ブレード・ランナー
−BLADE RUNNER−









「お前等人間には信じられぬものを
俺は見てきた…
オリオン座の近くで燃えた宇宙船や、
タンホイザー・ゲイトのオーロラ…
そういう思い出もやがて消える
時がくれば…
涙のように…
雨のように…
その時が来た…」




監督

リドリー・スコット

キャスト

ハリソン・フォード/「インディー・ジョーンズ」「逃亡者」
「今そこにある危機」「エアフォース・ワン」
ショーン・ヤング/「死の接吻」「ブルー・アイズ」
ルドガー・ハウアー/「ファーザー・ランド」
ダリル・ハンナ/「スプラッシュ」「ウォール街」
「マグノリアの花たち」

1982年 アメリカ映画
カラー 116分

 
  リドリー・スコットと言えばこの作品と呼ばれるぐらい今や伝説的ともなっているこの「ブレード・ランナー」は、現在でも多くの熱狂的ファンに支持され続けているSFハード・ボイルドの決定版である。未来世界を摸写するその圧倒的に美麗な映像美と表現力は、映像を作る事に携わる数多くのクリエーター達に影響を与えている事は明らかに否めない(例えば、日本のアニメ界で、リアルロボット・アニメの先駆となった「機動戦士・ガンダム」を生んで一世を風靡した日本サンライズの作品の一つに、「装甲騎兵・ボトムス」というそのジャンルの頂点を極めた作品があったが、その第1クールの舞台となる”ウドの街”の摸写は、明らかに「ブレード・ランナー」の世界に影響を受けている物である事は、この作品を観ていた者なら直ぐそれと分かったはずだ)。
  炎を吹き上げる工場の排煙、摩天楼に林立する高層ビル、その中空を行き交う車、植民星への移民を奨励する宣伝気球、そこから聞こえるエキゾチックな空気を醸し出す日本民謡のような音楽、降りしきる雨とスラム、そして荘厳な威容を示すタイレル社の本社ビル。この作品が20年近く前に制作された事がとても信じられないリアルな近未来空間は、今見ても新鮮さを全く失っておらず、この作品を越えるものは未だ現れていないと言っても差し支えないと思う。
  無論、この作品の質の高さはその映像表現だけに留まるものではない。スコット監督が作品に投影している”生命への賛歌”は、観る者に静かに語りかけ、くどさが感じられないだけに素直に受け止める事ができる。
  ”静と動”、二つの動きをバランス良く演じている主役のハリソン・フォードがハマッテイルのは言うに及ばず、脇を固める出演陣の個性を見事に生かしているキャスティングにも唸らせられる。レプリカントの一人に扮するダリル・ハンナは、そのメイキャップも手伝って独特の雰囲気を持つ役を好演しているし、主人公だけでなく観ている者も思わず恋してしまいそうなショーン・ヤングの演ずるレイチェルの美しさは、それだけに物語での悲哀をいっそう高めてくれる。そしてやはり最もその演技で光るものを見せてくれたのは、レプリカントのリーダー・ロイに扮するルドガー・ハウアーである。あなたは狂気と哀しみを湛えたその瞳の奥に何を見るだろうか?
  
