ロープの金具がはずれ、おしりから地上に落下。厚さ30センチのウレタンマットが敷かれていたが、腰を強打したという。 中継画面はすぐにスタジオに切り替わり、約20分後、司会の大塚範一キャスターが「心配をおかけしましたが、菊間さんの意識はしっかりしています」と説明した。 菊間アナは、荒川区の東京女子医大第二病院に運ばれたが、腰椎(ようつい)圧迫骨折で、全治3カ月の重傷。同局には、視聴者から「大丈夫なのか」などの問い合わせが約850件殺到した。 器具には、米NASAが開発した新素材が使われ、「ロープ一本で乗用車1台を持ち上げられる」ほどの強度をうたっていたという。 同局広報部では、「本番前に菊間アナ本人を含め、2度にわたり、器具をテスト使用して安全を十分確認した」としながら、「このような結果になり、視聴者には大変ご心配をおかけした。今後安全には十分気を付けたい」と話している。 |
菊間アナ 厳罰 降板 少年に酒
こんなのが弁護士やるなんて世も末ですね。NEWSメンバーだった内博貴が未成年だった時に酒飲ませて、謹慎させた当事者がこれじゃ・・・。弁護士は経験と洞察力が肝心です。菊間はどうせ、どっかでつまずいて懲戒請求かけられて終わる気がします。毎日ワクワクって、どの面下げて言っているんでしょうか?独自の情報網によれば、フジテレビ関連の会社の顧問業務をメインに、企業法務全般を扱うとか・・。民事事件や刑事事件などの本来の仕事はそんなにやる気ないらしいです。これじゃ、文書屋と変わらないでしょうが。
元女子アナ弁護士・菊間千乃さん
仕事が楽しくて「毎朝起きるとワクワクするんです」
人気アナウンサーとして活躍していた菊間千乃さん(39)が、弁護士を目指してフジテレビを退職したのは2007年末だ。
それからおよそ4年、夢を実現した菊間さんが2012年1月から都内の事務所で、弁護士としての第1歩を踏み出している。
13日には、司法試験挑戦の日々を記した『私が弁護士になるまで』も文藝春秋から刊行された。
「新人弁護士」として多忙な日々を送る菊間さんに、仕事の合間を縫って話を聞いた。
――――弁護士として働き始めておよそ2週間になるとのことですが、感想はいかがですか。
菊間 まだまだふわふわしている感じです。事務所内では「菊間先生」と呼ばれているんですが、まだ慣れませんね。
毎日とてもめまぐるしい忙しさですが、とにかく仕事は楽しくてやりがいを感じています。
毎朝起きると、「早く事務所に行きたい!」「今日どんな仕事しようかな」ってワクワクするんですよ。
――――現在の事務所に入った経緯は?
菊間 ロースクール時代に雑誌でこの事務所の先生についての記事を読んで以来、「司法試験に合格したら会いたい先生」の一人だったんです。
そして実際にお会いしたら、もうビビッときて。フジテレビに入社したときもそうだったんですが、
私の基本は「何をやりたいか」よりも「誰とやりたいか」なんですね。
これは後で知ったんですが、うちの事務所はフジの顧問もしていたんです。合格祝いをしてくれたフジの役員の方も
「あそこの事務所は信頼している」と言ってくれました。ロースクールの先生や先輩からも話を聞いて、
「もうここしかない!」って。
――――今はどんなお仕事をなさっていますか。
菊間 弁護士4~5人の「チーム」の1人として書面を作ったりしながら、他の先生の仕事を見させていただいています。
だいたい同時に抱える仕事は10件ぐらいでしょうか。うちの事務所は企業法務が中心ですが、
労働問題から契約関係、入管がらみの事件もあるし、株主と取締役のいざこざまで、仕事はまさに「フルコース」ですね。
――アナウンサー時代の仕事と比べていかがですか。
菊間 「責任」がちょっと違うと感じています。アナウンサーのころは共演者やスタッフさんたちとの共同作業でしたが、今の仕事はたとえば自分の書いたものや裁判官への説得一つが、訴訟の勝ち負けや企業経営への大きなプラスマイナスにもつながってしまうわけですから。責任度合いはちょっと比べられないというか、相当違いますね。
――最近、新人弁護士の「就職難」などが叫ばれていますが、実際に体験した身としてどのように考えますか。
菊間 就職難とは言いますが、弁護士に限ったことじゃないですよね。誰もが大変な現状で、取り立てて弁護士ばかりあおり立てる必要がどこにあるんでしょう。そういう悲観的な話ばかりでは、弁護士を目指そうという人も減ってしまうのでは。
むしろ弁護士はいざとなれば自分で開業でき、それを支援する枠組みもあるぶん恵まれていると思います。私の友達も「大変だ」とは言いつつ、なんとかみんな決まりましたし。弁護士を志望する人はネガティブな話に負けずに、「自分が弁護士になることを待っている人がきっといる」と信じてがんばってほしいです。
