▼▼▼新選組用語解説▲▲▲ ●大和守秀国(やまとのかみひでくに)
安政年間には「松軒」と銘を切っていたが、慶応2年(1866)に朝廷から「大和守」を受領して以降は初代元興の初期銘であった「秀國」に改銘し、「大和守源朝臣秀國」と銘を切った。 もう一つ、あえて少し邪推するなら、会津藩お抱え刀工では会津十一代兼定も朝廷から「和泉守」という官名を受領しており、当時京都守護職だった松平容保をいたく気に入っていた孝明天皇の取りはからいがあったという見方もできる。 作風は「沸出来の丁子乱れ」「小沸深い互の目乱れ」といった相州伝らしい特徴に中心尻は浅い入山形、鑢目大筋違いではばき下には化粧鑢が施されている。実用性についてはしばしば試し斬りにも使われた記録があり、その斬れの鋭さには定評があった。容保は二代目元興をかなり気に入っていたため、下級の会津藩士では容易に秀国を持てなかったという。会津藩刀鍛冶棟梁だった元興は格付けからすればあの会津十一代和泉守兼定よりも当然ながら上ということになる。 土方の佩刀については、新選組の金銭出納帳によると慶応3年(1867)11月に大和守秀国を三本購入した旨の記録が残っており、この内の一本は近藤勇が井上源三郎の兄・松五郎に贈っている。井上家に所蔵されている大和守秀国には「慶応二年」と記されていて二代目元興の作としては他に例を見ない「直刃」仕上げなのは珍しい。この時に購入した三本の内の一本は土方の佩刀だったことが考えられる。 土方は会津十一代和泉守兼定といい、この大和守秀国といい、武士の魂である刀をあえて会津藩お抱え刀工のものを愛用することで徹底した“会津贔屓(ひいき)”を演出していたように思える。新選組副長から贔屓にされた会津藩側からすれば悪い気がするはずもなく、そこには“商人的”な如才ない土方の人柄を垣間見ることが出来る。 |