私は、先のエントリーで、内海医師の精神医学批判がニセ科学批判であると認定した。その理由は、以下のとおりである。
理由 内海医師のいう精神医学(薬物治療)はニセ科学の定義に合致している。そして、内海医師はそのような精神医学に対して批判を行っている。それ故、内海医師による精神医学批判はニセ科学批判である。 私が採用するニセ科学の定義は、第一世代のニセ科学批判者たちが作成した定義に基づいている。 「ニセ科学批判まとめ%作成中」 http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/14.html 同サイトの定義によると、 条件その1 「科学でないもの」のうち、反証可能なだけではなく、すでに反証されてしまっているもの (間違った科学)に該当する。内海氏の指摘に従えば、精神医学における薬物療法の根拠であるセロトニン仮説は、すでに否定された仮説である。 条件その2 「科学を装っているもの」にも該当する。次のうちに一つでも該当すればよいという。 1 情報の発信者が科学だと誤解させる意図を持っているもの。 通常、近代医学は科学であるが、近代医学の1部門として精神医学が存在することになっている。大学に精神医学という学問が科学として存在している。 薬物療法の根拠であるセロトニン仮説が間違った科学であるにもかかわらず、多くの医者がそれが科学的に正しいと宣伝している。医者自身が間違った科学だと思わずに科学と思って誤解し、その誤解に基づいて患者に指示する。社会ぐるみの誤解であり、「精神医学は科学である」というのは迷信と機能的等価である。 2 通常の理解力と常識をもってしても科学であると誤解しうるもの。 医学を知らない一般人は、当然のごとく、精神科医の治療が科学的根拠に基づいていると信じているわけであり、だからこそ精神状況に変調を感じたら精神科医を訪ねる。 3 実際に誤解した人が無視できない数存在すること。 精神病患者の数だけおり、その数は膨大である。 このように「ニセ科学批判まとめ%作成中」というニセ科学批判者たちのバイブルに従うと、精神医学の薬物治療は、条件1と条件2に該当し、ニセ科学ということになる。セロトニン仮説に基づいて投薬治療を患者にすすめることは、間違った科学であることがわかった後も「間違いではない(可能性がある)」と強弁していることになり、ニセ科学となる。 しかし、このように内海氏の精神医学批判がニセ科学批判に該当するにも関わらず、どうやらニセ科学批判クラスタにとっては、ニセ科学批判として見なすことに反対であることが明確になった。私が考えるに、それは以下のような理由によると考えられる。 1 ニセ科学批判認定権の独占化 社会コミュニケーション論的には、今回の精神医学批判=ニセ学批判であるという発見が、ニセ科学批判批判者である私こと論宅を介して発せられたことにより、先入観を持つニセ科学批判クラスタたちが拒絶反応を起こし、同調しなかった。 もしこれがニセ科学批判顧問の菊池氏やニセ科学批判クラスタのリーダーのNATROM氏から発せられたのであれば、すぐさまニセ科学批判として認定され、幅広く流布し、ホメオパシーどころではなくなり、内海氏の精神医学批判活動の追い風となったであろう。 社会心理学におけるコミュニケーションの二段の流れ説からすると、オピニオンリーダーの解釈評価に左右されることになるわけである。つまり、何がニセ科学であり、何がニセ科学批判であるかという認定権は、ニセ科学批判クラスタのオピニオンリーダーたちに握られているのである。その意味で、様々な論者が自由にニセ科学批判をする権利はなく、ニセ科学批判の自らの思想的可能性を狭めている。 ちなみに、あまり知られていないが、実は、私もニセ科学批判をしたことがある。バクスター効果、人工意識に対するニセ科学批判である。 2 ニセ科学批判はいつも正しくなければならないという固定観念。 科学が間違うことがあるのと同様に、ニセ科学批判も間違うことがある。間違ったニセ科学批判もニセ科学批判である。(内容/形式)という区別に準拠していうと、非科学であるにもかかわらず、科学を装うものを批判するという形式的定義に合致すれば、ニセ科学批判となる。仮に内容的に内海氏の精神医学批判が間違っていも、形式上、ニセ科学批判となる。 はなからニセ科学批判は内容的に無誤謬であるべきであるという必要はない。民主的に、議論の上、結論を出せばいい訳である。ニセ科学批判クラスタたちが、はなから自己のニセ科学批判は正しくなければならないという固定観念があるために、自分たちが間違っていると思うニセ科学批判を排除してしまっている。内容が間違いであろうがなかろうが、形式的・手続き的にはニセ科学批判であれば、内容はあとの問題なのである。 ニセ科学批判が絶対主義だと批判を受けるのは、このような理由にもある。正しくなくても、ニセ科学批判に分類されるものをニセ科学批判として組み込む包容力にかけているのである。 3 ニセ科学批判クラスタのニセ科学批判の目的は、既存の科学的権威による秩序維持であるため。 放射能被害についてニセ科学批判クラスタは、放射能安全を強調する側=原子力安全神話側にたっている。つまり、真摯な科学を捨てて、既存の社会秩序が壊れてパニックにならない方向を応援する傾向にある。既存の社会秩序維持のために必要な学説を防御しようとしている。早川教授は、次のようなエントリーでその本質を射抜いている。 ニセ科学批判運動の真の目的 http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-508.html 同じく、既存の薬物治療を中心とする精神医学の科学性が否定されると、これまでの精神医学の科学的権威が崩壊し、精神医療の世界の秩序が乱れ、パニックを起こすおそれがある。そのような反体制的な精神医学批判をニセ科学批判として認めることはできないわけである。だから、これまで否定しても社会的影響のほとんどないカルト傾向のあるトンデモ学説がニセ科学批判のターゲットになってきたのである。内海医師のように巨大な科学的権威に反抗する勇気はない。 結論をいうと、ニセ科学批判クラスタは、内海氏の精神医学批判を批判することで、ニセ科学批判批判をしていることになるである。ニセ科学批判者はニセ科学批判批判者に変貌することがわかった。 形式に準拠する私のようなニセ科学批判批判者とは異なったかたちで、内容に準拠してニセ科学批判批判をしているのである。自らがニセ科学批判批判者となっていることに、ニセ科学批判クラスタは気づいていないのである。 追加 平成25年2月10日現在で「ニセ科学批判」というワードをグーグル検索したら、社会学玄論がトップに出てきた。すでに、ニセ科学批判に最初に興味をもった人たちは私のブログをまず閲覧することになる。皮肉なことであるが、これで新しいタイプのニセ科学批判の流派が誕生するかもしれない。 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。 人気blogランキングへ ■
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ニセ科学とは、科学でないのに科学を装うことで、人を騙す学説や商品のことをいう。さらに、そのような学説や商品をニセ科学として摘発し、クレーム申し立てをすることをニセ科学批判と呼ぶ。ホメオパシー、マイナスイオン、水からの伝言、血液型性格判断などがニセ科学批判の対象とされ、ニセ科学批判運動が盛んにネット上を中心に行われてきた。そして、対抗レトリックとしてニセ科学批判批判も形成され、ネット議論を盛り上げてきた。
