あれから暫し。
スレイは現在の状況と自らの心境に困惑していた。
胸元にはスレイの服を握り、潤んだ瞳で頬を染めながら真っ直ぐ見上げてくる霊狐の少女が居た。
クズハ、というらしい。
あの時の驚きで飛び出してしまった狐耳と四尾の尻尾を、もはや隠そうともせずに、どこか甘えるように擦り寄ってくる。
衣服や地面の染みはもはや無い。
格が低いとは言え、それはあくまで相対的な話。
霊獣とて、それなりに強大な力を持った存在である。
で、あれば自らの粗相の始末を付けるなど簡単な事だ。
問題なのはその後だった。
最初は思いっきり睨まれた。
その後は問答無用で襲われた。
まあ、当然だろう。
全てスレイが悪い。
そんな事は誰にでも分かる。
スレイ自身、罪悪感を覚えた程だ。
そして困惑した心境の第一が、この罪悪感という物だった。
今までのスレイなら、何をしようと最後に帳尻を合わせればそれでいい。
そう考え、軽く流していた筈だ。
何せよ、スレイの精神制御は完全すら越えている。
それが、霊狐の少女の涙を見て、ここまで強く罪悪感を感じ、心が痛むとは。
勿論、スレイの精神制御は崩れていない。
痛みを感じはしても、それすらも制御の内だ。
だが、ここまで心の表層にそれが表れる。
それ自体がスレイにとっては異常の極致だった。
これもクランドの置き土産か、とどこか嬉しいような、憎らしいような不思議な心地を覚え苦笑した。
スレイの苦笑を見た少女の攻勢は激しさを増したが、霊狐がいくらそれなりに強大な力を持っているとはいえ、所詮スレイにとってみれば話にならないレベル。
すべて軽く受け流しあしらって見せる。
と、自分の力が全て通じない少女は今度は本気で泣きだしてしまった。
スレイの困惑も極まる。
何せスレイにとっては、相手の性格、成熟度など、それらすら見ただけで推し量る事すら容易い。
スレイの判断では、目の前の少女は見た目に反し、相当に精神的に成熟し、性格も淑やかで落ち着いた大人の女性、と読んだのだが。
その少女が、まるで子供のように泣いている。
慌ててスレイは少女の元に歩み寄り、言葉を掛ける。
慰めから、この状況を逆に利用しての口説き文句……何せこれだけの美少女だ、スレイとしては口説かずにはいられない。
本当に一歩一歩、人を警戒する小動物、しかも一度は酷い目に合わせ信頼を失ったソレを相手に、信頼を取り戻し、新たな信頼を積み上げ、更に好意すら勝ち取る。
地道に、徹底しての忍耐強い言葉の積み重ね。
時に、自分が原因で弱った心の隙を突くような、ある意味卑劣な急所攻撃。
徹底的な連続攻撃は功を奏し、少女の心の防壁は緩んで行く。
クズハという名もこの際聞き出した。
そして、少しずつのスキンシップ。
最初はほんの少し頭を撫でただけでも警戒される。
そして再び強化される心の防壁。
それをまた口説き文句の攻勢で緩め、また少し、僅かに触れる。
そんな事を繰り返し繰り返し。
本当に気の遠くなるような苦労を重ね、現在。
この状況である。
今となっては、その狐耳や四尾の尻尾に触れ、撫で、あるいは握りすらしてもクズハは受け入れてくれる。
そして、この甘えっぷり。
いや、美少女に甘えられて嬉しくない訳が無いのだが。
クズハが本来落ち着いた大人の女性らしい性格をしているというのは間違い無い。
スレイは己が眼力に絶対の自信を置いている。
先程まで交わしていた会話から察するに、本来クズハがこのような姿を見せるのは、クズハの仕える九尾の狐、クズハにとっては姉にも等しい主、クズハの言う所のタマモ様相手ぐらいだろう。
つまり、もはやクズハはそのタマモと同じくらいの信をスレイに対して置いてくれている。
いや、それは違うか。
信頼、という意味ではタマモに対するものに遠く及ぶまい。
これは所謂恋愛補正という物だろう。
明確な異性に対しての好意が見え隠れする。
状況自体は嬉しくはある。
だが、いくら全霊を尽くしたとは言え、僅かこの一時の間にここまで惚れ込まれるという状況には困惑を覚える。
まあ、タマモとクズハはこの世界に転生してよりずっと、この樹海の奥に引き篭もっていたと聞く。
タマモとクズハが接した事があるのは、この世界に転生し途方に暮れていたタマモとクズハをこの樹海の奥に匿い、住居を用立てた男だけ。
しかも格の高さの違い故か、タマモはその男の事を覚えているらしいが、クズハには記憶にないらしい。
ならばこの免疫の無さにも納得が行くというものだが。
しかし、とスレイは眉を顰める。
タマモとクズハにこの地を与えた男の名。
オメガ、と言うらしい。
これも因縁か、と思う。
まあ、それはタマモと会えば明らかになる事だ。
それはともかく。
今、スレイを最も困惑させているのは、自らが良心が咎める、という心境に陥っている事であった。
確かにまあ、このクズハの甘えるような表情。
そもそもにして自分がクズハに弱味を作って、それを利用してクズハを口説き落としたと言っていい。
まさに自作自演という奴だ。
普通ならばこの良心の咎めは当然なのだろう。
だが、それを言うならば、そもそもスレイは欲しいと思った女を口説くのに手段を選んだ事は無いつもりだ。
いや、流石に悪事に手を出すような卑劣な真似まではしていないが。
ありとあらゆる心理的状況を利用し、シチュエーションを演出し、最適な口説き文句、最適なロケーション、全てを相手に合わせ、時間も手間も惜しまずに、全てを尽くしてモノにする。
今までやってきた事だ。
確かに今回のは今までと比べてもちょっと卑怯な方法と言えるかもしれないが、まあ悪い事まではしていない、ギリギリセーフの筈。
と、まあそうは言っても、スレイが困惑しているのはそんな問題では無い。
有体に言って、良心が咎めているという状況がおかしいのだ。
良心などという感情、とうの昔に無くなった筈だったのだが……。
まあ、とは言え考えるまでも無い。
答えなんて決まりきっている。
この良心もまたクランドが残したものだろう。
またも苦笑が漏れる。
さてはて、これから先自分はどれほど変化するのだろうか、と。
まあ、その変化がクランドから齎されたものだというのなら、全く悪い気がしないというのが最大の問題かもしれないが。
そんなスレイに不思議そうな表情でクズハが尋ねる。
「スレイ様、どうかなさいましたか?」
相変わらずスレイに甘えるようにしながらも、その口調は、スレイの読み通りの落ち着いた大人の女性の物であった。
そんなギャップに微笑しつつスレイは答える。
「いや、なに。大切な男の事を考えていただけさ」
その言葉に、嫉妬の表情を浮かべるクズハ。
大切な男、が誰か分かっている為、誤解が生じるような言い方をしたスレイに呆れ顔をするディザスターとフルール。
機嫌を損ねてしまったクズハを、敢えて誤解は解かず。
―なにせ、実際スレイは多くの女性と関係を持っている、故に、嫉妬を和らげる方向性での懐柔が最善と判断した。
そのまま多種多様な手で機嫌を取り、更には自分の女性関係を徐々に明かしながら、それに対する諦観を抱かせる。
などという、無駄に心理的な高等技術を用いて、自分の都合の良い状況に落ち着かせたスレイ。
何せ高等な知性を持ち永い時を生きる霊獣とは言え、要は人間の知性の延長上と考えて問題無い。
人間より少しばかり難易度が高い、というぐらいな物だ。
とっくにその辺の限界を突破しているスレイにとってみれば、人間も永い時を生きる霊獣も変わらない。
だからこの状況は必然だ。
……そしてディザスターとフルールの呆れたような視線ももはや何時もの事で当然必然だ。
とは言え、こういう事をする度に一々咎める良心の呵責を感じ、クランドの事を思い出し嬉しくなりつつも、余計な事をしてくれたものだと苦々しく思うという、厄介な心理状態に陥るスレイ。
だが、気にしていても始まらない。
だから、やや拗ねたように甘えてくるクズハの耳や尻尾を愛でながら、そろそろかと口を開く。
「それでだな、クズハ。屋敷の主、神獣、九尾の狐、タマモで良かったな?その女性に会いたいんだが?」
途端、ビクンッ、と跳ね上がるクズハ。
見るとその顔は蒼褪め、身体は僅かに震えている。
恐怖……では無い、恐らくその感情を抱くには相手への親愛度が高いのだろう。
羞恥、にしては反応が大き過ぎる、それだけ相手を尊敬しているという事だろうな、と思う。
理由は簡単に推察できる。
あれだけ色々とあったのだから。
そしてその上で今になっていきなりクズハがこのように反応したのも必然だ。
スレイが屋敷の方に、引いては九尾の狐、タマモに対し、クズハの意識が向かわないように心理誘導していたのだ。
勿論容易く出来る事ではない。
が、スレイならば不可能では無い。
とは言え、こうも弱々しい様子を見せられてしまうと、またも心が痛む。
クランドはとことん厄介な物を遺してくれたものだと思う。
「ど、どうしましょう、スレイ様?わ、私、あんな醜態を。そ、それにお客人をご案内もせず……」
哀れにも震えながらクズハは、ほんの少し前に会ったばかりのスレイに縋るように問い掛けてくる。
まあ、それだけスレイに対し心を許すよう、徹底的にあらゆる心理的手段を用いて口説き落としたのだから当然だろう。
というか、完全に惚れさせた。
しかしそれがまた心に痛みを生じさせる。
本当に厄介だ。
仕方無くスレイは、そんな弱々しいクズハをまだ見ていたいなどという邪な欲望を押し殺し、心に痛みを与えてくる良心に従い、クズハを安心させるように告げる。
「大丈夫だ。心配する事は無い。九尾の狐、タマモにはお前の今までの行動は何も見えていないから」
「う、嘘ですっ!!タマモ様の“眼”はこのディラク島全土に届くのですっ!!屋敷の前の出来事が見えていない訳がっ!!」
“識”っている事だ。
だからこそその“眼”をわざわざ惑わして、このような馬鹿げた悪戯そのものの真似をしているのだから。
なので軽く告げる。
「それじゃあだ、クズハ。何故九尾の狐、タマモは全く動かない?」
「え?」
慌てて振り返るクズハ。
「え?え?」
そして今気付いた、というように全く以って何の反応も示していないタマモの気配に困惑を見せる。
いや、気配ではなく姿を直接“視”ているのかもしれない。
スレイ自身は直接対面した時に始めて見る為に、敢えて今は姿は“視”ずに、気配を感じるに止めているのだが、クズハにその理由は無かろう。
しかし。
と、そんなクズハの姿を見ながら思う。
これは惜しい事をしたかな、と。
確かに今のクズハの姿はこれはこれで可愛い。
あれだけクールな容貌の規格外の美少女が、弱々しいところをみせてくれるというのは堪らないものがある。
だが間違いなく普段はそのクールな容貌のままに、従者として完璧な所作を見せるだろう、そんなデキる女らしいクズハを見てから、今のクズハを見る事が出来たなら、ギャップでより可愛らしく感じられただろうな。
