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  シーカー 作者:安部飛翔
第5章
1話
 あれから大分時間が経ちようやくジャガーノートの“命令”から解放された一同は、フルールの力によってヴェスタ世界のクロスメリア王国王城の練兵場、あの時からほぼ変わらぬ時系列上の時間へと帰還を果たしていた。
 突然消えたかと思った各国の首脳陣が、一瞬でまた現れ、しかも様子が変わり果てている事に驚く練兵場の外れの兵士達。
 だれもが重苦しく疲れ果てた雰囲気なのだ。
 その空気を無視した明るい声で、フルールがスレイに語りかける。
「いやぁ、先刻も思った事だけど、スレイがいるとこの世界への出入りに力を消費しなくて楽でいいねぇ」
『気を付けるのだなフルール、お前の力が回復している事、そして下級邪神に匹敵する存在である事、我と主は既に気付いている。即ちもはや他の邪神もお前の真の力に気付いているという事だ』
 気楽なフルールにディザスターが忠告する。
「分かってるよ、でもそもそも気を付けようが無いだろう?回復してしまった力はどうしようもないし。それに、今のスレイだったら大抵の事は心配無いんじゃない?」
『ああ、確かに主の成長は著しい。あの場へ戦場を移してくれた事に感謝しよう。あの場にあり続けるだけで主を縛っていた枷はもはや全て解き放たれた。だがまだだ、まだピースが幾つか不足しているのだ』
「ディザスター、君、何を考えてるの?」
『主の欲望を真に叶える事、唯一それこそが我が望みだと覚えおけ』
 そんな自らに関わるペット達の会話を聞きながら、スレイは良く寝たとばかりに呑気に欠伸などしている。
 それを見てフルールは再びスレイに語りかける。
「ねーねースレイさぁー、あの世界での戦いというかあの小細工満載の戦いを見て、その上で今のスレイだったら僕を見て、思い付く事あるんじゃないの?」
「ふふん?お前だったらそれこそこの場の全員を邪神と戦える速度域まで誘える事や、それと同様の効果の加速薬のような物を創れるだろうという事か?気付いちゃいるが、興味が無いし、むしろ邪魔するぞ俺は」
「……やっぱりそれって」
「当然、邪神は全部俺の獲物だ。まあ一柱ぐらいならお前とディザスターに譲ってやってもいいがな。その場合、2人で仲良く半分こしてくれ」
「スレイってほんと……」
 フルールの質問にあっさりと答えてみせるスレイ。
 だがそのまま続けられた言葉にフルールは思わずじと目になる。
 そして続けて告げられた内容に、もはや呆れるしかないフルールだった。
 ちなみに、当然これらの内容は周囲に聞こえない特殊な発声法をしている為、誰にも聞かれる事は無かった。

 そのまま一同は一旦円卓の広間へと戻ろうという事になった。
 本来であればそのような予定など無かったのだが、予想外の事態が起こり、またも話し合う必要が出来た、その為だ。
 先程エリシアを口説き堕とし、格好付けて退室したスレイとしては不本意だったのだが、まあ仕方あるまい。
 他の侍女達と共に広間を片付けていたところに、突然一同が戻って来た事に、他の侍女達と同様に驚いているエリシアに、スレイはひっそりと近付き声を掛ける。
「すまんな。先程あのような事を言った手前恥ずかしい限りだが、また世話になるようだ」
「え?……は、はい!!」
 暫し戸惑ったエリシアは、その後どこか嬉しそうに明るく頷くが、そのままアルスに呼ばれて行く。
 恐らくは再度の会議に際しての準備の指示を出されるのだろう。
 まあ、もともと、最初からこの会議の諸事を任されていたエリシアだ。
 分かっていた事だが、王城の侍女の中でもそれなりの立場にいるのだろう。
 そう思い周囲を見渡してみると、やはりこの面子、厳密に顔を知ってる訳でなくても、姿絵や噂話など色々と情報源はあるのだろう、この場に集ったような面子に囲まれた他の侍女達はどこか浮き足立ち、浮かれたような緊張したような微妙な姿を見せている。
 そして全員が元の席に座る中、スレイの予想通り、エリシアの指示でその侍女達は姿勢を正され、そのまま再び会議をするのに必要な全ての準備を手早く整え、そしてエリシアを残し退室していた。
 再び出された熱いお茶を冷まし飲みつつ……別に冷ます必要など無いのだが雰囲気というものだ、スレイは優雅にティータイムと洒落込む。
 フルールは右肩の上、ディザスターは足下と、先程と同じ位置だ。
 スレイが1人悠然と寛いでいる中で、場の他の者達は誰もが重苦しい雰囲気で黙り込んでいた。
 まあ当然の事だろう。
 ジャガーノート。
 上級邪神の名を冠する彼女が現れた時点で、何を言われたかも分からぬ内に彼らは全てを失い地に伏し、“命令”の効力が薄れるまでそのままだった。
 意味不明にもほどがあるだろう。
 なにせ地に伏している間彼らには何も無かった、つまり彼らにとってはジャガーノートという存在が現れると同時、自分達は何故か地に伏していて、起き上がってみると何故かいきなり現れた筈のその存在が居なかった、そんな状況なのだ。
 それでもただ一つ分かる事はあるだろう。
 自分達の無力さというものだ。
「ディザスター殿」
『なんだ?小娘』
 シャルロットの問いかけに答えたディザスターに、スレイはおや?と思う。
 他の者達も疑問の表情を浮かべている。
 ディザスターのシャルロットに対する小娘呼ばわりにどこか違和感を感じたのだ。
 だがまあ、気にする事も無いだろうとスレイはすぐに疑問を放り出す。
 だいたい、スレイは今少々気だるかった。
 いや、それは正確ではない。
 かの世界の墓場に行く前よりはずっと身体も軽く、何よりも世界の束縛から自由になっている。
 それでもなお、世界の墓場にいた時に比べれば、圧倒的なまでに束縛され重圧が掛かっていた。
 あの時に比べれば使える力など1%ほどもあるだろうか?