ニセ科学批判はしばしば「水からの伝言」のような非科学と簡単に分かる対象を標的にばかりしているという批判を受けてきていたが、今回、それを覆すようなニセ科学批判が現れた。それが、医師内海聡氏による精神医学(特に薬物療法)に対するニセ科学批判である。同氏の著作「精神科医は今日も、やりたい放題」における精神医学に対する批判は、ニセ科学批判という言葉は使用していないものの、内容はニセ科学批判そのものだと言っても過言ではない。同氏は、精神医学を非科学と断定し、患者を薬漬けにして騙していると喝破している。もしかりに同氏のニセ科学批判が正しければ、大変なことになる。多くの精神病患者が科学の名のもとに騙され、迫害されて続けてきていたことになるからである。これは、ホメオパシーどころの被害の問題をはるかに越えおり、社会ぐるみの詐欺行為ということになる。同氏はこのような医学会を震撼させる爆弾を投げたわけであるが、なのにあまり流行っていないという現状がある。それに、ホメオパシー、マイナスイオン、水からの伝言、血液型性格判断などを批判してきたこれまでのニセ科学批判クラスタたちが、内海聡氏の精神医学に対するニセ科学批判に同調する兆しが全く見られない。重要なニセ科学批判であるにもかかわらず関心を示さないのはどうしたことかと思う次第である。非科学と一目瞭然であるホメオパシー医療は叩くが、精神医学は権威と伝統があるので怖くて叩かないということであろうか? ニセ科学批判に好意的な精神科医香山リカは、内海氏のニセ科学批判をどう思っているか知りたいくらいである。 内海氏のニセ科学批判の要点は、精神の症状に対して科学的に精神疾患の原因が解明されていないにもかかわらず、脳内の異常として決めつけ、科学的に効果が実証されていない危険な薬物で治療しようとするところにある。例えば、うつ病の原因とされてきたセロトニン説は、実証されておらず、科学的事実ではないという。また、精神科医が異なると、同一の患者にも異なった診断名が下されることがあり、科学的ではなく、主観的判断によって病名がつけられているという。主観的判断で適当に病名をつけられ、それに見合った薬物の服薬を指示され、結局、製薬会社の利益になっているというわけである。さらに、家族と医者が組んで性格が偏った扱いにくい子供を閉鎖病棟に隔離する手段として、精神医学が利用されているという。また、明確な科学的根拠がないのに、多動性障害やアスペルガー症候群というレッテルを貼り、精神薬を投与し、その衝動性をコントロールし、社会適応させることはよくある。学校教育においても、多動性障害やアスペルガー症候群のレッテルを貼り、不適応児童を教育の現場から医学の現場の領域に排除していることもある。さらに、刑事政策においても、心神喪失者等医療観察法という制度があり、精神疾患のある犯罪者を刑事司法の領域から医療の領域に排除している。 メンタルヘルスについても、うつ病は心の風邪というスローガンでうつ病患者を増やし、心療内科への敷居を低くし、投薬治療の機会が増え、製薬会社が儲かっているという。新型うつ病という病名を開発し、煩しい職場の対人関係から逃避するための疾病利得を簡単に得ることができるようになった。生活保護の受給理由として、うつ病のために稼働不可能とするのもよくある。 内海氏の精神医学に対する批判は、単なるニセ科学批判にとどまらず、社会批判も射程に入れている。社会学的にいうと、精神医学は、社会の様々な分野において、一定の機能を有しており、今やその診断なしには社会は回らないほど多くの役割をになっている。このように社会の仕組みに深く食い込んでいるのは、精神医学が科学であるという前提があるからである。占いで大殺界だから休職したいというのは通らないが、精神科医にうつ病の診断をもらって休職するのは正当化される。究極的に、占いも精神医学も非科学として同一なのにである。精神医学が科学であると社会から認定されているからこそ、これらの社会的機能を発揮し、現代社会は回っている。もし科学でないことが事実であり、それが人口に膾炙すれば、社会はパニックに陥るであろう。原子力安全神話と同じ理屈である。 精神医学が科学を装うことで、社会は回る側面はあるものの、精神薬大量処方問題などによって個人の人権が侵害されている問題は無視できない。うつになって医者にかかり、薬漬けになって調子が悪い人をよく見かけるのである。うつ病と自称する方のブログは溢れており、大量服薬の記述などをよく見かける。精神薬大量処方問題の被害者が声をあげているらしい。 社会が既存の領域で処理できないノイズを全て精神医学の領域に委ねてしまっていないだろうか? 唯物論者が心霊現象や超能力などの超常現象を精神疾患として処理しようとするのと同様に、不適応児童、触法障害者、メンタルヘルス、生活保護の怠者などの社会的ノイズを全て精神医学に委ね、処理しているわけである。精神医学を純粋な科学として回復させるためには、社会の要望による精神医学の多機能化現象を食い止め、本来の姿に戻すべきかもしれない。 その意味で。脳の異常に精神疾患の根拠を求める薬物療法ではなく、カウンセリング中心のフロイト学派の精神医学の復活を望むのである。現在、純粋にフロイトの精神療法に忠実な精神科医は日本にも少なく、異端視され、薬物治療派から排除されていると思われる。心の病を個人の意味世界及び環境世界の病として捉え返すことが必要なのである。 次のような事例を考えてみよう。 会社が倒産し借金して失業した時に、気分が落ち込みうつ状況になった。心療内科を訪ねてうつ病と判断され、薬を投薬された。例えば、こんなケースなら、弁護士に相談して破産宣告をしたり、占い師に今は辛いが必ず将来は復活すると予言してもらったり、カウンセラーに話して気持ちをうけとめてもらったり、宗教に入信し価値観を変えるなどし、元気になって治るのではないかなと思う。極端な話し、宝くじがあたって一億円が入ってきたら、薬を飲まなくても、この人の落ち込み状態は治るのである。これは、意味世界の喪失に起因する気分の落ち込みなので、脳とは関係ないのである。 また、職場の上司にいじめられてうつ状態になって会社を休み、死にたいと思い、心療内科を訪ねてうつ病と判断され、薬を投薬された。よくあるケースであるが、これについても、この職場の上司がいない職場を確保するか、もっとよい別の仕事に転職できれば、薬を飲まなくてもよいである。パワーハラスメントで上司を法的に訴えて慰謝料を請求したり、職業安定所の相談員に適職を紹介してもらえれば、治るのである。環境を変えるだけで、薬はいらない。これは社会環境の問題であり、脳の障害の問題ではないのである。 要するに、これらの事例のように外的ストレスが原因で精神に異常を来している場合、免疫学的には原因となるストレス要因を除去することが解決となり、精神薬はなんら解決の策とはならないのである。すなわち、精神医学ではなく、法律学、社会学、心理学、経済学、場合によっては占いや宗教によって治る問題なのであり、それを精神疾患として扱うのはナンセンスであり、問題のすり替えにしかすぎない。 このようなケースで精神科や心療内科を受診し、自己に精神疾患があると思い込み、薬物治療を受け続け、医者と製薬会社が儲かっているというわけである。 また、怠け者やひきこもりが、精神科からうつ病や適応障害として認定されることで不就労の理由が正当化され、生活保護となって国家予算に負担をかけていないだろうか? 社会的に孤立化したメンヘル系の若者やホームレスに多いケースである。しかし、もし精神医学がニセ科学であると社会の多数が思い出したら、このような不正はまかり通らないことになるだろう。精神疾患による生活保護よりも就労支援による就職のほうが明らかに正しいのである。内海氏のニセ科学批判は、既存の精神科医だけではなく、さぼりのニセ弱者にとっても脅威なのである。 私流に結論を言うと、多くのうつ病は、社会病理学や臨床社会学によって治るのである。臨床社会学士なる職種があれば、社会資源をコーディネイトして、社会学的処方箋を出すことができると思われるので、意味世界と生活環境の改善で治る落ち込みに関しては、任せてほしいくらいである。 最後に、ニセ科学批判クラスタが内海氏のニセ科学批判に同調してこない理由がわからない。ニセ科学批判者のリーダーであるNATROM氏は医者であるが、精神医学をニセ科学と思わないのだろうか? 内海氏の精神医学批判は、内容が厳密に正しいかどうかは精神医学肯定派との論争を見てから判断すべきだと思うが、はじめて学会の権威に対抗した勇気あるニセ科学批判である言えよう。 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。 人気blogランキングへ ■
