2013.02.24
病状説明について
教科書どおりの治療を行ったところで、患者さんの病状は、一定の確率で悪くなる。
ご家族にとって、病状の悪化は驚きであって、驚きは怒りへと転化する。
病棟業務における病状説明の目的とは、患者さんのご家族から驚きの可能性を排除することに他ならない。
失敗を見込んだ説明に必要なもの
丁寧な説明を行なえば、患者さんのご家族は安心したり、病気に対する理解が深まったりする。そうした成果はけっして悪いものではないけれど、 それを病状説明の目標にするのは間違っている。
安心を目標にした病状説明を行った主治医が、説明の結果そこに到達できたところで、患者さんが急変すれば、ご家族の安心は吹き飛んでしまう。 患者さんの病気に対する理解がどれだけ深まったところで、たとえば誰も知らされなかった事実があとから出てきたら、主治医の言葉を信じる人はいなくなる。
先が読めない、主治医にも状況を見通すことが難しい状況においては、ご家族が驚く可能性を限りなく少なくするような説明を心がけないといけない。
生データを共有する
病状説明は、患者さんに検査を提出して、緊急に得られるデータが揃ったタイミングで、なるべく早くに行う必要がある。
数字で表現できたり、具体的な画像として見せることができるデータを欠けるところなく、集まった全てのご家族に、 公平に配分することが目標になる。
生データの共有は、患者さんの病状を見たご家族が、「要するにこういうことなのだ」という見解を作るための基礎になる。 主治医の考えかたとご家族の考えかたとがたとえ異なっていても、同じデータに基づいた異なった見解ならば、会話を重ねることで合意に到達できる。
「要するに」の考えかたがどれだけ近かったとしても、データを共有していない、主治医の病状説明に参加していなかった誰かと会話を行う際には、 まずはデータを共有しなくてはいけない。それを怠ると、その人が「聞いていない」話があとから出てきたときにトラブルを生む。
忙しかったり住んでいる場所が遠方であったり、あるいは患者さん本人と折り合いが悪いご家族がいることはトラブルのリスクになる。 そうした自体は極力避けないといけないし、個人的には病院からそうした人たちに電話を行なってでも、データの共有を行う必要があるのではないかと 考えている。
話しかたには定まった手順がある
病状説明の際、ご家族はたいていメモをとる。メモが取りやすいような話しかたを心がければ、 データの共有を行った際に、そこから主治医の意図とは全く異なった見解が導かれる可能性を低くすることができる。
主治医の側から提供するデータを全て文章に整形して、それがたとえば4000字であった場合に、 4000字を頭からそのまましゃべると、ご家族は要約しながらメモをとることになる。
長いメモをとるのは大変で、データの並び順を変えるだけで、要約された内容は大きく異なったものになる。 生データを頭から読み上げる説明は、主治医の見解と、説明を聞いたご家族との見解とが大きく異なったものになってしまうリスクを持っている。
文章には表題が必要で、そのあと要約が来て、それから本文が始まる。驚きの排除と見解の類似を目的として病状説明を行う際には、 4000字なら4000字程度の内容を、まずは20字程度に要約して語り、そのあと200字程度に要約して語り、そこから改めて4000字を語るとうまくいく。
4000字をあらかじめ文字に起こしてプリントしたところで、プリントアウトを渡されたご家族は、「要するにどういうことなのか」を把握するために、 そこから自分なりの要約を開始する。結果として文字をおこす努力は、見解の歩み寄りには貢献できない。
主治医なりの「要するに」を用意することで、話が通る可能性は高くなる。説得とは「好ましい要約の押し付け」であると解釈することもできる。
病状説明の説得力について
医師の言葉は説得力が高い。世間では一応、だいたいそういうことになっている。
医師の説得力がどうして高いのか、その理由を「医学知識を詳しく知っていること」であると考えている同業者はたぶん多くて、それは間違っている。
説得力を知識の量であると考える人は、4000字のデータを手に入れて、そこに自分の知識を付け加え、8000字の分量を語ろうとする。 あるいはそうできることが「専門性」であると考える。
語られる内容が多くなるほどに、事実と感想との区分は曖昧になっていく。それが患者さん固有のデータなのか、それとも教科書に基づいた 一般的な医学知識なのか、それとも主治医個人の感想や意志なのか。それが曖昧な状況で判断を迫ると、説明を受けたご家族は、 結果として「判断を誘導された」とか、「自分の考えで物事を判断できなかった」という感想を持つ。これはトラブルに直結する。
医師の持つ説得力とは、「患者さんの状況を主治医自身の言葉で、任意の文字数で要約できること」に尽きる。
今あるデータからどんなことが考えられ、予測精度を高めるためにはどんなデータが不足しており、 不足している現状でどんな対処を行い、その結果どんな予後が見込めるのか。そうした要約を、 ご家族の関心や、あるいは持参したメモ帳の幅に応じた文字数で要約して、それを任意のタイミングで提示できないといけない。
「詳しいこと」と「要約できること」とは、恐らくは鍛える場所が違うのだろうと思う。詳しいけれど要約しない同業者はときどきいて、 そういう人はご家族から「怖い先生」という感想を持たれる人が多い印象を持っている。
大学だと最近は病状説明の講義みたいなものが行われているはずだけれど、どうなっているのかなと思う。
講義の目指す「いい説明」というものが、現場の実体に合っているといいのだけれど。
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