▼▼▼新選組用語解説▲▲▲

●大和守秀国(やまとのかみひでくに)
幕末期の会津藩お抱え刀工だった二代目・角元興(すみもとおき)の作。松軒(しょうけん)元興ともいう。祖父である初代元興は江戸中期の寛政年間に薩摩の名工として名高い奥大和守元平(おくやまとのかみもとひら)に師事し、刀鍛冶棟梁の称号を会津藩主から賜ったほどの名工だった。
初代元興が師事した奥元平は「相州伝」と呼ばれるかつて鎌倉時代に隆盛した独特の力強い表現と技法を再現して後世“薩州の巨匠”と称された名工だったが、
初代元興が薩摩の奥元平から秘伝を伝授されたのは会津藩主が薩摩藩主に願い出たことで実現したというから、孫の二代目になって戊辰戦争で会津藩と薩摩藩が敵対したというのは何とも皮肉な話である。しかし、奥元平は弟子入りした初代元興を大層気に入ったためわざわざ娘を嫁がせ、元平の“元”の字を贈り「元興」と名乗らせたという。初代元興は初期の頃、銘を「秀國」と切っていた。
孫の二代目元興も初代の血統を見事に受け継いで会津の刀工のなかでも特に技量が優れているとされ、幕末の会津藩主・松平容保のお気に入り刀工としても知られる。


会津藩お抱えの名工、二代目元興の作・大和守秀国(右・井上源三郎資料館所蔵)(引用写真)

安政年間には「松軒」と銘を切っていたが、慶応2年(1866)に朝廷から「大和守」を受領して以降は初代元興の初期銘であった「秀國」に改銘し、「大和守源朝臣秀國」と銘を切った。
ちなみに、この“大和守”はかつて奥元平が受領した官名でもあり、相州伝の始祖は大和国(奈良県)に在住していたことに由来しているという。

もう一つ、あえて少し邪推するなら、会津藩お抱え刀工では会津十一代兼定も朝廷から「和泉守」という官名を受領しており、当時京都守護職だった松平容保をいたく気に入っていた孝明天皇の取りはからいがあったという見方もできる。
蛇足だが“○○守”という官名は「受領名」と呼ばれ、京都における朝廷や公家の御用達工芸職人や特殊技能者等に対して授けられたものであり、古くから大名や武将等が朝廷から任官された官名とは性質が異なる。朝廷や公家から「守・介・掾」といった受領名を授けられた御用達工芸職人や特殊技能者等は高級ブランドとしての付加価値が認められ破格の値段で取引されたという。

作風は「沸出来の丁子乱れ」「小沸深い互の目乱れ」といった相州伝らしい特徴に中心尻は浅い入山形、鑢目大筋違いではばき下には化粧鑢が施されている。実用性についてはしばしば試し斬りにも使われた記録があり、その斬れの鋭さには定評があった。容保は二代目元興をかなり気に入っていたため、下級の会津藩士では容易に秀国を持てなかったという。会津藩刀鍛冶棟梁だった元興は格付けからすればあの会津十一代和泉守兼定よりも当然ながら上ということになる。

土方の佩刀については、新選組の金銭出納帳によると慶応3年(1867)11月に大和守秀国を三本購入した旨の記録が残っており、この内の一本は近藤勇が井上源三郎の兄・松五郎に贈っている。井上家に所蔵されている大和守秀国には「慶応二年」と記されていて二代目元興の作としては他に例を見ない「直刃」仕上げなのは珍しいこの時に購入した三本の内の一本は土方の佩刀だったことが考えられる。

土方は会津十一代和泉守兼定といい、この大和守秀国といい、武士の魂である刀をあえて会津藩お抱え刀工のものを愛用することで徹底した“会津贔屓(ひいき)”を演出していたように思える。新選組副長から贔屓にされた会津藩側からすれば悪い気がするはずもなく、そこには“商人的”な如才ない土方の人柄を垣間見ることが出来る。

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