そんな事を考えたスレイの心を、また良心の刃が突き刺してきた。
いかな物理攻撃にも精神攻撃にもその他あらゆる種類の攻撃に耐性を持つスレイだが、流石に自分自身の攻撃には弱い。
つまり痛い。
どうにもこうにも勝手が掴めないスレイに、訳が分からないと言った様子でクズハが問い掛けてくる。
「ス、スレイ様っ!?これはっ!?」
「ああ、屋敷に結界を掛けさせて貰っている。今の九尾の狐、タマモには、用意された道を素直に歩いて来る俺達の姿と、門前でそれを待って静かに佇むクズハの姿が見えているだろうさ」
「う、嘘?」
驚愕の表情を浮かべ、首を左右に振るクズハ。
まあ、神にも匹敵する神獣、九尾の狐タマモ、その力を最も良く知るのは傍に仕え続けたクズハだろう。
そのような反応も当然と言える。
だが、舐めてもらっては困る。
たかが神程度、いわんや神獣程度何だというのか。
スレイに勝てるものなどあらゆる世界にもその外にも存在しない。
スレイ相手にはそんな力など児戯に等しい。
だから笑って言う。
「それじゃあ、ほら」
軽く言って結界を操作するスレイ。
それと同時にクズハは瞠目する。
「タマモ様が見えなくっ、いえ、屋敷の中が全く……」
「なんだったら、好きな物を見えるようにしてやろうか、その特別製の“眼”に?」
軽く告げるスレイを唖然として見るクズハ。
「そ、それじゃあ本当に?」
「ああ、だから先刻からそう言ってるだろう?それに今更だろう、そもそも最初にクズハを驚かせたのだって、クズハの“眼”を軽く誤魔化してたって事じゃないか」
肩を竦めるスレイに、最初の出会いを思い出してだろう、羞恥に頬を染めながらもただ呆然としてクズハは尋ねる。
「……スレイ様、貴方はいったい何者なのですか?」
「“絶対最強”の“人間”様だよ」
首を振りながらクズハは呟く。
「嘘です、探索者と言えども人間がそこまで強大な力を……」
自失した様子のクズハだが、スレイは少しばかり天を見上げて呟く。
「さて、“視”せている俺達の姿も、そろそろここに辿り着く頃だろうな。折角ここまで仕掛けたんだ、無駄になっちゃあつまらない」
『主よ、またやる気か?』
「先刻ので懲りなかったの?」
ディザスターとフルールの呆れたような言葉。
存在は知っていた筈。
だが、今まではスレイにばかり意識が向かっていたのだろう。
改めて規格外の存在二匹を意識し、ビクリと身を竦ませるクズハ。
「大丈夫だ、神獣までになれば、流石に肉体も通常の生理的反応は超越してる。先刻みたいな事にはならないさ」
「あ、あの?どういう事でしょう?」
思わず尋ねるクズハ。
全くスレイとディザスターとフルールの会話を理解できず、困惑している様子に、やはり良心の呵責を覚え、厄介だな、と思いつつも、そんな事はおくびにも出さず、平然とした顔と声音で告げる。
「ん?ああ、タマモを不意打ちしてやるんだよ。要は先刻クズハにやった事と一緒だ。何も気付かせずいきなり正面から乗り込んでやる。……ああ、何度も繰り返しになるが先刻は悪かった、完全に俺の配慮不足だった」
最後に、思わず先程の失態を思い出し、苦い顔を浮かべ真摯に謝罪するスレイ。
この光景を見ていれば、スレイの相当数の知り合いが、スレイの頭がどうにかしてしまったのではないかと思うだろう。
だが当然クズハはそんな事は無く。
自分自身の先程の醜態などどうでも良いとばかりに、主であるタマモの身を案じ、詰め寄ってくる。
「そんなっ!?タマモ様に私と同じ真似をするなど。あの方はそのような悪戯心で汚して良い存在ではっ!!」
スレイに対し、間違いなく惚れている。
そう呼べるレベルまで心理的に攻略した確信のあるスレイは面白く感じる。
つまり、クズハのタマモに対する感情は、そういう恋愛感情などという物では揺らがない、親愛と敬愛が高いレベルで融合した物だと見える。
それだけでなく、どこか母か姉に対するような甘えのような物も感じられる。
まあ、彼女らが共に過ごしてきた時間、そしてその関係性を考えれば、その感情の深さは当然の物だろう。
いくらスレイがあらゆる者の心理を解し、最も効率的に攻略していく術を心得ているからと言え、それ程の悠久の歳月と密接な関係により育まれた信頼には流石に及ばないとスレイとて心得ている。
だから、微かに笑い安心させるように告げる。
「なに、心配は要らん。九尾の狐、タマモは神獣の中でも別格の存在。そもそもにしてその身体の構造からして探索者以上に生物というレベルを超越している。クズハが心配する必要も無い程の超越種だ。それはずっと共にあったクズハが、誰よりも一番良く知っていると思うが?」
「それは……そうですね」
得心がいったのだろう。
落ち着いた様子に戻り、姿勢を正すクズハ。
表情も、ようやく最初に見たクールな物に戻っていた。
だからだろう。
スレイに対しこんな疑念を投げ掛けてくる。
「しかしスレイ様、いくら結界を張っているとは言え、屋敷の中に入ってしまえば無意味。確かにあらゆる面で強大な力を持ちながら、幻術を得手の一つとするタマモ様をも惑わす結界を張るなどと驚愕の一言に尽きますが、それでもタマモ様を不意打ちするなど、夢のまた夢だと思いますが?」
ようやく取り戻した本来の話し方であろう冷静な口調。
そんな中にも滲み出る、自らの主であるタマモに対する信頼と、誇るような様子が垣間見える様子を可愛いと思い、申し訳無く感じながらもスレイは告げる。
「すまないクズハ。正確に言うと結界を張っているというのは微妙に違っているんだ。だからその前提は成り立たない」
「え?」
またもクールな表情を崩し、キョトンと無防備な表情を見せるクズハ。
そんなクズハの耳や尻尾を愛でたいという衝動を堪えながら、スレイは続ける。
「正確には結界は、屋敷の周辺から内部にまで完全に浸透させている、という表現が正しい」
「嘘っ!?」
驚愕に目を見開くクズハ。
まあ、その反応も当然かと思う。
一般に、対象を結界で覆い、結界の内部を完全に作り変える、と言うのならば、高等な技術ではあれど、まだ理解の範疇だ。
だが、結界を浸透させる、という言葉。
その意味をクズハは正確に理解したのだろう。
結界の範囲にある素粒子の一粒一粒にいたるまで、完全に結界を構成する、いや結界そのものとしている。
スレイが言ったのはそういう事だ。
高等とかそういうレベルの話では無い。
異常という言葉で言い表せる範疇すら越えた真似だ。
慌てて屋敷を振り返るクズハ。
懸命に“眼”を凝らす様子が見える。
だが暫し経つと、そのまま困惑した表情で振り返る。
恐らくは何も分からなかったのだろう。
まあ、当然だ。
“眼”は“眼”でも、“霊眼”程度で見破れる程容易い技術では無い。
「あの、スレイ様。このような言葉、お客人に対し、何より貴方様個人に対し失礼とは承知の上で伺います。本当にそのような真似を成されているのですか?私の“眼”にはそのような様子は“視”えなかったのですが……」
様々な感情を含んだその言葉。
スレイは安心させるように微笑を浮かべてやる。
どこか気が楽になったようなクズハ。
そうしてワンクッション置いてからスレイは答えた。
「ああ、間違いない。だがクズハに分からなくても当然だ、恥に思う必要は無いぞ。何せこの結界は“霊眼”は勿論、それこそ遥か上のランクの“神眼”ですら見破るのは至難だろうからな。この結界を容易く見破れるとしたら成長する“眼”である“心眼”を遥かなる高みまで成長させた者か、もしくは“真なる神眼”を持つ者ぐらいだろうさ。現に、予期していない事態とは言え“神眼”持ちの九尾の狐、タマモでさえ、全く何にも気付いていないだろう?」
思わず振り返り屋敷を確認するクズハ。
スレイに向き直ると、困惑の極致と言った表情で告げる。
「いったいスレイ様は何者なのですか?当然、先日の刹那のみの私程度では感知できない異常なる力の高まりが、かのクランドなるものとスレイ様の決戦によるものだとはタマモ様より聞いて知っております。しかし、それにしてもこれはあまりに異常に過ぎるかと……」
本当に、訳が分からないと言った様子のクズハ。
やはりその様子を可哀想に思ってしまうが、一つだけ絶対に訂正しなければならかい事がある。
だからスレイは決然と告げた。
「一つだけ勘違いを正しておく。今の俺は、クランドと戦ったあの時に比べればただの搾りかすみたいな物だ。こんな結界など、クランドとの戦いに比べれば、それこそ児戯にも及ばん」
「っ!?」
驚いたように、耳と尻尾を逆立てるクズハ。
ああ、驚かせてしまったかと思う。
申し訳無いとは思いながらも、こればかりは譲れない事だった。
スレイにとってクランドとのあの戦いは何にも勝る尊い物だ。
それをこの程度の結界と比べられるだけでも許し難いのに、まさか下に見られるとは。
思わず闘志すら解放してしまったかもしれない。
慌てて自らを鎮めるスレイ。
後ろから呆れたような声が聞こえてくる。
『主はあの男の事になるとムキになり過ぎる』
「行き過ぎだよね~?」
そんな声を無視して、スレイは宥めるように、優しくクズハに告げる。
「それじゃあ、早速行ってみようか。結界の事については、実際にやってみれば分かる事だろう?」
「は、はい」
スレイの声音に絆され、僅かに緊張を解き頷くクズハ。
それを確認すると、スレイはそのまま無造作に、屋敷の門へと歩いて向かって行く。
「お、お待ちくださいスレイ様!!スレイ様はお客様なのですから、私がご案内を!!」
「いやいや、それじゃあ不意打ちにならないだろう?何、屋敷の構造は既に把握している。問題無い」
理屈にならない理屈を言うと、スレイはそのまま門を開き突き進んで行く。
慌てて後を追うクズハ。
呆れたようにのんびりと追うディザスターとフルール。
入り口から入ったスレイは、屋敷の内部が事前に把握していた通りディラク風、しかもかなり古式の物と実際に目で確認するも、分かり切っていた事の為、そのまま真っ直ぐにタマモが居る一際大きい部屋へ向かい突き進んで行く。
慌てて後を追うクズハだが、門を開き、入り口から中に入り、襖を幾つも開こうと、全く反応の無い主の気配を見て、スレイの結界についての言葉が事実だったと知り、驚愕の表情を浮かべていた。
そして幾つもの通路と部屋を通り過ぎた先、スレイは目的の部屋へと辿り着く。
慌てて追いかけてくるクズハを置き去りに、スレイは一気に目的の部屋の襖を開ききった。
「たのもー……」
ふざけた掛け声など掛け、部屋に踏み込むも一瞬絶句する。
そこでは、ただの美そのものが、キョトンとした瞳でスレイを見つめてきた。
そう、美そのもの。
それはただ言葉そのままの意味であった。
それ以外に表現のしようが無い存在。
これはただの美だ。
能力でも無いただの容に無効化は通じない。
だから自動無効化も働かなければ、任意無効化を使っても意味は無い。
