博 司「菜々ちゃん──」
黙ってる。
博 司「菜々ちゃん──泣いてるのか──?」
博司、歩み寄ろうとする──と、
菜 々「なああんてね(と微笑う)」
博 司「──え?」
菜 々「本気にした?」
博 司「──嘘なのか?」
菜 々「単純だね、簡単に信じちゃってさ?」
博 司「おまえな!」
菜 々「さてと、泊まるとこ探しに行こうよ、野宿なんて嫌よ。
勿論君と同じ部屋もね」
博 司「ちょっと待てよ」
菜 々「何、心配した?」
博 司「したよ」
菜 々「きっと泉水ちゃんもそうだったのよ」
博 司「え?」
菜 々「泉水ちゃん、君の気を引きたかったのよ、心配して欲し
かったのよ」
博 司「何のために──?」
菜 々「君のことが好きだからに決まってるじゃない」
博 司「そうなのかな──」
菜 々「そうよ。これぐらいのこと気にしてどうするのよ。頑張
れよ、女の子が簡単に手に入っちゃったら気持ち悪くて
熱出ちゃうわよ」
博 司「そうかな」
菜 々「そうよ」
博 司「(苦笑)」
菜 々「あ、やっと笑った」
博 司「うるせえ──なあ、どう思う?」
菜 々「うん?」
博 司「あの日、泉水は地下鉄で何かを見たんだ。何かを見つけ
たから、泉水は急に電車を降りたんだ」
菜 々「うん」
博 司「何を見たんだろう?」
菜 々「うん」
博 司「あの時君もあの車両に乗ってたんだよ、何か知ってるん
じゃないのか?」
菜 々「知らないよ」
博 司「本当に?」
菜 々「──(真剣に)本当よ」
博 司「そっか──なあ、さっきの話は? 本当に嘘なのか?」
菜 々「本当よ、本当に嘘よ」
博 司「君、なんか俺に恨みでもあんのか?」
菜 々「恨み? 恨み、か──そうね、そんなようなものかもし
れないね」
○
電話の呼び出し音が鳴っている。
博司(M)「そうして僕と菜々は、安ホテルを見つけると、部屋
を二つ取り、それぞれの部屋に分かれた。一缶七百円の
缶ビールを冷蔵庫から取り出すと、自宅の留守番電話を
聞いた──」
呼び出し音が切れ、博司の留守電になる。
留守電の声「もしもしただいま外出しております。御用の方は発
信音のあとメッセージをお願いします」
暗証番号を押し、伝言が流れる。
女の声「もしもし、野々村くん。泉水です。元気ですか? わた
しは、野々村くんに会えなくて寂しいけど、でも元気で
す。今日、あの日のことを思い出しました。いつか一緒
に台風十九号を見に行った日のことです。またあの台風
が来ます。もう一度あの場所で、あの時計台の前で会え
たら──。野々村くん、わたしは今でもあなたのことが
好きです。信じてください」
伝言が終わり、切れる。
博司(M)「台風十九号──」
再び受話器を取り、三桁を押す。
天気予報だ。
天気予報の声「大陸より張り出した高気圧が上昇し、現在太平洋
側より、台風十九号が接近しております。台風十九号は
尚も勢力を拡大しながら、毎時二十五キロで北上し、今
夜には紀伊半島より上陸するものと思われます──」
受話器を置く。
博司(M)「次の行き場所が決まった」
○
博司(M)「泉水。なあ、泉水。悪戯好きな泉水。僕はこんな夢
を見たんだ。夏休みの前の日、二人の子供たちが約束を
した。子供たちは十年経ってからその約束を果たすんだ
けど、何かとても大事なことを忘れていることに気付く
んだ。大人になった子供が、一体何を忘れたんだろうと
かんがえてみる。それは、君の顔だった。ああそうか、
君の顔か、と思う。君の顔が、声が、名前が、何ひとつ
思い出せない。彼はほんの少しさみしくなって、もう一
度君に会おうと思って、またあの時計台に行った。とて
も風が強くて、丘の上にある時計台に行くのに、とても
時間がかかった。だんだんと陰り行く日差しの中に、時
計台のシルエットが見えた。長い長い影が伸びて、彼の
足元までも届いていた。約束通りに彼を待ってる君の後
姿が見えた。かーんかーんかーん、時計台のてっぺんで
鐘が鳴りはじめた。一日が終わりかけている。夏の匂い
がした。泉水。彼は君の名前を呼んだ。だけど、君は振
り向きはしなかった。どうしてだと思う? 彼女は泉水
じゃなかったから。あれは、誰? 君はいつから君じゃ
なくなったんだ? その時、時計台の前で彼を待ってい
た影が振り返った。その見知らぬ誰かの影は、微笑んで
こう言った」
あの日の少女の声が聞こえる。
少 女「わたしの夏休みは今も続いているから、だからここから
離れられないの。わたしはあなたの思い出だから、ここ
から離れられないの。約束したの。ここで一緒に台風を
見ようねって」
鐘の音が鳴る。
博司(M)「なあ、泉水、君の顔が上手く思い出せないんだ」
鐘は鳴り続ける。
高まっていく。
○
翌朝、ホテルのフロントあたり、鳥が鳴いている。
博 司「おはよう」
菜 々「おはよう。どうしたの、元気そうね」
博 司「そうかな? 別に、普通だよ──(照れつつ)泉水から
さ、また留守電入ってたんだ」
菜 々「本当?」
博 司「ああ──まあ、色々あるけどさ、あいつのこと信じるこ
とにしたよ」
菜 々「──そう」
博 司「とにかく今は会って話したい」
菜 々「そう──好きなんだね」
博 司「うん?」
菜 々「彼女のこと」
博 司「ああ──昨日今日の仲じゃないんだ。俺と泉水は幼なじ
みで初恋なんだから。十年かけて再会してるんだ。何が
あっても乗り越えて行けるさ」
菜 々「うん。で、どうするの今日は? また聞き込み調査?」
博 司「いや、時計台に行く」
菜 々「時計台?」