風のリグレットの脚本

脚本家の坂元裕二と申します。 飯野賢治さんと一緒に作ったゲームの脚本をここにアップします。 1996年、飯野さんと共に壱岐島や尾道に旅行することを経て、 書いたものです。 飯野さんは26歳で、僕は29歳でした。 飯野さんのブログにその当時のことが書かれています。 http://blog.neoteny.com/eno/archives/2008_03_post_328.html

風のリグレット8

     博 司「菜々ちゃん──」

           黙ってる。

     博 司「菜々ちゃん──泣いてるのか──?」

           博司、歩み寄ろうとする──と、

     菜 々「なああんてね(と微笑う)」

     博 司「──え?」

     菜 々「本気にした?」

     博 司「──嘘なのか?」

     菜 々「単純だね、簡単に信じちゃってさ?」

     博 司「おまえな!」

     菜 々「さてと、泊まるとこ探しに行こうよ、野宿なんて嫌よ。

         勿論君と同じ部屋もね」

     博 司「ちょっと待てよ」

     菜 々「何、心配した?」

     博 司「したよ」

     菜 々「きっと泉水ちゃんもそうだったのよ」

     博 司「え?」

     菜 々「泉水ちゃん、君の気を引きたかったのよ、心配して欲し

         かったのよ」

     博 司「何のために──?」

     菜 々「君のことが好きだからに決まってるじゃない」

     博 司「そうなのかな──」

     菜 々「そうよ。これぐらいのこと気にしてどうするのよ。頑張

         れよ、女の子が簡単に手に入っちゃったら気持ち悪くて

         熱出ちゃうわよ」

     博 司「そうかな」

     菜 々「そうよ」

     博 司「(苦笑)」

     菜 々「あ、やっと笑った」

     博 司「うるせえ──なあ、どう思う?」

     菜 々「うん?」

     博 司「あの日、泉水は地下鉄で何かを見たんだ。何かを見つけ

         たから、泉水は急に電車を降りたんだ」

     菜 々「うん」

     博 司「何を見たんだろう?」

     菜 々「うん」

     博 司「あの時君もあの車両に乗ってたんだよ、何か知ってるん

         じゃないのか?」

     菜 々「知らないよ」

     博 司「本当に?」

     菜 々「──(真剣に)本当よ」

     博 司「そっか──なあ、さっきの話は? 本当に嘘なのか?」

     菜 々「本当よ、本当に嘘よ」

     博 司「君、なんか俺に恨みでもあんのか?」

     菜 々「恨み? 恨み、か──そうね、そんなようなものかもし

         れないね」

     

              ○

     

           電話の呼び出し音が鳴っている。

     博司(M)「そうして僕と菜々は、安ホテルを見つけると、部屋

         を二つ取り、それぞれの部屋に分かれた。一缶七百円の

         缶ビールを冷蔵庫から取り出すと、自宅の留守番電話を

         聞いた──」

           呼び出し音が切れ、博司の留守電になる。

     留守電の声「もしもしただいま外出しております。御用の方は発

         信音のあとメッセージをお願いします」

           暗証番号を押し、伝言が流れる。

     女の声「もしもし、野々村くん。泉水です。元気ですか? わた

         しは、野々村くんに会えなくて寂しいけど、でも元気で

         す。今日、あの日のことを思い出しました。いつか一緒

         に台風十九号を見に行った日のことです。またあの台風

         が来ます。もう一度あの場所で、あの時計台の前で会え

         たら──。野々村くん、わたしは今でもあなたのことが

         好きです。信じてください」

           伝言が終わり、切れる。

     博司(M)「台風十九号──」

           再び受話器を取り、三桁を押す。

           天気予報だ。

     天気予報の声「大陸より張り出した高気圧が上昇し、現在太平洋

         側より、台風十九号が接近しております。台風十九号は

         尚も勢力を拡大しながら、毎時二十五キロで北上し、今

         夜には紀伊半島より上陸するものと思われます──」

           受話器を置く。

     博司(M)「次の行き場所が決まった」

     