そもそも無効化が通じたとしても、今のスレイの大きく力の制限された状態の無効化程度でどうにかなるレベルの物では無いとさえ断言できる。
そしてまた、どのような美的感覚の持ち主であっても関係無く通用する美であろう。
現にディザスターやフルールすらが一瞬硬直し、ついでだがようやく追いついて来た、普段から共に在り見慣れているだろうクズハも硬直していた。
だが、スレイは絶句こそすれど、硬直する事無く瞬時に冷静に観察する視線を向けている。
確かに圧倒的な美だ。
なるほど、今まで見た全てが霞む程だ。
これに比べればエミリアやティータですら足下にも及ぶまい。
素直に認める。
そしてその容だけではない、内面から滲み出る物すらも圧倒的な美の波動として襲い掛かる。
ただの人程度では、見ただけでその目を潰し、ただ全てを投げ捨て跪くしかないかもしれないな。
冗談ではなくそう思う。
しかしスレイにとってはそれだけの事だった。
美の極限。
なるほど、確かに一つの高みだ。
だが、クランドと共に、魂の階梯、その果て無き高みへと到り、尚昇り続けていこうとしていたスレイにとって見れば、例えそれが途中で中断されてしまったとは言え、あの刻自分達が放っていた魂の輝きに比べれば、この美でさえも直視するに易い。
そう断言できる。
そんな事を考えながらもスレイの視線は目の前の美の化身を観察し、詳細に情報を送って来ていた。
キョトンとスレイを見つめる瞳は瑠璃色で、大きく切れ長の目や柔らかい雰囲気で、その圧倒的な存在感に反し安らぎすら感じさせる慈愛に満ちている。
顔のパーツは神の手でさえ不可能だろう完璧な配置で構成され、彫りは浅くも深くも無い最善のバランス。
その肌はどこまでも白くそれでいながら瑞々しく生気に満ちた健康美を感じさせるという矛盾を現実の物とし、その肌理細やかさは絹や何か他の物に例えるなど馬鹿らしく感じられる程だ。
スラリとした絶妙な顔のラインに沿うように、立っていたとしても足下すら超え床に広がっていただろう程に長い、どこまでも美麗なしとやかでサラサラとした落ち着いた輝きの金髪が、布団の上にこちら、つまり入り口の方を向きながら横に寝そべり枕にしなだれる女性の頭部から垂れ、布団に、そして床に、まるで何よりも美しい敷物の如く広がっている。
身長はクズハよりやや低いほどか。
寝そべっていてもその程度見て取るのはスレイにとっては容易い。
逆に胸はクズハよりも二回りほども大きく、腰はありえないほどに括れている。
それでいながらそのバランスが悪いという事は無く、それが最善のバランスであるかのような繋がりで身体は絶妙なラインを描いている。
脚も長く、そのラインも絶妙。
決してそれぞれがそれぞれを惹き立て調和を保つような無難なパーツでは無い。
それどころかとことんまで全てのパーツが己が美を強調して、その所為で本来であればバランスを崩しても不思議では無いにも関わらず、そんなパーツの数々がその在り得ない調和を成し、バランスを保ち、その強烈な美を惹き立て合う。
そんな反則的な容姿をしていた。
そして、尚在り得ないのは、その容姿がその女性の美の本質では無い事だ。
圧倒的な美を誇るその容。
だがその容など無視して尚強く自らを主張する圧倒的な美の存在。
美、という最高位の概念がこの世に肉体を持って現出したならば、斯く在るだろう。
そういう女性であった。
ふと、“今の”自分は見た事が無いが、恐らく美の女神ミューズもこういう存在なのだろうと推測する。
と、いう事は、この女は美の女神に匹敵するという事か。
面白い、と思いつつ、尚も観察を続ける。
着ている服装はディラク風の幾重にも重なった美麗な柄の着物。
その着物を肩で着崩している。
そこから除く肩や鎖骨のラインですら美の結晶。
凄まじいまでの色気だが、この色気を感じられる物はまずいないだろうな、とスレイは思う。
そもそもそんな物を感じようとする前に、圧倒的な美に中てられて話にならない。
頭の上にはクズハと違い始めから隠す気が無いのだろう、髪と同じく金色の狐の耳が立っている。
そして同様に、こちらを向いて寝そべる女性の背後には、九本の長大で髪と同様の色と質の毛をたっぷりと生やした尾を、まるで後光の如く広げていた。
特に意識して広げている訳ではあるまい。
ただ、自然とそう在る物だと理解できる。
なぜならその尾一本一本に、圧倒的なまでの神気が宿り、燃え立つように尾を支えているからだ。
だが、と再び女性本人を見る。
尾の力など比較にならない。
やはり尾などただの飾りの様な物と言う事だろう。
女性に宿る神気は比較にならない程に圧倒的であった。
特に驚きはしない。
何せ彼女以上の力の持ち主など幾らでも見てきた。
そしてスレイなら戦えば容易く勝つ。
だが感慨はある。
天狼と同じ神獣と言っても、これ程に違うのか、と。
力そのものもそうだが何よりも魂の格が違う。
相当に高位の神格を備えている。
あとは力の質の違いを感じる。
天狼などは分かり易い力強い波動を放っていた。
神獣に限定しなければ竜皇や魔王なども同様だ。
対し、この女性の力は酷く捉え難い。
尤もスレイはその全てを捉えてみせているが。
まあ、総じて言える事は、何もかもが期待以上だった、と言う事だ。
ここまでの思考を全て刹那で終え、スレイは笑う。
理由は単純。
面白かったからだ。
と、その表情に気付いた女性、九尾の狐、即ちタマモがキョトンとしていた瞳に理解を浮かべ、スレイに問うた。
「そう、そういう事。私にはまだ何をされてるのか分からないけど貴方の悪戯ね、オメガ?」
声すらもまた、聞いただけで人が悦楽のあまり気絶しても不思議では無いような美声であった。
だが言うと同時、タマモは何か失敗したというような色合いの感情を瞳に宿す。
しかしスレイは気にする事無く頷いた。
「まあ、そういう事だな。この屋敷の中から周囲一帯に到るまでを、全て素粒子レベルの結界で埋め尽くさせてもらった」
大したものだろう、と言ったようにふふん、と笑ってみせるスレイ。
そんなスレイにタマモは驚きを瞳に宿して言う。
「流石ね……スレイ、と呼べばいいのかしら?」
「ん?別にオメガでも構わんぞ?」
「え?」
またしても驚きの表情を浮かべるタマモ。
だがスレイは何て事もなさそうに告げる。
「まあ、今の俺にその記憶は無いが、オメガってのが俺の前世だってのは知ってる。で、だ記憶があろうがなかろうがそこに魂という連続性があるのなら、オメガだって俺だし今のスレイも俺だ。重要なのは魂という本質の連続性だろ?人間の記憶なんて曖昧な物だし、人は変わる。だが変わろうとそいつはそいつである事に変わりは無い」
「で、でも……」
どこか困惑するタマモに、スレイは肩眉を吊り上げ、肩を竦めて告げる。
「もっと分かり易く言おうか。お前ぐらいになれば幾つもの異世界の知識もあるだろうから通用するだろうが、例えばクローンに自分と同じ記憶を植え付けて、自分が死ぬと同時にそいつを起動して、そいつは自分か?違うだろう?理由は単純だ、そこに繋がりが無いからだ。魂という何よりも重要な繋がり、連続性がな。転生や記憶喪失で、前世や記憶喪失前の自分に拒絶反応を示す奴が居るが、俺にはそいつらの考えが全く理解できん。魂という何よりも重要な本質が繋がっている己自身をどうして否定する必要があるんだかな?まあ、変わっちまった俺の方をお前が否定する、というのは理解できるが」
「ううん!私は貴方を否定しないわ!!でも、貴方をオメガとして考えて、その上で今の貴方を受け入れるのにスレイ、と呼ばせてもらおうと思うの。それでいいかしら?」
どこか不安そうに尋ねてくるタマモに、スレイは下らないと言ったように答える。
「だから好きにしろ、と言っている。そもそも俺には拒否する理由が無い」
「っ!!ええ、そうさせてもらうわ……スレイ」
どこか甘く名前を呼ぶと同時、タマモは花開くように微笑んだ。
まさに“花開く”かのような微笑だ。
既にその存在が美の極致に到る存在。
そのようなモノの微笑み。
それがどんな意味を持つか。
戦闘には関係無く。
またスレイにとって重要度の高い知識でも無く。
故に“識”る事は無かったその答え。
それをスレイは今、この場で知った。
一瞬、その圧倒的なまでな美しさ、本来ならば夢見心地になるであろうそれが、圧倒的なまでのプレッシャーを持ち、スレイを押し潰そうとする。
次の瞬間には、軽くその重圧を振り解くスレイ。
見るとクズハはその場にくず折れまるで跪くようにしている。
ディザスターとフルールは何ら問題無いようだ。
まあ二匹の素性を考えれば当然だろう。
だがスレイの超感覚は、信じ難い現象を捉えていた。
太陽がまるでタマモの微笑の前に敗北し、自らの出番は終りだとでも言う様にその輝きを消す。
代わりに表れる筈の月や星々も、タマモの微笑と同じ世界で輝く事が分を弁えぬ行いだとでも言うように輝きを消した。
地上に在る炎すらも、熱は保ちながらも、その輝きが消える。
例外は神峰アスール火山くらいだろうか。
理由の推測は単純だった。
あそこには不死鳥の特殊個体、神獣としてタマモよりも格上の、破壊と創造の炎を宿すフェニックスが棲む。
故に力尽くで自らの住まいを保護したのだろう。
しかし異常はそれだけでは終わらない。
海が波を無くし完全に凪ぐ。
川の流れが止まる。
完全に地上は無風となり。
アスール火山を除く山々がその標高を低くしていこうとし。
大地の全てが沈下していこうとする。
地上の全ての植物が自ら枯れ行こうとさえし。
あらゆる動物が理解すらできぬままに、地に跪いていた。
それら全ては現実に起きている現象だ。
いや、他にも大小様々な異変をスレイは捉えている。
それら全てがあらゆる理を法則を無視した出鱈目な現象。
そのままであれば文字通りただの微笑一つが世界を壊滅状態に陥らせていたであろう。
そう、あらゆる異常を刹那で感知したスレイが、すぐさま屋敷に満ちた結界でタマモの微笑を遮断し世界に届かないようにしなければ。
流石のスレイも驚きを隠せない。
傾世の美貌。
世界を傾かせる美貌。
確かにそう聞いてはいた。
知識として備えてはいた。
だが、まさか、本当にそれが文字通りの意味だとは。
スレイが咄嗟に結界でその影響を遮断したから良かったものの……。
いや、スレイでさえ少しばかり判断に遅れが出た所為で、遮断までのタイムラグがほんの僅かにある。
だから、実際に起きた現象をスレイは知覚したのだから。
ほんの一瞬の事とは言え人々は惑っただろう。
何より実害も出ている筈だ。
例え一瞬でも規模が規模だ。
その影響を考えると頭が痛くなる。
各地方の権力者を通じ、少々この世界の物ではない知識、場合によっては行き付く所まで行き滅びた世界の技術も利用して、この損失を補填する事も考えなければいけないだろうか?
