舞台「灰とダイアモンド」二次創作サファイア・スピンオフ
「灰とダイアモンド」Spin Off Sapphire①
「……俺の人生、終わった。……終わっちまったじゃねぇか! バカヤロウ!」
サファイアの目の前に転がった、大きな身体の男性の遺体。この宝石強盗の首謀者“ルビー”と名乗る元・警官の男の遺体に悪態をつき、蹴りを入れた。そうしたところで今のこの“最悪”な状況の何かが変わる訳でもないのに。
強奪して来た宝石はすべて灰と入れ替えられており、結局一銭の得にもならず、目の前には男の遺体。それも元・警官の男だ。すぐに足が付く。教職を失うどころの騒ぎじゃ済まされない。
「ハッ……! ハハハハハハハ…………」
サファイアの薄い唇から渇いた笑いが漏れた。その同室には他に4人の男たちも一緒に居たが、それに対し誰も反応しない。それぞれがその後訪れる重い未来を想像し、空虚な瞳を泳がせているばかりだ。
ふとうつむくと、サファイアの足元に流れ出たルビーの血液。その赤黒い液体を見ても、すぐには頭が働かない。……誰かがつぶやく、
「これ、どうすんだ……!?」
そうだ、これは殺人だ。
胸の中に鮮烈な電流が走り、サファイアはようやく重い腰を上げる事が出来た。
逃げなければ……! すぐに、この場から立ち去らなければ……! 捕まってたまるか……!
それぞれが震える足を引きずって、廃墟の地下室から散り散りに逃亡する4人の“愚者”たち。
お互いのことなど気にする余裕もなく別れ、ただ自分を守る為に必死に走り出す。
サファイアは体中の水分が無くなるまで走り続けた。どこをどう走ったかさえも分からないくらいに。
「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、……ッキショウ! チキショウ!」
走り続けるために悪態をついて、痛む足をひたすら前に繰り出す。黒いスーツで闇の中を駆け抜け、とにかく誰にもみつからない場所に行かなくてはと、すでに血の廻らない頭で考える。
明け方近く、すでにサファイアの体力は限界に近づいていた。彼の視界に港に停泊された無人の小型船が入って来た。
「……アレだ! ……あそこに身を隠せばしばらく捕まらない」
辺りを警戒し、無人であることを再確認しながら船に近付く。すると不意に、胸ポケットのケータイが震えて着信を伝える。それを無視しようと試みたが、頭に浮かんだのは不安げな恋人の顔だった。
歩みを止め、ケータイを確認すると、やはりそこには恋人の名前が表示されていた。
「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、……サキ? こんな時間にどうした?」
「せ~んせぇ~? ……おーい、アンタ今どこにいるんだよ?」
ケータイから聞こえたのは聞き慣れた恋人の声ではなく、自分を脅迫した男の声だった。
その声を聞いたサファイアは激しく咳きこみ、地面に膝を着いた。
「……ゲホッ……ゴホッ……ゴホ……、ゴフッ……、なんでお前が、サキのケータイ使ってんだよっ!?」
「アンタがさぁ、俺の指定した場所に時間通りに来ないから、俺、シビレ切らしちまってさぁ……お前のカノジョに協力してもらったんだわ」
地元暴力団と繋がっているその男は、警察よりも厄介な相手だったことをサファイアは失念していた。
背中に冷たい汗が流れ、酸っぱい胃酸が逆流し、吐き気をもよおす。サファイアは咳きこむ口元を両手で押さえた。唇の震えが止まらない。
「……サキは……無事、なんだろうな?」
「逃げといて今さら何言ってんだよ? アンタが払う分、この女からもらうしかねぇだろ? オトスにきまってんじゃん、バーカ」
「……オトスって、何だよ!?」
「……クスリ打ってソープに売り飛ばすに決まって~んじゃ~ん。センコーってのはそんな事もわかんねーのかよ? ギャッハッハッハッハッハ……」
男の下卑た嗤いがケータイから響きわたる。サファイアの全身から力が抜け、電池が切れたオモチャのようにアスファルトに崩れ落ちた。
「……わかった。明日の8時、第七埠頭に来い。もう、俺は逃げない。だからサキは家に帰してくれ!」
「ようやく素直に従う気になったんだな? アンタを捕まえたら、かわいいカノジョはおウチに帰すって約束してやるぜ、来なかったらこの女はその場でバラす。分かったな?」