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ジグムンド・バウマンと言えば、液状的近代(リキッドモダニティ)というポストモダン社会論で有名である。しかし、社会学者中島道男は、著書「バウマン社会理論の射程」において、リキッドモダニティ論以前のバウマンの道徳論にこそ彼の思想の本質があると主張している。
まず、同著においては、バウマンの道徳論は、道徳の起源について、デュルケームの道徳社会学と全く反対の立場にあることを明確にしている。簡単に言えば、デュルケームは、道徳の起源を共同体に求めており、バウマンは他者(レヴィナスのいう)に求めているというわけである。また、中島氏は、この対比は、コミュ二タリア二ズムとリベラリズムの区別にも対応すると指摘している。ただし、デュルケームの道徳社会学がコミュ二タリア二ズムと対応するのはわかるが、レヴィナス流の他者論倫理学は単純にリベラリズムに対応しているとは言いがたい。リベラリズムは、共同体と離れた個人を単位とするものの、個人のエゴイズムと切り離せない概念であり、同じ個人でも、他者論倫理学の利他的な個人とは似ても似つかないからである。 このような概念の未整理はあるものの、中島氏のバウマン解釈は、社会学に関わる根本的なテーマを提示している。それは、共同体を離れた単独者どうしの顔と顔の関係が社会科学の領域に属するか哲学の領域に属すると考えるかという難問である。パーソンズやミードなどの通常の社会学の考え方からすると、道徳は、社会共同体の教育によって個人に内面化されるわけであり、道徳は社会によって異なるとする相対主義をとることになる。しかし、他者論倫理学の立場からすると、倫理や道徳は、社会共同体とは関係なく、顔としての個人と個人の非対称的かつ単独的な関係で生ずることになり、人類世界の普遍的な倫理が存在することになるのである。つまり、社会学の道徳論は相対主義であり、他者論倫理学は絶対主義である。倫理と道徳においては、社会学の相対主義が正しいのか、他者論倫理学の絶対主義が正しいのかという本質的テーマを投げかけてくるのである。果たして、普遍的かつ絶対的倫理が生ずる他者論倫理学の領域は、社会学の領域に入るのであろうか? このような疑問がわいてくるのである。 ちなみに、中島氏によれば、これと対応して、社会批判も二種類あるという。内在的社会批判と外在的社会批判である。内在的社会批判とは、社会共同体の歴史や伝統に照らし合わせて現代社会を批判する方法である。例えば、小林よしのりのように、日本には古来からの価値観や風習があり、現代日本社会はそこから外れており、正すべきという論法がそれである。この場合、他の共同体の歴史や伝統を基準にせず、あくまでも自己の所属する共同体の歴史と伝統を基準にすることになる。従って、道徳も、日本、アメリカ、中国、韓国、アフリカでは異なってくることになり、文化相対主義となる。保守主義者は本来相対主義者なのである。西部邁がその典型である。 一方、外在的社会批判とは、共同体を離れた普遍的な価値から社会を批判する立場である。例えば、自由と平等という人類に普遍的だと思われている価値に基づく人権思想や民主主義の立場から、独裁制国家の人民殺戮や搾取を批判する場合である。また、ブッダがカースト社会の階級差別を批判したのも、生命の平等という普遍的価値からである。 中島氏が提唱するこの二つの社会批判の区別は、思想地図をつくる上でもっとも有効な手段となると思われる。 話はそれたが、他者論倫理学は、共同体の歴史や伝統とは無縁であり、単独者どうしの関係において、普遍的に「汝殺すことなかれ」という倫理が生ずるという考えである。バウマンは、この立場に立ち、ナチスドイツのホロコーストを批判した。近代官僚制が、顔と顔の関係を隠蔽することで、個人の責任感覚や倫理観を希薄化させ、ユダヤ人虐殺を可能にしたというのである。社会学が現代社会を批判する「公共哲学としての社会学」を目指すのなら、文化相対主義に基づく内在的社会批判だけでいいのかという問題が出てくる。これは大きな問題である。 この問題は、人間存在の二重性とも関わってくる。人間は、役割を持つ共同体的存在であると同時に、世界に一つしかいない単独者でもある。「私は教師である」という判断においては、「私」は単独者であり、「教師」は共同体内の役割である。レヴィナス流に言えば、役割存在は「他者とともにあること」に対応し、単独者は「他者のためにあること」に対応している。前者は他者とともに共同体を維持してく側面であり、後者は共同体とは関係なく、他者に関わっていることを示している。 ポイントは、単独者は独我でなく、かえって他者との関係によって成り立つ倫理的主体だということである。他者から呼びかけられたら、他の誰でもなく、この私に呼びかけられており、その他者に返事するかしないか選択を迫られることになり、そこに世界に一つしかない私という存在が意識されることになる。「私は私である」という判断は、他者からの呼びかけによって可能となるわけである。独我では、私は成り立たないのである。一方、「私は教師である」という判断は、私の判断ではなく、共同体の判断によって可能となる。 このような絶対主語と述語の連結こそが人間存在の二重性を意味しており、実は社会生成の根本的条件をなしている。ちなみに、「私は教師である」という判断をしても、実際に教師としての役割を演じなければ社会共同体は生成しない。個人には演じることをしない選択の自由があるからである。これを自己選択性という。そして、他者の自己選択性は自己にとっての他者性として立ち現れる。 問題は、この二つの側面が矛盾対立するものであるかどうかである。現代の社会学理論の構築に成功するかどうかは、この二つの側面をうまく取り入れることができるかどうかにかかっている。 実は、パーソンズですら、規範主義パラダイムに準拠しながらも、ダブルコンテンジェンシーというかたちで他者の偶然性を取り入れている。ルーマンは、社会システムの要素を個人ではなくコミュニケーションにすることで、この問題を処理している。ゴフマンは、役割距離という概念で個人と役割の差異を描いた。 現代社会学では、「私は教師である」という判断と役割遂行は、役割概念を適用する具体的な他者の判断や自己の選択にも委ねられており、コミュ二タリア二ズムが言うような自動的で強固に安定したものではない。政治学、法学、経済学の出身の学者がよくコミュ二タリア二ズムと社会学を同一視しているが、コミュ二タア二ズムと社会学を同一視するのは間違いである。社会学は、共同体を記述するだけではなく、他者の偶然性や自己選択性を含む人間存在の二重性も理論に組み入れようとしているのである。