 なんにせよ、あれほどの解放感を知ってしまった今、あまりにもこの世界は閉塞感に満ちていて仕方ない。
 なのでスレイは極端に気力が落ちていた。
 だから会話をただ聞き流す。
「あの者が、上級邪神、求道のジャガーノート、で相違なかろうかの?」
『そうだ』
 1人と1匹の会話に、場がざわめきに満ちる。
 全く元気な事だ、と呆れるスレイ。
 尤もこの世界に戻ってきてからも、戦いと女に関する事ではあれほどに雄弁だったスレイには誰も言われたくないだろうが。
「……あれが、上級邪神」
 誰かが、ただ呆然としたように呟きを漏らしていた。
 会話は続く。
「それでですじゃ、結局、あの場で何が起きたのだの?」
『お前達はジャガーノートの“命令”に縛られ、その効力が切れるまで地に伏し続けていた。ただそれだけの事だ』
 今度場に満ちたのは沈黙だった。
 ある程度の覚悟はしていた。
 それでも現実を突きつけられれば誰とてショックを受ける。
 自分達が邪神てきの前であまりにも無力であるという現実を。
 だがシャルロットは続ける。
「では、何故妾達は無事なのでありましょうかのう?」
『それは……』
 迷ったようにスレイを見上げるディザスター。
 何せスレイに関わる事だ、スレイの判断を、と思ったのだろう。
 スレイほど極端ではないとはいえディザスターもまたこの世界に束縛を受ける身なのは同じ。
 そしてその上で、今ではスレイの考えを読む事までは出来なくなっていた。
 なので、実際に判断を仰ぐしかない。
 対しスレイの答えは簡潔だった。
「まあ、ジャガーノートが俺にビビって逃げ出したからだな」
 対し、場の反応は様々だった。
 まあ全体的には信じてない者が多い。
 当然ではあるが。
 何はともあれ、スレイに一つだけ言える事は、あまりにも煩いという事だ。
 鬱陶しいにも程がある。
 そんな中、1人落ち着いてシャルロットが、騒ぎの中でさえ良く通る声でディザスターに尋ねる。
「それは、本当でありましょうかのう?」
『いや、それは……ビビって逃げ出した訳ではないが、主とのやりとりの結果として、一時的に引いた、というのは事実だな』
 何故ディザスターに聞くとシャルロットを睨み、自分の言葉を否定したディザスターも睨むスレイ。
 ディザスターの答えに、一部糾弾するような声がスレイに対して上がっているが無視だ無視。
 そのまま飄々とお茶を嗜むスレイを見ながらシャルロットは告げる。
「では、少なくともスレイ殿がかの邪神の“命令”を撥ね退けた事と、対等に話し合ってみせた事は確かなのじゃな?」
『ああ、間違いない』
 今度のやりとりにはまた沈黙が落ちる。
 スレイを責めていた者達も、その事実に思い到り、ただ愕然としている。
 というか先程から騒いだり黙ったり、どっちにしろ鬱陶しい。
 スレイはただただ煩わしくて溜息を吐く。
 だが、面倒臭い事にシャルロットはスレイに対して尋ねて来た。
「スレイ殿、スレイ殿は上級邪神より強いと考えてよいのかのう?」
 あまりのシャルロットの質問にまたもざわめく場。
 スレイはひたすら億劫そうに口を開く。
「戦えば俺が勝つ。だが強いかといえばノーだ。あの場に現れたのはただのジャガーノートの念体だ。本体の1割程度の力しかない。それと俺の力で互角だった。本体の力なら俺より圧倒的に上だろう」
 それに、世界の束縛も俺の方がたっぷり念入りに受けるしな、と皮肉気に笑うスレイ。
 場に絶望的な雰囲気が満ちる。
 スレイを責めていた者達とて、結局はスレイが本当にジャガーノートに敵うなら、と期待していたのだろう。
 そうでなければ、もはやどうしようもないのだから。
 だからこそスレイの言葉に絶望に染まる訳だが。
 俺は戦えば勝つ、と言ってるんだがな。
 とスレイは思いつつも、まあこいつらに言っても無駄かと諦め別の事を言う事にする。
「何を葬式みたいな雰囲気になっているのか知らんが、話をちゃんと聞いたか?俺はあれを念体と言ったぞ。つまり本体はまだ復活していないという事だ」
 誰もが顔を上げ、驚き、またもざわめく場に向けて続ける。
「つまりだ、封印の強化とやらをすれば、念体も出てこれなくなって万々歳じゃないのか?……まあ、あいつは俺の女にするんだから、そんな事はさせないけどな」
 スレイの言葉を、当然後半はスレイの発声法により聞こえていない、その言葉を聞いた者達には希望の色が浮かびあがる。
 だが今度は別の者から疑問の声が上がる。
「ですが、その念体にさえ私達は全く抵抗できませんでした。封印の強化をそのジャガーノートの念体に邪魔されてしまえば、どうしようもないのではないのですか?」
 台詞の内容の割に、明るく力強い声色だった。
 スレイは相手を見る。
 聖王イリュアだ。
 そういやこいつは、最初から特に他みたいに騒ぎもせずに、俺の方だけ見てやがったな、と思う。
 マリーニアでさえ、俺の言葉の真偽も不明であたふたしてやがったってのに……まあ、あいつに“視”える領域じゃないから当然なんだが。
 それでいながら、最初から俺を見ている辺り、本気で何かありそうだ。
 なんというか、スレイはあまりの面倒臭さに、心の中の声まで乱暴な物になっていた。
 普段なら心の中であっても、美少女相手に“こいつ”なんて思わないし、ここまで乱暴な言葉遣いじゃない。
 だがまあ、それだけ面倒臭くてもようよう答える。
「問題ないだろ。アルス王との戦いで言った筈だけどな。奴らの力はこの世界では束縛される、って。あいつの力があそこまで圧倒的だったのはこの世界の外だったからだ。だからこの世界ならある程度は何とかなるよ。……あくまである程度でしかないし、何より一番束縛を受けてるのは俺だが」
 スレイの答えに、ようやく場の者達の顔に希望の色が差し始める。
 ちなみに当然後半の台詞は“聞かせていない”。
 あー、あとあまりの衝撃にこいつらがジャガーノートの“ご主人様候補”や“天才”発言忘れてくれてて良かったなー、と思う。
 まあ現れて突然言った一言で、その後はいきなりの一発だ。
 そんな些事忘れていて当然だろう。
 そう考え、スレイとしては、もう必要な情報は提供しただろうし、務めは全て果たした気分で、周囲など気にせず、身体を伸ばし、その後卓に突っ伏しだらける。
 ただやはり聖王イリュアだけは真剣な表情でスレイを見詰め続けていた。

 その後、行われたのは結局の所、元から先程の会議で決まっていた封印の地探索、戦力増強、アイテム収集と言った事の確認程度。
 後は新しい事として、探索者ギルド本部の転移の間の使用許可があの場の全員に下りた事くらいだろうか?
