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沈黙は美徳ではない—沈黙という暴力

2013/02/21


「沈黙は美徳」という価値観がありますが、ぼくはむしろ逆、沈黙は悪徳ですらあると考えています。


沈黙という暴力—いじめを見過ごす子どもたち

そのわかりやすい例は、いじめっ子が誰かをいじめているシーンを見て、「関わりたくない」と思い、沈黙するという行動です。

沈黙する彼・彼女は「関わりたくない」と思った時点で、厳しくいえば「いじめの共犯者」になります。沈黙するという暴力を、いじめられっ子に対して発揮してしまっているわけですね。


「察する」という暴力の容認

また違う例では、「察する」という配慮が、暴力につながることもあります。

いじめられっ子は家に帰り、親の気持ちを「察して」、自分がいじめに遭ったことを決して口に出しません。「どうしたの?元気ないけど」と聞かれても、「ううん、ちょっと先生に怒られてさ。大丈夫だよ」とやさしい振る舞いをしてその場を凌ぎます。

親は親で、「思春期だし言いたくないこともあるのね」と、子どもの気持ちを「察して」それ以上聞き出すことをしません。こうしていじめという暴力は相互に容認され、解決されることがありません。


「よかれと思って」という暴力

上の例で挙げた親子の間にあるのは、「善意」であるから話はややこしくなります。お互い騙そうと思っているわけではなく、「よかれと思って」そういう行動を取っているわけです。

社会にはこの種の「よかれと思って」生じた配慮によって、暴力的な状況が生まれることがあります。

Garbage Slums of Fallujah

国際協力の分野でよく聞く話で、スラムにあるゴミ山をボランティアが「よかれと思って」片付けてしまうと、ゴミを拾ってリサイクル業を営んでいる人たちの仕事を奪う結果となるそうです。善意で行ったはずの行動が、「雇用」という重要な生きる術を、略奪してしまう結果をもたらすのです。


健常者が「よかれと思って」、「障害者」ではなく「障がい者」ということばを使うことについて、当の障害者のなかには「気持ちわるい配慮」として違和感を覚える人もいる、という話も聞いたことがあります。

当事者の気持ちを無視した「よかれと思って」、という点では、「はるかぜちゃん @harukazechan 乙武洋匡さん @h_ototake を「明光義塾のダルマ先生ににてる」と言ったら何故か不謹慎と言われる」にも近いものを感じますね。


面白いところでは、「よかれと思って」掲示される交通標語や安全のための放送を「暴力的」だと捉える人もいます。バスや電車、駅や観光地の「おせっかい放送」に対して抗議をしたという戦いの書、中島義道氏の「うるさい日本の私」は必読です。

・この国では「実効を直接期待しない」言葉がいたるところでカラ回りしており、みな「口が酸っぱくなるほど」言われても、なんの被害者意識もない。紋切り型の言葉が機械的に放出されつづけ、それがいかなる効果をもつか、だれも真剣に考えないのだ。

・これらの放送は必要ないばかりではありません。積極的に有害だと私は申し上げているのです。なぜか。それは、あくまでも自分の判断にもとづき自分の責任でことをなすという人々の自律精神を阻害するから、言いかえれば人々の甘えの構造を助長するからです。


声を挙げよう

沈黙という悪徳を打破する最良の方法は、「声を挙げる」ことです。

相手の善意が迷惑なら素直に迷惑だと宣言しましょう。「相手の気持ちを察して」、無言の善意を振る舞うなんてことをせず、素直に「手伝いましょうか?お困りじゃないでしょうか?」と質問しましょう。

非効率な善意は、意図的に行われる悪行よりもタチが悪いのです。

社会の多様性が増していくにしたがい、「察する」というシステムが機能しにくくなるのは間違いありません。目の前に座るイスラム教徒の気持ちを、ぼくらが「察する」ことは困難です。相手の気持ちを察して、下手に「これいかがですか?」と地元名産のビーフジャーキーなどでも差し出そうものなら、どちらにとっても不幸な結果が待っているでしょう。


まずは声を挙げるだけでよいと思います。

声を挙げ、相手が自分のことを「察する」のを防ぎましょう。また逆に、自分が相手を察することも、よほど相手を理解していないかぎりは、やめておきましょう。

仕事のパートナーであっても、ぼくは意識的に「察する」部分を減らそうと努力しています。聞いてみると想定外の答えが返ってきたりしますしね。


沈黙を捨て、非効率な善意を社会から排除しましょう。せっかくの善意が無駄になるのは馬鹿げた話ですし、それによってしわ寄せを喰らう人たちも存在します。


関連本。この本には「察する」ことの弊害について詳しく書かれています。

この国の人々は個人と個人が正面から向き合い真実を求めて執念深く互いの差異を確認しながら展開していく<対話>をひどく嫌い、表出された言葉の内実より言葉を投げ合う全体の雰囲気の中で、漠然とかつ微妙に互いの「人間性」を理解し合う「会話」を大層好むのである。


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