共同体のロボットとして人間を捉えているわけではない。 ただし、単独者と単独者の関係を他者の偶然性や自己選択性というかたちではなく、倫理として捉え返し、共同体を越えた普遍的倫理として観察する社会学者はほとんどいない。中島氏が指摘するとおり、バウマンのみである。社会共同体の道徳は、その社会共同体の役割と地位の体系に付随する価値内容を観察すれば記述でき、その内容を明確化しやすい。一方、顔と顔の関係あるいは単独者と単独者の関係においては、どのような方法でその普遍的形式を記述したらいいのかわからず、明確な社会の倫理道徳として確立するのは困難かもしれない。しかし、何らかの普遍的な一定の形式構造があると考えるのなら、それを倫理として普遍化することで、内容をもつ人類の普遍の倫理道徳となると思われる。個と個の関係の論理的かつ普遍的構造は、ライプニッツのモナド論や仏教の事事無碍法界、ナンシーの無為の共同体など、形而上学的探求はなされているが、これを現実の社会構造を批判するために使用するのは見たことはない。 しかし、私見では、それは可能であり、共同体の道徳内容が顔と顔の普遍的な関係性に反する場合、それを批判するというかたちで、「公共哲学としての社会学」が成り立つのではないかと思われる。これは私が究極的に目指す立場である。ただし、それは自然科学的方法とは全く異なる。 ちなみに、この方法が確立すれば、倫理学や道徳学において、構造構成主義的発想はいらなくなる。社会学を悩ませてきた原理性相対主義はここに克服されるわけである。 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。 人気blogランキングへ ■
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一人の大物社会学者が真っ正面から社会学について論ずる一つの書物を書いた。それが、盛山和夫著「社会学とは何か」である。盛山氏には、「制度論の構造」という名著があるが、それを発展させたかたちになっている。以下、同著の批判的検証をしてみたい。
1、社会観念説 盛山氏は、社会は実在するものではなく、人々が共有する理念的な意味世界であるという考え方から議論を組み立てている。社会に実体がないという発想は、社会が人々の相互作用によって構築されたものであるという社会構築主義をはじめとして、意味システムとしてのルーマンの社会システム論や大澤真幸が唱える第三者の審級論にも見られる。ただし、森山氏が社会に実体がないという時、それは人々の心の中にある観念的存在ということを意味しており、社会構築主義のようにつくられた存在とか、システム論のように創発された存在とかという意味ではない。この点の区別は、正に要注意である。つくられた存在だから実体がないというのではなく、観念的存在だから観察可能な物理的実体がないということである。 一方、システム論においては、社会は人々が共有する観念そのものではなく、行為やコミュニケーションとして観察可能なかたちで現象化・創発化し、実際に人々の認識に立ち現れる現象として社会を考えている。単に観念を保有している状態は何ら社会ではない。実際に、その観念に準拠して行為やコミュニケーションがなされないと、社会とは呼ばない。共有観念=社会ではない。共有ではなく、実演され、共演されないと、社会ではない。 社会を曲に例えるのならば、盛山氏は楽譜がそのまま曲であると考える勘違いをおかしている。曲は演奏されてはじめて曲となり、それを聞くことで人々ははじめて曲を知るのである。別の例えを使うのなら、盛山氏は、建築物の設計図がそのまま建築物だと思い込んでいるようなものである。演奏されることで曲ははじめて曲となり、建築物はつくられることではじめて建築物となり、同じように社会も演じられることで、はじめて社会として生成するのである。人間社会が生成するためには、意味世界としての観念が必要であるが、社会イコール観念だと考えるのは間違いである。社会には実体がないが、かといって観察不可能な虚構存在ではなく、観察可能なかたちで立ち現れるものなのである。ただし、社会学理論という観察道具を使用した者(社会学者)のみが社会を正確かつ明快に観察できるわけであり、素人にははっきりと見えない。社会学がセカンドオーダーの観察であるとルーマンが喝破したごとくである。単なる統計調査ではなく、社会学理論という観察道具のほうが社会学にとっては、より根本的な観察道具であるということも付け加えておきたい。 2 社会学の方法 盛山氏が主張するように、社会が意味世界ならば、社会学の方法の本道は、数量的な統計調査ではなく、人々の内面的世界を理解する調査ということになる。というのは、もし社会が意味世界ならば、それは本質的に数量化できるものではないので、理解するものになるからである。人々の共有する観念をよりよく理解し、解釈することが社会学の本道となる。つまり、これは、端的にいうと、ウェーバーの理解社会学の方法である。 しかし、となると、統計調査の役割は、せいぜい一つの観念がどれだけ多くの人に共有されているかという意義しかもたなくなってしまう。さらに、女性の方が男性よりも喫煙率が低いとか、高所得者のほうが低所得者よりもエンゲル係数は低いとかという類いの調査は、社会調査ではなくなってしまう。社会を調べることイコール人々の所有する共通観念だとしたら、そのような調査は社会についての調査ではなく、単なる経済調査にしかすぎなくなってしまうわけである。 無論、私は、自然科学的方法では、社会の本質は捉えることはできないという点については、大賛成である。社会を記述するとは、必然的に社会創発のための種となる意味世界の理解なくしてはあり得ないからである。社会システムの要素であるコミュニケーションは、他者の意味世界=観念による了解なしには成り立たないのである。単なる統計調査で社会を記述したと勘違いしている学者が多いなか、社会を観察するには、観念の理解を伴うという点を重要視する盛山氏の視点は重要である。 3 規範的秩序の外存性・拘束性 規範の特徴は、人々を外から拘束して一定の行動へとしむけることにある。しかし、盛山氏の議論では、規範的秩序の外存性・拘束性が十分に説明できていない。社会が人々の共有観念だとしても、その観念が規範として働く仕組みが説明されなければならない。規範として働くとは、規範が期待する内容に合致すると他者(みんな)から肯定され、それに外れると他者(みんな)から否定されるということである。要するに、賞罰があるということである。そして、規範があたかも人を動かし、規範自らに賞罰を人々に下す力が宿るように思えたときに、はじめて一つの観念は規範化される。その意味で、神の観念は、規範の最高形態である。人々は神の観念を共有することで、善行をなし、悪行をなさないのである。規範としての神は自己の外にあり、自己を拘束する者として人々に表象される。 しかし、真実は、規範が外存性・拘束性をもつ原因は、規範自身にあるのではなく、他者の反応たるサンクションにあるのである。他者のサンクションこそが規範を構築・維持させるものなのであり、規範があるからサンクションがあるのではない。元来的に他者は自己の外にあり、外から制限を加えてくる存在であり、その他者を一般化した観念が規範であるからである。ちなみに、大澤真幸のいう、第三者の審級がこれにあたる。 ところが、人々は、他者のサンクョンが原因で規範が結果であるのに、規範が原因で他者のサンクョンが結果であると、転倒して考えてしまうのである。この転倒的錯誤こそが物象化作用と呼ばれるものであり、規範を強固に規範たらしめる根源的仕組みである。 