○
目覚ましの音が止められる。
女の声「野々村くん──? 野々村くん──?」
博司が寝起きの声で、
博 司「あ?」
博司の恋人、桜井泉水が傍らにいる。
博 司「泉水──何時?」
泉 水「三時過ぎてる。今日ゼミ出なかったの? そんなんじゃ
単位取れないよ?」
博 司「ああ──」
歯磨きしてる博司。
博 司「(歯を磨きながら、何かもごもご言う)」
泉 水「何?」
博 司「(もごもごと言う)」
泉 水「夢?」
博 司「うん」
歯磨きを出し、うがいをする博司。
博 司「夢見てたんだ。ほら、あの夏の、台風の夜のこと」
泉 水「台風の夜?」
博 司「小学校の時一緒に駆け落ちしようとか言ってた時のさ」
泉 水「またその話?」
博 司「なあ、あん時、どうして来なかったんだ? 俺時計台の
とこでずっと待ってたのにさ」
泉 水「──忘れちゃった」
さっとカーテンを開き、窓を開ける。
蝉の声が聞こえる。
博 司「もう夏だな」
泉 水「うん」
息を吸い込む泉水。
泉 水「雨、降るのかな? 雨降る前のちょっとぬるい感じって
好き」
息を吸い込む博司。
博 司「本当だ。天気予報何て言ってたっけな? 台風来てたり
してな」
泉 水「野々村くん?」
博 司「うん?」
間。
泉 水「──歯磨き粉の味がする」
博 司「夏休み入ったら、どっか海でも行こうか?」
泉 水「就職の内定も取れてないのに、そんなにのんびりしてて
いいの?」
博 司「はい、そうでした」
泉 水「さ、早く着替えて。せっかくうちの会社の人事の小比木
部長紹介してあげるのに、これで遅刻しちゃったら行く
とこなくなっちゃうわよ」
博 司「ああ。ごめんな、泉水に就職の世話までしてもらってさ」
泉 水「気にしないで」
博 司「なんか自分が情けないよ」
泉 水「あ、駄目よ、そのネクタイ、小比木部長、あんまり派手
なの好きじゃないから」
博 司「ああ──」
窓を締め、外の音が止む。
博司(M)「彼女の名前は桜井泉水。あの夏の駆け落ちは結局彼
女が約束の場所に来なかったことで未遂に終わった。そ
れはそれで十年後にこうして付き合っているのだから構
わないのだが、けれど、時折何か大切な忘れ物をしてい
るような気がすることがある。とにかく、これから僕の
身に起こった幾つかの出来事は、誰の身に起こっても不
思議なことでは無いし、実際誰もが通り過ぎて来、ただ
忘れてしまっているだけのことなんだ。忘れ物は今も落
とし主を待ち続けている──」
○
地下鉄の駅の構内、アナウンスが流れるホームに、
慌ただしく人々が行き交う。
博司と泉水が電車を待ってる。
泉 水「きっと部長さん、博司くんのこと気にいると思うな」
博 司「だといいけど」
泉 水「上手く行くわよ」
博 司「でも、なんか俺が就職するなんて信じられないよ。泉水
は短大出てすぐ就職したんだろ? どう?」
泉 水「うちの会社、結構自由だから、大丈夫よ」
博 司「ああ──あ、そういや昨夜電話したんだけどさ、どっか
出掛けてた?」
泉 水「え? あ──ごめん、寝てたのかな」
博 司「何回か電話したんだけど」
泉 水「ものすごい寝ちゃってたから」
博 司「そっか、俺てっきり──」
何かに気付き、ふいに言葉が途切れる博司。
博司(M)「あの娘──?」
何かに目を奪われている博司に声をかける泉水。
泉 水「どうしたの?」
博 司「あれ」
泉 水「何?」
博 司「ほら、そこにいる、あの娘」
泉 水「うん? ああ──どうしたの?」
博 司「ほら、あの娘、胸んとこのポケットん中に──」
泉 水「何?」
博 司「見えない? シャツの胸ポケットの中に──」
泉 水「何?」
博 司「鳥」
泉 水「鳥──?」
博 司「ああ、ポケットん中にほら、ツグミかな? 入れてるん
だ──」
泉 水「ほんと──」
かすかに鳥の鳴き声が聞こえる。
鳴き声をさえぎって、白線までお下がりくださいの
声と共に、電車がホームに入ってくる。
扉が開き、乗り込む人々。
博司と泉水も乗り込み、走りだす。
車内──、
車掌の声「ご乗車ありがとうございます。次は、※※~ ※※~」
博 司「大丈夫かな?」
泉 水「うん?」
博 司「さっきの娘も乗ってるよ。結構混んでるし、あの鳥潰さ
れちゃうんじゃないかな」
泉 水「うん──」
その時、列車が揺れる。
倒れそうになる乗客たち。
博司も誰かにもたれかかってしまったらしく、どん
とぶつかる。
博 司「あ、ごめんなさい」
男の声「いえ──」
博 司「泉水? 大丈夫か?」
泉 水「──」
博 司「どした?」
泉 水「──うん? 何?」
博 司「いや、何かあった──?」
泉 水「ううん、別に」
車掌の声「※※~ ※※~(と、駅名を告げる)」
駅に電車が到着する。
扉が開いて、人々が降車する中、小さく鳥の鳴き声
が横切る。
博 司「あの娘、ここで降りるみたいだな──」
泉 水「あ、ねえ」
博 司「うん?」
泉 水「ごめん、忘れ物してた」
博 司「忘れ物?」
泉 水「わたし、ここで降りる」
博 司「何で? じゃあ俺も行くよ、何、ガスの元栓?」
泉 水「ううん、ごめん、今日キャンセルさせて?」
博 司「え!? 何だよ急に、人事部長待って頂いてるんじゃない
のか?」
泉 水「わたしから連絡入れとくから。ごめんね、夜、電話する」
博 司「お、おい、どうしたんだよ──!」
扉が閉まり、再び走りだす電車。
博司(M)「けれどその夜、彼女からの電話は一度として鳴るこ
とは無かった」