 なにせ迷宮探索メインとなるのだ当然だろう。
 それから、各代表達がまだ数日留まり話し合いを続ける事も決まった。
 これ以上話し合いをして何になるのかとも思うが、まあお偉い方というのは、そういう会議が好きな物なのだろう。
 勝手な偏見で決め付ける。
 尤もスレイは参加などするつもりはない、ゲッシュに言ったところ散々懇願されたが、完全に無視し、妥協案として提示してきたディザスターとフルールの参加を受け入れておいた。
 やや恨みがましい目を二匹に向けられたが。
 なんにせよ、だ、スレイにはそんな事より重要な事がある。
 スレイはまるで王城内を熟知しているように自由に闊歩し、それでいながら面倒臭い相手を全員避けるという真似をしてのけ目的の相手の下へ最短距離で向かう。
 なにせ客人とはいえ本来なら王城など自由に歩き回っては問題だろう。
 スレイの知った事じゃないが。
 そして目的の相手を見つけるとスレイは声を掛けた。
「エリシア」
「え?あ、スレイ様!」
 一瞬驚いたような表情をするも明るい笑顔で返事をするエリシア。
 どうやら移動の途中だったらしい。
 特に何か仕事をしていた形跡は無い。
「これから何か用事か?忙しいなら後で出直すが」
「あ、いえ。確かにこれから雑務はありますが、とりあえずそれほど急ぎの用ではないのでお相手はできますよ。でも、出直すって、まるで私が何処にいても見つけ出せるみたいな言い草ですね」
「当然だろう、愛しい女の居場所くらい、俺の想いがあれば必ず見つけ出してみせるさ」
「え?あ?……もう、スレイ様ったら、本当に。くすくすくす……」
 どうやらただの口説き文句と思われたようで、実際口説き文句でもあるのだが、嘘ではないのだがな、とスレイは思う。
 ただ厳密には愛しい女でなくても誰でも見つけようと思えば見つけられる、という所が大きな違いだろうか。
 まあ、なんにせよ、受けたのならば問題無い。
 それにしても、と思う。
 始めて円卓の間で見た時は、生真面目な表情のお堅い美女だったのだが、随分と自分の前では明るく豊かな表情を見せてくれるようになったと。
 これもまあ、自分の徹底的な努力があっての事だろう。
 あの短い時間で、言葉だけじゃない、タイミング、相手の気息、思考の間隙、相手の性格についての徹底的な分析、そこから導き出される最適な戦術、いったいどれだけの密度のアピールをしたか。
 それこそ戦いに通じる物があった。
 だが結果、これだけの美女が、自分に微笑んでくれるのだ悪くないと思う。
 そしてスレイはエリシアの耳元に口を寄せて告げる。
「なあ、今晩エリシアの個室に行きたいんだが。使用人の個室のある場所とその中のエリシアの個室を教えてくれないか?」
「え?あ。そ、そんな。まだ今日会ったばかりなのに、そんないきなり」
「だめか?俺はエリシアの全てが知りたい」
「え?でも、私、仕事以外で、男の人の事とか全く知らなくて……」
 まるで幼い少女のような仕草を見せるエリシアに思わず柔らかい笑みを浮かべるスレイ。
 実に可愛らしいと思う。
「それは嬉しいな、俺はエリシアの初めての男になれるんだったら死んでもいい。……駄目か?」
「あ?……分かりました、私の部屋は……」
 上手くエリシアの個室の場所を聞きだす事に、つまりそういう関係になる事を了承させる事に成功するスレイ。
 ちなみに命を賭けれるのは嘘じゃない。
 スレイの場合、自分の女1人1人全員に命を賭けられる……いったいどれだけ命を賭ける羽目になるのか分からないが。
 そして談笑に移る2人。
 どこから見ても仲の良い恋人同士にしか見えない。
 そんな時だった。
「貴様っ!!何をしている!!」
「ん?」
「あら?ザイン?」
 2人に、いや正確にはスレイに怒鳴り声が掛けられた。
 スレイは気付いてはいたのだが、そもそも興味が無くて放置していたのだが。
 男、王城の一般兵の格好をした男である。
 実際この王城の兵士なのだろう。
 こんなところで何をしているのかは分からないが。
 興味なさげなスレイに、その男、ザインが再度怒鳴る。
「貴様っ!!いったい何者だ!?見かけぬ顔だな!!この王城内で何をしていると聞いている!!」
 またも怒鳴り声を上げたザインに、エリシアが慌てたように声を掛ける。
「ザインっ!!貴方!!早く謝りなさいっ!!この方は探索者ギルドの代表者としてやってこられた、ギルドマスター・ゲッシュ様のお付きのS級相当探索者よっ!!国王陛下の大事な客人に対して一兵士風情がその態度、許されると思っているのっ!?」
「え、え?」
 エリシアに怒鳴られたザインは一瞬唖然とした表情になると、慌てたように頭を下げる。
