○
時間経過──、
依然として雨は降り続いている。
博 司「(心配そうに)菜々──?」
菜 々「(虚ろな声で)あ、呼び捨てだ」
博 司「大丈夫だって──」
菜 々「ねえ、ライカ、帰って来るかな?」
博 司「ああ、帰ってくるよ」
菜 々「(薄く微笑って)君って、嘘つきだね」
博 司「──」
菜 々「──ねえ、野々村くん?」
博 司「うん?」
菜 々「借りてもいいかな?」
博 司「あ、ああ、幾ら?」
菜 々「違う」
博 司「何?」
菜 々「貸してくれるかな? 肩」
博 司「肩?」
菜 々「うん、今にも倒れそう。もたれかかってていい?」
博 司「──ああ」
博司の肩にもたれかかる菜々。
眠そうな声。
以下、小声で会話する二人。
菜 々「昨日ね、夢を見たの」
博 司「夢?」
菜 々「うん、子供の頃の夢」
博 司「ああ、俺もよく見るよ」
菜 々「わたしね、子供の頃のわたしがね、お友達と待ち合わせ
して、ある日森の中に入るの。そしたらさ、出会ったの。
誰だと思う?」
博 司「ある日? 森の中? 熊さん?」
菜 々「(微笑って)ううん、わたし、あの歌は好きだけど、残
念ながら熊さんとは出会わなかったし、お嬢さんって声
をかけてもくれなかった」
博 司「じゃあ何?」
菜 々「蜜蜂」
博 司「蜜蜂?」
菜 々「うん、蜜蜂が飛んでたの、わたしの顔のすぐ横を。わた
し、動いたら刺されるんじゃないかって思ったからさ、
じっとしてたの。蜜蜂の羽音って聞いたことある?」
博 司「ぶーんって?」
菜 々「うん、ぶーんって。ぶーんぶーん」
博 司「ぶーんぶーん」
菜 々「ぶーんぶーん」
博 司「ぶーんぶーん」
菜 々「ぶーん──ねえ、蜜蜂の羽音って、なんか幸せな感じし
ない?」
博 司「幸せな感じ? するかな?」
菜 々「するよ。だからわたし、もうそれ以上何処にも行くの止
めて、ずっと森の中にいることにしたの。ずっと森の中
にいて蜜蜂の羽音を聞くことにしたの」
博 司「ずっと?」
菜 々「ずっと。だって誰も迎えに来ないし、外に行ってもしょ
うがないし」
博 司「しょうがないことないよ」
菜 々「しょうがないよ」
博 司「どうしてそう思うの?」
菜 々「だって、森の外は、世界は汚れてるから」
博 司「──待ち合わせした相手は? 待ち合わせの友達んとこ
に行ってあげなきゃ」
菜 々「ううん、いいの。その人は他に友達を見つけたから」
博 司「──なんか寂しい夢だな」
菜 々「さみしくなんかないよ。だって蜜蜂のしあわせな羽音を
聞いてるんだから」
博 司「うん──」
菜 々「だから野々村くん、もし森の中で蜜蜂と一緒にいるわた
しを見つけても起こさないでね?」
博 司「──起こすよ」
菜 々「どうして?」
博 司「だって──君はそれでいいかもしれないけど、他のひと
たちが、みんなが寂しがるよ」
菜 々「みんなって?」
博 司「みんなさ」
菜 々「君は? わたしがいなくなると、君もさみしがる?」
博 司「ああ、寂しいよ」
菜 々「泣く?」
博 司「少し」
菜 々「じゃあ、言って?」
博 司「うん?」
菜 々「きみがいないととてもさみしいって」
博 司「──きみがいないととてもさみしい」
菜 々「嘘つき」
博 司「──」
菜 々「(微笑う)──ねえ、野々村くん」
博 司「うん?」
菜 々「今、わたし、いいこと思いついた。すごくいいこと」
博 司「何?」
菜 々「なっちゃえよ」
博 司「え?」
菜 々「わたしの彼氏になっちゃえば」
博 司「──」
菜 々「──(苦笑し)黙ってやんの」
博 司「──ああ──(と生返事)」
菜 々「(微笑う)」
博 司「あ──」
菜 々「うん?」
博 司「その手には引っ掛からないよ」
菜 々「え──」