              ○

     

     博司(M)「泉水。なあ、泉水。悪戯好きな泉水。僕はこんな夢

         を見たんだ。夏休みの前の日、二人の子供たちが約束を

         した。子供たちは十年経ってからその約束を果たすんだ

         けど、何かとても大事なことを忘れていることに気付く

         んだ。大人になった子供が、一体何を忘れたんだろうと

         かんがえてみる。それは、君の顔だった。ああそうか、

         君の顔か、と思う。君の顔が、声が、名前が、何ひとつ

         思い出せない。彼はほんの少しさみしくなって、もう一

         度君に会おうと思って、またあの時計台に行った。とて

         も風が強くて、丘の上にある時計台に行くのに、とても

         時間がかかった。だんだんと陰り行く日差しの中に、時

         計台のシルエットが見えた。長い長い影が伸びて、彼の

         足元までも届いていた。約束通りに彼を待ってる君の後

         姿が見えた。かーんかーんかーん、時計台のてっぺんで

         鐘が鳴りはじめた。一日が終わりかけている。夏の匂い

         がした。泉水。彼は君の名前を呼んだ。だけど、君は振

         り向きはしなかった。どうしてだと思う? 彼女は泉水

         じゃなかったから。あれは、誰? 君はいつから君じゃ

         なくなったんだ? その時、時計台の前で彼を待ってい

         た影が振り返った。その見知らぬ誰かの影は、微笑んで

         こう言った」

           あの日の少女の声が聞こえる。

     少 女「わたしの夏休みは今も続いているから、だからここから

         離れられないの。わたしはあなたの思い出だから、ここ

         から離れられないの。約束したの。ここで一緒に台風を

         見ようねって」

           鐘の音が鳴る。

     博司(M)「なあ、泉水、君の顔が上手く思い出せないんだ」

           鐘は鳴り続ける。

           高まっていく。

 


<第二部>

     

              ○

     

           翌朝、ホテルのフロントあたり、鳥が鳴いている。

     博 司「おはよう」

     菜 々「おはよう。どうしたの、元気そうね」

     博 司「そうかな? 別に、普通だよ──(照れつつ)泉水から

         さ、また留守電入ってたんだ」

     菜 々「本当?」

     博 司「ああ──まあ、色々あるけどさ、あいつのこと信じるこ

         とにしたよ」

     菜 々「──そう」

     博 司「とにかく今は会って話したい」

     菜 々「そう──好きなんだね」

     博 司「うん?」

     菜 々「彼女のこと」

     博 司「ああ──昨日今日の仲じゃないんだ。俺と泉水は幼なじ

         みで初恋なんだから。十年かけて再会してるんだ。何が

         あっても乗り越えて行けるさ」

     菜 々「うん。で、どうするの今日は? また聞き込み調査?」

     博 司「いや、時計台に行く」

     菜 々「時計台?」

     


風のリグレット6

              ○

     