規範の成立根拠がもともと多数の他者からのサンクョンだとすると、社会(規範)の外存性と拘束性は当然のことであり、社会が個人の外に存在するという意識は正常なのである。ミードの説に従えば、多数の他者からの反応をまとめあげて他者一般が内面化され、規範として機能するのである。他者一般を平たく言えば、「みんな」という観念である。この「みんな」という観念に準拠してコミュニケーションが創発されたときに、社会は生成する。お金を払えばみんな商品を受け取ることができるとか、人から物を盗んだらみんなから非難されるとか、全てのコミュニケーションは、メタコードとして(みんな/みんなでない)に準拠している。みんなという観念に対応する外的対象は、これまで体験した外部の他者の反応であり、完全に対象物をもたない虚構観念ではない。外存性と拘束性の源は、みんなという観念にあるのだが、盛山氏は説明が十分でない。 ただし、役割存在として外的対象を認識するとき、その対象以上の内容が付与されて認識されるという盛山氏の指摘は貴重である。大人として認識された人は、実際に大人としての振る舞いに欠いていても、大人としての振る舞いを期待されることになる。このような仕組みは、廣松渉の認識論の四肢構造で解き明かされている。廣松渉の認識論の四肢構造においては、究極的にいかなる純粋な客観的事物も世界には存在しない。人は、生の認識対象物に対してそれ以上の意味を付与する。商品を店で買うときに、客は店員を単なる人ではなく、特定の役割を帯びた存在として認識する。商品について聞いたら、その値段を教える存在だと思う。この属性は、店員がつくったものではなく、社会的に生成されたものである。人は、事物を「として」というかたちで認識する。この役割認識をみんなが共有しているはずであると思い込むことで、コミュニケーションが生成される。しかし、自己の目的のために道具的な「として」というかたちで利用するのと区別をつけておく必要がある。あくまでも、みんなが了解しているということが規範として作用するのには重要なのである。役割を付与するのは自己ではなく、みんなであるということで、はじめて規範となるのである。このみんなという観念の対応物は、外部の他者の反応であり、対応物のない純粋な虚構的観念ではない。役割体系を規範として支えるのは、みんなである。他者一般という観念が人の頭のなかにしかないとうことで社会を理念的ものと断定してしまうのは早計であり、その外的対応物はきちんとあるのである。 つまり、社会には固定的実体はないが、外に存在し、拘束してくるというのは、ある意味、正しいのである。デュルケームが社会は人々の頭のなかにあるといいつつも、社会的事実は外存性・拘束性をもつと言わざるを得なかったのは、当然である。他者一般は観念として人々の頭のなかに出来上がるが、それはもともと外部の他者からの反応からできあがったわけであるから当然なのである。ただし、社会そのものは人々の頭の中の観念だけではなく、それを人々が選択・利用してコミュニケーションとして観察可能なかたちにならないと、生成しないことを、重ねて釘を刺しておきたい。この点の誤解が社会学に大きな混乱をもたらしているのである。 社会規範が外存性・拘束性をもつ根拠は「みんな」という観念であり、その観念に基づいてコミュニケーションが生成されることで、さらに規範は外に立ち現れ、拘束するものとして、人に観察され、人は規範を再内面化するのである。この循環過程は、バーガー著「社会的世界の意味構成」で明かされているのである。それは有名な「外化・客観化・内在化」という社会構築主義の公理である。 参考 機能主義が人々の主観的意味世界を離れて、外的視点から社会の機能を特定し、その機能を維持するために社会秩序があると記述する場合があるが、そのような視点が単なる学者の意味世界として相対化されないなら、一つの社会科学的立場を確立できると考えられる。 社会成員を再生産する装置として結婚・教育があるといった場合、それは人々=当事者の意味世界とは関係なく、主張できる理論である。社会内当事者の意識や意味世界とは関係なく、社会というものが客観的実体として存在するという理屈である。このような客観的機能主義を完全に否定しない限り、盛山氏の社会観念説は成り立たないと思われる。また、機能主義が完全に否定されないのなら、社会統計が社会学の有効な手段となると思われる。社会統計を重視する社会学者太郎丸氏がその点に敏感だと思われる。その点の克服については、ギデンズの二重の解釈学を読まれたい。外的視点と当事者の内的視点の統合こそ、社会学の役目だとするギデンズの理論がある。合わせて、ハーバーマスの(生活世界/システム)という区別も参考にされたい。 ギデンズの二重の解釈学という社会学的啓蒙 http://mercamun.exblog.jp/15407334/ 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。 人気blogランキングへ ■
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個々の要素が自己選択性に基づいて偶然な動きをしているにもかからわらず、全体としては秩序が現れ必然の相をもって現象化することがある。
例えば、1万2千人の人間がサイコロを振ったとする。個々人のサイコロが1から6のどの目を出すかは、全くの偶然である。にもかかわらず、全体としてはある一つの目が出た数は、限りなく2千に近い数となり、1から6の目のでる回数は均等分されてくる。偶然の総和がかえって秩序をもたらすのである。1万2千人の人がサイコロをふったら、ほぼ一つの目が出た回数は等しくなるという必然の秩序を生み出す。 これと同じであり、社会においても、人々が自己選択性に基づいて好き勝手に行動しても、社会全体として必然の秩序を生み出すことになる。人々の自己選択に基づいた行為あるいはコミュニケーションが結果として、必然の秩序を生み出す仕組みを社会学は解明する役目がある。個々人の自由な消費行動が市場に秩序をもたらすと考えたアダムスミスの神の見えざる手も、これと同じ仕組みである。 これまで、古典的な社会学では、共通の価値規範やそれに伴う賞罰によって、人々の行動に秩序が生ずると考えてきたが、そのような規範主義パラダイムに基づかなくても、社会秩序生成のメカニズムは説明しうる。ルーマンは、共通の価値規範を共有しなくても、二重の偶有性に基づく予期の総和によって秩序が生成されると考えていた。複雑性の縮減という考えにそのポイントがある。 実は、社会秩序生成のからくりは、サイコロの例にヒントがある。サイコロの目は6つしかなく、無限に存在する他の自然数が出ることはない。例えば、7や10は出ないのである。つまり、このような限定された事象空間=選択肢を共有することで結果的に秩序をもたらしている。社会秩序もこれと同じである。人々があらかじめ範囲が限定された行為の選択肢を共有し、その範囲内で自己選択することで社会秩序は成り立つのである。例えば、ある商品を買う場合、誰でも100円で買える商品は限られているのである。このような限定された選択肢の共有こそが秩序をもたらすのである。無限の可能性と唯一の可能性の間に選択肢が存在することで、秩序は生成するのである。 ルーマン社会学では、選択肢の範囲を限定することを複雑性の縮減という。簡単に言えば、人々は限られた同じ範囲から行為を選ぶということである。人々はサイコロを振らされているのと同じなのである。また、限られた選択肢から選択するので、自己の選択も他者は理解でき、コミュニケーションが接続していくのである。人々が自己選択における意味地平(選択肢の集合)を共有することで、秩序は可能となるのである。 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。 人気blogランキングへ ■