  −21世紀の初め、アメリカのタイレル社は人間そっくりのネクサス型ロボットを開発、それらは”レプリカント”と呼ばれた。特にネクサス6型レプリカントは体力も敏捷さも人間に勝り、知力もそれを作った技術者に匹敵した。レプリカントは地球外基地での奴隷労働や、他の惑星の探検に使われていたが、ある時反乱を起こして人間の敵に回った。地球に戻ったレプリカントを処分するために、ブレード・ランナー特捜班が組織された−(作品序文より)
  2019年のロス・アンジェルス。特捜班から退いていた元ブレード・ランナーのデッカート(ハリソン・フォード)は、隊長のブライアントに呼び出される。6名のレプリカントがスペース・シャトルを襲い乗員を皆殺しにするという事件が発生し、彼らが密航して地球に舞い戻って来ていると言うのだ。このうち一人はタイレル本社に押し入ろうとして殺された為、タイレル社では最近入社している社員に他のレプリカントが紛れ込んでいないかをチェックした。その際、特捜から派遣していたブレード・ランナー・ホールデンを銃撃して逃走していた一人の被験者がリオンである事が判明、その他に判っているだけで慰安用に作られたプリス(ダリル・ハンナ)、戦闘用を兼ねたゾーラ、そしてグループのリーダーであり完全な戦闘用タイプであるロイ(ルドガー・ハウアー)の四人が管轄区域に侵入しているものと考えられた。
  彼等の抹殺を指示されたデッカートは、ネクサス6型レプリカントの情報を得る為、それを製造したタイレル本社へ向かう。そこでデッカートは、見た目は人間そっくりであるレプリカントと人間を識別する”VKテスト”の腕前をタイレル社長の前で試され、タイレルの姪として紹介されたレイチェル(ショーン・ヤング)が人間で無い事を見抜く。彼女は人間以上の物を求めるタイレル社の最新型レプリの試作品であったのだ。タイレル社の社長でありレプリカントの頭脳を設計した天才科学者・タイレル博士は、レイチェルに自分の姪の記憶を植え付け、自分がレプリではないかと疑い始めて情緒不安定ぎみであった彼女の感情を抑制させていた。そしてネクサス型レプリにはわずか四年の寿命という安全装置が組み込まれている事を知っていたデッカートの心中に、複雑な想いがよぎる。
  ブライアンの部下のガフと共にリオンのアパートを捜索したデッカートは、バスタブに動物の鱗の様な物を発見し、彼等の行方を捜す最初の手掛かりを手に入れる。一方、デッカートにテストされた事で、自分が人間で無いという更に強い疑惑を抱いたレイチェルは、彼をアパートに尋ねて真相を知る。覚悟していたとは言え、その衝撃に耐えられずにデッカートの部屋を出るレイチェル。彼女に責任を感じていたデッカートは、捜査の合間にも彼女の様子を電話で確かめる。そしてリオンの部屋にあった写真を分析した結果、最初の手掛かりと結びつく新たな事実を掴んだデッカートは、その線からレプリカントの一人であるゾーラを追いつめてこれを始末する事に成功する。
  しかしその後、デッカートはレイチェルがタイレル社から逃げ出した事をブライアントから知らされ、彼女の始末も合わせて命令されてしまう。そして人込みの中、レイチェルを見かけたデッカートは彼女を追おうとするが、リオンの不意打ちを食らってしまい、寸での所をそのレイチェルに救われる事になる。
「もし私が逃げたら、あなたは私を殺すために追ってくる?」
と問うレイチェルに、デッカートは「いや…君には借りがある」と首を振り、彼女をかくまい、愛するようになる。
  その頃、ゾーラ、そしてリオンを失ったロイは、残るプリスと共に技術者のセバスチャンを恫喝し、タイレル社長に会うための水先案内人となる事を強要させていた。残り時間が少なくなってきた事を感じたロイは、社長とチェス仲間であるセバスチャンを先に立て、タイレル本社に乗りこんだ…。