「こ、これは大変失礼しました!!王城内で見掛けぬ顔を見た物で思わずっ。真に申し訳ございません」
「いや別に構わないが……」
「良かったわねザイン、スレイ様が寛大な方で」
 どうでも良さそうに告げるスレイと、微笑むエリシア。
 実際は寛大とかではなく、本気でどうでも良いだけなのだが、これすらもどうやら自分に対する好意を高めるのに一役買ったらしいので、良い事としておく。
 しかしスレイは気付いていた。
 ザインという兵士が自分に対し憎しみに近い視線を向けている事に。
「しかし、スレイ様。真に老婆心ながら申し上げさせて頂きますと、いくらお客人といえど、王城内、しかもこのような奥を歩き回り、王城の侍女と個人的にお話されるのは如何かと?私がご案内致しますので、客室……いえ、この場合は貴賓室でしょうか、そちらのある場所へと戻っていただけますか?そこまでいけば今回割り当てられたスレイ様用の個室もお分かりになるでしょう」
「ザイン、貴方何言ってるの?」
「エリシア殿、貴女こそいったいどうなされたのですか?王城の侍女たる者が、客人相手にこのような場所で個人的に談笑するなど」
「そ、それは……」
「さあ、スレイ殿。来て頂けますか?」
 流石に場所や状況的にはこのザインという男の言い分に分がある。
 ザインという男の態度に困惑するも、自分が取っている今までにない行動から何も言い返せないエリシア。
 ふん、なるほど。
 そのザインの視線からスレイは気付く。
 どうやらこのザインという男、エリシアに片思いしているらしい。
 エリシア自体はこの男を何とも思って無いという事も反応から理解できるし、既に個室の場所は聞き出している、だからそれ自体は問題無いのだが。
 場所、というのなら、こんな場所に一兵士が居る筈がない、とスレイは理解できる。
 というか大体の兵士の配置状況も把握したし、警備兵の姿ではない。
 つまり、この男、エリシアと話す機会を伺っていたというあたりか。
 で、エリシアと談笑している俺を邪魔した訳だ。
 ふと、村での事を連想して思い出し怒りが湧きあがるスレイ。
 勿論、一段階フィルターを通した制御された怒りではあるのだが。
 そして思う。
 だいたいだ、片思いしてるだけの分際が、その相手が他の男といるのを邪魔する権利なんてあると思ってるのか?
 ハッ、笑えるな。
 その権利が欲しいなら、まずは相手を自分に惚れさせてみせろ。
 それが出来ないならそもそも論外だ。
 話しにもならん。
 なんの資格も権利も無いただの部外者に過ぎん。
 分際を弁えろっていうんだ。
 そこでは止まらなかった。
 元々少年時代は本の虫だったスレイは当然様々な物語なども読んできている。
 その為段々思考は村での幼馴染達の仲を嫉妬した馬鹿共の行動から、今まで読んだ物語の内容にまで及ぶ。
 そしてザインという男、どころかこのような男全体にまで波及した心の中の罵倒が続く。
 それがなんだ。
 勝手に片思いした連中が、強引にそういう行為を迫る、明らかに両思いの相手を邪魔する、権力を利用したり、様々な卑怯な手段を使って相手を物にしようとする、しまいには実際強姦するような話まである始末だ。
 何度でもいうが、相手を物にしたければ惚れさせろ、それが最低条件だ、それさえできないのは脇役ですらぬるい、そこらの道端の小石役でもやってればいいんだ。
 自分が惚れた、なんてのはなんの権利にも資格にもならん、惚れた奴はあくまで選ばれる立場、選択肢を持つ主体は惚れられた人間の方だ、これは男だろうが女あろうが変わらない絶対の掟だ。
 そう、スレイだって所詮は選ばれた側に過ぎない……まあこれはスレイの場合、相手が美女・美少女の姿をして、性的に女と呼べるモノならなんでもアリだから、そもそも選ぶ側になりようがないという一面もあるのだが。
 だからスレイは欲しい女が居たら、ただひたすら惚れさせる為にアピールする、ディザスターと会い、自らの欲望を自覚した時から、そうするようになった。
 いや、恐らくはそれ以前からも無意識に、相手の心理を読んで、気の無い振りなどしつつ、そうやって相手の心中の核心を突く部分を狙ってアピールしていたのだろう。
 我ながら節操の無い事だとは思うが……それでも選ばれてもいないのに自分に何か権利や資格があると勘違いするようなどうしようもない屑よりはマシだ。
 少なくともそれだけは断言してやる。
 それをだ、そんな強引に相手に屑な真似をするような連中が物語には沢山出てきて、しかも相応の報い……そう、最低でも去勢するぐらいは当然だろうに、全然報いを受けないどころか、いきなり別のところで幸せになったりする。
 その物語の作者の頭はどうなってるんだ?