――アナウンサー生活を経て、39歳。新卒から比べれば遅いスタートです。焦りなどはありますか。
菊間 全くないですね。事務所の先輩弁護士にも年下の方が大勢いますが、年齢は気にならないです。そもそも仕事って、人と比べたり、競争したりするものではないんじゃないですか。むしろ気になるのは弁護士としての「同期」の仕事ぶりですね、「もう一人で法廷に立ってるんだ、凄いな」みたいに。だからその同期の仲間の中でがんばりたいと思っています。
――今後、弁護士としてどんな仕事を手がけていきたいですか。
菊間 実はまだわからないんです。今は何でも興味があるし、何をやっても楽しいので全方位外交的にやっています。ただ、やはり弁護士としては法廷に立ちたいですね。今の事務所を選んだ理由の一つも、ここが訴訟を扱うことが多く、「ケンカに強い」といわれる事務所だったから。もっとも実際に法廷に立って話せるのは、相当先ですが。
アナウンサー時代、オリンピックを期に4年前の自分と今の自分、そして4年後の自分を考え、「このままでいいのだろうか」と不安を感じたのが弁護士を目指したきっかけでした。今は、これからの自分がどういう方向に向かっていくのかがとても楽しみです。この1年だけでもすごく成長できたなと思いますから、4年後には……ちょっとは、いっぱしの口を叩けるようになってるのかな。
<菊間千乃さん プロフィール>
きくま ゆきの 1972年生まれ。早稲田大学法学部から1995年にアナウンサー職でフジテレビ入社。2005年から大宮法科大学院大学に通いだし、2007年にフジテレビを退社。2010年、2度目の受験で新司法試験に合格した。
著書に『私がアナウンサー』(文藝春秋)など。
http://www.j-cast.com/2012/01/22119492.html
菊間事件の真相
細かい証言が食い違う菊間事件だが、菊間に近い筋の関係者の情報による本当の事実(?)が分かった。
7/15の試合後に関係者による慰労会が行われ、当然参加すべきの菊間がケツメイシメンバーと飲むために嘘をついて欠席したのは事実。菊間はメンバーらと仙台の牛タン屋で閉店まで飲んでいた。その後、ケツメイシのRYOJIらと次の店に行こうとしたときに、携帯のメールが。
問題のNEWS内博貴から「菊間さんに会いたいです」という内容の甘えメールだった。そこで、菊間が電話したところ、内はすでに相当酔っていた。心配になった菊間はホテルに駆けつけたという。しかし、そこで、内の恋愛相談が始まってしまったという。
ホテルの部屋で2人で何をやっていたのか今まで怪しまれていたが、菊間は単に恋愛相談に乗っていただけだったということか!?
お店で内からのメールを受け取った菊間が、内に電話をかけたところ、内はすでに相当酔っ払っていた。心配になった菊間はホテルに駆けつけたけど、そこで内からの恋愛相談が始まってしまったという。
見た目と違って聞き上手でよく相談相手になるという菊間は、ついつい内の話を聞き始めてしまった。だが、大好きなケツメイシのメンバーがお店で待っているのが気になって仕方ない。かといって、本気で悩む内を一人で放っておくわけにもいかないと思った菊間は、「とりあえず飲みに行こう!」と、連れ出してしまった。
その後、イタリアンレストランでケツメイシryojiたちと合流。そこで、内はついつい飲みすぎてしまった。帰らせようとしたけど帰らない。仕方なく、次のクラブまで連れて行ったところ、いつの間にかタクシーで帰ってしまっていた。その後、内はホテルの前で勝手に暴れて警察へ連行へ。
菊間が内の相談に乗らず、放っておけば・・・今頃こんなことにはならなかったかもしれない。ある意味、菊間の人の良さが裏目に出た結果である。マスコミの報道はやや叩かれすぎかもしれない。冷静に考えると、内の自業自得!?まず、ジャニーズ側の管理責任こそ先に問われるべきものかもしれないが。
NEWS内博貴(18)が飲酒で補導へ
仙台市内の公園で騒ぎ、酒に酔って大声を張り上げるなどして暴れてるところを警察に補導されていたことが分かった。NEWSは仙台市内で開催中の「女子バレー」のスペシャルサポーターを務めており、この日も「日本ーオランダ戦」の仕事のために来ていた。NEWSは15日のテレ朝「ミュージックステーション」の生放送に出演していたが、内は出演していなかったという。
この件につき、フジテレビは、内が補導される前まで、放送担当のスポーツ局社員や女性アナウンサーが一緒に酒を飲んでいたことを明らかにした。