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一応、善を利他と定義し、利己を悪と定義して考えてみたい。時折、人間は、善=利他心と悪=利己心の駆け引きが心の中で起り、行為の選択を迫られる。所謂、良心の呵責である。そして、天使と悪魔のささやきのどちらに組するのか決めるのは、本人自身である。実は、この自己選択性こそが倫理的行為の大前提である。
他者論的倫理学からすると、天使の声とは、端的に他者の声と言えよう。助けを求めている他者を自己の都合をよりも優先させたり身代わりになって助けるかどうかの決断を迫られるわけである。自己の都合を優先させると、悪をなしたことになり、自己を犠牲にして他者を助けたら善をなしたことになる。 いずれにしろ、人間は性善説でも性悪説でもなく、悪と善を含みつつも超越し、選択できる立場にあるというわけである。もう少し言うと、悪の心を完全に排除した善行は、善悪に関する選択性を欠くことになり、倫理的行為とはならない。悪の誘惑を断ち切って善を選択したときにこそ、本当の意味での尊い善行=倫理的行為となる。 人間は性善説でも性悪説でもないと言ったが、善が悪よりも少し勝っているのが人間的真実である。この対称性の破れを説明しよう。善と悪の心が人間にあり、もし勇気を持って善を選択したのなら、一時的な自己の利益は失うが、悔いは残らず、すっきりと人生を歩むことができる。しかし、もし悪を選択したら、一生自己の善の心によって罪悪感に苛まれることになるのである。悪を選択しても、最初から善の心がある以上、罪悪感が人を責め続けるのである。戦場で上官の命令でやりたくない殺人をやってしまった兵士は、一生罪悪感で苛まれるのである。それは、悪をなしても、もともと善の心があるからである。罪悪感と償いの感情は利他心の現れである。この意味で、選択性に基づく悪は、善悪の葛藤のない単純な善行よりも倫理的である。ある意味、選択性があれば、善悪ともに倫理的行為である。そこで、次のような価値序列を立ててみた。 選択性を媒介とした善行が一番目に価値があり、選択性を媒介とした悪行は二番目に価値があり、選択性を介在としない善は三番目に価値があり、選択性を介在としない悪は一番価値がない、という道徳的価値序列をつけることができるのである。 良心の呵責や罪悪感なしに人を殺す者は最低である。かたや、自己の所属する共同体からの制裁(悪の誘惑)があるにもかかわらず、あえて他者を助ける者こそ、最高善をなすものであり、この世で一番美しい倫理的行為なのである。罪悪感をもちつつも悪をなしてしまった凡人たちは、この最高善をなした者を敬い、信仰するのである。それが許しとなるのである。ニーチェはこのことに最後まで気づかなかった愚か者である。 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。 人気blogランキングへ ■
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一つの現象は、一つの原因から生ずるのではなく、多数の原因があってはじめて生ずると考える。これを多原因論という。例えば、仏教では、因縁説をとり、一切と一切が関係してはじめて一つの現象が生ずると説く。また、社会病理学の分野でも、犯罪非行、少子化、いじめ、虐待、貧困、戦争などの社会病理現象については、多原因論が正しい。貧困の原因は、失業のみならず、失業プラス他の複数の原因から起る。複数ある原因から一つの原因だけを絶対化し、あたかもその原因だけで現象が生ずると考えるのは、間違っているのである。ある一つの原因だげが一つの結果をもたらすと考えてしまうのは、認識主観の価値観による選択化にしかすぎない。
一輪の花が咲くのは、空気があり、水があり、太陽からの光があり、土があるなど、自然界の複数の要因が重なってはじめて可能となる。自然科学の世界においても、多原因論は正しい。水だけで花が咲くと考えるのは間違いなのである。また宇宙がなぜ生じたのかというのも、多原因なのである。物理学は一つの理論で宇宙の成り立ちを説明しようとするが、それは原因の一元化という人間理性の誤謬である。同じく、社会がなぜ生ずるのかというのは多原因なのである。しかるに、法則科学は、現象を抽象化し、単一原因論に準拠し、自然界を記述する。例えば「石を投げたら地面に落下した。」という現象の原因は万有引力の法則から一元的に説明されるわけであるが、石を投げた人物の自由意志という原因は無視されている。石を投げるというその人物の心の決定がなければ、その石は投げられることもなく、落下することもないのである。 このように、科学的説明においては、一つの現象が成り立つために必要な一つの原因だけがピックアップされ、他の原因は全て隠蔽されてしまうのである。具体的現象を抽象化することで、一つの原因を取り出し、一つの結果と結合することで、因果法則は構成されるのである。そういう意味では、科学が発見した全ての因果法則は、人間が独自の観点から自然界から抽象化して構築されたものにしかすぎない。厳密に言えば、ある視点から切り取られた人間の主観の産物である。 ありのままの現実世界は把握しきれない無限の多原因からなる複雑な世界である。ありのままに世界を観察するとは、一つの原因を絶対化せずに無数の多原因を受け入れることである。つまり、全ての原因は等価であり、等しく価値があるとする究極の相対主義をとることである。このような全ての複数ある原因が存在論的に平等であるという立場を、多原因相対主義と呼ぼう。 多原因相対主義の宇宙観は、仏教の縁起思想と同様に、宇宙に役に立たない存在は何ひとつなく、一つの存在が欠けるだけでも宇宙全体が成り立たなくなるという考えとなる。世界に一つしかいないあなたは尊いとするオンリーワン思想とは別の仕方で、全ての存在を肯定する思想を構築することが可能となる。一切が一切と関わることで宇宙全体は成り立ち、どの一つの存在も平等に必要であり、尊いことになる。 しかし、複雑系科学を多原因相対主義と勘違いしてはならない。複雑系科学は、無限なる要素間の相互作用から一つの創発特性が生ずると説くが、多原因相対主義とは異なる。なぜならば、自己の外部の環境要因が排除されているからである。一つの創発特性は、自己のシステムの内部にある要素間の関係だけではなく、その外部にある存在との関係も必要とするのに、それが排除されているのである。あたかも自己の内部にある要素間の関係から自己が成り立つような記述になっている。やはり、ここでも抽象化が起きている。一輪の花が咲くのは、一輪の花を構成する細胞間の相互作用から成り立つと考えており、空気、水、光、土などの外部の要素を無視していることになるのである。やはり、複雑系科学も科学にしかすぎず、抽象化の産物なのである。 自己組織化システム論の欠点は、自己の内部の要素に特権を与え、自己の外部の存在や要素が自己を支えているという観点を無視し、多原因的世界観を貫徹していないところにある。要素が要素を産出するという考えにそれが露骨に現れている。 科学思想は、一つの原因を選択化し、他を必要なく排除するという争いにあけくれるが、一方、多原因相対主義は正反対である。 一つの存在が存在するためには一切の存在が必要であり、一切の存在が存在するためには一つの存在が必要である。このような立場に立つ多原因相対主義は、他を排除しない争いのない究極の平和思想をもたらすのである!! 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。 人気blogランキングへ ■