 蛆でも湧いてるのか。
 ああ、それに物語だけじゃない。
 こんな権力の横行が罷り通る世の中、今この城に居る様な優れた為政者ばかりではあるまい。
 それこそそんな理不尽が今もこの世の何処かで起きているのかもしれない。
 幾らでも湧いてくる物語への文句、そして現実へも考えが及び、いつか必ずこの手で実在するそんな屑や理不尽は全て消さねばならないという義務感。
 だが今の自分はまだ駄目だ、今始めても半端な事しか出来ない、今の自分はまだ何者にもなっていないとスレイは思う。
 おかしな話に聞こえるかも知れないが、これはスレイにとって当然の心理だ。
 唯一絶対の最強、それを未だ証明出来ていない今、スレイにとっては自らは未だ何者でも無いのに等しいのだ。
 そしてそんな自分が今この世の気に入らない事全てに対し何か大きく干渉など始めても半端な事にしかならないと本気で思っている。
 何度も言うように、スレイはこの世の誰にも負けるつもりは無いし、この世の全てを敵に回しても勝てるつもりでいるし、そして自らはこの世の何者にも縛られないと確信している。
 だからその気になればこの世の全てを“壊せる”とも思っている。
 だが、この世の何かを根本的に“変える”とは、それとは違う、それ以上の力が必要だと思っているのだ。
 ……どうやらスレイも一応はこの世の在り方を正したいと思える人間だったらしい。
 まあそれが、女性関係だけに限定されてるのが“現在いま”のスレイの限界なのだが。
 ともかく何もできないのが結局は自らの力不足故に自らへも怒りが湧きあがる。
 これではまるでスレイの怒りがエスカレートして、感情を制御できてないように見えるかもしれないが、実はそんな事はない。
 今、スレイは敢えて自分の怒りをエスカレートさせ、その怒りとこの状況を利用する事で、昔溜まっていたフラストレーションと今溜まっているフラストレーションをわざわざ呼び起こしそれを解消しようとしている。
 つまり、過去の出来事や物語を読んで感じていた怒り現実に未だ手を出せない自分の未完成さへの怒り、それら全てのターゲットをこのザインという兵士として、片思いなのにまるで自分にエリシアに対して何がしかの権利や資格があるかのように振舞うこの兵士の前で、エリシアが完全にスレイの物になった事を見せつけ、完全に独占し、決して手が届かないのだと思い知らせる事で、徹底的にこの兵士をへこませ怒りを解消する。
 怒りに振り回されるのではなく、怒りすらを制御し完全に自分の道具として扱い、そしてこの相手の兵士もついでに道具として扱って、今は邪魔な感情である怒りを解消してしまおうというのが目的だ。
 勿論エリシアを自分の女にするのは本気の想いだし、決して半端な気持ちでやることでは無い。
 何度も言うように、スレイは片思い風情の、相手を自力で惚れさせる事もできない、資格も権利も持たない、それでいながらまるでそれを持つかのように振舞う屑には存在価値が無いと思っている。
 だから、このザインという兵士をそこまで精神的に叩きのめす事にはちゃんとスレイなりの意義があるのだ。
 ……尤もしつこい片思いも、ダグほどまで滑稽になれば、ギャグというか何というか、なかなか憎めなく、どうも妙な愛着すら湧いてしまうのだが……。
 まあ、幸いになのかそれとも悪い事になのか、ザインはそうではない。
 だから存分にやって問題無い。
 だが、とスレイは思う。
 こういう勘違い屑野郎ももし相手の女……この場合は敢えて女に限定しよう、その相手が自分と同じ節操無し、いやゆるいというのだろうか、そういう相手だった場合は、本質が勘違いした屑野郎な事に変わりなくても、対象がゆるい相手に代わるだけで勘違いではなくなって責める事ができなくなってしまう、その場合そのゆるい相手に怒りが湧くのだが、節操の無い自分では同属嫌悪という事になって責める事が出来ない。
 いや、一応理屈では叩けるのだ、人間の場合は男が種付けするだけなのに対し、女は母体として一生に生める子供の人数も限られ、さらに出産の身体への負担を考えると、遺伝子を残すという目的を考えると云々~と、理屈で徹底的に叩く事は。
 なによりこれでスレイは子供が好きだ。
 自分の子供など生まれれば、それこそ周囲から親馬鹿と言われる程可愛がる自信がある。 だから尚更感情移入してるとムカつくのだが。
 だが同類のスレイが言ってしまっては、折角の正論も「お前が言うな」で終り、その正論自体を貶める事になりかねないので、決してスレイが自分でそれを言う事はないのだが。
 まあこれは今回の事には関係の無い余談だ。
 とりあえずはこの屑に身の程というのを思い知らせてやることにしよう。
 スレイはあくどくニヤリと笑いエリシアの肩を抱くのだった。

某日【ディラク島】クランドの国“クランドの城”鍛錬場
 夜中。
 それなりの広さを持った鍛錬場で1人刀を振るい、汗を流すクランド。
 傍では占い師の女がその様子を観察している。
 そして女はただ驚いた表情を浮かべていた。
 これはっ!?
 思わず女は心中叫びを上げる。
 女はクランドよりも速さを極めた刀術の使い手を知っていた、力を極めた刀術の使い手も知っていた、技を極めた使い手も知っていた、それら全てを極めた使い手も知っていた。
 何より女は、超一流の探索者の刀術を極めた存在というものも何人も見た事がある。
 そして、そもそもそんな超一流の者達と比べずとも、クランドはただの人に過ぎず、クランドの振るう刀術は所詮人の物に過ぎず、肉体的にあらゆる面で探索者には及んでいなかった。
 だがそれでも、女は自らが見た事のあるどのような使い手の刀術よりもクランドの刀術を美しいと感じた。
 その脆弱な人の身の限界までの全てを駆使したその動き。
 あらゆる無駄が無い。
 全ての動きに意味があり、全てが次の動作に通じ、その動作もまた次へと繋がっていく。
 どこまでも続く刀の舞踏。
 極まっていた。
 己が限界の全てを駆使した極まった刀術であった。
 だがそれでもなお、クランドの刀術は未だ成長し続けている。
 それを女は理解する。
 違う、と理解した。
 今まで見てきた技という物が真の意味で技というに及ばないあまりにも粗雑な物に過ぎると理解させられた。
 技とは弱者が強者に勝つ為の工夫。
 このような言葉に対して女が今まで抱いていた印象は実に酷い物だった。
 弱者風情の工夫に何の意味がある?