だが、いきなりの事で、すぐに援助が必要なまでに影響を受けた人々も、先程の現象の規模を考えればいるだろう。
それに関しては幾つか交換条件を用意して、ゲッシュにでも子飼いの探索者達を動かして貰う他無いか。
自然、スレイの考えは、そんな所まで進んでいた。
完全に無自覚の事である。
少し前までのスレイなら、そんな自らと関わりの無い者達の事など気にも留めていなかっただろう。
完全な個人主義。
我が道を行くだけの人間だった。
それがここまで変わる。
スレイが自覚している以上にクランドがスレイに与えた影響は大きかった。
そんな、どこか難しい顔で考えこんでいるスレイを見て、タマモが恐る恐る声を掛けてくる。
表情は何時の間にか微笑から弱々しい曇り顔になっている。
どんな存在であっても保護したくなるであろう、そんな表情。
これはこれで結界で遮断していなければ、大変な現象が起きていただろうな。
分割され高速で回転する思考の片隅で、そんな事を考える。
「ご、ごめんなさい。私、嬉しくて……自分自身の事も忘れて。笑うのなんて何千年ぶりか、だったから。だから、その……嫌わないで」
あまりにも弱々しい声。
その縋り付くような表情に、力の強大さと今見せる姿のあまりのギャップに違和感すら覚える。
何千年ぶり、か。
分割された思考の一つが速やかに思考を開始する。
俺の前世であるらしいオメガと関係がある。
それどころかクズハから聞いた話からすれば、この世界へと転生を果たしてからオメガ以外とは関わりすら持っていない。
それに先ほどのような異常な現象が起きたという記録は残っていない事から、実際以前に笑ったのなんて気の遠くなる程昔の事なのだろう。
そして自らに対するこの態度。
他にも高速で幾つか思考を遊ばせるも、答えは単純だった。
まったく、無責任に過ぎるな、俺の前世は。
そんな事を考え自嘲しつつも、更に続ける。
とは言え、今の俺よりはずっと真面目だったようだから、どうにかするつもりでいたのを、その前にイグナートに殺されたと言ったところか?
前世だろうと自分は自分。
その考えは変わらない。
だからこそ、スレイは現在の自分と前世の自分、その両方に自嘲を覚える。
今の自分と違い、敗北を知る程に在り様が弱かった前世の自分に。
そして前世の自分と比べ、あまりにも在り様が不真面目に過ぎる今の自分に。
だがスレイは気付かない。
何よりも鋭い感性を持ちながら、自己分析すら本来は完璧でありながら、こんな事だけは見逃してしまう。
以前までの自分であったら、そもそも不真面目である、という事に自嘲などせず、どうでもいいと思っていたという事実を。
当然の如く、これもまたクランドの影響だ。
スレイにとっては斯くもクランドという存在は大きい。
何にせよ、言う事は決まっている。
スレイは微笑を浮かべて告げた。
「いや、これは俺の不手際だ。“識”るべき事を“識”りもせず、前以って対処できた筈の事に対処しなかった俺のな。お前が責任を感じる必要は無い。あと、記憶が無いのにこんな事をするのは不誠実な気がするのだがそれでも謝らせてくれ、すまなかったな、ずっと放っておいて」
「っ!!」
途端、その瞳にどのような宝石よりも美しい涙が浮かびあがるも、感情を堪え様とするタマモ。
「ああ、この場の結界ならお前のどんな感情だって遮断して世界に影響は齎さない。存分に感情のままに振舞っていい。泣きたいんだったら、泣け」
どうにも、他の女を口説く時のように、美辞麗句を並べるのではなく、無愛想な言い方になってしまった自分の言葉に困惑するスレイ。
こんなところまでクランドの影響を受けたのか、と思う。
だが当然そんな事は無い。
つい先刻クズハ相手に散々甘い言葉を囁いておいて、こんな事を考える時点で、今のスレイは本調子では無かった。
こんな、なんの飾りも無い言葉になった理由は単純だ。
スレイの感覚が、今はそれが最善だと判断したから。
だから、この世のどんな存在よりも妖艶に美しく、布団に横になり枕にしなだれ、僅かに上半身を起こしていただけのタマモは、急激に身を起こすと、スレイの元に駆け寄り、胸元に顔をうずめて、スレイの服をびっしょりとしめらす程に涙を流し、嗚咽を零す。
「ああぁっ!!ずっとずっと待ってた!!オメガがすぐに迎えに来るからって、だから私の力の影響を最低限に抑えられる此処で待っていてくれって、そう言ったから、だから待ってた!!オメガが死んだって聞いても、絶対に迎えに来てくれるって信じてたっ!!スレイがディラク島に来たその時からずっと嬉しくて嬉しくてここにじっとしてるのだって辛かった。私、私わぁっ……」
そんな様子をクズハは感極まったように、ディザスターはどこか罰が悪そうに、フルールは感動したような顔で見ている。
そしてスレイはただ、タマモを抱き締めながら、その涙に籠った、何千年分もの重さを、自戒と共に胸に刻み込んだ。
それから暫し経ち。
落ち着きを取り戻したタマモは、恥じらいながら再び布団の上に戻った。
今は再びしどけない妖艶な姿で、スレイ達を見ている。
とは言え、やはりあれだけ盛大に泣いたのだ。
どれだけ艶やかな姿を見せても、どこか可愛らしい滑稽さが残る。
それを自覚しての事だろう。
タマモの頬は赤らんでいる。
正直に言って、これは危険だ。
その動作の全てが。
そこに内包された美が。
一つ一つ確実に、スレイの結界が無ければ世界をどれだけ掻き回していた事か。
しかもこのヴェスタという特別な世界である。
“美には力が宿る”。
ふと、どこの物とも知れぬ言葉がスレイの脳裏に浮かび上がる。
ああ、全くその通りだな。
初めて相対した埒外の美の前に、スレイは苦笑し、その言葉に心中頷くしかない。
と、そんなスレイの苦笑を見ただけで、タマモはまた表情を恥じらいに染める。
それだけで、容易く世界を傾ける動作だ。
本当に、今までこの世界が平穏無事に運行していたという事実が信じられなくなる。
先ほどからの様子を見る限り、タマモが特に感情を抑えるのが上手い、とは思えないのだが。
だがこの時点でスレイはまたしても的を外した考え方をしていた。
これもクランドにより大分正の方向性の人間性を取り戻した影響であろう。
幾ら、自ら意図してその知をほぼ封印しているとは言え、以前までのスレイであれば、もっと感情というものを冷徹に分析し、推測し、利用できた。
だが、それではあまりに非人間的に過ぎる。
クランドの影響を受けたスレイは、鋭さは損なわないながらも、あまりにも他人の深い部分まで冷徹に見通すような、そのような非人間的な観察を反射的に行うような癖が抜けていたのだった。
尤も戦闘の場に於いてはその限りでは無いが。
ともかく、だから気付かない。
先程、クズハさえもがタマモの微笑の前にくず折れていた事実。
スレイは既にクズハとタマモの関係性をある程度見抜いている。
主人と従者、だけでは無い。
どこか姉と妹のような親愛の情も存在する関係。
それでいながらあれほどにタマモの微笑の影響をクズハが受けたという事は、先程の微笑はクズハにとっても見る事は始めて、かもしくはそれに近しいぐらい稀少な物だという事だ。
まあ、それは世界にタマモのその感情表現の影響が出ていない時点で当然の事ではあるのだが、問題はそこでは無い。
スレイは、殆ど何のヒントも無い状況で、タマモとクズハの関係性をほぼ完璧に見抜く鋭さを見せながら、逆にそれだけ分かり易いヒントを与えられていても気付かない。
それもまた、クランドが考えた人間性という物だからだろう。
そこに、計算が必要な関係で無ければ。
打算と利害により動かなければいけない場合でなければ、相手の心を読むなど害でしか無い。
何のしがらみも無い交友関係においては鈍いぐらいでちょうど良い。
そんなクランドの考え。
そして、その鈍さが発揮されているという事は、スレイの直観が、タマモとの関係性に打算などは必要が無いと判断しているという事。
だから単純明快極まり無い答えに気付けない。
スレイの欲望、即ち色欲にとっては都合の良い事実であるにも関わらず。
即ち、タマモにとって、スレイとは引いてはオメガとはそういう相手であったのだという簡単な解答に。
その圧倒的な力により平常を保つディザスターとフルール。
誰よりも近くで見てきた、誰よりも親しい主の見せる、あまりにも意外な姿と、その美の破壊力に、ただ呆然と跪いたまま動けないクズハ。
力では無く、クランドと共に高めあったその意志により、全く揺らぐ事無くタマモと正対するスレイは、そんなクズハに気付き、結界を応用し、クズハにタマモの美に対しての耐性効果を付けてやる。
「え?」
突然、あまりにも過ぎた美の圧迫感が消えた事により、唖然とした声を出すクズハ。
だが、身体が動く事に気付くとそのまま立ち上がり、手足を確かめるように動かし、そしてタマモを見て、またも唖然とした声を出す。
「え?え?」
「ありがとう、と言わせてもらうわねスレイ。私とした事があまりにも不注意だったわ。ごめんなさいクズハ、貴女の状態に気付かなくて」
すぐさま気付いたタマモは、今度は別の意味の恥じらいと、本当に申し訳ないとう感情を込めた表情で、スレイに礼を、クズハに謝罪をする。
「なに、大した手間でも無いしな。むしろ今まで気付かなかった俺の方がすまないと言うべきだろう」
「い、いえ、タマモ様、そんな恐れ多い。でも、これはスレイ様が?」
肩を竦めて逆に謝罪してみせるスレイ。
ただタマモとスレイを見比べるだけのクズハ。
「それで、だ」
だが、スレイはそんなクズハを気にせず続ける。
来て早々色々とあったが、何もスレイは遊びに来た訳では無い。
いや、目的の一つを考えれば、そういう側面もあるかも知れないが。
だが、まずは真面目な話を済ませなければ話にならない。
「あら?何かしら?」
「いや、そろそろ真面目な話に入らせてもらいたいと思うのだが、いいだろうか?」
と、そんなスレイの言葉に、突然タマモがクスクスと笑いだす。
この姿も声も、それこそ結界が無ければ世界にどれだけの影響を与えていたか。
肩を竦めがら、同時に何故笑われたのかと眉を顰めるスレイに、タマモは言う。
「真面目な話も何も、最初に悪戯を仕掛けて来たのは貴方でしょうに」
「……それは、そうだな」
スレイとしてはただ認めるしかない。
実際、無駄なまでに力を使いタマモ相手に悪戯を仕掛けたのは事実だ。
その上タマモは知らないが、クズハ相手には、結果として少々悪質な悪戯を仕掛けてしまっている。
黙り込むスレイに、タマモは笑って告げる。
「ふふふ、そんな黙り込まなくてもいいのよ。でも、本当にオメガだった頃とは変わったのね……何しろ、ミューズ以外の女の人、シズカと言ったかしら、あの少女と関係を持つぐらいですもの」
ふと、スレイは背筋に違和感を覚える。
タマモは相変わらず優美に笑いながらも目が笑っていなかった。
その瑠璃色の瞳は、相変わらずどのような宝石よりも美しい至高の輝きを放ちながら、その輝きは実に鋭いものだ。
スレイの背筋に奔った違和感は、本来なら恐怖という感情に変換される筈の信号であった。
恐怖を欠落しているスレイであるが故に、その信号が恐怖に変換される事は終ぞ無かったが。
だからこそ、スレイはむしろこの話題を好奇と捉え、いきなり踏み込む事にする。