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創造システム論という形而上学を唱える社会学者がいる。社会学者井庭崇である。創造システム論は、西條氏の構造構成主義に匹敵するほどの独創的な和製の理論である。簡単に言えば、全ての存在は、創造システムとして観察することが可能であるという壮大な形而上学である。自然科学と社会科学の両方の対象も射程に入れている。この理論は、複雑系科学から必然的に導かれる一つの思想的帰結である。社会構成主義の帰結が構造構成主義であったように、複雑系科学の帰結は創造システム論なのである。
しかし、創造システム論が準拠する複雑性と自己組織化という概念は、ある一つの社会原理を見落としている。以下、それを説明しよう。 複数の存在(要素)が関係し合い、その関係性によって自然に一つの特性が発生することを自己組織化という。秩序は、誰かの意図や作為によって計画的に出来上がるのではなく、偶然に生じたものであるというところが、自己組織化理論の面白さである。そして、社会もそのような要素間の相互作用による偶然性の産物であるということになる。社会変動には、マルクス主義が想定したような必然の法則などなく、単に偶然の積み重ねによって社会は出来上がっている。出来上がった社会秩序(言語、規範、習慣、法律)は、何ら根拠もなく、人々の相互行為の偶然の賜物であるということになる。 しかし、このような社会秩序の究極的非合理性・無根拠性に耐えうるのは困難であり、人々は社会秩序に対して納得のいく意味付けを与えようとする。例えば、神から与えられた掟であるとか、人権を守るためとか、科学的根拠があるとか、一定の社会的機能を有するためにあるとかである。偶然では耐えきれず、秩序の存在理由を追求するのが人間の人間たる所以である。実は、このような人間の意味付与作用こそが自己組織化の原理を無効化する社会的装置なのである。 一つの社会秩序が人々に受容され、生き残るためには、意味が与えられなければならない。無意味なものは採用されず、滅び行く定めにある。社会秩序は、複数の意識システムによる第二次観察にさらされており、様々な区別に準拠して観察され、意味付与される。そして、一つの意味が多くの人々に共有されることで、逆に人々の行為を拘束することになり、社会秩序が再生産されることになる。これを物象化原理という。物象化によって無根拠性と偶然性は隠蔽され、社会秩序には存在理由=価値が宿ると人々は思うようになるわけである。同一のコミュニケーションが再生産される仕組みは、物象化理論にある。かくして、社会秩序の本当の成立過程である複雑性による自己組織化は隠蔽され、別の物語が付与され、書き換えられるのである。そして、一度、社会秩序が機能しだすと、自己組織化という誕生過程は隠蔽され、書き換えられた新たな物語が実演され、社会的リアリティを獲得し、社会内真実となるのである。自己組織化による誕生秘話は雑音として外部に追いやられるのである。 創造システムがいくら創造物をつくったとしても、その生成過程は隠蔽され、書き換えられ、人々が賛同する別の物語にすり替えられるのである。例えば、人類の誕生は無根拠な偶然であるのが真実だとしても、神による創造神話や科学的物語である進化論によって、書き換えられ、社会に流布するのである。人類の誕生は、全くデタラメの偶然から自然発生したという複雑系科学による真実は人々には堪え難いのである。宗教に準拠して神の子として作られたとか、進化論科学に準拠して進化の頂点として人類は誕生したとか、様々な物語を付与するのである。ちなみに、この意味において、創造論と進化論は機能的等価であると言えよう。 いずれにしろ、仮に社会秩序生成がカオスからの自己組織化によるものだとしても、それは最初だけの話であり、成立後においては、社会システムは物象化原理によって維持されているのであり、自己組織化がなくても回るのである。もっと正確にいうならば、社会秩序は物象化のために必要な意味を付与されるまでは社会秩序として機能しないのである。 参考エントリー 「物象化現象の記述」 http://mercamun.exblog.jp/7502792/ 「言語の恣意性と物象化現象」 http://mercamun.exblog.jp/10421161/ 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。 人気blogランキングへ ■
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社会学者パーソンズをはじめとする多くの理論社会学者たちは、「社会秩序はいかにして可能か?」という命題によって動機付けられ、社会理論を構築してきた。一般に「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、ホッブス命題と呼ばれている。
社会秩序が存在するということは、人々の行動が一定の規則に従い、一定の範囲内で他者の行動が予測可能であり、社会が全体として秩序だったものとなっているということである。例えば、人々が使用する言葉は文法という規則に従うことで、伝達可能となっている。大凡、社会があることろには規則があり、規則に伴う秩序なしには社会は成り立たない。近代社会であろうと、前近代社会であろうと、これは普遍的な事実である。従って、社会を認識するとは、社会に存在する規則としての社会秩序を認識することに他ならないわけである。社会秩序を記述したものが社会理論の原型となる。これが典型的な表社会学の発想である。 「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、現実の社会は規則による秩序があるものであり、それは自然なことではなく摩訶不思議な現象であり、秩序を維持するからくりが人為的に存在するという前提に基づいている。つまり、人々の集まりや諸関係は、自然状態としての無秩序=カオスが本来の姿であり、秩序があること自体が不自然なことであるという発想である。無秩序たるカオスから秩序たるノモスへの移行に社会の成立過程をみようとする立場なのである。 ところが、もともと自然科学が対象とする物理世界では、森羅万象が因果法則に貫かれており、無秩序状態こそあり得ない。自然こそが必然の法則=絶対秩序の世界であり、ホッブスが想定するような自然状態こそが人為の産物である。だから、むしろ我々はこう問うべきである。「無秩序はいかにして可能か?」かと。本来自然界は秩序があるのに、なぜ人間だけが無秩序をつくりだすことが可能なのかということである。 実は、無秩序とは、言い換えれば、偶然性や自由と言い換えることができる。そして、無秩序という観念は、個人の自由の意識の誕生と並行しているのである。万人の万人による闘争である自然状態は、個人が自由に振る舞うことができるという観念を前提としている。個人が本能や習慣や伝統に従い、規則正しく行動しているとすると、万人の万人による闘争などあり得ない。無秩序という観念は、伝統社会から近代社会への移行に伴い、人々に自由の意識が芽生えたことに起因しているわけである。 もっというのなら、近代社会が無秩序をつくりだしたのである。自由に基づく偶然性と無秩序を可能とする社会的からくりを解明することも、社会学の役目である。「社会秩序はいかにして可能か?」という命題を追求するのが表社会学だとすると、「無秩序はいかにして可能か?」を追求するのが裏社会学である。 多くの社会学者は、表社会学の立場に立っており、ルーマンですら、その例外ではない。ルーマンは無限なる複雑性として世界そのものを捉えており、原初的状態としてカオスを前提にしている点において、ホッブス命題から思考している。反ホッブス命題である「無秩序(自由)はいかにして可能か?」から出発した社会学者にお目にかかったことがない。自然科学の対象である物理世界や動物世界は必然の規則で貫かれているのに、人間の近代社会のみに、自由に基づく偶然や無秩序がありうることこそが、社会の不思議、玄妙なのである。 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。 人気blogランキングへ ■
