生命の科学 VOL70
テーマ:ブログ被害に関しては悪化しだい報告します。
久しぶりに堅い話に触れます。
脳への関与の影響なのか
昨日見た野田総理の会見の印象が頭に残っていたのか、
触れずに居られませんでした。
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<消費増税法案>退路断った首相
毎日新聞 3月24日(土)23時55分配信
野田佳彦首相は24日、消費増税法案の今国会成立に
「政治生命を懸ける」と強い決意を示し、自ら退路を断った。
しかし、民主党内の事前審査で小沢一郎元代表ら慎重派は抵抗を続けており、
了承を取り付けるめどは立たない。
法案の今国会成立にも野党の協力が必要で、
二重のハードルが首相を待ち構えている。
首相発言により民主党内の慎重派が反発を強めるのは必至で、
遅くとも30日の閣議決定をにらみ、党内の攻防は緊迫してきた。
【野田首相】消費増税法案、今国会成立に覚悟
民主党の輿石東幹事長は24日夜、訪問中の中国・北京市内のホテルで、
同行記者団に対し、首相発言について
「政府も党も一日も早く法案を成立させたいという気持ちに変わりはない」と強調。
年度内の法案提出についても
「首相も不退転の決意だから、ぜひまとまってほしいし、まとめることができる」
との見通しを示した。
輿石氏は増税法案に関する党内議論を慎重に進めるべきだとの立場。
それでも、首相発言に沿った見解を示したのは、
早期の衆院解散・総選挙だけは避けたいとの思いがあるからだ。
自民、公明両党は増税法案に関し早期の衆院解散・総選挙を求めており、
増税実現にこだわる首相が衆院解散に応じれば、
政権を失いかねないとの懸念がある。
首相は核安全保障サミットから帰国後の27日夜に、
社会保障と税の一体改革調査会などの合同会議に自ら出席し、
了承を取り付けたい構えだ。
しかし、国民新党の亀井静香代表も増税法案の閣議決定に反対姿勢で、
月内の法案提出に向け首相に残された時間は少ない。
首相は24日の講演で「一番やりたいことは、先送りする政治との決別だ。
一体改革は決断する政治の象徴的なテーマだ」と訴えた。
景気悪化時に増税を停止する弾力条項を巡り、
民主党執行部は修正案を26日に提示する。
首相の決意表明を受け、執行部が強硬姿勢を迫られる可能性もある。
【須藤孝、北京・高橋恵子】
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消費税増税の前にやるべきだった事案、
マニュフェストで実現すると公約した事案がすべて放置され
なぜか気がつくと消費税増税実現こそが
民主党の当初の公約であったかのように誘導されている風潮。
命を掛けて消費税増税を実現するとのたまう野田総理。
国民が民主党に投票したのは野田総理を担ぎ上げて
消費税増税を実行するためだったのでしょうか。
「消費税を導入しなければ日本経済はままならない。
震災の復旧にも不可欠だ。」
そんなことを嘯いては消費税導入が不可欠であるかのように
繰り返す野田総理とその側近。
しかし国の財源を確保するための手段など
他にも存在していることは明らかで
マニュフェストでも公務員改革や
公益法人の改革を実行すると触れていたことからも
彼らはその手法を知っていながら
古き利権を排除することなくそれを放置したまま、
その負担を一般市民へと転化するに至った。
法人税に関しては増税どころか税率緩和まで
意識していた彼らの脳裏には
特定の人間たちの負担を緩和して
それを一般市民へと添加しようと言う意図があるとしか
思えないのです。
エコポイントなる名目で偏った予算の使用をして
自動車・家電のような物を国民に購入させたことで
得をするのは一体誰なのか。
自動車産業・家電産業という企業であり、
頻繁に自動車・家電を買い替えることのできる富裕層だと思います。
国際競争力確保にかこつけて法人税率を据え置きしたり
緩和を図ろうとした時に得をするのは誰なのか?