博 司「また俺を騙してるんだろ」
菜 々「(少し黙り)──ばれた?(と、微笑う)」
博 司「俺も馬鹿じゃないからね。そろそろ君の性格もわかって
きたよ」
菜 々「あ、そう。あーあ、残念」
○
雨が降り続いている。
博 司「止みそうに無いな。どうする、行こうか?」
返事が無い。
博 司「何だ、眠っちゃったのか──」
寝息が聞こえる。
博司(M)「菜々のポケットからあの緑の手帳がはみ出して見え
た。ここに、泉水の失踪の原因が書かれている。手を伸
ばせば届くところにある。今なら菜々は眠っている。手
を伸ばせば、すぐそこに、泉水がいる。だけど、もう僕
はこんなものを見る必要はないんだ。泉水のことはもう
忘れたんだ。彼女がどうして姿を消したのなんて知らな
くていいんだ。彼女が今何処でどうしてようと、もう僕
には──」
雨が降っている──、
激しく高まっていき、ふっと雨音が消え、
静寂。
菜 々「何してるの?」
博 司「──」
菜 々「あ──見たの──?」
博 司「──知ってたのか?」
菜 々「──何が?」
博 司「知ってたんだろ? これ読んで、何もかも知ってたから
俺に見せようとしなかったんだろ」
菜 々「わたしはただ──」
博 司「泉水には他に付き合ってる男がいたんだな」
菜 々「──」
博 司「今あいつはその男と一緒にいるんだな──(と、自嘲的
に笑う)」
菜 々「野々村くん──」
博 司「そのこと知ってて、だましてたのか、俺を」
菜 々「だましてなんかないよ」
博 司「知ってたくせに、俺のことかわいそうな男だって、心の
中で思って哀れんでたんだろ」
菜 々「そんなこと──」
博 司「俺に同情してたんだろ」
菜 々「ねえ、野々村くん」
博 司「あざ笑ってたのか?」
菜 々「──もういいじゃない」
博 司「何がいいんだよ」
菜 々「諦めたんでしょ? もう泉水ちゃんのこと、忘れること
にしたんじゃなかったの?」
博 司「──」
菜 々「なのに、どうしてそんな辛そうにしてるの?」
博 司「そんなんじゃ──」
菜 々「そうじゃない。そうでしょ? 違う?」
博 司「(黙ってる)」
菜 々「ほらね」
菜々、駆け出し、出入口のドアを開ける。
博 司「何処行くんだよ!」
菜 々「来ないで」
博 司「この雨ん中、何処行くっていうんだ?」
菜 々「悪いんだけどさ、ちょっとさ、ひとりになりたいんだ」
外に飛び出していく。
追いかける博司。
殴るように、激しく雨が降りつけている。
博 司「菜々!」
追いかける。
博 司「待てよ!」
菜 々「待たない!」
博 司「俺は──俺は──」
菜 々「ごめんね」
博 司「え──」
菜 々「ひとりにして?」
背を向け、駆けていく菜々。
遠ざかっていく。
立ち尽くし、見送る博司。
ただ雨が降りつづける。
博司(M)「菜々の後姿が雨の向こうに見えなくなると同時に、
僕は自分自身の姿も見失った。それが菜々のせいなのか、
泉水のせいなのかはわからなかった。ただ世界がちょっ
と色あせて見えた」
高まる雨音、ぷつんと途切れ──、
○
博司はホテルの部屋にいる。
博司(M)「なおも雨は降り続け、僕は夜になる前にホテルの部
屋に戻った。知らず知らずのうちに自宅の留守番電話を
聞いていたのは、すべてが夢だと言ってくれるような気
がしたからだろうか。けれど、そんなことがあるわけも
なく──」
留守電の伝言が流れる。
三 井「もしもし、俺、三井だけど。泉水ちゃんのことでさ、こ
の間言えなかったことがあるんだよ。あん時は泉水ちゃ
ん、ファミレスにいたって言ったけど、ほんとはホテル
のバーで男と一緒にいたらしいんだよ──あんまり気落
とさないでさ、とりあえず帰ったら電話くれよ」
受話器を置き、切る。