「……テメェ、殺してやる!」
サファイアにはもはや、掠れた声で一言、悪態をつく体力しか残っていなかった。
再び降り出した雨が、横たわるサファイアに無情に打ちつけ、疲弊した四肢を冷やして行った……。
サファイアが再び意識を取り戻すと、辺りはすっかり明るくなっていた。
光が目に痛いくらいに突き刺さり、グワンと視界を歪ませて、激しい頭痛を引き起こした。
「……サキ!……あっ?……てか、ここ…………何処だ?」
飛び起きると、視界に入って来たのは埠頭の景色ではなく
「病室? ……俺、なんでこんなとこに居るんだ?」
白い清潔な病院の個室。そのベッドに寝かされていたのだが、埠頭からここまでの記憶が全く蘇らない。
「……痛ってぇ!……なんだ、コレ?」
激痛の走る頭に触れると、そこには包帯が巻かれている。薄い布地の寝間着の中を覗くと、胴体にも同様に包帯が巻かれていた。
「痛っ……!!」
コメカミに鋭い痛みが走り、フラッシュバックするチンピラどもの顔。すると同時に、体中がバラバラになりそうな激痛が走り、再びベッドに倒れるサファイア。寝具を強く握ることで必死に痛みに耐える。
「……俺、ボコられて……殺されかけて……? チキショウ! そこからの記憶が無い! サキは、サキは無事なのか?……ケータイ! ……チキショウ! 俺のケータイが無い! どこだ?」
窓に鉄枠が無いところを見ると、ここはまだ刑務所の中では無いようだが、自分の着ていた服や靴、所持品の類がまったく見当たらない。
サファイアはベッドヘッドにある緊急用の呼び出しボタンを押した。少し動くだけでも身体が悲鳴をあげ、その痛みに、噛みしめた唇から呻き声が漏れてくる。
「ぅ……ぅう………いって……ぇ。痛てぇッ……!」
「ハチスカさん、意識が戻ったんですね? 大丈夫ですか?」
部屋に入って来た若い看護士が声を掛けて来る。後からもう一人看護士が入って来たが、二人がお互いにアイコンタクトを取ると、一人がすぐ足早に出て行く。
「ハチスカ? ハチスカって誰の事だよ? ここ、どこだよ? 俺の持ち物どこにやったんだよ!?」
「落ちついて下さい。頭を強く打たれて記憶が一時的に混乱されているようですね。身体や頭は痛みませんか? もう少し痛み止めを投与しましょうね」
看護士は持ってきたワゴンから注射を取り出して、サファイアの点滴に投与した。
数秒すると嘘のように痛みが引き、同時に強い睡魔が襲ってくる。サファイアは眠ってなどいられないと頭を振り、意識を覚醒させようと踏ん張った。
「……俺のケータイ、返せよ!」
「すぐにご家族の方がお見えになりますから、ご安心なさって下さい」
優しく微笑む看護士の顔には嘘など見えないけれど
「……俺の家族だって?」
サファイアの両親は彼が17歳の時に事故死している。それに彼には兄弟もいない。だからこそ必死に勉強して推薦枠をとり大学に入った。そして苦労して優秀な成績を収め、奨学金を得たのだ。
薄れて行く意識の中で部屋に入って来た人物を見たが、ぼやける視力ではそのシルエットしか見る事が出来なかった。
次にサファイアが意識を取り戻したのは、それから3日後の日暮れ時だった。
重い瞼をゆっくりしばたかせて、ぼんやりした視点を徐々に合わせる。ぐるりと周囲に視線を泳がせると、サファイアの肩が震えだした。
「フッ……ハハ、アッハハハハ……! もう、わっかんねぇよ。何だよコレ? ハハハハ……」
サファイアのひび割れた唇から笑いが漏れる。そこは病室でもなく、目に入る天井には豪奢なデザイン照明があり、彼の記憶には一切無い、まったく知らない部屋だったのだ。
「俺、マジでおかしくなったんじゃないのか?」
寝かされた寝台も高級なもので、手触りのよい絹の寝具に身体が包まれている。着ている寝間着も病院の薄っぺらなものではなく、肌触りの良い厚みのあるコットンのものだった。
……ただし、頭に巻かれた包帯や、腕に刺さった点滴は変わらなかった。ふと足元に違和感を感じて、膝を折り曲げて足首に触れると、そこには
「なっ……なんなんだよ、コレ、……足枷か?」
鎖のつながった足枷が足首にはめられている。笑っていた口元がピクピクと引きつる。
ここは、天国どころか地獄の一丁目か……!