フジテレビの発表は以下の通り。
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同局によると、メンバーは、14日に仙台市で行われたバレーボール女子・ ワールドグランプリのテレビ番組にゲスト出演した後、他のメンバーとは別行動で 午後9時ごろから同局スポーツ局の社員数人と食事をしながら飲酒。さらに15日 午前1時ごろからは、番組の中継を担当した女性アナウンサーら数人と再び飲酒したという。その後、メンバーはホテルに1人で帰る途中で補導された。
同局広報部では「本来(未成年のメンバーを)監督する立場の社員が的確な判断が 出来なかったことは誠に遺憾。スポーツ局社員及びアナウンサーの処分に関しては、 事実関係をさらに調査した上で判断したい」としている。
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この女子アナとは中継担当の菊間千乃アナらしい。菊間といえば、父親が女子バレーの監督をやってる関係で、フジの女子バレー番組にはたいてい出演しているという経緯がある。最初の食事会で帰ってれば、単に同席しただけで、連帯責任程度だった。
だが、記事によると、菊間アナは、未成年である少年を連れて、再び飲酒したというから、主導的な責任を免れないだろう。しかも、内が暴れだすほど酔ったことから、相当飲ませたことも伺える。
菊間は今夜の試合でも中継担当として出演予定だったが、取りやめに。また平日は「こたえてちょーだい」の司会をしているが、果たして月曜の放送に出演してくるだろうか?月曜「めざまし」の芸能ニュースか、「とくダネ」、あるいは「こたえてちょーだい」で、なんらかのフジの公式のコメントでもあるのか注目される。
また、この結果を受けて、内は出演していたドラマ「がんばっていきまっしょい」を降板することに。来週分の放送は、本人部分を削除・編集して行うという。ジャニーズは飲酒や喫煙を嫌うから、即刻解雇の可能性もあったが、結局無期謹慎。事実上の解雇では?
菊間千乃独占告白
〈弁護士デビュー〉
フジ涙の退社を乗り越えた私
『私が弁護士になるまで』 (菊間千乃 著)
「発掘!あるある大事典」などで司会を務め、「めざましテレビ」「とくダネ!」などの情報番組で人気を博したフジテレビ元アナウンサーの菊間千乃さん(39)が、この1月、弁護士としてスタートを切った。なぜ、アナウンサーを辞め、法曹の道に進んだのか。そこには様々な「波乱」と「苦悩」があった。菊間さん本人が語る「人生の選択」。
私がロースクール(法科大学院)に通い始めたのは、6年前のことです。アナウンサーから一歩先のジャーナリストになるための武器にできれば、と考えました。このときは、会社を辞めるなんて考えてもいませんでした。
夕方から午後11時近くまでロースクールで授業を受け、家に帰っても、予習と翌日の仕事の準備。朝の「こたえてちょーだい!」の司会を担当していたので、ベッドで寝るのは平均3時間ほど。会社の仮眠室や、車の中で睡眠を取り、1日2本は眠気覚ましの栄養ドリンクを飲んでいました。
順調に学業との両立をこなし始めた05年、事件は起きる。ジャニーズのグループ「NEWS」の未成年メンバーと飲酒したとして非難が殺到。自宅にもマスコミが押し寄せ、全番組を降板することになった。
事件直後は、家にも帰れず、ロースクールの友人の家に「ちょっとだけ」とお願いして、結局2カ月も居候させてもらいました。会社から出社を控えるよう言われ、学校も夏休み。掃除や洗濯をして、彼女の帰りを待つのです。窓から青空を見ていると、訳もなく涙が出てきたりしました。
出社できるようになっても、全員が私を非難しているようで、人目を避けるように、アナウンス室の自分の席にたどり着くのが精一杯でした。「今は力を溜めておくときだから」と会社の人には言われましたが、謹慎の身で仕事もなく、机でロースクールの教科書を開いてみても何も頭に入ってこない。1人になりたくて、駐車場の自分の車の中でお昼を食べることもありました。そんな私を支えてくれたのは、同期の伊藤(利尋)アナや高木(広子)アナたちです。お昼に誘ってくれたり、いつも側にいてくれました。弱音を吐けないでいる私に、自分の悩みも打ち明け一緒に泣いてくれた同僚もいました。
「とくダネ!」キャスターの小倉智昭氏も泣いた
1年後、「とくダネ!」に復帰が決まりましたが、局にはクレームが殺到。辞めさせてください、とプロデューサーに言うと「番組があなたを必要としている。全力で菊間を守るから」と笑って迎え入れてもらいました。当時、そんな言葉をかけてくれる人はいませんでした。一生の恩人です。