本当は真面目な話から先にするつもりだったが、この機会なら両方一片に話を済ませるのに丁度良いとスレイの思考は判断した。
また、クランドの影響で、平時に於いては多少鈍くなったと言っても、それはあくまで表面上の一部に過ぎない。
スレイの直観は、きちんとタマモのスレイ即ちオメガに対する好意を捉えている。
それがスレイを後押しする。
「まあ、確かにそうらしいな。事、女関係に関しては俺はオメガだった頃とは大分変わったらしい。何しろ、現在相当数の女性と同時に関係を持っているぐらいだしな」
「……へぇ、そうなの」
またしても背筋に違和感を覚えるスレイ。
見るとタマモの瑠璃色の瞳は永久凍土の如く凍てついていた。
だがその瞳は一瞬にして溶ける事になる。
「そして、俺の今回の訪問の目的の一つは、お前を俺の女にする事だしな」
「え?」
ここまでの美女になると、呆ける表情すらが、もはや至高の芸術品だな。
スレイはどこか的外れな感想を抱きながら、目の前で硬直するタマモを見た。
まあ、このまま暫く観賞するのも面白くはあるのだが。
なにせこれだけ美しい奇跡が体現したかの如き芸術品のような存在。
例えどのような姿でも。
例えどれだけ見続けても。
見飽きるなどという事がある筈も無い。
だが、そういう訳にもいかないだろう。
邪神という連中は本当に気紛れで快楽主義だ。
だからこそ本来なら対抗できる筈の無い者達でも、ある程度の準備をすれば対処できる可能性が高いというメリットはある。
しかし逆に言えば、その気紛れでもしいきなり本気で何かを仕掛けてくれば、対処できるのは自分やディザスターやフルールくらいだろうし。
本気で無くとも、いつ何時、気紛れを起こして、どんな事をしてくるか知れた物では無いので、対処する為の準備は出来るだけ早く整えるべきだ。
それこそ、今この時何か起きたとしても不思議では無い。
あるいはそれこそ封印が解けて何年経っても何も起きないかもしれない。
それほどに、連中の感覚というのは、通常の知的存在とは隔絶した物がある。
とは言え、現状、ロドリゲーニはその肉体故に人に近い感性を持っている。
それにまあ、自分という存在がいる以上、邪神達がちょっかいを掛けてくる可能性はかなり高い。
まあ、場合によっては邪神を封印した張本人である職業:勇者の連中も、その対象になるかもしれない。
あの体たらくを見ると、とてもじゃないが、邪神達の標的になるような価値があるとは思えないのだが……。
しかし、前世の自分であるオメガが死んだ後、邪神達を封印したのは間違い無くその職業:勇者達なのだ。
まあ、イグナートはその性格が分かり易いので、自分が死んだ後、敵となり得る者など存在しないとして、恐らく自ら封印されたのだろうと納得できる。
アレはそういうモノだ。
戦いこそが、力こそが至上と考える存在。
アレにとってはかつて超神ヴェスタこそが目指す存在であった。
故に、ジャガーノートとは別の意味でその超神の寵児たる自分のみに執着するのは納得できる。
ディザスターに関しても、まあ分かり易い。
主である自分が居ない間をただ無為に生きるのを良しとせず、自ら封印されたのだろうと思う。
確認はしていないが、間違い無いだろう。
だが、他の邪神達の事を考えると疑問が湧く。
確かに、かつての聖戦時には、今でいうSS級相当探索者が今とは比べ物にならない程無数に居たと知っている。
神々も力を貸しただろう。
今では迷宮に封じられた異世界の神々も直接手を貸していた筈。
……そう考えると彼らの扱いは胸糞悪くなるような酷い物で、彼らが探索者に向ける憎悪も分からなくも無い。
後、かつての聖戦時には闇の種族が手を貸さなかった代わり、もっと強大な存在。
そう、今の竜皇など比較にならぬ、年齢が五桁にも達していた、圧倒的な力を持っていた竜皇や、それに準ずる力を持った竜人族達。
更には今より数多く居た神獣達も手を貸していた。
圧倒的な力を持つそれらの存在が手を貸したならば、職業:勇者達が、この超神の遺骸たる世界の歪を用いた封術を用いて、邪神を封印したのは納得できなくも無いのだ。
そう、中級邪神までならば。
しかし、3柱の上級邪神。
上級邪神の中で最も直接的な力に優れたジャガーノート。
全知すら越え、更なる高みを目指し、知においてならばイグナートすら越えていたシェルノート。
最も邪悪で狡知に長けたロドリゲーニ。
この3柱を封印したという事は、職業:勇者達自身にも相当な力が要求された筈だ。
そう、せめて神々に匹敵する程には。
だが、どうしてもあの3人を見ていると、その確定された事実が信じられなくなる。
何故なら、職業:勇者のシステムからすると、その神々に匹敵する力を持っていたかつての職業:勇者達の魂が、あの3人に転生しているという事になるのだから。
幾ら何でも、同じ魂の持ち主が、あそこまで堕ちる物なのだろうか、と思う。
が、今はそれは関係無かったな、と思考を切り替えるスレイ。
とは言え、この思考もほんの刹那に行われた物なのだが。
スレイはわざと口端を吊り上げ、どこか挑発的に尋ねる。
「で?俺とシズカの行為を出歯亀してた九尾の狐殿は、何処まで俺とシズカの会話を把握している?」
「知らないわ」
と、呆けていたタマモが、今度はまるで幼い少女の様に膨れてそっぽを向く。
絶対の美の中にあどけない可愛らしさを内包したその動作は、信じられない程に心惹かれる物ではあったが、スレイは微塵も動じる事無く、思考を巡らせる。
果たして今の言葉の何がタマモの機嫌を損ねたのか。
いや、内容的には確かに失礼な物だったが、タマモという存在がその程度の事に拘るとはスレイは思わなかった。
何より、今の言葉には、既に仕掛けてあった餌での揺さぶりの意味もあったのだ。
それがこの反応。
困惑しつつも、可能性は低いと思いつつ、考えられる原因を上げていく。
「まさか、今更俺とシズカの行為を直接口にした事に怒ったのか?先程から話題にしていた筈だが」
「それは先刻から腹が立ってるけど、今の問題は別よ」
思わず肩を竦めてしまうスレイ。
藪から蛇を出してしまったようだ。
まさか先程からご立腹だったとは。
しかも、今ご機嫌を損ねている理由とは別なのだから、完全に失敗だ。
しかし黙り込んでも仕方無い。
次に考えられる原因を上げる。
「出歯亀扱いに怒ったか?」
「全然違うわ」
身も蓋も無く否定される。
お手上げだった。
正直、先程の会話の中にそれ以上の原因が見つからない。
何せ、そもそもの言葉の内容が短すぎる。
一体何がタマモをそこまで不機嫌にしたのか。
まあ“識”ろうと思えば“識”る事は出来る。
だが、事こういう個人的な対人関係に於いて、それは失礼だと思えるぐらいの常識は、今のスレイにはあった。
となると本当にどうしようもない。
最後の手段に頼るしか無いだろう。
「すまない、九尾の狐殿。いったい俺の何が問題だったのか教えてもらえないだろうか?」
まあ、正直に言えば、先程の言葉以外でなら、問題は幾つも思いつくのだが、タイミング的に原因となったのは先程の言葉以外にありえない。
本気で分からないと言ったスレイの様子に、タマモが今度は呆れた表情に変わって尋ねる。
そんな顔ですら美しいのだから恐ろしい。
「本当に分からないの?」
「ああ、お手上げだ」
言葉通りに両手を上げて降参の意を示してみせると、タマモは少し俯いたかと思うと、そのあまりにも美しい瑠璃色の瞳でスレイを強く睨み付け告げる。
「タマモ」
「は?」
「私の事はタマモと呼びなさい。あなたがオメガである以上、もうそれは果たすべき義務よ」
何というか。
流石のスレイでさえ唖然とするような暴論を吐かれたような気がしつつも、原因が呼び方にあったと理解し、どこかぎこちなく呼びかける。
「タマモ……これで、いいのか?」
「ええ、それじゃあ改めて話を聞きましょうか?」
途端、花が綻ぶような満面の笑みを浮かべるタマモ。
そのあまりの変貌っぷりに、スレイはどこか乾いた笑いを浮かべる。
本来、女の気紛れな気分の移り変わりなど慣れた物だった筈なんだがな。
乾いた笑いを浮かべつつスレイは自己分析する。
真面目な話をしようとしたタイミングだったからだろうか。
そこら辺が混ざってしまうと、今はまだ上手く切り替えが出来ないようだ。
すぐに慣れるとは思うのだが……。
慣れてもその時にはまた更に自分が変化している可能性が高い。
戦闘能力の向上のみに注がれていた変化の可能性があらゆる方向へと振り分けられたような物だからな。
自分でもまだ把握しきれていない。
正直、他の全てを把握するよりも、自分自身を把握する方が難しい。
そんな困惑を抱えつつも、スレイは話題を元に戻す。
「それじゃあ、タマモ。改めて聞かせてもらうが、どこまで俺とシズカの会話を把握している?」
「どこまでも何も……」
今度は眉を寄せ、戸惑いの表情を浮かべるタマモ。
先程の仕返しに、少しばかり意地悪く、空っとぼけた声で聞き返す。
「ん?」
「……スレイ、私の“眼”の事なんてとっくに承知で、あのシズカって娘とくっ付いた辺りから、どういう方法かは分からないけど、すぐに私の視線を遮断したじゃない」
「はて?どうだったかな?」
わざとらしくとぼけて見せる。
当然、これも先程の仕返しの続きだ。
いや、スレイ自身、少々しつこい気がするのだが、どうもまだ表面的な情緒が安定していない。
精神の深層部分。
核となる部分に関しては、完全な制御の封印の中に抑えられたままだから、力の暴走の心配は無いのだが。
表面上だけとは言え、自分がここまで不安定になるとは。
なんとか数日中に、完全な自己制御を取り戻さなければな。
いや、こういう状態もそれはそれで面白いか。
そんな事を考えつつも、少々意地の悪い心境のまま、タマモの顔をじっと見詰める。
どこか苦虫を噛み潰したような顔をするタマモ。
そんな顔でさえも、スレイをして息を呑む程に美しいのだから、本当に存在そのものが反則だ。
タマモのその、見るだけで至高の感触を想像させる美しい唇が開かれる。
「とぼけないで。それだけじゃないわ、今朝のあのノブツナという、この時代でのディラク島の人間としての支配者となった男との会話だって、私の“眼”を遮断してたでしょう?いったい何を企んでいるの?」
探るような色を宿す瞳。
それでも尚、そこに猜疑の色は宿らず。
スレイに対する信頼は揺らがず。
本当にただの純粋な疑問。
これだけ疑いを誘うように行動していると言うのに……まあ。
何とも重い信頼にスレイは苦笑する。
確かに俺とオメガは同じ人間だと言ったが、同時に変わったとも言った筈なんだがな。
しかし、まあ、確かに後ろ暗い所は何も無い。
隠す必要も無いどころか、むしろこちらから持ちかけようとしている話だ。
タマモの“眼”を意識しながら、それを遮断したのは。
シズカとの時は単純に、相手が女だろうと出歯亀されるのを嫌っただけ。
ノブツナとの会話に関しては単なる悪戯心だ。
まあ、これ以上勿体ぶるのも何だろう。
スレイはタマモの質問にあっさりと答える。
「企むとは失礼な、ディラク島の事を考えての邪神対策だよ。むしろ感謝されても良い話だと思うが?」
「邪神対策?」
タマモの顔が怪訝の色に染まる。
はて?