サファイアの口の中に苦い血の味が広がった。
「どうせ、こんな状態じゃ逃げれねぇっつーの……アホが!」
だが、どこの酔狂が自分をこんな状況に置いているのか?
「俺の家族だって? ザケンじゃねーよ、どんな思惑があって俺を……」
こんな豪華な部屋に、自分は監禁されているのか? 病院にまで運んで治療まで受けさせて?
「……俺に、どんな利用価値があるんだよ?」
サファイアの身体がガタガタ震えだす。自分の経験や知識では、今の状況からどんな悪い結果につながるのか想像がつかない。
「……ハチスカって、誰だよ?」
聞き覚えのない名前。それが偽名かも知れないし、いまだに顔すら分からない。意識を失う前に見えたシルエットは背の高い男性のものだった。
見てやろうじゃないか、そいつの正体を!
「誰か! 誰かいないのか!?」
身体の震えが止まらないまま、ヒリつく喉で叫んでみる。どのみち自分には明るいショウライなんてものは訪れないのだ。
どう転んだって自分は犯罪者なのだから、行く先は刑務所か、それとも地獄のどちらかだ。
ドアがノックされて、白いエプロンをつけた女性が入って来る。
「失礼致します。何か御用でございますか?」
無表情で無機質な女だと、サファイアは感じた。細い身体からは得体の知れない威圧感を感じる。
下手に手を出すと、ヤバいかもな……。サファイアは少し冷静になって、言葉を選んだ。
「……電話を一本、掛けさせてくれないか」
唯一気がかりなのは、この事件に巻き込んでしまった恋人のことだけだった。無事に家に返してもらえたのか、何かされてないだろうか?