日々の仕事は楽しかったのですが、ロースクールも最後の1年となり、家で1時間寝て出社、とこれまで以上にハードな日々を過ごすこととなりました。そこで私の下した決断は、会社を辞め、司法試験に専念することだったのです。
「無謀だ」とも言われましたが、この先アナウンサーとして5年後、10年後があるかと考えると、あまり明るい未来が見えなかった。それより、長い将来を考えたとき、弁護士として生きる方向に進もうかなと。
ロースクールの勉強で時間がなく、送別会はみな断りましたが、退社を報告すると、プロデューサーや小倉智昭さんも「もっと一緒にやりたかった」と涙ながらに声をかけて下さいました。そして、07年12月31日。アナウンス室で荷物をまとめ、「今日で最後なんで、帰ります」と言ったら、「とくダネ!」で一緒だった笠井(信輔)さんがエレベーターホールまで見送ってくれた。思わず私も号泣してしまいました。
それから4年後、弁護士になれたとき、両親の次に、笠井さんに報告しました。フジの顧問弁護士に
退路を断って、勉強三昧に。しかし司法試験は文字通り狭き門だった。1度目、短答試験は突破したものの、不合格。司法試験は卒業後、5年以内に3回しか受けられない。苦しい日々が続いた。
毎朝6時に起きると、化粧もせず、ベッドからそのまま机に向かっていました。問題集の今日やるところを、前の夜に開いておくんです。そのまま2時間勉強して、9時からは学校の図書館。そのまま夜の11時半までいて、帰宅したらお風呂に入り、すぐ就寝。昼食はずっとコンビニ。お風呂も時間がもったいないから、たまに湯船につかる時も、濡れても大丈夫な教材を読む。こういう生活が、意外に自分に合っていたみたいです。
テレビも一切見ませんでした。今思うと、テレビを見るのが怖かった、というのもあります。40歳で無職になるかもという怖さと、安全に会社にしがみ付いていれば良かったという後悔。テレビを見ると、どうしても前の会社が思い出されて、それに比べ、朝から晩まで勉強しても何の成果も挙げられない自分が惨めに感じられてしまう。
ファンからの思わぬ手紙に勇気づけられて
そんな時、予備校の模試で見知らぬ女性から手紙を渡されたんです。読んでみると、彼女が高校生のとき、私がアナウンサー時代に書いた本に励まされた、と書かれていました。その本(『私がアナウンサー』文春文庫)は1998年9月、生中継中に、ビルの5階から転落。胸椎、腰椎、肋骨など六カ所を骨折。肺に挫傷を負った入院生活やリハビリを綴ったものです。
家に戻り、久しぶりに自分の本を手にしたところ、気がついたら本棚の前で泣いていました。忘れていたいろんな情景が浮かんできて。思えば、命を落としても不思議はない事故でした。あの時は歩けるだけで幸せだった、あんなに嬉しかった。いま勉強が辛いなんて悩んでいたら、あの頃、頑張っていた自分に申し訳ない――そう思えたのです。
今回、アナウンサーをやめて弁護士になるまでを綴った『私が弁護士になるまで』(文藝春秋刊)を書いたのも、本を書くということがこんなにも力になることをその時実感したからです。
2010年、2度目の司法試験に合格。昨年9月、司法修習生としてフジテレビで著作権やコンプライアンスを学ぶ研修を行う。3年9カ月ぶりの“復帰”だった。
会社に戻るのは正直怖くもありました。「なんで戻ってきたの」みたいに思われるんじゃないかと不安で。すると、元同僚なんだからと突っ込んだ話をしてくれたり、親身にお話ししてくれる先輩ばかりで、私は本当にこの会社が大好きなんだ、と改めて思いました。アナウンス室に挨拶に行くと、当然ですが、知らない後輩が大勢いる。アナウンサー時代の仲間と代わる代わるお昼を食べ、毎日が同窓会みたいでした。
1月からは弁護士として、企業法務がメインの事務所に勤めています。知的財産権、倒産、マスコミ関連など幅広く手がけることになります。フジテレビも顧問先のひとつで、私が担当することになりました。海外案件の渉外事件も多いので、いずれは海外留学にも行くことになるでしょう。
テレビに戻るのでは、としばしば聞かれますが、今は全く考えていません。1度はやっていたことですから、今でもスタジオで話せと言われればできると思いますが、まずは弁護士として1人前になるのが先。
ただ模擬裁判などで感じたのは、証人の話したいことをうまく引き出すことなど、法廷での仕事って意外とアナウンサーに通じるところもあるんです。これまでの全ての経験は無駄ではなかった。そう思えるよう頑張ります。週刊文春 2012年1月19日号