企業であり企業利権であり資本家であり
結局は富裕層なのです。
為すべき事をすべて実行して
尚且つそれでも足りませんから
消費税を増税すると言われれば国民も納得せざる得ませんが
彼らのやっていることは片手落ち。
もしくは税負担転化の悪政なのです。
それを命を掛けてやるような政策だと
野田総理は嘯いているわけです。
規制だらけでろくに進まない東北震災の復旧作業。
それなのに消費税に関しては東北復興の話まで引用しては
その増税を正当化させて見せているその言動。
メーソンというサル山の集団の中での権力争いが
とても滑稽で仕方がないと言うのが正直な感想です。
命を掛けて実行するのではなくて
やらねば自分の政治生命、もしくは命でも
危険だと認識しているのではないのでしょうか。
国民のための目線を持って言動している政治家など
おそらくは一握りしか存在してはいないと思います。
本音と建前のいやらしさ、
そして何でも都合に合わせて正当化し、
時には問題を摩り替えてでも
自分たちの行動を正当化してみせる。
私たちは彼らの本音に気がつかなければならないのです。
国民のためと言って実行する政策にしても
それが齎す最悪の結果まで予想し
一方最良の結果を齎すための因を想像し
いかにこの社会の政治がおかしいかを認識する。
彼らはまず結果を想定していて(消費税増税)
それを如何に正当化しようと誘導するかを
画策しているに過ぎないと思います。
二言目には「国民に選ばれた政治家」としての立場を主張しますが
国民は奇麗事と飴に騙されただけであり
鞭打たれることなど想定などしてはいなかったはずです。
マニュフェストが奇麗事と美味しい話で塗り固められていたので
国民はそれに騙されただけの話です。
一旦権力を持った途端に庶民意識など無視しては
独自の政策を国民のためであるかのように実行してみせる政治家に
私たちが期待できるものなど何も存在してはいないと思います。
アメリカの国会議員同様
日本でもその殆どがメーソン化し
その中での権力争いを私達は見せ付けられているだけのこと。
途中経過がどのようなものであろうとも
彼らの共通の目的は一緒なのですから
どこの政党が、どの政治家が権力を持って政策を実行しようとも
今の国会議員には何の期待も出来ないことは有識者は理解していると思います。
(特定の地位以上になるには皆ユダヤサンヘドリンの了承が必要)
時間の経過と共に環境を悪化させていくこの手法。
富裕層が増加している一方で低所得者層が膨れ上がっている実態は
私が以前、口が酸っぱくなるほど繰り返していた事そのものです。
そしてそれこそが彼らの目的としている一部の富裕層が
大量の貧困層を管理支配する社会への誘導に他ならないのです。
ユダヤ教徒サンヘドリンの傀儡と化した人間達は優遇され
そうでない人間は貧困層へと落とされる。
サンヘドリンが中間層を排除するのは
彼らの傀儡と化した人間達と競合して
勝利する一般市民が出てこないように誘導するため。
彼らに権力で立ち向かう人間が
いなくなるように誘導するためです。
そして一部の特権階級の人間が
他の大多数を支配すると言うのは
彼らの裏の聖典タルムードやプロトコルの目的
そのものなのです。
地球の法則からの覚醒者は
政治の茶番に決して騙されてはいけません。
その内救世主のごとく庶民の味方の振りをした政治家達が
古い権力構造を排除して見せるかもしれませんが
それだって新しい権力構造のための
古きものの排除に過ぎないはずです。
基本的には政治は国民をまとめて騙し誘導するための手段。
この社会の権力者の殆どが
既に国民の事など考えてなど居ないことに
私達は気がつくべきなのです。
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今日もアダムスキーの21世紀生命の科学からの引用です。
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【万物のあらゆる行動は宇宙に記録される・続き】