「かしこまりました。」
女性から意外にすんなりと小型の携帯電話を渡される。サファイアは記憶の糸をたぐり寄せて、恋人の番号を打った。知らない番号からだと、出てもらえない可能性もある……サファイアは辛抱強く待ち、三回目に掛け直したところで
「…………誰?」
彼の待ちわびた女性の声が聞けたことで、サファイアはようやく生きた心地を取り戻した。
声もワントーン明るいものになり、その瞳にも光が戻る。
「サキ? 俺だよ。……ごめん巻き込んで、平気なのか?」
「先生? 先生なの? ……アタシは大丈夫だったよ。なんか黒いリムジンの人が助けてくれて、家まで送ってくれたし、なんもされてないよ。」
「そっか、サキが無事で安心したよ。」
安心感から、肩の力が抜けて自然と笑みが浮かんだ。
「先生は? ねぇ今、どこにいるの?」
「俺も大丈夫だよ。……実は今ちょっと事情があって、大阪の親戚の家に世話になってるんだ。」
どこにいるか分からないなんて、カッコ悪くて言えやしない。
「ねぇ、ガッコー辞めたって……ホントなの?」
「黙ってて悪かった。……深い事情があって、辞職したんだ。」
サファイアが淋しさを滲ませた声で告げると、
「ふーん、そーなんだ~。」
サキから帰って来た声は、意外にもあっさりしていた。
「俺が居なくなって、サキに淋しい想いさせて、ゴメン」
「え~っとね先生……、アタシね~、新しい彼氏が出来たの。だから全然淋しくないよぉ」
あっけらかんと若い恋人に告げられた言葉に、サファイアは目眩がする。
「サキ、俺のコト……一生愛してるって、俺と結婚したいって言ってたよな?」
「だってさぁ、先生ウチのガッコで一番人気あったし、付き合えばアタシの株が上がるでしょ? けど、もう先生じゃなくなっちゃたんだったら、付き合う価値ないんだよね。……ごめ~ん、傷ついた?」
アハハと明るい笑い声が聞こえて、サファイアは言うべき言葉もみつからない。
「…………何だよそれ……バカにしやがって。」
独り言をつぶやき、機械的にサヨナラを告げて通話を切った。
見上げるとそこには無表情の女性がつっ立っている。サファイアは自嘲気味に笑って、その女性に携帯電話を返した。
「女ってのは信用できないねぇ……つーか、アンタのご主人様はどこにいるんだ? 早く呼んで来いよ」
「ご主人様は貴方のお怪我が治るまでは、貴方にお会い致しません。早くお会いになりたいのなら、早くお怪我を治して下さい。……今後は執事の斎藤が貴方のお世話を致します。私はこれで失礼致します」
美しい角度でお辞儀をして、女性が部屋から出て行くと、代わりに入って来たのは30代前半の背の高い男性だった。おそらく病院に来たのはこの男性だろう。
近くで見ると、彼はモデルか俳優のように整った容姿をしている。銀縁眼鏡をかけた怜悧な美貌のその男性は、容姿にあった低音の美声でサファイアに挨拶をする。
「初めまして青池様。私は執事の斎藤崇也と申します。今後、何か御用の際には私におっしゃってください」
「……なんで、俺の名前……」
「コードネーム“サファイア”こと青池鉱輝様。都内、私立聖心女子学院、高等部の教師で教科は数学。……ま、私共で青池様名義の辞表を提出させて頂きましたから、今は“元・教師”ですけれどね。貴方の情報はすべて調べさせて頂きました。」
慇懃無礼な男性の態度にサファイアは腹が立った。思わず腰を浮き立たせると、体中が軋むように痛む。
その痛みをこらえながら、斎藤の顔を睨みつけ、低い声で抗議する。
「アンタ、何勝手に辞表出してんだよ!? ザケンじゃねーよ! 俺は絶対に許さないからな!」
斎藤は薄い唇を片側だけニヤリと歪ませ、人差指と中指で眼鏡の縁に触れる。
「サファイア様は“安っぽいコソ泥”に転職なさったのでしょう? その結果ルビーと名乗る元・警官に騙されて、どうなったのか……ご自分でよく反省する事ですね」
クックックッ…と喉奥で笑われて、更に腹が立つ。
「テメェ! このカマ野ろ……」