疑問に思い、スレイは尋ねる。
「どうした?何か問題か?」
「問題も何も、邪神相手に人間風情が何を出来るの?」
おや、まあ。
僅かに片眉を上げるスレイ。
自分に、引いてはオメガにあれほど依存しているところを見せられ、人間相手の感情は、そう悪く無いと思っていたのだが。
タマモの表情を見る限り、本気で人間を低く見ているらしい。
まあ、無理も無いか。
すぐにスレイは理由を導き出す。
このディラク島は、特に昔から争いの多かった地だ。
そんな人間達の血生臭い闘争を好む一面を遥か昔から見続けていて、なおかつその闘争の、人の力の低さを見てきたのなら、そういう考え方にもなるだろう。
殊に、このディラク島は探索者の絶対数が少ないという面もあるしな。
納得しつつも、スレイは思う。
だが、確かに闘争は人の愚かさの象徴だが、同時にその闘争こそが、人の可能性を引き出し高める一つの切っ掛けであるのも確かなのだが。
しかし、これに関しては、人に秘められた無限を越えた可能性。
その真価を“識”る者でなければ。
更にそれこそ最低でも世界の始まりから終りまでの長期的スパンで人間という種を測るだけの気の長さがなければ、評価の対象にはなるまい。
いくら神獣と言えど、人の可能性の真価も“識”らねば、幾らなんでもそれ程気も長くない。
故に人間の評価が低いのは当然と割り切る。
その上で、自分に対してだけは例外だと最前の反応から分かり切っているので、それを利用しての、あくまで自分に対する信頼を使っての、タマモが納得するに足る理屈での説得をする事にする。
「まあ、確かに邪神そのものをどうにか出来る人間など居ないだろうな?」
自分と、もう1人の例外の事を考え、少し嫌な気分になりつつもそう口にする。
どうも、“あいつ”の事を低く評価されていると考えると湧きあがる物がある。
そう考えつつも、表面上、スレイは感情を全く表に出さず、タマモに気付かせない。
スレイと“彼”の戦いに関してはタマモの“眼”の視野にあった筈だが、神獣と言えど戦いそのものは認識すら出来なかったと確信しているが故に、心を押し殺す。
「それじゃあ……」
「だが、邪神のちょっかいに備える事は出来る。ヒヒイロカネのディラク刀、それに大陸から探索者の戦力を借り入れる事でな」
「え?」
「封印が緩んで、色んな手段で邪神が世界に干渉できる状態とは言え、邪神が直接手を出して来るなど可能性は低い、、あいつらは快楽主義者だからな。だから、邪神の間接的な干渉に関する対策についてノブツナとは話し合った訳だ」
何かを言おうとしたタマモに畳み込むように一気に話す。
相手がどれだけの美女でも。
そして自分とどれだけ縁があっても。
“彼”の事で少しばかり抑えが効かなくなりそうな自分を自覚したが故だ。
人に対しての低い評価を露にしていた表情から、考え込むような表情に変わったタマモを見て、一息吐く。
話が次に移り、落ち着いていく自分の心を感じ、スレイは安心する。
そして己が未熟を自嘲した。
どうやら“あいつ”に関しては、自分の中での一種の逆鱗になってるようだと。
そんなスレイの内心は、神獣の鋭敏な感覚に触れる事も無いように巧妙に隠された為、タマモは純粋な疑問を口にする。
「なるほどね、確かにそれなら対処は可能かもしれないわね。それで、結局、スレイの用件は何で、目的の一つが私をスレイの女にするっていうのはどういう事なの?」
「ん?なに、簡単さ。確かにタマモが言った通り“あいつら”だけでディラク島を完全に守り切れるかは怪しいところなのでな、それを完全にする為にタマモの力を借りたいと思った。そしてその目的の為の手段がタマモを俺の女にするって言う事さ。自分の恋人の為ならその力、存分に振るってくれるだろう?」
スレイは人間では無く“あいつら”と言う事で、何とか自分の逆鱗となってしまったらしい存在には触れずに目的を伝える。
タマモはそんなスレイの細かい心情には気付く事無く、そのあまりにも明け透けな言い草に呆れたような顔と、同時に何故かどこか照れたような嬉しそうな顔も浮かべていた。
「ふふふ、本当に変わったのね」
「どういう意味でだ?」
純粋な好奇心で尋ねたスレイにタマモは艶然とした微笑を浮かべ答える。
「オメガだった時の貴方はミューズ一筋だったもの、私を貴方の女にする、なんて冗談でも言わなかったわよ?」
「ほう、そういえばディザスターも似たような事を言っていたな」
『……』
視線を移すも、沈黙を守るディザスター。
そのディザスターに視線をやり、僅かに眼を細めるタマモ。
「欲望の邪神ディザスター、オメガだった頃の貴方がその“天才”の中でも桁違いだった戦闘欲求により従えたモノ」
『……』
どこか険しい視線を向けるタマモだが、ディザスターは興味すら示さない。
あくまで主人であるスレイの視線のみを受け止めている。
「へぇ、ディザスターが俺のペットになった経緯はそんな物だったのか。なるほどな」
「ぺ、ペットぉ!?」
瞠目し、その美声で素っ頓狂な声を上げるタマモ。
そんなミスマッチさすらもより美を惹き立てるのだから性質が悪いと思いつつ、スレイはただ軽くタマモに視線をやって続ける。
「その様子じゃ、タマモ達を拾った時の俺は、まだディザスターを連れてなかった、って事かな?」
「え、ええ……。でも、邪神をペットって……」
『……』
唖然として呟くタマモ。
対しディザスターは気にも留めず、悠然としている。
スレイもまた同様だ。
タマモの様子など気にせず、自らの為すべき事を為そうとする。
「さて、それじゃあだ、これからお前を口説こうと思う」
「……へ?」
ポカンとした表情で見返してくるタマモに、スレイは眉を寄せる。
「だからだ、言っただろう、タマモを俺の女にすると。だから口説き落とす。当然の帰結じゃないか?」
「え?いえ、でも、口説き落とす?力尽くとか、何か特殊な力を使うとかじゃなく?」
「趣味じゃない」
タマモの疑問の言葉を切って捨てるスレイ。
少しばかり機嫌を損ねる。
「いいか、俺は女を口説くのにありとあらゆる心理的なアプローチから何から用いて、己が全知全霊を以って必ず口説き落とす。だからその言い草は多少気に触る」
「全知全霊って……」
「造語だが、文字通りだ。これでも全知の一端に到った身、そして知とは女を口説く為の最高の武器ともなる」
笑ってみせるスレイにやはり唖然としながら、タマモは呟く。
「必ずって、随分な自信……」
「当然の確信だ」
あまりにも強く言い切ったスレイの勢いに、ようやく僅かに気を取り直したタマモは、何とか悪戯っぽく微笑み告げる。
「あら、そう。本当に凄い自信。でもその自信が事実だとして、それほど短時間で私を口説き落とせるかしら?」
「ああ、時間についても始めから想定内だ。気付かないか?」
「え?」
言われ、タマモはようやく違和感に気付く。
いや、気付かされた。
今までタマモが感じる事が出来ないでいた、隠蔽されていた屋敷内に充満した無数の結界。
それがタマモにも分かるように異様な気配を発している。
またも呆然とするタマモにスレイはニヤリと笑って告げる。
「今からこの屋敷内の時間を歪める。この屋敷の中でどれだけ年月が経とうが、外では全く時間は経たない。邪神連中は感知できるし干渉もできるだろうが、今は色々と楽しむ為に連中も通常の時間の流れに身を任せているからな、敢えて干渉もしてこないから、邪神達の気紛れを気にする必要も無い。さて?噂に名高い世界すら傾けるが故に傾城も傾国も超え傾世などという名を付けられた美女殿だ。どれほど難易度が高いか知れんが、必ず口説き落としてやるから、まあお互い楽しもうじゃないか?」
そう言い、結界を完全に発動させようとする寸前、タマモが突然ストップを掛ける。
「待ってっ!!」
「なんだ?今まで悠久を越える時をこの何も無い樹海の中で過ごして来た身だろう。新鮮な話相手がいる状況で、外と隔絶される事に問題があるとは思えないんだが?」
「違うの、そうじゃなくて……ごめんなさい」
「は?」
いきなり謝られ、流石に唖然とするスレイ。
そんなスレイに、何処か言い出し難そうに、タマモが目を逸らす。
「ええと、その、ね?」
「……もしかして、既に恋人が居たりするのか?」
「え?」
何を言われたか分からない、と言った風にキョトンとするタマモに対し、スレイは真面目な顔で腕を組んで唸る。
「そんな情報は無かったが、積極的に調べた訳では無いし、可能性としては無くも無い、か?だとすると、他の男の女に手を出すのは俺の主義に反するし、困ったな。交渉で協力を得る為の条件面を突き詰めて行くしかない、か?まあ、そっちでも俺の全知を以ってすれば不可能ではない、か。と、するとまずは……」
「ち、違うわっ!!」
計算外の事態だ、と言うように考え込み始めるも、すぐに別の方法の模索を始めるスレイ。
まあ本来ならば、交渉を最初の手段とするのが普通なのだが、そこはスレイの価値観のズレだ。
だが、何にせよ、それならそれでどうとでもなると確信を抱き、次の段階に進もうとする。
しかしそれを止めたのは強いタマモの怒鳴り声だった。
やはり怒鳴り声さえも美しいなと思いつつ、スレイは不思議そうに問い返す。
「違う、とは何がだ?」
「わ、私に恋人なんていないわ」
今度は声を落として、どこか恥ずかしそうに呟くタマモ。
なるほど、とスレイは頷く。
「ああ、すまない、勘違いだったか。だが、口説かれると困るなんらかの理由はあるのだろう?ならば、別の手段で協力を得るのは必須だから、手段は変わら……」
「だから、違うのっ!!」
再度繰り出された怒鳴り声に、思わず黙り込むスレイ。
だが、精神に僅かな間隙も作らない程にスレイの精神は強固で、何の停滞も無く次の言葉を繰り出す。
「すまない。違う、という否定が何に掛かっているのか流石に分からないのだが?」
しかし、精神に隙は生まれなくとも、分からないものは分からず、そのまま問い返すしかない。
タマモは、スレイの視線を受けどこかそわそわとしながらも、言葉を発する。