個性たる心は通常「楽をしよう」と言う傾向を有していて
世の中の環境と言う型に嵌められます。
だから人間は他人と同じ社会環境にあってさえも
その他人を別人と感じるわけです。
これはエゴすなわち心が宇宙の原理から
まったく遊離しているためであって
それは個人の本体(意識)とエゴの分離によって起こるのです。
本心は心にとって見えようが見えまいが
あらゆるものを等しく認めますが。
心は具体的な形象化したものでなければ
認めようとはしません。
しかし疑惑が起これば心も具体的な現象の背後に
何かがあることに気が付きます。
しかし他人や社会が自分を笑いはしないだろうかと気にするあまり
心は疑惑の解明を続けようとはしません。
このことは個人の本体(意識)は
心に警告しようとするのだけれども、
心は社会の常識に沿わないようになることを
恐れると言う事実を示しています。
真の意味における個人主義者はこの世には
ほとんど存在していません。
時たまそんな人間が現れても本人は社会にいられず
また、異端児と看做されて難儀な目にあいます。
この世界の偉大な人々は異端児であったことを
歴史は示していますが、
これはそうした人々が真の意味の個人主義者で
生まれながらにして生命の深い意味を知っていたからです。
さて、講座を進める前に、いわゆる物質世界は
いわゆる精神的な不可視の生命界の”結果”であることを
読者は思い出してください。
あなたが言葉で説明するかまたは他人の目に見える
ような具体的な形にするまでは
ある概念を周囲の人々にとっては不可視なのですが
このことは万物に当てはまります。
すなわち目に見える物には必ず不可視な支持者があるのです。
ごく最近科学者は不可視の空間からある物質を
取り出す方法を知りました。
このため数年間よりも今日はもっと多くの元素が存在しています。
また費用がかさむために今は大規模に生産できない
貴金属が数種類ありますが、
その物質も不可視の空間から取り出されました。
これでもって不可視の世界から可視的なものが取り出され
再び不可視になると言うことがわかります。
この手順は無限に繰り返されてゆきます。
この事は神秘的な霊術を用いないで
宇宙空間を見たり旅したりしようという
次に学ぶ方法(テレパシー,透視など)の土台になります。
これは実際には意識という生命の大海のなかに我々の
心を拡張する事によってそれが可能になるのです。
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私達の心は”世間と言う型”に嵌められていると
アダムスキーが触れています。
私達は世間体を気にする存在ですし
多くの人間は人と異なった行動を取ることで
目立つことを恐れてもいます。
民主主義と言いますが
その場その場の雰囲気に流され
その時々の多数派の意識に従う事を
正しいのだと誘導されてもいます。
私達が何故にそのような行動をとるのかと言えば
勿論、嫌な思いをしたくは無いと考えるからでしょうし
多数に従って波風立てず、
何事も無く無難に生きていくほうが
事あるごとに石に躓いたり岩に阻まれるよりも
楽だからだと思います。
アダムスキーが触れているとおり
私達の心は楽をしたいと言う意識が強いのかも知れません。
一方では私達は死への恐怖を持ち続けています。
病気や危険な状態を齎すことに限らず
不快な空間を作り上げ
その中で生きていくことは苦痛でありますし
そのような状態は
自らに生を断念させる意識すら持たせかねません。
本当は自分の意識はそうではないと感じていても
その事を主張し、自分が他人との間に距離を空けてしまう事は
自らを不快な体験させる事にもなりますし
私達は多くの人間が従っている事に
自分が逆らい異端児扱いされる事を恐れているのです。
そんな環境に置かれると心は不快になりますし
虐めで自殺をする子供がいるように
そんな不快な環境は
時には私達に死をも意識させる事になります。
そんな立場に置かれないためにも
自分の周辺を心地良く生ぬるく保つためにも