 所詮はただの悪あがきだ。
 だが違った。
 その弱者の工夫が、ここまでの芸術に近しい美しさへと昇華されるのだと女は始めて知った。
 城下に流れる、今まで下らないと一笑に伏してきた噂話を思い出す。
『クランド様は、刀術の才能だけなら、鬼刃ノブツナや刀神クロウなんて目じゃない、本物の天才だ』
 そう下らない、と思っていた……今までは。
 だが今なら分かる。
 その通りだ。
 もしこの男が探索者として彼らと同じステージに立ったのならば、彼らなど相手にもならないだろう。
 素直に、そう認めるしかなかった。
 そして見詰める。
 汗を飛び散らせ、呼気を乱しながらも、決して自らに妥協を許さず刀を振るい続けるクランドを。
 日中は常に国主としての仕事に従事し、ただ夜中のみただ1人の剣士として己が身を鍛えるこの男を。
 そして思わずこのような言葉が口を突いて出る。
「クランド、お前は、探索者になりたいと思った事は、なれない事に不満を感じた事はないのか?」
「何を言っている?」
 女の突然の発言に、刀を止め、女の方を向いたクランドは眉を顰めて訝しげに問う。
 本気でこいつは何を言っているのか、といった表情だ。
「だから、そのような脆弱な人の身で刀を振るうのではなく、探索者となってもっと強い剣士になりたいと、その力でこの国を大きくしたいと思った事などは無いのか、と聞いている」
「……ふっ、くくっ」
 女の続けての台詞を聞いたクランドは一瞬キョトンとした後、思わずといった感じに笑いを溢す。
「何がおかしい?」
「いや何、色々とな」
 女の疑問に言葉を濁すクランドだが、思い直したように言葉を続ける。
「まあいい、戯れだ、答えてやろう。そもそもにしてありもしない物など考えてどうする?そのような事はただの無駄だ。それに俺は国主だ、ならばあるものを使い切り最善を尽くし、民を守り安んじる事のみが己が役目、それ以外は些事に過ぎん」
「……」
 クランドが本気で、何も思うところなど無く、ただ純粋にそれを言っている事が分かるからこそ絶句する女。
「それにだ、俺1人探索者になったところで無駄、というよりむしろ国が危うくなるな。今この国には探索者など1人もいない。まあ当然だな、そもそもにしてこの国の様々な条件からして誰も探索者になれる訳がない。だが、だからこそ今もこの国は保っていると言える」
「なんだと?」
「探索者とは兵器だ、それこそ昔神々がそのように創ったらしいが、今の世でも変わらん、あいつらは規格外の破壊力を備えた兵器なんだよ。かのノブツナの国はそんな規格外の兵器を幾つも抱えている。だからこそ、だ、俺の国相手にはそれを使えない。探索者という規格外の兵器を持たぬ国を探索者という規格外の兵器を使って蹂躙する。外聞が悪い事この上無かろう?ディラク島を統一したとしてその後の統治にも関わってくる問題だ。まあ、聞く限り、どうもあまり物を考えないらしいノブツナならそんな事も考えず平気で自ら突っ込んで来たかもしれんが、幸いな事に今あの国を実質動かしているのは神童と名高いノブヨリ。ならばこそ、考えてしまうが故に、そのような事はできんさ。それを、相手にその規格外の兵器を使わせる理由を与えるなど論外だ。だから俺が探索者になるなどというのは、もし可能だとしても論外だな」
「……」
 やはり女は絶句するしかなかった。
 このように平然と語っているが、あれほどに刀術を極めた者がより高みを望まぬ訳が無い。
 実際望んでいる、女には分かる。
 だが今口にした言葉には何の嘘も無い。
 本気で自分が探索者になるなど論外だと思っているのだ、このクランドという男は。
 そしてその理由も分かる、分かってしまう。
 国の、いや何より民の為だ。
 クランドの魂の輝きは眩く、見えにくい物があるが、それでもはっきりと見える物がある。
 それは魂の奥底に凝った超高密度の負の感情の結晶だ。
 信じられない程の絶望、悲哀、慟哭、怒り、そのような物がこの男の内には押し込められている。
 それでいながら平気で、そのような負の面など何も見せず、日常を過ごしてみせているのだ、このクランドという男は。
 信じられない程の自己制御。
 それ故に女であってもその負の感情には干渉する事ができなかった。
 その負の感情の理由も単純だ。
 彼の国の民1人1人の死。
 信じられない事にクランドは民の本当に1人1人の死に対し、それぞれに子を無くした親の如く絶望、悲哀、慟哭、怒りを抱く。
 自ら多くの民の為に少数の民を捨てる、そのような決断を瞬時に下してみせる癖にだ。
 この国は、今のこの世界ではあまりに珍しい事に、民の1人1人の名をその情報を集めて回り記録する制度があった。
 新しい子が生まれたら登録するのも義務だ。
 なのでこの城にはこの国の民の全員の情報がある。
 クランドはそれを全て記憶していた。
 のみならず、民が死んだその時には、その民の名を覚え係累の事すらも胸に刻み、そして人知れず子を亡くした父のように泣いていた。
 いや実際に泣いている訳ではない。
 心の中で泣いているのだ。
 誰もそんな事には気付いていない。
 女だから気付けた事実だ。
 クランドがこのように男となった理由は、彼が最初に目の前で失ったこの国の民の命、それが彼の親友だった事に関係しているとは思うのだが、そんな事と関係無く、全ての民に対し同じ愛情を注ぐ彼に女は思わず身震いする。
「使え」
「ふむ、気がきくな」
 どうやら稽古を終えるらしいクランドに布を渡しつつ女は思う。
 もしこんな負の感情が暴走すればどうなるか。
 いやそれ以前にこんな人間ものがこの世にいるなど……。
 女は、ただただ呆然と、布で汗を拭うクランドを見詰め続けていた。

「あの、スレイ様?」
「うん、どうした、エリシア?」
 夜中、王城のエリシアに与えられた個室。
 一つのベッドに身を寄せ合うスレイとエリシア。
 スレイはエリシアの艶かしい、先程まで存分に味わった肢体を見やる。
 お堅い女性が乱れるところが本気で興奮すると思い知った。
 何より、そんな女性を一から仕込んでいくのだ、実に趣深い。
 触れ合う身体の柔らかさ、特にその一部分の柔らかさを未だ存分に楽しみながら、エリシアの回復を待ちまだ再開の機会を伺っていると、同じ様にスレイに身を寄せ、どこか気持ちよさそうにしていたエリシアが、突然スレイに今までの甘い声音と違う、純粋な疑問といった声で尋ねてくる。