           商店街の通りを歩いてくる博司と菜々。

     菜 々「ねえ、野々村博司くん」

     博 司「何?」

     菜 々「別に、呼んでみただけ」

     博 司「おまえな」

     菜 々「あ、おまえだって、馴れ馴れしい」

     博 司「おまえおまえおまえ」

     菜 々「子供ね。ねえ君、シャンプーハット無いと髪洗えないで

         しょ?」

     博 司「当たり前だろ、あれ無いと目に入って痛いじゃんか」

     菜 々「──あ、そう」

     博 司「君、付き合ってる男とかいないだろ? いないよな」

     菜 々「何、その言い方、とげがあるな。自分こそ絶対もてない」

     博 司「いいんだよ、俺は泉水ひとりにもてれば」

     菜 々「逃げられたけどね」

     博 司「──」

     菜 々「あ、傷ついた?」

     博 司「傷ついてないし、逃げられてません。今はまあ、何か事

         情があるみたいだけど、ちゃんと留守電だって入ってる

         し、第一、君みたいにがさつで無神経な女とは全然違う

         んです」

     菜 々「──ふーん」

     博 司「あ──怒った? 言い過ぎた?」

     菜 々「別に──」

           自転車が鈴を鳴らしながら傍らを通る。

           ぶつかりそうになった──、

     菜 々「(軽く悲鳴)」

           急ブレーキがかけられ、自転車が止まる。

     菜 々「危ないじゃない、もう」

           自転車の男・玉木稔──、

     玉 木「ああ、すいませんすいません、どうもすいません──あ

         れ?(と、くすくす笑う)」

     菜 々「え? 何よ?」

     博 司「(小声で)おまえのこと笑ってんだよ」

     玉 木「野々村くんでしょ?」

     博 司「え?」

     玉 木「野々村くんですよね、僕です、僕。中学の時同じクラス

         だった玉木ですよ(と、くすくす笑う)」

     博 司「ああ──」

     玉 木「いやあどうもどうも。ここ、僕んちなんです(と、くす

         くす笑う)」

     菜 々「(小声で)なんかよく笑う人ね」

     博 司「(小声で)嫌な感じだろ──(玉木に)不動産屋やって

         るんだ?」

     玉 木「ええ、パパの跡継ぐことになりましてね、まだ見習いな

         んですけどもね。どうぞどうぞ、お茶でも飲んでってく

         ださいよ。今みんな出払ってて誰もいないし」

     博 司「また今度に──」

     菜 々「(小声で)泉水ちゃんのこと、聞いてみれば?」

     博 司「(小声で)気が進まないな」

     菜 々「(小声で)何か知ってるかもよ?」

     博 司「うん──」

     

              ○

     