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社会学は役が立たない学問であるとよく言われている。その科学性が未熟である故に、実学になり得ないというのである。この考え方に少し待ったをかけておきたい。というのは、科学の公準の一つである予測性という意味においては、かなりの精度をもつ理論があるからである。
社会学について、予測性を語るのなら、大凡、四つの次元に分けることができる。 1 行動(コミュニケーション)の予測性 2 社会構造の変動の予測性 3 価値意識の変動の予測性 4 社会階層におけるライフコースの予測性 行動の予測性はコミュニケーション・システムに対応し、社会構造の変動は社会システムに対応し、価値意識の変動は意識システムに対応し、ライフコースの予測は社会階層システムに対応している。簡単に言うと、人がどのように動くか当てることができ、社会がどうなるか当てることができ、人々がどう考えていくようになるのか当てることができ、人がどのような人生を歩むのか当てることができるということである。 1 社会学における行動の予測性について 社会学は、様々な社会理論を使うことで、人の未来の行動を当てることができる。 ある人間がコンビニに行き、商品をレジにおき、店員にお金を渡したとする。社会学からは、店員の次の行動は予測ができる。店員はその人を客として認識し商品を渡すことになる。また、警察官が赤信号なのに通過している原付バイクを運転している若者を見つけたとする。社会学からは、警察官が原付バイクを運転している若者を捕まえにいくことは予測できる。 前者の売買行為については、合理的選択理論や権力の予期理論によって説明ができる。もし店員が代金を支払った客に商品を渡さないのなら、店員は客から訴えられ店長から怒られ解雇される可能性があるので、商品を渡すという行動にでるわけである。商品を渡さずにお金だけもらうという行動は選択せずに、商品を渡すのである。後者の警察の取締行動については、パーソンズの役割理論から簡単に説明がつくことになる。違法行為を取り締まることが警察官の役割内容だからである。 一般に誰がどんな社会状況で誰に対してどんな行動したかを代入することで、その行動に対する反応行動を予測することができる。しかし、よくよく考えると、基本的に人々の自己選択・自由意思という偶然性からコミュニケーションが創発されているにもかかわらず、このような必然性が生み出されていること自体が一つの妙なのである。そこで、社会の必然性そのものも、つくられたものであるという観点を社会学はとる。社会の偶然性から社会の必然性をつくりだす装置のことを、物象化という。物象化は、貨幣、真理、権力、愛などの一般化されたコミュニケーションメディアというかたちで作用する。 秩序が乱れている不安定な社会では、売買行為も警察の行為も、より不確定となり、必然性の度合いが低くなり、人々の行動予測が困難となるが、秩序が安定化した社会では、必然性の度合いが高くなり、人々の行動予測が可能となる。ルーマン社会学では、偶然性を低くすることを複雑性の縮減という。 要するに、社会の安定性によって、予測性は変わってくるわけであり、社会学の予測能力という科学力も、各国民社会の状態ごとによって異なり、相対的なものなのである。自然科学の絶対的な予測能力とは異なる訳である。ただし、物象化装置そのものの作動の度合いは社会学のみが分析しうるのであり、国民社会ごとの社会診断は可能である。一般に、より近代化した社会すなわち機能分化した社会ほど、社会の必然性は高まるのである。 もし日本社会でいうのなら、どこの地域のコンビ二においても、お金を支払えば、商品を渡すという行動が予測できるのである。金を支払う=原因が商品を渡す=結果は、必然であり、誰でも予測できるのである。社会学者のみならず、一般市民も他者の行為を予期することができ、社会は回っているのである。しかし、このような社会法則は単に維持されているにしかすぎないことを忘れないのが、社会学者が専門家である所以である。 ちなみに、ジョンレノンがイマジンで、国家も人々の思い込みで維持されているにすぎないと喝破したのは驚くべきことである。イマジンは、再帰的近代化意識による社会学的啓蒙の一つである。 2 社会構造の変動の予測性 社会構造とは、社会階層、国家、市場、組織体、家族、地域共同体などの一定の関係を指し、その関係の変化を予測できるかどうかが、社会学の科学力が問われるところである。社会変動論の中核は、近代化論である。近代化しつつある社会は、近代社会特有の構造をもつことになる。例えば、近代化が進めば、家族形態は、三世代家族から核家族になり、家族は生産ではなく、消費の単位となる。このような構造上の変化は、マクロ社会学的に予測可能である。社会学の近代化理論からすると、近代化しつつあるアジア社会の変化は予測できる。マルクス主義の社会変動論よりも、社会学の社会変動論のほうが、明らかに科学的なのである。 3 価値意識の変動の予測性 人々の価値意識がどのように変化していくのか予測するのも社会学の役目である。基本的には、これも近代化理論によって予測可能である。自由や人権感覚の価値意識、男女平等の価値意識、民主主義を肯定する価値意識、個人主義などの価値意識が人々に内面化していくのである。近代化しつつあるアジア社会の価値意識の変化はこのように予測できる。 4 社会階層におけるライフコースの予測性 ある特定の社会階層に生まれた者やある特定の学歴を取得した者が、どのような社会的地位につくのか予測できる。これは、ブルデューのハビトゥス論、文化的再生産論によって予測可能である。例えば、日本社会では、建築作業員のヤンキーの子は、学校で勉強ができなければ、ヤンキーになり、やはり建築作業員等のブルーワーカーになる。このような文化的再生産は頻繁に起っている。小学校の先生が家庭環境と本人の生育歴から類推してヤンキーの子がヤンキーになることを当てることができるのはそのためである。親の社会階層と家庭環境、それに能力と学力を掛け合わせると、大凡、その人が背負っている社会的宿命を予測でき、職業選択を含めたライフコースを予測できるのである。 まとめ 臨床社会学の分野では、おそらくもっとも行動予測力が高く一般化できる実学は、やはりパーソンズの行為の準拠枠か宮台氏の権力の予期理論である。心理学理論よりも人の行動を予測できる科学力があると考えられる。宮台の権力の予期理論は、正確な個々の変数を代入することで、個人の行動を予測することができるのみならず、社会生成のメカニズムを同時に解明しているところに素晴らしさがある。宮台氏の権力の予期理論は、社会学における相対性理論と言っても過言ではない。 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。 人気blogランキングへ ■
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