  この作品に登場する”レプリカント”とは、観客の理解を容易にする便宜上”ロボット”と言う言葉を使って表現している部分もあるが、そのイメージする所は一昔前の機械造りの”ロボット(それこそ”アシモフのロボット三原則”を彷彿させる様な)”とは、かなりかけ離れている物である事に注意する必要がある。
  資料によれば”レプリカント”とは、”遺伝子操作技術によって造られた、その全てを有機体によって構成された生命体”であり、当初は絶滅した多くの動物の代わりにペットや家畜として用いる為に動物レプリ(アニモイド)が開発され、その後、人間そっくりのレプリが宇宙開発や軍事目的の使役用として開発された。その最新型である「ネクサス6型」は究極のレプリカントであり、製造後しばらくすると感情も芽生え血も涙も流す事ができるし、見かけ上は本物の人間とほとんど区別が付かない。
  そしてレプリカントの創造主である人間は、当然の如く彼らレプリカントを人間として扱わず、彼らには何の権利も保護規定もない。彼らは言わば人間の役に立つ為だけに生まれてくる奴隷であり、その寿命は予め4年に限定されていた(ただしそれは意図的な物ではなく、それが遺伝子工学上の限界であるとタイレルは語っているが)。
  作品で語られている事は、”人間”と、このほとんど人間に近い生命体である”レプリカント”との関係を通じて得られる”限りある生命への賛歌”そのものである。神が創造したとされる人間に寿命が在る様に、レプリカントの創造主である人間も、彼らに4年という寿命を与えるが、そこには自らを”神”に例える人間の傲慢さが見て取れる。
  人間が死期を悟った時に”命の尊さ”を本当に理解するのと同様、感情が芽生えて自意識が確立した頃には、既にわずかな寿命しか残されていない事を知ってしまう彼らレプリカントにしてみれば、”生命を昇華”させる事への想いは人間以上のものがあるのであろう。それはタイレル博士がロイに、「明るい火は、早く燃え尽きる…ロイ、君は輝かしく生きてきたんだ…」と慰める言葉に強く印象付けられいるし、また、クライマックスで主人公・デッカートと対決する時のロイの”魂の咆哮”や、必死に逃げまどうデッカートに対しロイが発する、「恐怖の連続だろう…それが奴隷の一生だ!!」という言葉にも端的に表れている。そしてレプリカントであるロイが最後に取った行動の理由は、この作品の意図を汲み取った方には推して知るべし事であるはずだ。

  「ブレード・ランナー」には多くのバージョンが存在し、一説では7つあるとされているらしいが、実際には公式に観られたものとして五つのバージョンが確認されている。「ダラス/デンバーでのスニーク・プレビュー(観客の反応を見る為の試写会用プリント)」「サンディエゴでのスニーク・プレビュー」「1982年米国劇場公開版(日本でのビデオ・初期版)」「1982年欧州劇場公開版(日本でのビデオ・完全版)」「1992年ディレクターズ・カット版(日本でのビデオ・最終版)」の五つである。
  当初のプレビュー版では、この作品の余りに時代を先取りしていたとも言える斬新な趣向やその構成に付いて行けなかった観客の反応は散々な不評に終わったそうだ。このためその後の劇場公開版(ビデオ・初期版と完全版)では、観客が理解しやすい様にと言うスタジオの意向で、スコット監督が明らかに不本意としていた過剰なナレーションが付け加えられた(主人公の心の中で語られる独白の様なもので、厳密に言うとナレーションではなく、ボイス・オーバーと言われる技法らしい)。
  確かにビデオ・初期版と完全版に見られる”ナレーション”もどきは作品の雰囲気に馴染まない、陳腐なセリフの羅列のような感は否めない(ただ、SF作品をあまり観なれておらず、作品内容を理解しきる自信が無い方には、これらのナレーションに含まれる情報がその理解を助けるのに役立つ事は確かである)。またこのナレーションを吹き込んだハリソン自信に関して、「それが採用される事を望まなかった彼はわざと気乗りしない風にセリフを読み上げた」と言うような噂がまことしやかに囁かれているようで、確かにそう言われて観直してみるとそんな感じがしないでもない。
  また「1982年欧州劇場公開版(ビデオ・完全版)」は、「1982年米国劇場公開版(ビデオ初期版)」ではカットされているバイオレンス・シーンが幾つか追加されている物となっている。しかし「ブレード・ランナー」通の間では最後にビデオ・リリースされた「ディレクターズ・カット版(ビデオ・最終版、本稿の最初にアップしている画像はそのカバーである)」こそがこの作品の本命とされており、その名の通り、監督(ディレクター)自ら再編集を行い、くどいナレーションの全てと、エンディングでのハッピー・エンド・シーンのカット等、スコット監督の意向を完全に反映したこの「最終版」こそ本当のオリジナル版として支持されている。またこの「最終版」にだけ見られる、デッカートがユニコーン(人間の創造の産物である一角獣で、この場合はレプリカントを暗示する物として描かれている)の夢を見るシーンであるが、初めて観る人にとってはラストに繋がる効果的な複線となっていると思う。
  よって初めてこの作品を観る方には、当然この「ディレクターズ・カット版(ビデオ・最終版)」をお勧めするが、前述のような不安がある方はこの限りではない。またリドリー・スコットの描く未来世界を「最終版」でストレートに堪能した方も、あらためて「劇場版」を観て両方を見比べてみるのもよろしいかと思う。
  個人的に感想を言えば、やはりディレクターズ・カット版が良いかと思う。完全版に見られる追加のバイオレンス・シーン等や、ナレーションで得られる一部の情報もさしたる物ではないし、むしろ、本来作品を通じて観る者が心で感じ取って欲しいものが言葉で語られる事によってその解釈をひどく限定したものに変えてしまい、観客の”考える楽しさ”を奪いかねない。劇場版(ビデオ・初期版と完全版)で加えられたラストのハッピーエンド・シーン(晴れた山岳地帯に車を走らせるデッカートとその助手席に座るレイチェル、そして駄目押しのナレーションがまたしても入る)にしても「最終版」では一切カットされ、物語は二人がエレベーターに乗り込みその扉が閉まる瞬間に終るが、二人に待ち構える未来をあいまいにしたまま、その先を観客の想像力に委ねるこの編集の方が、シンプルで断然センスが良いと思うのである。
  また、あいまいな終わり方と言えば「デッカートは本当はレプリカントなのか?」と言う、この作品で最も物議を醸し出した問題も無視できない。肯定派・反対派によるそれぞれの論理的・物理的根拠は両方とも説得力があってどちらが正しいとは判断できず、そもそも作品そのものがどっちにも解釈できうるものになっている。(例えば、レイチェルがデッカートに「あなたはテストを受けた事は…」と言うくだりは、彼がレプリカントではないかと暗示させるシーンとも取れるし、レイチェル自身の”共に生きて行こうとする愛する男性が、自分と同じ寿命の産物であったなら”と言う、いちるの願望が口を衝いて出たものと取る事もできるのでは?)。
  原作では、デッカートはレプリではない事がはっきりしているらしいが、撮影用脚本等の資料によると、スコット監督は主人公のデッカートがレプリカントである事を観客に発見させる様にしたがり、主役のハリソン・フォードと揉めたそうである。また肯定派の論拠の一つに、デッカートがレイチェルに、「(君が逃げても追わないが)だが誰かが追うだろう」と言うくだりで、デーカットの目がレプリの様に光る事を指摘しているものがあり、確かにそれは確認できる。
  以上のカルト的情報の大部分は、きむらかずし氏の翻訳による”ブレードランナー FAQ 日本版 2.4J06 ( 2000 年 6 月)、ブレードランナー・コレクション <http://www.st.rim.or.jp/~kimu/br/index-j.html>”より得た事を明らかにしておく。このサイトにはブレード・ランナーに関する膨大な量の疑問や問題点の情報が公開されているので、興味がある方は見てもらいたい。