悪態をつこうとした途端、斎藤は胸ポケットから取り出した銀色の万年筆をサファイアの口に突っ込んで来た。そしてそのまま乱暴に口腔内を掻きまわす。尖った金属製の部分が柔らかい粘膜を傷つけて、口腔内のあちこちから血が滲んだ。サファイアの顔が痛みに歪む。
「汚い言葉を吐き出す、悪いお口ですねぇサファイア様。……ご主人様に合わせる前に、そのお口を直しておかなければいけませんね」
「ッ!…………」
斎藤は万年筆をサファイアの口から引き抜くと、
「おっと、私の万年筆が汚れてしまいました。」
と言って、サファイアの頬に唾液と血を擦り付けた。しかも怖いくらいに美しい笑顔を浮かべている。
「このサディストのヘンタイ野郎ッ!」
サファイアはこんな脅しには屈しないと斎藤を睨みつける。笑顔を崩さない斎藤がサファイアの顎を掴んで、顔同士を近づけた。
「実にかわいい方ですねぇ。それでこそ調教のしがいがあります。毎日が楽しみですよサファイア様」
万年筆の先で胸の真ん中をグっと強く押されて、そのままベッドに押し倒される。そのまま上から体重を掛けられて怪我をした身体が悲鳴をあげる。
「痛っ……! おい、何するんだっ!」
鋭い目をした大きな男が身体の上から自分を見降ろしていることには、恐怖を感じない。
だが、唇が触れるか否かの至近距離で
「貴方は私のご主人様に“買われた身分”であることをお忘れなく。」
と低く囁かれて、サファイアの背中から嫌な汗が噴き出してくる。
「か……買われたって、どういう……意味だよ!?」
唇が震えて、上手く言葉を発することが出来ない。ギュッと握りしめている手の中が汗ばんでくる。
「貴方のお友達の、あの下品極まりないカスどもを黙らせるのに、いくら支払ったと思います?」
「……いくらって……いくら、払ったんだ?」
「5000万円ですよ」
「5000万……!?」
「ええ、しかも格安で5000万円です。私共がキチンとお話し合いをして出た金額ですから、貴方が個人でお支払い続けたら、一生骨までしゃぶりつくされたでしょうねぇ。……まぁそれも、運良く生きていられたらの話しですけど。……私共が助けなければ、あの場でリンチされたまま犬死にし、ドラム缶にコンクリートで固められて海の底……でございますよ」
「……お前の主人は、なんで俺を助けたんだ?」
「そんな無粋な事をお尋ねになるなんて。……私のご主人様が貴方のような最低レベルの人間をたまたま助けたとお思いですか?」
「……まさか、俺をハメたんじゃねぇだろうな?」
「まさか! クックックッ……アッハッハッハッ! 本当に貴方は頭が悪くていらっしゃる!」
斎藤が面白くて仕方がないと高笑いする声が、広い部屋中に響きわたる。斎藤はひとしきり笑うと鋭い視線をサファイアに戻し、サファイアの髪をワシ掴んで無理やり自分の位置まで上げさせる。
「痛ってぇ!」
髪を思い切り引っ張られ、思わず声をあげたサファイアを、目を細めて愛おしそうにみつめる斎藤。
「サファイア様はまさに粗悪品のガラクタ、くすんだガラス玉ですね。……無事な内臓を取り出して売ったところで100万円にもならないでしょう? 貴方を騙して私共に何の得があるのですか? つくづく愚かな人ですね」
「……ふざけんなッ! 離せ! じゃぁなんで俺をここに監禁してるんだ!?」
斎藤の手からどうにか逃れようと身を捩ると、体中がバラバラになりそうな位に痛みが走った。
「監禁……ですって? フフフフ、面白い発想をお持ちでいらっしゃる。私の口からはとても真実を語る事は出来ません。とっとと怪我を治して、ご自分でお尋ねになったら宜しいでしょう!」
斎藤は、サファイアの口の端から滲む血をザラリと舐めると、彼の上から身体を除けた。長い脚で大股に部屋を横切って、そのまま出て行こうとする。
「……待て! 斎藤!」
「何か、御用でしょうか? サファイア様」
「……足枷を外せ、用を足しに行く」
「でしたらキチンとおっしゃって頂けませんか?」
「…………ッチ!」
そう言われてサファイアは思い切り嫌そうに舌打ちをした。しかし斎藤は楽しそうに
「そこで用を足されますか? 汚れた寝具の後始末は誰に頼むんです?」
そう尋ねられると、さすがのサファイアも素直に頼まざるを得ない。