           不動産屋の中、博司と菜々にお茶を出す玉木。

     玉 木「はい、どうぞ」

     博 司「ありがとう」

     玉 木「あー、わかった」

     博 司「あ?」

     玉 木「この娘、あれでしょ、野々村くんのこれでしょ?」

     菜 々「そうそう」

     博 司「馬鹿、そんなんじゃねえよ」

     菜 々「馬鹿、そんなんじゃねえよ、だって」

     玉 木「またまたまたあ、照れちゃってるんだから(と、ひひひ

         と笑う)」

     菜 々「(小声で)やらしい笑い方」

     博 司「(小声で)こういう奴なんだよ。(玉木に)おまえさ、

         昔の友達とかと会ったりする? 会ったりしないよな、

         おまえじゃ」

     玉 木「会うよ。僕んとこほら、こういう仕事だし、駅前にある

         から、結構みんなうちの前通るんだよね」

     博 司「今こっちいないんだけど、桜井泉水っておぼえてる?」

     玉 木「ああ、うん、よく知ってるよ」

     博 司「最近このあたりで見かけなかった?」

     玉 木「ううん」

     博 司「けど、今見てもわからないだろ?」

     玉 木「だってあのひとって、結構あれじゃない、淫乱な女性で

         しょ? だからよくおぼえてるんだよね」

     博 司「──今何て言った?」

     玉 木「うん?」

     博 司「淫乱って言ったろ?」

     玉 木「聞こえてるんじゃないの」

     博 司「どういう意味だよ?」

     玉 木「そうだよね、野々村くん、昔から噂とかそういうのにう

         とかったもんね。桜井泉水って中学高校ん時から男とっ

         かえひっかえ、すごかったんだから」

     博 司「適当なこと言うなよ。第一泉水は小学校の時に転校した

         んだから、おまえがその頃のこと知ってる筈ないだろ」

     玉 木「知ってるもん。あの人、隣町の学校に通ってたんだから」

     博 司「泉水は東京に行ったんだ」

     玉 木「野々村くん、誰の話してるの?」

     博 司「おまえこそ誰の話してるんだ?」

     玉 木「僕はね、何回もこの目で見たんだもん。いつも違う男と

         歩いてたもん──」

     博 司「いい加減にしろよ!」

           机を叩き、玉木に掴みかかる博司。

     玉 木「暴力反対!」

     博 司「嘘言え、取り消せよ!」

     玉 木「だって本当のことだもん!」

     博 司「取り消せって言ってるだろ!」

     菜 々「止めなよ」

     博 司「離せ! こいつ、泉水を侮辱したんだぞ!」

     玉 木「侮辱じゃないもん。僕はただ事実を述べただけだもん。

         事実と侮辱は全然違って──」

     博 司「黙れ!」

           博司、玉木を殴った。

           倒れ込む玉木。

     菜 々「止めてよ!」

     玉 木「嘘だと思うんならみんなに聞けばいいさ、おまえ以外の

         人はみんな知ってることなんだから」

     博 司「何だと──!」

     菜 々「止めてってば!」

     博 司「君には関係ないだろ!」

     菜 々「嫌なの!」

           真剣なひと言──、

     菜 々「人が言い争うの見るの嫌なの」

     博 司「──(息をつく)」

     菜 々「もう行こ? ライカの餌買いに連れて行ってくれるんで

         しょ」

     博 司「──ああ」
 

              ○

     

           鳥の鳴き声。

           鳥籠を開けて菜々が餌をあげているのだ。

           傍らでぼやいてる博司。

     博 司「チクショー、ふざけやがって──」

     菜 々「まだ怒ってるの?」

     博 司「泉水の悪口言ったんだぞ」

     菜 々「──信じてないの?」

     博 司「え?」

     菜 々「別に、泉水ちゃんのことあの人が言うような女だなんて

         思ってないんでしょ?」

     博 司「当たり前だよ。泉水は──」

     菜 々「なら、いいじゃない別に、誰が何言っても」

     博 司「──まあな」

     菜 々「さ、もう夜よ。今度はいい情報が入るといいね?」

     博 司「ああ──」

           歩きだす博司と菜々。

     博司(M)「信じる? 信じるってどういう意味だろう? ある

         日突然失踪してしまった彼女の何を信じるんだろう?

         菜々のポケットに緑色の表紙の手帳がささっていた。泉

         水の手帳。ここに何かが書いてある。どうして泉水がい

         なくなったのか、ここに書いてある」

     菜 々「(悲鳴)──な、何、お尻触ってんのよ」

     博 司「あ、いや、そうじゃなくて──」

     菜 々「あ、今手帳取ろうとしたんでしょ?」

     博 司「見せてくれよ」

     菜 々「泥棒」

     博 司「泥棒ってな、だいたいそれは──」

     菜 々「僕の彼女の手帳。しかしその彼女は今──」

     博 司「わかった、それ以上言うな」

     

 

風のリグレット7

              ○

     