私達は波風を起こすことを避け、
社会の中で型に嵌められ
いつしか精神の囁きを無視するようになるのかもしれません。
アダムスキーがここで触れている”個人主義”というのは
”欧米的個人主義”とは異なるものであることは
理解して頂けるかと思います。
「自分が良ければ人のことはどうでも良い。」
「この社会は競争で
そのためには他人を蹴落としてでも自分は上に上がるんだ。」
「自分こそが一番大切なんだ」
そんな意識こそが”欧米的個人主義”の根底だと思いますが
アダムスキーが触れている”真の意味の個人主義者”というのは
”他人の意見に一々流されること無く
自らの信念を持って生きていて
正しいことであればそれを貫く人間の事”だと思います。
勿論、単に自分の持った誤った価値観をも含めて
個人主張を繰り返すというのは問題外ですが
”何が正しいのか”という意識を常に持ち続け
他人に左右されること無くそれを実行していく人間。
結果としてそれが誤りだと判断すればその度に修正しては
結局は自らの意志で行動し続けるような人間の事だと思います。
そんな人間がこの社会の中で
容易に受け入れて貰えるわけもありませんし
そんな資質を持った人間でも
この社会の中に適用しようと勤めると
結果的には自らの意識を捻じ曲げる事にも繋がっていくはずです。
皆が戦争頑張れと一丸となっている中で
戦争に反対していた人間達は、
例えそうではなくても
”共産主義者”扱いをされ投獄される事になったり
右翼や左翼の集会の中で
それに反する意識の人間が自らの意見を主張すれば
非難を浮けまくる羽目になる事も想像がつきます。
極端な例ではありますが
世の中はその空間の平均的主張、
その場の主流に沿った発言と行動をとる事が求められていて
そのような人間へと変貌する事こそが正しいのだと
私達は認識させられてもいるのです。
その中で徹底して自分の信念を貫き通したり
精神の示す正しい主張をし続けたとしても
それは”理想”だとか”奇麗事”だと批判されて
その空間から浮く羽目になる事も想像がつきます。
結果、その空間は心に不快な状態へと変貌することになります。
誰もがそんな環境に置かれる事を望まないから
結果的に多数派の意見をそのまま踏襲しては
それを自らの意見と置き換える事になる。
もしくは心では不満を感じながらも
その事を表に出す事も出来ず
ストレスをため続けていく事にもなる。
それがこの社会の実態のはずです。
そして多数派の意見が必ずしも正しいとは限らないのが
この社会の実態なのです。
時には印象操作で、時にはさくら行為で、
世論だって作り上げていくことが出来る。
マスコミ報道を”大多数の人間の意識でありそれが正しい”
と思い込むから
私達は精神からどんどんとかけ離れていく羽目にも
なっているのだと思います。
つまり覚醒者がこの社会の中で自己主張をすると
この真の意味の個人主義者と同様に
認識されることになるでしょうし
その状況は心には心地良い物ではありえないと言うことです。
イエスキリストが
「私を信奉するものは
迫害を受け苦しむ事にもなる」
と話していたのは
似たような状況を想定していると思います。
真のイエスの教えを主張すれば
そうでない人間達に睨まれ憎まれる事にもなります。
でも真のイエスの使徒であればそれに負ける事なく
十字架を背負ってイエスの後をついてこいと
イエスは触れてもいました。
真の個人主義者であるべき人間達は
容易に圧力や脅しに屈してはいけない。
他人の誘導に容易に乗せられてはいけない。
判断は自らの意識で行い
それで精神が正しいと教えてくれたことを
実践し続けていかなければならない。
そんなことを考えていました。
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私達が社会の中で色々な体験をする中で
その体験を通じて価値観を変えていくことを
”大人になる”と表現することがあります。
この”大人になる”ということは
一体具体的にはどのような事を指し示しているのか?