 それに続きを促すスレイ。
「いえ、ちょっと思い出したんですけど、なんで昼間、ザインはいきなり泣きながら走り出したんでしょう?」
「んー、さあ?なんでだろうな?」
 どうやら本気で分かっていないらしいエリシアにスレイは苦笑する。
 エリシアにとってザインは好き嫌い以前に対象外、眼中にすら無かったらしい。
 しかしまあ、これは流石に、あまりにも分かって無さ過ぎではなかろうか、と思う。
 何せいったい昼間、スレイとエリシアがあのザインという兵士の前でどれだけイチャイチャしたかと。
 スレイ自身、思い出すだけで砂糖を吐きそうな気分になるほど、やりすぎる程にやってしまった。
 制御した上でのフィルターを通した上での感情でも暴走する事があるんだな、とスレイは自分の存在について一つ理解を深める。
 その理由が、まあ、アレだが。
 しかし、気分は大分晴れた。
 おかげでこの世界に戻ってきた閉塞感による気だるさも、多少は改善した。
 ともあれだ。
「でもな、エリシア、あまり感心しないぞ?」
「え?何が、あっ!」
 スレイはエリシアの敏感な部分を弄りながら告げる。
「こういう場面で他の男の名前を出す事だよ」
「え?でも私はそういうつもりじゃ……」
「分かってる、それでも嫉妬するのが俺なんでな、なにせ独占欲が強いんだ。だから俺以外の事は考えられないようにしてやる」
「え?スレイ様、私まだ……」
 嬌声が響き渡る。
 言葉通り、他の何も考えられなくなるほどに、スレイは徹底的な責めを開始した。

某日【ディラク島】クランドの国“クランドの城”軍議の間
「ふむ、我が軍はこの度の戦でもまたノブツナ軍に勝ち領土を広げる事ができた。これも占い師殿のおかげだ、感謝しよう」
「いや、これが私の仕事だからな、当然の事だ」
 クランドが、今ではクランドの情婦として知られるようになった占い師の女を称え、それに女が答える。
 その言葉を聞き場は湧き返った。
 現在クランド軍は破竹の勢いでノブツナ軍相手に連戦連勝を続けていた。
 領土も二倍近くまで広がっている。
 全ては占い師の女のおかげであった。
 故にクランドはいつもの如く当然のように女を褒めた称え、それに女が尊大な口調でいながら謙虚な台詞で答え、場が盛り上がる。
 そんな諸将の様子を見ながら、クランドは言ったこととは裏腹に、深く考え込んでいた。
 いかんな、と。
 確かに領土は広がったが、所詮はディラク島全土から見れば微々たる物に過ぎない。
 それに本来、これほど勝ち続けるなど、逆に害になる事だ。
 なのにただ単純に喜びに湧き、士気の上がる諸将を見て、クランドは思う。
 未熟だ、と。
 だがすぐに思い直した。
 将が未熟なのは主たる己自身の責任、結局は自分こそが未熟だったのだろうと。
 そして女を見て思う。
 この国に留めたのは失敗だったか、と。
 だが、この国に留め監視しなければ、それこそ何を仕出かしていたか分からない、そんな危うい、そして力もある女だ。
 そうクランドは感じる。
 だからこそクランドは自らの元に置き監視する為に彼女を雇ったのだ。
 しかし誤算であった。
 これほどに勝ってしまうとは。
 クランドは思う。
 勝てば戦火は広がる。
 戦火が広がれば民の犠牲が増える。
 我らは民を護る為に振るわれるだけの刀に過ぎん、諸将にも兵士にもそれを徹底してきた心算だったのだが。
 思わず自らの教育が足りていなかった事に自嘲する。
 クランドの理想としては、あのまま小さな戦を繰り返した上で、ノブヨリ側からの交渉を引き出し、その上でこの国の民の扱いを完全に保証させるのが狙いだった。
 神の力、ディラク島の場合は剣神の力を用いた誓約の儀によってだ。
 それが叶えば自らの首など差し出しても良かった。
 だが今のこの有様。
 いつもながら、全く以ってままならない。
 この国の民だけではない、ディラク島全体の民の犠牲が増える。
 クランドは自らの国の民を己が子のように愛していたが、ディラク島の民もまた親戚のようには思っていた。
 明るく騒ぐ場の中で、1人クランドは手で口元を覆い悩む。
 女を自らの情婦としたのは女の思惑を探る為だ。
 思った通りあっさり女はそれを受け入れた。
 何か狙いがある以上、そうなるだろうと予想はしていたが、その後が思い通りに行かない。
 読めないのだ。
 どう考えても女の行動も女のクランドに対する態度も、尊大でこそあれど、本当にクランドの国を単純に勝たせようとしているだけ、そうとしか見えない。
 いや、あるいはクランドの国を勝たせ続ける事で、クランドの危惧の通りに戦火を広げようとしているのだろうか?
 だとしても、それは何が目的だ?
 どちらにせよ、女を手放す訳にはいかない。
 他の国で同じ真似をされればクランドの国の民の犠牲が増える。
 それどころか結果としてクランドの最終的な目的すら妨げられかねない。
 何より得体の知れない力を持った女だ、目を離すのは危険に過ぎる。
 さて、どう動いた物か。
 どこまでも大局を見据え、何が起きても臨機応変に対処する、どこまでも広い視点と柔軟な思考。
 このような、大きく予定が狂った状況で、民の1人1人の死に心を痛め嘆きながらも、表面上ほんの僅かの動揺も見せず、ただ泰然と座り、その威を諸将に見せながら、冷静に思索を続けるクランド。
 そんなクランドを、占い師の女が冷たく悪意に満ちた視線で見詰めていた。

 エリシアが汗や様々な液体で汚れた身体を清め、乱れた髪を整え、乱れ汚れた服を新しい物へと着替えるのを部屋の扉の外で待っていたスレイは、ありえない者を見て、少々眉を動かした。
 聖王イリュア。
 相変わらず黄金色の眩い神聖なオーラを振り撒く、大きめの司祭服の上からでも扇情的な肢体が明らかな彼女が、あの超シスコンな護衛ヴァリアスすら伴わず、このような所を歩いて来る。
 いや、そもそもヴァリアスがいたとして、このような他国の王城の侍女達の個室が立ち並ぶ一画になど、大陸でも最高の宗教的権威を持つ光神の神殿の最高司祭にして、その総本山たる国の国王も兼ねる身が訪れる筈も無いのだが。
 その迷いのない歩みと真っ直ぐに向けられた視線から目的はすぐに知れた。
 俺か?