           店に入ってくる博司と菜々。

           水っぽい感じの曲が流れる店内。

           五六人程度の客がテーブルで酔って話してる。

     菜 々「同級生の男の子でしょ? どの人?」

     博 司「あれ、いないなあ──?」

     菜 々「店出てないんじゃない?」

     博 司「ちょっと、あのカウンターの女の子に聞いてみるよ」

           女がいるカウンターに歩み寄る博司。

           女はグラスに酒を注いでいる。

     博 司「あの──」

     店の女「はい?」

     博 司「ここの主人に会いたいんだけど?」

     店の女「わたしよ」

     博 司「あ、いや、園川って言って、男なんだけど──」

     店の女「(男の声に変わり)俺だよ」

     博 司「え──」

     店の女「よお、野々村、久しぶりだな」

     博 司「おまえ──園川?」

     店の女「おお」

     博 司「──いつから?」

     園 川「(女の声を作り)昔からよ。高校の時、あなたと一緒に

         お風呂入ったこともあったわね」

     博 司「(絶句)──」

     菜 々「(ぷっと吹き出し、爆笑する)」

           時間経過──、

           話している博司と菜々と園川。

     園 川「失礼ね、そんなじろじろ見るもんじゃないの」

     博 司「ごめんごめん」

     園 川「あら、綺麗な彼女ね」

     菜 々「ありがとう」

     博 司「彼女なんかじゃないよ」

     園 川「そうなの? 何? 今日は。いい男でも紹介してくれる

         わけ? 何ならあなたでもいいけど?」

     博 司「(苦笑し)実は、泉水のことでさ」

     園 川「ああ、よく話すわよ」

     博 司「本当に? 最近いつ話した?」

     園 川「最近は連絡無いのよね、最後に話したのが一年ぐらい前

         かしらね」

     博 司「一年、か。まだ再会する前だ」

     園 川「その時は、早く帰って来てうちで働けばって言ったのよ」

     博 司「(苦笑し)泉水は女だよ」

     園 川「うちの店は女の子も働いてるの」

     博 司「けど、彼女にはこういう仕事は向いてないからな」

     園 川「何言ってんの、あの娘、ずっと銀座で働いてんだから」

     博 司「え──」

     園 川「元々わたしが東京にいた頃、二人で水商売の苦労、よく

         話し合ってたのよ?」

     博 司「──(笑って)悪い冗談よせよ」

     園 川「(男声で)冗談なんかじゃねえよ、野々村」

     博 司「頼むからどっちかに統一してくれよ」

     園 川「(女に戻り)本当よ」

     博 司「まさか──」

     園 川「別に信じてくれなくてもいいわよ、わたしは水商売やる

         ことが悪いとは思わないし」

     博 司「それはそうだけど、ただ彼女は──」

     園 川「(少しむっとしており)彼女のこと探してるんなら、実

         家の人に聞いてみれば?」

     博 司「実家? 実家って、何? 泉水は子供の頃に両親いなく

         なってるし、おじいちゃんも死んでひとりぼっちのはず

         じゃ──」

     園 川「何言ってんのよ、泉水の御両親は健在よ」

     博 司「え──」

     園 川「疑うんならその目で見てくれば? 未分里坂の上の近く

         の家で夫婦仲良く暮らしてるわよ」

     博 司「そんな馬鹿な──!?」

     園 川「(男声で)いいか野々村、泉水はおまえが思ってるよう

         な娘じゃないぞ」

           沈黙。

     博司(M)「グラスの中の氷が急速に溶けて行くように思えた。

         天井から吊り下がったミラーボールが静かに回り続けの

         を僕は見ていた。菜々は何も言わずに、そんな僕を見つ

         めている。グラスの中身をひと息で飲み干す。水のよう

         に薄く思える。どうやら、しらふではこの街を出れそう

         に無い」

     

              ○

     

     博司(M)「細長く、驚くほど急な未分里坂。その坂を登り切っ

         た場所にあるそこは、どこにでもあるようなごく普通の

         家だった。庭先には犬小屋があり、どこにでもいるよう

         な柴犬が眠りに就いている。灯のともった窓の向こうに

         食卓が見え、どこにでもいるような老夫婦が食事をして

         いた。ただひとつ違うのは、表札にはっきり桜井との二

         文字が記されてあったこと。呼び鈴を鳴らす勇気など、

         僕には無かった」

     

            ○

     