「足枷を外して下さい、斎藤さん。……これで、いいだろ?」
「……良くはありませんが、初日ですから“良し”としましょう」
斎藤がスーツの内ポケットから小さなスイッチを取り出してボタンを押すと、サファイアの両足に科せられた足枷が“カチ”と鳴って開き、足首から外れた。
サファイアは痛みに軋む身体をようやく起こして、ベッドから降り、歩き出そうとしてつまづく。
床に倒れる寸前で、斎藤の力強い腕がサファイアの痩せた細い身体を抱き上げた。
そのまま倒れていたら間違いなく傷口が開いてしまっただろう。
「…………ありがとう」
思わず出た感謝の言葉にサファイア自身が一番驚く。しかし斎藤は
「いいえ、貴方をサポートするのが私の仕事ですから、いちいちお礼など言う必要はございません」
と無表情で告げ、サファイアを抱き上げたままバスルームまで連れて行った。
それから数日間、サファイアはどんなに斎藤に抵抗しようとしても力では敵わないことを思い知らされた。それだけではなく、着替えの際や、風呂に入るのにもいちいち斎藤の手を借りなければならないことを悟った。しかし、サファイアが憎まれ口を叩かない限り、斎藤が体罰を与えることは無かった。
そして日々、自分の身の回りのことを献身的に務めてくれる姿を見て、彼が優秀な人間であると認めざるを得なかった。
約一月が経ち、その間にサファイアの怪我は治りつつあった。それは、毎日訪問する医師によって最新の治療が施され、別室に設けられた酸素カプセルに入り、ひたすら身体の治癒に専念させて貰えたからだった。
初日に痛めつけられたからという訳ではないけれど、サファイアは斎藤に対して汚い言葉遣いや、反抗的な態度を控えるようになっていた。
斎藤の真面目な勤務態度や、品行方正な姿を見ていると自分の愚かさを否が応でも認めざるを得ない。いつでも佇まいを正し、誠実であろうとする斎藤を眩しく感じ、日を追うごとに、自分がこうなった理由は自分自身にあると省みるようになっていた。
以前に所持していた物は全て、ひとつとしてサファイアの手元には戻って来なかった。けれど代わりに、斎藤が選んで与える物はすべて上質でセンスが良く、文句のつけようが無かった。
そしてサファイアの頭の包帯が取れると、斎藤が同伴する上での外出が許されるようになった。
精神的な慰めになるだろうからと、郊外の植物園に連れて行かれた帰路。その運転手付きの銀色のベンツの後部座席に、サファイアと斎藤は並んで座っている。
「髪が伸びていますね、明日にでも銀座のサロンに行きましょう。後で予約を入れておきます。」
斎藤がサファイアの頭を撫でるようにして、優しく髪に触れる。サファイアの人生の中で、死んだ両親意外に頭を撫でられた記憶が無かった為か、なぜか胸がどきりとする。
「俺の髪が伸びた事が……気に…なるのか?」
「ええ、貴方をいつ何時でも綺麗にしておくようにと、ご主人様からお達しが下されておりますから」
「……そうか。」
サファイアは、自分が望んでいた答えでは無かったことに一瞬だが落胆した。その事に気付いても、どうして斎藤に気にかけて欲しいと思ったのか、その理由が分からない。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない」
すると突然、斎藤がサファイアの頭を抱き寄せた。サファイアの心臓の鼓動が一気に高鳴る。
なんで、俺……こんなにドキドキしてるんだろう? サファイアは動揺からか、ただ大人しく抱かれている。すると斎藤が、サファイアの髪を分けて縫った傷痕を確認するように指で触れてくる。
「痛みますか?」
「……痛くは、ないけど……」
どうして? と訊こうとして斎藤を見上げると、至近距離で視線が合い、更に胸の鼓動が早くなる。
「まだカラーリングをするのは控えておきましょうか。傷に障るといけませんから」
「そうか……。」
何気ない会話の中に、わずかに滲む好意の兆し。斎藤は微笑んでサファイアの頬に触れた。
「貴方の頭は小さいんですね、とても可愛らしい」
なんて、優しい表情で俺を見るんだろう?