私は昔から頻繁に悩みました。
子供と大人の違いは一つには就労して
生活の糧を稼ぐと言う事。
そしてもう一つはその就労の都合もあり
付き合う人間を選ぶ事も出来なくなると言うことだと思います。
私達の社会で生きていくためには
金銭を獲得する必要がありますし
そのためにその手段として就労と言う行為が必要となります。
就労は他人や創造主への奉仕ではなくて
あくまで自らの生活手段でありますし
家族を養うための手段でもあり
扶養するのが大人であり扶養されるのが
子供と言うのがその前提でもあります。
さらに精神的に大人になれと言われる時には
そこには必ず、他人への協調や忍耐と言った人間関係の問題や
仕事上の意識の持ち方が入ってくる事になります。
それらを連ねれば、
大人になると言う事は
”就労して家族を養う立場になること”
”そしてそのために社会と言う空間で
その空間に適応して生きていく事”に他ならないと思います。
そこでは良くも悪くも自我は抑えなければ成りません。
そして”大人”と言う存在は
夢を見ることも許されず
現実に立ち返り暮らすことをも求められます。
嫌なことでも我慢をし続け
時には仕事や人間関係のために
自分の意志をも捻じ曲げる事をも求められます。
そして結果出来上がった存在こそが
私達のいう”立派な大人”と言うことになりそうです。
私は自らを大人気ない存在であると感じていました。
職場でも気持ち良く働けないことを嫌い
人間関係を悩みわずらい転職も繰り返しています。
不条理な事を強いられるのが大嫌いで
上司が黒を白と言った時はそれを受け入れる事も出来ません。
嫌がらせをするような人間に対して
いつまでも笑顔で対処できるほど肝要な人間でもありません。
しかしこの社会で大人になると言うことは
極端な話をいえばそのような事をも要求されるのだと思います。
学生の時のように
好きな人間とだけ付き合うことが出来るわけでなく
いろんな人間と同じように接すると言う機会を持つ事は
私達の精神の成長には大切なことだと思います。
アダムスキーの言うように
私達は自分の心の心地良さを求めて
楽に走る傾向があるからです。
しかし楽に走らず忍耐を求められる空間と言っても
そこでの忍耐が仕事に限らず不要な苦労を負わされれば
それに適応すると言うことは自分の意識を捻じ曲げる
もしくは神経を鈍感にする事に他ならないと思います。
そして不条理や間違いにも鈍感になる事が
大人になると言う事であれば
それは魂を濁らせる事にも繋がっているのではないのでしょうか。
今の社会で鬱病患者が増加している背景の一つは
そんな環境に適応しきれず精神を破綻させる人間が
増加していると言う一面もあるのではないかと思います。
まして喫煙社会が進む中で
ストレス発散の場すら奪われる事になっているのが
私のような喫煙家の現状でもあります。
ストレスが溜まるという事は、
実は自分の精神の囁き、自分の自我が訴えている事と
異なる事に直面し
それを受け入れなければいけない場面が
頻繁に存在していると言うことだと思います。
勿論、元々が自分勝手な意識をしている人間が
何もかも自分の思い通りにならないからと
ストレスを溜めるのでは困りますが
単に心地良く働きたいと言うそれだけの意識すら
叶わないのが今の社会の実態でもあります。
その上に今の主流は西欧式の名目上の実力主義社会。
その背景には欧米的個人主義も見えますし
実力以上にコネが必要なことも頻繁です。
名目と実態が異なるこの社会の中に適応し
それに馴染むことが成長だと言うのであれば
いつまでも子供のような心のままで良い。
社会の負け犬は今でもそう考えています。
イエスキリストは
「子供のような心でなければ神の国には入れない」
と弟子達に告げる場面もありました。
子供と大人の一番の違いは
社会の洗礼を受けてその社会という型に嵌められているか
それを体験していないかと言う差ではないでしょうか。
可能性を諦めて、夢を諦めて、
現実と言う名目で目先の心配ばかりをさせられて
この社会の中の価値観に迎合されることが
大人になると言うことであれば
大人になると言う事は神の意識からどんどんと
かけ離れた存在になっていくという事でもあるのでは
ないでしょうか。
私達は社会と言う名の型に嵌められて
精神の囁きが聞こえなくなる存在でもある。
その事だけは常に意識して
魂まで濁し精神を鈍らせることの無いように
日々を暮らして頂ければと思います。
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P.S.