           小学校の体育館。

           静まり返った館内に、博司と菜々、二人の靴音だけ

           が、きゅっきゅっと響く。

           静かに転がって行くバスケットボール。

     菜 々「あ──あ──あ──」

           声を響かせてみせる。

     菜 々「しんとしてるね」

           口笛を一瞬吹いてみせる。

     菜 々「どしたの、またこんなところに戻って来て。体育館に泊

         り込むつもり?」

     博 司「別に──」

     菜 々「別にって──」

           静まり返る。

           明るく装う菜々──、

     菜 々「困ったことになったわね。どうしようか?」

     博 司「──」

     菜 々「(尚も明るく)ねえ、何シュンとしてんのよ。あ、そう

         だ、バスケやろうよ、バスケ! わたし、こう見えても

         ね──」

     博 司「うるさいな!」

           怒鳴った。

           静まり返る。

     博 司「──放っといてくれないか?」

     菜 々「けど──」

     博 司「君にだってあるだろ、ひとりになりたい時ぐらい」

     菜 々「(低く呟く)無いわよ、そんなもの」

     博 司「──あ、そう」

     菜 々「ねえ、野々村博司くん」

     博 司「──」

     菜 々「返事してよ」

     博 司「──」

     菜 々「──何か事情があるのかもしれないよ。彼女だって別に

         嘘つきたくてついたわけじゃないかも──」

     博 司「十年間ずっと信じてきたんだ──あの日教室で泉水、お

         じいちゃん死んだって言って、両親もいないから東京に

         転校するって言って──何でそんな嘘を──」

     菜 々「野々村くん──」

     博 司「何でそんな嘘──!」

           静寂。

           しばらくの間ののち、ぽん、とピアノの音がひとつ

           鳴った。

           菜々がピアノの前に座っているのだ。

     菜 々「六歳の誕生日の時に、お父さんとお母さんが、ピアノを

         買ってくれたの」

     博 司「何だよ、急に──」

     菜 々「って言ってもアップライトの小さなのだったけど、でも

         はじめて家に来た時はすごく嬉しかったな。それでね、

         わたしのお母さんがピアノ弾ける人だったから、その日

         から教えてくれることになって黄色のバイエルをはじめ

         たの──けどね、上手く弾けなかったんだ。当たり前な

         んだけど、子供だから指も短いし、お母さんがこう弾く

         のよって、タリラリランって弾くの見て、わたし悔しく

         てさ、一生懸命弾いたけど、やっぱり駄目だった。指も

         痛くなるし、いつまで経っても上手く弾けなくて、結局

         わたし、嫌になって放り出しちゃったの。ピアノ蹴っ飛

         ばしてね、こんなのなくなってしまえばいいって思った

         の。お父さんもお母さんも悲しそうな顔してた。そうし

         てもうそれっきりピアノ弾かなくなって、いつのまにか

         埃がたくさん積もって、上には新聞とかティッシュの箱

         が置きっ放しになるようになった──わたしが七歳の時

         だった、お父さんとお母さんがいっぺんにいなくなった

         の。わたしまだよくわからなかったんだけどさ、二人と

         も、それぞれ他に好きな人見つけて、わたしをよその人

         に預けて、いっぺんにいなくなっちゃったの。わたしだ

         け、いなくなっちゃった──わたしね、自分のせいだと

         思った。自分がいけない娘だから、お父さんもお母さん

         もいなくなったんだって。そしたらわたし、どうしたと

         思う? 今思うと、ほんと馬鹿馬鹿しくて笑っちゃうん

         だけどさ──わたし、ピアノの練習はじめたの。その頃

         家にはもうピアノが無かったから、画用紙に鍵盤書いて

         練習したの。必死んなってした。一日中鳴らないピアノ

         を弾いてた。勝手に思い込んでたんだ、ピアノが弾ける

         ようになったら、お父さんとお母さんが帰って来るんだ

         って、勝手に信じてたんだ。馬鹿ね──しばらくして黄

         色いのバイエル全部弾けるようになった。なったんだけ

         ど、当然お父さんもお母さんも帰ってくるはずなんてな

         くって、相変わらずわたしだけいなくなってた。わたし、

         どうしてだろうって思った。ピアノ弾けるようになった

         のに、どうしてだろうって思った──馬鹿ね」

           静かに、短いフレーズを幾つか弾く菜々。

     菜 々「昔よく、夜中にお父さんとお母さんが言い争いをはじめ

         ると、それ聞きたくなくて枕元のラジオのスイッチを入

         れたの。きっと放送終了の曲だったのかな、この曲聞く

         と、不思議と気持ちが落ちついた──」

           淡い曲。

           静かに、止む。

 

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