サファイアは今までの人生の中で、男性に対してこんな甘い感覚を覚えたのは初めてだった。斎藤の大きな手に、髪をサラサラと梳かれるのが心地良くて、サファイアは静かに瞳を閉じた。
「サファイア様……私のような男にそんなスキを見せるなんて、貴方は本当に愚か者ですね」
耳元に斎藤の低い囁き声が直接吹き込まれ、小さくカチリと音がして、眼鏡を外した気配がする。
程なくサファイアの細い顎が引き寄せられて……唇が重ねられた。
「……斎藤…さん……?」
「黙って……」
僅かにミントの味のする斎藤の舌先が、サファイアの歯列を割って入りこんで来た。
「んん……ッ」
舌同士が触れ合い、しだいに熱っぽく絡み合う。斎藤の舌先がサファイアの口腔内を蹂躙し、上蓋をくすぐるように刺激すると、サファイアの身体の中心に甘い電流が走った。
「ここ……感じるんですね?」
触れるたびにビクビク反応するサファイアを見逃さず、更に口を大きく開けさせて舌の根元を弱い力で甘く噛んでくる。そして垂れそうになった唾液を吸われて、唇の周辺をザラリと舐めまわされる。
「……んっ、……んん……ぅんん……ッ」
サファイアは自分自身でも知らなかった官能を引き出されていく感覚に酔い、夢中で斎藤の与える口づけに呼吸を合わせた。
「……どうして、……拒否…なさらない……んですか?……サファイア様……」
低くて甘い斎藤の声が、口づけの合間に訪ねてくる。サファイアは頭を左右に弱く振ることしか出来ない。……分からない、どうしてなのか。
「さ…い……と……ぅ、んッ……はぁ、……ぁッ……」
ただ、こうして触れ合っていたい。
温かい腕で、愚かな自分を抱きしめて欲しい。
たぶん、それだけで良いのだ。理由など、必要ない。
「サファイア様……どうして欲しいのか……、キチンと私に……おっしゃって……下さい。」
「無理…………イヤだ」
言葉に出来ずにただ、斎藤の首に両腕を絡めてすがり付くことしか出来ない。
「サファイア様……?」
「…………」
斎藤に瞳を覗きこまれて、蝶が羽ばたくように瞬きを繰り返すサファイア。彼は恥ずかしくて視線を合わせることが出来ないのだろう。それに気付いた斎藤はクスリと笑い、
「照れていらっしゃるなんて、案外、純情なのですね。……可愛らしい。」
そう、甘い声で囁いた。サファイアは自分の頬がどんどん熱を帯びて来るのが恥ずかしくて、顔を反らした。その反らされた白い首筋に口づけられて、ビクっと反応する。
「あッ……」
自分の口から出た声に驚きを隠せないサファイア。斎藤はもっと反応を引き出そうと、耳から鎖骨にかけて熱い舌先で執拗に舐めてくる。
「綺麗な膚ですね……、白くてキメが細かい。……味もなかなか……好いですよ」
「やめ……ッ、やッ……、ぁッ……斎藤さ……ん、……もう、やめて」
「おイヤですか?」
斎藤がシャツの上からサファイアの乳首を押し潰す。ビクンっと跳ねるように反応すると、斎藤に口腔内を舐めまわされる。
「ん……ッ、んんッ……、んぁ……さ……いと……ぉ……やッ……やめ……!」
「やめ……ませんよ……サファイア様。……だって…こんなに感じてらして、気持ち好さそうだ……。イヤなら……抵抗してご覧なさい」
横向きにシートに押し倒され、水音がたつくらいに唇を激しく吸われると、頭がクラクラしてくる。
心臓がすごい早さでバクバクして、抵抗しようにも腕に力が入らない。
「や……ぁ……、やめ……ぁあッ……はぁ、はぁ、はぁ……」
動悸が激しすぎて、息が苦しい。斎藤の息も荒く、サファイアの顔に熱い吐息がかかる。それなのに、
「…………もう、ここまでに致しましょうか」