宇宙空間を精神で旅行する手法は
次回以降アダムスキーが触れてくれますが
私が以前にコメントした
布団に寝ていながら外を歩いているイメージをする行為にも
繋がるものがあります。
精神の意識を拡大する行為に繋がるようですが
当初はイメージの延長として私達はそれを体験することになります。
私達が当初続けるべきは
頭の中のイメージを利用して因なるものを
想像するという行為だと思います。
見えない物と見えるものを同時に認識するためにも
私達は視覚と同時に本来は精神を使用しなければなりません。
しかし私達の精神を感じる能力はまだ開発途上なので
時には心をも使用して想像力を働かせることが
必要になると思います。
その時に心の価値観や記憶だけに頼るのではなくて
何となく閃く物を感じ取る練習をもしていくことで
私達の想像は単なる心の作り上げたイメージでは
なくなっていくはずだと思います。
私は今、うっすらとですが
過去生をイメージする練習をしています。
そこに浮かび上がるイメージが正しいかどうかは
時間の経過と共にそのイメージがどう変貌するかで
判断できるような気がしています。
そのためにも無理してイメージを作り上げようとせずに
感じる努力をする事を意識しています。
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チラシの裏です。
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昨日は個人的に自分がお気に入りだった映画を見ていました。
先日触れなかった映画の中にも
私のお気に入りはあるのですが
例えば無名の映画の”キャント・バイ・ミー・ラブ”
そしてクリスマスごとに見たくなる映画としては
”三人のゴースト”の他に
”グレムリン”と”ジングル・オーザ・ウェイ”があります。
グレムリンは娯楽のSF映画ですが
こじつければ、たいていの昔の映画は
その中にテーマや監督の主張を感じ取ることもできます。
守るべき約束を守らなかったために、
使用方法を誤ったために、
害のない可愛い生物が危険な悪魔へと変貌する。
人間でも科学力でもその意識の持ち方や用法で
一般市民にとって毒にも薬にもなりますが
結局はその意識の持ち方が
物事を良くも悪くもするという話ともとれますし
可愛いモグアイからグレムリンが生まれたように
使用方法を誤れば何事も有害にもなるという
例えともとれます。
どんなものの中にも善なる意識と悪なる意識は
存在しているともとれます。
”キャント・バイ・ミー・ラブ”は
その名のとおり、ビートルズの曲が挿入歌となっていますが
内容はラブコメディーです。
平凡で、高校ではオタクグループ扱いされていた男の子が
自らを変身させるために
お金を使ってクラスのアイドルに彼女の振りをしてもらい
それをきっかけにクラスの人気者に成り上がる。。
しかし結局はその事がばれて誰にも相手にされなくなり
以前にもまして辛い思いをすることになるのですが
その中で自分の行動に反省し
同時に彼女への思いだけは本物であったことに気がつく。。
そんな内容ですが
”一旦暴走した心が結局は父の元に帰った”
と無理やりこじつけて感じることもできます。
私の好きな映画に何故に自分が惹かれるのかが
自分でも判らないのですが
そこには絶対に何らかの理由があるのだと
自分では想像するに至っています。
精神のささやきとは言えませんが、
私の心の価値観と共鳴するのでしょうね。
私は綺麗に演出している映画よりも
結果的に何かをそこから感じる映画のほうが
お気に入りのようです。
トム・ハンクス主演の”グリーンマイル”
同じく、トムの”あなたに全てを”などもお気に入りです。
そんな映画の何が私を惹きつけるのか。。
機会があれば吟味しながらもう一度見てみたいと思います。
元々は闇政府の”3S政策”に利用されていた映画なる存在。
そして近年は闇政府の印象操作に利用されているようなものが
ふんだんに存在しても居ます。
そのことを理解したうえで
元々大好きだった映画を見ているのですが
やはり近年の話題作には好奇心を煽られる事はあっても
それが私の心を打つことは無いようです。
精神と共鳴するような体験をしたら
是非皆にも紹介して欲しいと思います。
”私達の精神はその波動と共鳴するものにこそ
関心を覚えることになる。”
波動の法則ではありませんが
現実に私達の精神にはそのような傾向が
あるのだと思います。
ただ、私達は偏ってはいけないのだと思います。
何事も低い現象から高い現象まで
全てを見据えることをアダムスキーは触れていました。
あらゆる現象を認識して
低い意識から高い意識までをも認識して
その上で自分の今現在持っている意識を理解すると言うのも
大切なことなのかもしれません。