「ええとね、待ってと言ったのは、時を歪める必要なんて無いからで、時を歪める必要が無いというのは私を口説く必要が無いと言う事で……」
「それは、無償で協力してくれると言う事か?」
タマモの言葉の途中で口を挟むスレイ。
だが、思わず自分の言葉に心中で違和感を感じ突っ込みを入れる。
いや、違うだろう。
よく考え分析しろ。
いやとっくに結論は今の一瞬で出た筈だ。
何でこんなとぼけた言葉が出る。
以前の俺ならありえん。
そんなスレイの内心の葛藤に気付かず、タマモは堪らず叫んだ。
「違うわっ!!口説く必要が無いというのは、私がもうとっくに貴方に惚れてるからで……貴方がオメガでミューズ一筋だった時から私は貴方の事がずっと好きだったのっ!!」
精一杯の言葉だと分かる程に、その本来ならば余裕に満ち満ちている筈の例えようもない美貌に羞恥を湛えるタマモ。
そしてスレイは、自分の結論の正しさと、それでいながらとぼけた言葉を返してしまった自分に対しての罪悪感に、その原因となったどこかの誰かを少しだけ恨む。
「あー、その、すまなかった」
「……それは何に対する謝罪かしら?」
未だ羞恥に染まったままのタマモは、どこまでも美しく、それでいながら可愛らしく。
どこまでも魅力的で。
それだけにスレイの罪悪感はいや増す。
ちなみにディザスターやフルールなどは我関せずとばかりにそっぽを向いているが。
……恐らくは、今までのスレイの女性関係に関わってきた結果の処世術だろう。
そのぐらいは想像が付く。
そんなペット達にこの野郎などと思いつつも、もはや驚きを通り越して放心しているクズハを見る。
まあ、悠久の時を共に過ごしてきた彼女でも、タマモのこんな姿を見るのは初めてなのだろう。
容易に想像は付く事だったが、それが確信に変わり、さて、どうしたものかと戸惑う。
そもそもこの戸惑うという事そのものが今までなら……。
いや、止めよう。
スレイはそこで余計な思考を停止した。
必要なのは誠意だ。
どこまでもいい加減で好き勝手に生きている自分であっても、せめても存在する誠意の欠片を全て集めて対応するべきだろう。
それはタマモに対する最低限の義務だと思う。
だからスレイはただ正直に告げる。
「多分……いや違うな、確実に俺はタマモの想いを推測できていた。だというのにこんな無様を晒したのは……いや、つまらん言い訳は止めよう。謝罪の理由は単純だ、俺はただタマモを強引に俺の物にすれば良かった。少なくとも俺達の間でだったらそれが正解だった。それが出来なかった事に対する謝罪だ」
「幾ら私が自分の想いを打ち明けたとは言え、随分と、まあ、大した自信ね……」
流石に呆れた表情をするタマモ。
だがスレイにとってはこのぐらいの空気で丁度良い。
どんな存在すらも呆れさせる大言壮語を放ち、それを実現して驚かせる。
それがスレイのスタイルだ。
自分のホームに帰ったような心地でスレイは続ける。
「で、だ。そういう訳でタマモは俺の女にする、異存は無いな?いや異存があってももう関係無い、俺が決めたからな」
「本当に、もう、貴方って……」
呆れたような表情そのままに、どこか暖かい微笑を浮かべるタマモ。
その表情もまた美しいと思いつつも、スレイは話を進める。
「で、当然、俺としてはこのままタマモを抱くつもりな訳だが……」
「なっ、だ、抱くって!?」
「?何をそんなに驚いている、それが俺にとっての男女の仲と言う物だし、何より確か前世のタマモは、元の世界で、今程では無くとも、少なくとも傾国と呼べる美貌を持ち、その美貌で男を誑かし、幾つもの国を滅ぼしてきた筈だったと思うんだが?」
「ぜ、前世は前世でしょっ!!少なくとも私にとっては前世の事は記憶じゃなく知識でしか無いわ!!あんなの別人よっ!!」
憤然として怒鳴るタマモに困惑するスレイ。
「俺にとっては、例え記憶が現在無くとも、前世も俺自身と思えるのだが……タマモにとっては違うという事か?」
「ええ、全く違うわ!!あんなの私じゃないっ!!少なくとも前世の私と今の私の間に貴方の言う連続性、繋がりなんて物は存在しないわね!!」
本気で怒った様子のタマモ。
その激怒した顔すらも美しくはあるが、これでは話にならない。
スレイは宥めるように告げる。
「分かった、俺とタマモに於いては前世の意味は違う。少なくとも前世のタマモと今のタマモは別人だ。俺はそれを認めよう。それでいいか?」
タマモはスレイの顔を見る。
そしてそこに真実の色を見出したのだろう。
すぐに落ち着きを取り戻し頷いた。
「ええ、それでいいわ。……それで、その。……私を抱くって……」
今度は別の意味で顔を赤くし、もじもじとしながらも、あまりにも艶かしい視線をスレイに送ってくるタマモ。
それこそ本気で世界が滅びかねない色香だが、スレイはそれを受け流し、話題を大分前まで戻す。
「その前に、だ。元々の目的である……いや、タマモを俺の女にする事も同じく重要な目的ではあったんだが、ともかくそれと並ぶ目的のタマモの力を、このディラク島の守護に借りるという話は受けてもらえるという事で構わないか?」
途端、またも不機嫌そうな顔になるタマモ。
しかし、答えはきちんと返してくれる。
「別に、貴方が言うのなら、力を貸すのは吝かじゃないけど……でもいくら私でも、邪神が相手じゃどうしようもないわよ?」
その言葉に思わずスレイの口端が吊り上がり、凄艶な笑みが浮かぶ。
思わずタマモが息を呑んだ。
「当然だ。あいつらをどうにか出来るなんて俺ぐらいだ。いやあいつら全て俺の獲物だ」
ギラギラとした眼差し。
見詰めるのは何処か。
あまりにも強いその力に惹き込まれそうになりながらも、我に返ると、タマモはすぐに問いかける。
「それじゃあ私の役割は?」
スレイの答えは単純だった。
「人間達のサポートだ。邪神のちょっかい程度とは言え、人間達だけで完全に対処できるかどうかは少々不安が残るのでな。何、もし邪神そのものが相手の場合は何時でも何処からでもすぐに俺が来て奴等は倒す。だからタマモに対する負担はそんな大した物じゃないさ」
絶対的な自らへの確信に裏打ちされたその言葉。
思わずタマモは肩を竦める。
だが、表情には心配を乗せ問いかけた。
「本当に大した自信ね。でも貴方は覚えてないかも知れないけど、前世の貴方、オメガはイグナートに殺されたのよ?」
本気で案じるその声音。
だがスレイの笑みはますます凄絶に深まる。
「覚えてはいないが、当然知っている。だが関係無いな。確かに以前の俺、オメガはイグナートに敗れ殺されたのだろう。オメガが以前の俺だという事も認めている。だが俺はこうも言ったぞ、以前の俺オメガと、今の俺スレイとでは変わったのだとな。今の俺には敗北はあり得ない。戦えば必ず勝利する。例え誰が相手でもな……まあ、精々俺と分ける例外が1人居るぐらいか?そしてそれは少なくとも邪神達の誰でも無い。だから心配など無用だ」
あまりに確信に満ちた、どこまでも力強い言葉に気圧されつつも、タマモは問いかける。
「……その自信の根拠は?」
「無い。というより必要無い。俺の勝利は絶対だ」
「……」
本気で何の根拠も無い。
信頼しようにも、その信頼する為の理由すら示されない。
ただ言いっ放しのいい加減な言葉。
だがタマモは黙り込むしか無かった。
言葉に込められたあまりにも強い力の前に、タマモの精神は容易く跪いていた。
その事実に、ただタマモは驚愕する。
「さて、と。それじゃあ、タマモ、早速お前を抱くぞ?」
「えっ?ちょっ、ちょっと待って!!初めてなのに人に見られながらとか、そんなの!?」
「ああ、それなら問題無い、先程念話であいつらには退出して……ん?」
と、スレイの視線の向けられた先。
確かに入り口付近に居たディザスターとフルールは何時の間にか消えていたが、ただ1人クズハが残っていた。
思わず疑問の声を上げるスレイ。
「クズハ?」
だがそれ以上に不思議そうな声を上げたのはタマモだった。
それに対し、クズハが2人を見て、先程から2人が発していた力の波動に当てられたのだろう膝を震わせながら、それでも力強く告げる。
「タ、タマモ様、申し訳ありません。スレイ様、私もスレイ様の女にして頂きたいです!!」
「……あー」
「……スレイ、貴方、クズハに何をしたの?」
クズハの言葉に、スレイは自分がクズハを先程口説き落とした事を思い出し。
タマモはそんなスレイに胡乱な目を向ける。
そもそもクズハはタマモと共にずっとこの樹海に篭り、またオメガの記憶も無く人間嫌いだった筈なのだから。
だが、ふっ、と視線を緩めると、タマモは九つの尾の一本で、クズハと手繰り寄せる。
「あっ?」
「まあ、いいわ。仕方無い娘ね。まあ、それ以上に仕方無いのはスレイなんでしょうけど?」
「否定できないな……けど、どうしてクズハを?」
スレイの疑問の声に、タマモは軽く答えた。
「仕方ないでしょう。この娘は私にとって大事な娘だもの。この娘の望みは叶えてあげたいわ」
「あ、タ、タマモ様……」
心温まる主従の遣り取りに、スレイは頬を掻きつつ告げる。
「いや、そうでは無く、幾ら大事な相手でも、3人一緒に、というのは嫌なんじゃないかと」
と言いつつ、スレイはエミリアとルルナの2人の相手をした時の事を思い出す。
そういえばあの時の自分は、そんな事も全く考えないような無神経さだったな、と。
「この娘だったらいいのよ。むしろ私の初めてもこの娘の初めても一緒に奪ってくれるくらいじゃないと、私達がどれだけ2人きりで共に過ごしてきたと思ってるの?」
「タマモ様……」
またしても繰り広げられる主従の心温まる光景。
尤も、互いに服をはだけつつという扇情的な物ではあったが。
スレイはそんな2人に近付き、まずはタマモの唇を奪い、徹底的に口内を舐り、唾液を交感すると、次はクズハの唇を奪う。
口を離し、唾液が糸を引く中、クズハはぼうっとした声で呟く。
「あ、キス、初めてです」
「ふふ、私もよ?」
そう言いつつもどこか余裕ありげなタマモ。