急に冷静さを取り戻して、斎藤はサファイアを抱き起こした。くたりとして背中に力が入らないサファイアは、斎藤の肩先に熱く火照った頬を押し付ける。
「斎藤さん……俺……疲れた。」
「……このまま眠って下さい。病み上がりに無茶をさせて、申し訳ございませんでした。」
斎藤の温かい手が、サファイアの頭を抱いた。車の揺れ具合と、頬や頭に触れる温かい体温が心地良くて、サファイアは眠りに落ちて行った。
サファイアが目を覚ますと、もうすでに次の日の朝になっていた。
いつもなら斎藤が起きがけにコーヒーを淹れてくれるのだが、今日は彼の気配がしない。
「斎藤さん? ……誰か、居ないのか?」
サファイアが声を掛けると、ドアをコンコンとノックする音に続いて、見知らぬ男性が入って来る。
「おはようございます青池様。まずはご入浴されるとの事、すぐに入れるようになっておりますが、どうなさいますか?」
「……斎藤さんは? ……彼は、どこですか?」
「斎藤は本日より他部署の勤務となり、私、林邦彦が青池様担当の執事に就任致しました。どうぞ宜しくお願い致します」
林と名乗る50代の男性が自分に向かって頭を下げた。サファイアは目の前が暗くなるような錯覚に見舞われて青ざめた。……もう、斎藤とは会えないのだと思うと、胸が張り裂けそうな痛みを感じる。
「……林さん、宜しくお願いします。……俺、風呂に入ります」
抑揚のない声でそう告げて、一人、バスルームに向かうサファイア。恐らく斎藤が着替えさせてくれたであろう寝間着を脱いで、熱い湯船に浸かる。すると彼の青白い頬に、涙が静かに流れ出した。
どうして自分が泣いているのかさえも、分からない。
何がそんなにショックなのだろう?
皆、自分の元から去ってゆくのだ。……再び独りになっただけのことだ。
「俺も……、随分と飼い馴らされたものだな……」
自分は誰からも愛されず、必要ともされていない。両親が死んだあの日から孤独な時間だけがサファイアの持ち得る全てだったのだ。サファイアは、可笑しくもないのに笑えて来た。
その後、10日ほど過ぎたころ、ようやくここの“主人”に合う運びとなった。
いよいよ自分は“奴隷”となる時が来たのだ。5000万円という金額で自分の人生は売られてしまった。……だがやはり、どんな経緯であれ、命を救われた事には変わりない。
そして、命を救われただけではなく、強盗と殺人に関わった罪さえも問われていない。
それどころか、身に余る程に贅沢な暮しをさせて貰えた。狭い1Kアパート暮らしの自分から見たら、まるで夢のような境遇だ。
……合ったらまず、お礼を言わなければ。
この日の為に、斎藤が用意してくれたオートクチュールのスーツを着て、サファイアは身が引き締まる思いがした。呼吸を整え、背筋を伸ばして“その時”を待つ……。
サファイアが車で連れて行かれた先には、高層ビルがそびえていた。滑らかに走る銀色の高級車は、地下駐車場に入る羅線の路の先で停車した。
「どうぞ、こちらへ」
林が外側からドアを開けてサファイアを降ろすと、彼の先に立って案内する。
エレベーターに乗り30階のペントハウスに向かう中で、サファイアはその先に斎藤が居ないかと少しだけ期待をしていた。もし居なければ、どこの勤務先にいるのか訊いてみようとさえ考えていた。
どうしても斎藤の事が忘れられなかった。サファイアにとってそれだけが興味を注ぐ対象となっていた。
エレベーターが到着し、扉が開くと豪奢な造りのエントランスが現れる。その奥の扉の向こうに、自分を買い上げた人物が待っている。
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