  上に挙げた様な論議の的となっている解釈の違いは、こと映画に関する限り、近々登場するであろう続編によってその解釈の幅も狭まるのではないかと思う(しかし本当に制作されるのか?)。「ブレード・ランナー」はフイリップ・K・ディック著作による小説・「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を原作としているが、小説の方はその後にK・W・ジーターによって続編が書かれている(早川書房より日本語翻訳である『ブレードランナー 2 レプリカントの 墓標』、続いて『ブレードランナー 3 レプリカントの夜』が発売されている)。そしてその続編である『ブレードランナー 2 レプリカントの 墓標』の翻訳小説の宣伝用付帯には、はっきりと「映画化決定」と打ってあるのを見かけて久しいが、この映画の製作が開始されたと言う話は未だ聞かない。スコット監督自身は英国のスタジオで撮影する意向を正式に認め、その準備を進めているらしいが、その日が来るのが本当に待ち遠しい。
  ちなみに小説・『ブレードランナー 2 レプリカントの 墓標』のストーリーは、地球に密航した6人のレプリカントの最後の生き残り(映画では5人のレプリしか確認されていなかった事を思い出してもらいたい)を追って、レイチェルと逃亡していたデッカートが再び立ち上がると言うようなものらしい(映画でも同様な展開になれば、「デッカート=六人目のレプリカント」と言う肯定派の論拠の一つが消えると思う)。ハリソン・フォードやショーン・ヤングが余り年取らない内に制作を開始してほしいと思うこの頃である。




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