その余裕に少しばかり自尊心を刺激されたスレイは挑戦的に言う。
「しかし、無茶を言うものだな。2人同時に初めてを奪えとは?」
「あら?できないの?」
やはり挑戦的に見詰めてくるタマモに、スレイは笑う。
「いや、俺だったら出来るな。方法は幾らでもある。ところで、だ。タマモ、お前のその余裕のある所が少々俺の自尊心を刺激してな、だから忠告しておく。これから先はちょっと刺激的だぞ?」
「あら、言うじゃない?言っておくけど、別人の物で記憶では無いとは言え、知識だったら相応にあるのよ、私は?」
そんなタマモに、何時の間にかタマモの豊かな胸と、クズハのタマモ程ではないがやはり豊かな胸を同時に巧みに愛撫し始めていたスレイは告げる。
「ふむ、実は先日の戦いでな、俺は魂の共鳴・同期・接続という技能を習得してな?つまり肉体どころか、相手の魂の全てまで犯し尽くす事が出来る、という訳なんだが……そんな知識まで存在するのかな?」
「え?」
途端、表情を硬直させるタマモ。
スレイは楽しげに続ける。
「とはいえ何せ戦闘の中で習得した技能だ。こういう事への応用は手探りになるだろうな?本気でどれだけの事になるか、俺にも想像が付かんから、覚悟した方がいいぞ?」
「ちょっ、ちょっと待って!?」
「……?」
表情の硬直を解き、焦った様子で静止しようとするタマモ。
意味が分からずポカンとしているクズハ。
「いや、待たん。魂の欠片まで残さず全て俺の物にしてやる」
告げると同時、タマモの抵抗も抗議の声も抑え込み、タマモとクズハの2人を完全に押し倒すスレイ。
そしてスレイが持ち得るあらゆる技法を性行為に応用した、2人との今までにない新しい世界を開く行為が始まった。
「という訳でだ、ディラク島の事は上手く纏まったし、タマモ……九尾の狐の説得にも成功し協力の約束を得る事は出来た。とは言え彼女に関してはディラク島のあの樹海から動くつもりは無いらしいので、あくまでディラク島の守護に関しての協力のみになるがな。ちなみにこれがその証拠だ」
ギルド本部。
ギルドマスターの個室。
ゲッシュの前で報告を終えたスレイは左手に嵌めた腕輪を見せる。
それは嫌味の無い上品な輝きのしとやかで滑らかな金毛を編み上げて作られた簡素な腕輪であった。
しかし、その簡素な造りに反し、その美しさは今までゲッシュが見たどのような装飾品にも勝り、内包する圧倒的な神気は様々な経験を積んできたゲッシュを圧してあまりあった。
だがそれ以上にゲッシュはそれを示してきたスレイ本人の変化に瞠目していた。
今まで感じていたような圧倒的な力の威圧感は感じない。
むしろ静かに周囲に解け込んでいる。
それでいながら見ただけで惹き込まれるような凄絶で妖しい魅力に目を奪われた。
容姿に変化は無い。
せいぜいそれなりに整っているというだけだ。
でも違う。
まるで何ものをも斬り裂かずにはいられない鋭い一本の刃のような、恐ろしさを感じながらもどうしても惹き込まれずにはいられない、そんな存在感。
静かでありながら、いや静かだからこそ逆にそんな雰囲気が心に何の警戒もさせずに入り込んで来る。
いったいディラク島で何があったというのか。
もはやスレイはゲッシュの知る彼とは別人のようであった。
だがゲッシュとて探索者ギルド・ギルドマスターの責を負う身。
すぐに我に返ると重々しく頷いてみせる。
「なるほど、確かにその腕輪の神気、かの神獣・九尾の狐の協力を得たという証になると認めよう。しかし、かの神獣を呼び捨てかね?」
「まあ、俺の女にしたからな」
スレイの言葉は、しかしもはやゲッシュにとっても予想通りの物だったので、ただ肩を竦めてみせるだけに留める。
「ふぅ、変わったようで変わらない、か。ところで、シズカ殿はどうしたのかね?君と一緒にこちらに戻ってきたという知らせは受けているのだが……てっきり向こうに残ると思っていたのだがね?」
ゲッシュの質問に、スレイは微かに思い返すようにして答える。
「ふむ、何やら暫くは探索者を続ける、などと言い出してな。まあ、ノブツナやノブヨリは反対というより、意味が無いというような事を言っていたが、トモエの一声であっさりと決まってしまって……あの一家は本気で女が強いな。ともかく、こちらに戻ってきたはいいが、流石にソロでやるのも無理があるだろうと思ったんだが、俺はこれから忙しくなるし、どうした物かと心当たりが無いか考えていたんだが、丁度クロウ達が戻って来ただろう?」
「ああ、元S級相当探索者の知り合いをかなり連れて来てくれたね。流石に元SS級相当探索者の知り合い達となると、かなり偏屈で、相当変わった場所に隠棲してるらしいから、今回は接触出来なかったと言っていたが、それでもかなりの収穫だ」
僅かに顔を綻ばせるゲッシュにスレイはふむ、と頷く。
「クロウ達の知り合いの元SS級相当探索者か。その時代のSS級相当探索者というのには実に興味があるが……まあ、今は関係無いな。ともかく、クロウの方で、その知り合いの元S級相当探索者達にシズカの面倒を見て貰うと言う事だったんで、任せて来た。クロウの知り合いで、それだけの実力者だ。シズカの才能もあるし問題無いだろう」
「ほう、なるほどね」
納得したように頷くゲッシュ。
「それでだ、ゲッシュ。先程の件だが……」
「ああ、ヒヒイロカネ製のディラク刀の大量の貸与と引き換えにこちらからも優秀な探索者を相当数ディラク島に派遣するという話だね。確かに中々どちらにとっても上手い提案だ。細かい所は直接詰めなければいけないだろうが、問題無くその方向で話は纏まると思うよ」
「ふむ、そうか助かる」
頷いたスレイにゲッシュは苦笑いする。
「いや、助かったのはこちらの方だ。正直本当に良くやってくれたと思う。最初君が九尾の狐の説得に向かうなどと言い出した時は色々と不安だったのだが、どうやら杞憂だったようだ」
「失礼な話だな」
言葉と裏腹に軽く笑ってみせるスレイ。
ところで、とゲッシュは疑問をぶつける。
「これから忙しくなる、とはどういう事かな?君が動く、というのはどうにも大事になりそうな気がして不安なんだが」
「何、ディラク島で邪神のちょっかいに対する備えを固めたように、大陸中央と四方に対しても同様の備えを行う。それだけの事だ。まあ、その前に幾つかする事があるんだが……とりあえずは最も戦力が低い大陸北方、俺の故郷から手を付ける事になるかな?」
「……なんと、まあ」
どこか唖然としたような表情のゲッシュにスレイは訝しげな視線を向ける。
「なんだ?」
「いや、君がまさか、そんな、自分以外の事に広く目を向けるとは。と、少しばかり君の事を知る身として驚いていた」
「まあ、色々とあったのでな」
失礼な言い草ではあるが、スレイは特に気を悪くした様子も無く穏やかに笑ってみせる。
その笑いにも驚愕を覚えるゲッシュ。
しかしそれは口に出さず、別の疑問を口にする。
「だが、その備えとやらで、本当に邪神に対して有効な手となるのかね?」
「ふむ、ディラク島でも何度か説明したんだが、奴等は酷い快楽主義者だ。直接のちょっかいより、間接的な干渉をしてくる可能性の方が高い。そして、もし直接奴等が出てくるのなら、奴等は全て俺の獲物だ、俺がこの手で討つ」
一瞬浮かんだスレイのあまりに凄絶な笑みに背筋を凍らせるゲッシュ。
しかしすぐにその笑みは消え、ゲッシュは落ち着きを取り戻す。
「そ、そうか。ところで、備えると言っても具体的な手段はあるのかね?」
「ああ、幾つも案はあるし、その為の手順も考えてある。まあ、詳細は秘密だが」
少しばかり茶目っ気を見せるスレイに、またも唖然とするゲッシュ。
だが、それでも確認すべき事は確認する。
「それで、その前にする事とはいったい?」
「ん?とりあえずは神峰アスール火山の破壊と創造の炎を持つ不死鳥の特殊個体を捕獲しようと思ってな」
「なっ!?いったい何の為にっ!?」
驚愕の声を張り上げるゲッシュにスレイは淡々と答える。
「ふむ、ところでだ、アスール火山の不死鳥の特殊個体のモンスターランクは知っているか?」
突然の質問に、ゲッシュは困惑しつつも、停滞無く答える。
「EX+級だろう?その程度は……」
「まあ、その通りなんだが、今のそいつは現実問題規定不能級にあるぞ?」
「は?」
もはや理解不能と言った様子のゲッシュに対し、スレイは構わず続ける。
「まあ、アスール火山が神峰の名の通り、その頂上が霊穴になってる事が理由なんだが。その恩恵を受け、本来のランクよりもそいつは強力になってる訳さ。まあ、正直捕獲して自分のペットにしたい、という理由もあるんだが、一番の理由はその霊穴を解放して、この世界の力自体をより強固にしておきたい、という事だな。それもまた邪神共に対する備えになる」
「……」
ゲッシュにとっては、全く以って知らなかった話に目を白黒させていると、スレイは続ける。
「それと、予定としてはそれだけなんだが、どうにも勘が働いてな、近い内に厄介事に巻き込まれそうな気がする。幾つか、と言ったのはそういう事だ」
「……君の勘か、それは当たりそうだね」
「ああ、100%当たる」
「……」
もはやそれは勘とは呼ばないのではないかと思いつつも、ゲッシュは沈黙を保つ。
そんなゲッシュに背を向けながらスレイは告げる。
「それじゃあ俺は行かせて貰う。まあ、色々大変だろうが頑張ってくれ」
そして、スレイはそのままあっさりと退室していった。
ゲッシュは、机の上で手を組み、溜息を吐く。
「色々大変か……全く、本気で君のおかげで仕事が増えて大変だよ。とは言え、事態は前進している上での大変さだ。全て速やかに片付けていくしかあるまい」
苦笑すると、ゲッシュはテーブルの上にあった魔法のベルで秘書を呼ぶ。
ディラク島のノブツナとの交渉のセッティングや、他色々とやらなければならない事をこなす為だ。
そして今日もまた、ゲッシュの日常は仕事に忙殺される。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。