 疑問に眉を顰めるスレイの前に辿り着くと、イリュアは、相変わらずの神聖そのものの微笑のまま、それでいてその神聖なオーラにどこか不機嫌そうな色を混ぜつつ、驚いた事に明らかな嫌味など言ってくる。
「あらまあ、他の各国の代表者達が世界の為に熱心に話し合っている中、こんな所で優雅に女遊びですか。しかも王城でも屈指の優秀さと堅物さで知られる次期侍女長候補とも噂される女性と。アルス王が嘆いていましたよ?貴方に脅されて彼女を会議の担当から外さなければいけなくて、代わりを探すのに苦労した、と。まあ結局苦渋の選択で当の現侍女長、まあかなり年配の方ですね、を代わりにしたものの、おかげで侍女達がこなすべき他の業務が滞ってる、と」
「……ふむ、意味の無い話し合いになど興味が無いし、俺の野望は既に伝えた通りだ。俺は俺の行動原理に則って行動しているだけだと思うが?何せ欲望の邪神を従える男だぞ、俺は。アルス王に関してはただ丁寧にお願いしただけだ。侍女長の事については知らん。……って何故に抓る?」
 予想外の事態に一瞬沈黙するも、すぐに思ったままに答えを返す。
 ……が、いきなりイリュアがスレイの脇腹を抓ってくるという事態に、やはりまた困惑させられる。
 いや、痛くはないのだが、先程から反応が予想外に過ぎるのだ。
 敢えて“識らない”ようにしているとはいえ、それを除いても洞察力には自信があったのだが。
 そのように首を傾げ不思議がっているスレイに、イリュアはどこか強い感情の篭った言葉を告げてきた。
「いえ、気にしないで下さい、ただの嫉妬という奴です。ただ、私とヴァレリア様2人分の物ですから、後から色々と覚悟をしておいて下さいね?」
「はっ?それはどういう?」
「そもそも貴方は不思議に思わないのですか?遥かな過去、一度は容赦無く滅ぼしその後楔を打ち込んだとはいえ、ミューズより強大で容赦の無いアライナがあまりに曖昧な理由で修復された貴方の魂を見逃した事を……。まあ、貴方の前世と女神達の間には色々とあったという事ですよ」
「なっ!?ちょっと待てっ!!あんたはいったい何を何処まで知っているっ!?」
 イリュアの答えはあまりに予想外の物。
 何故ここで光神の名が出てくるのかと疑問が口に出る。
 すると今度は更に予想外の、あまりにも色々と知り過ぎていると分かる、そして“現在いま”のスレイには意味不明な答えが飛び出して来た。
 いきなりの事に思わず強く問いかけてしまうも、返ってくるのは曖昧な返事だけ。
「今の、敢えて記憶と知識を閉ざしている貴方よりは色々と知っていますよ。そう色々とね?ところで私はスレイ様の言う美女・美少女の範疇に入らないのですか?」
「い、いや。いずれは俺の女にするつもりでいるが」
「そうですか、それは何よりです。それでは、私はこれで」
 突然の問いかけに驚きつつも、その点だけは何も臆する事なくどこまでも欲望に正直に答えるスレイ。
 その答えに何故か満足したように本気で笑いながらも、一礼して踵を返し立ち去っていくイリュア。
 正直、イリュアは肝心な事は何も答えていない。
 答えていないし、追いかければあっさりと追いつき、聞きだそうと思えば手段はいくらでもある。
 いや、いっそ“識って”しまえばいいのだ、そうすれば自己解決できる。
 だがそれじゃあ何か気に入らない。
 踊らされているようでムカつく。
 いや、このムカつくという感情も制御はできているのだが、間接的にとはいえ感情が表に出ているのなら、それに従うのが色々と外れてしまったが故に己をある程度抑制する為のスレイの生き方のスタンスだ。
「まあ、いい……」
 今は、そう今はただその時を待つ事にしよう。
 あの神聖な、全てを分かっているかのような態度の、余裕に満ちた少女を自らの下で喘がせるその時を。
 ……いや、別に憎いとかでは無く、ただ単に本気で性欲のままに喘がせたいだけなのだが。
 あれ?何だか結局それってムカついてる事とは全く関係が無いんじゃ?
 結局欲望に走る自分の思考を我ながら流石にどうなのかと思うスレイ。
 その時、ふと、室内の気配が落ち着き、予想通りエリシアが扉を開けて室内から外に出てくる。
 そしてスレイを見て開口一番こう言った。
「あの、どうかなさいましたかスレイ様?」
「ん?」
「いえ、何やら雰囲気が何時もと違っておられるので」
「いや、何でもないさ。それより今日は城下を案内してもらう約束だったな。宜しく頼む」
「は、はいっ!!」
 スレイの言葉通り、エリシアは私服姿であった。
 しかし私服もまた、ビシッと決まった紺色のスーツ姿。
 いや、それも仕事着だろうと突っ込みたくなる。
 まあ、そんな姿もよりエリシアの魅力を引き立たせて、そのお堅い姿が逆に色気をより強調して感じさせ、襲いたくなるぐらいだが。
 しかしまあ、城下の服屋で着せ替え人形のようにして遊びたいところだが……。
 スレイは自らの乏しい預金を思い出し、なおかつ預金のままでは迷宮都市外では使えないという致命的な事実を思い出す。
 もし通常の人間であれば汗をダクダクと流していたであろう。
 あれ?まずくないか?このまま城下に出たら俺ってヒモ状態じゃ?
 男としての尊厳を思い、硬直するスレイ。
 しかし今更止めると言い出す訳にもいかない。
 楽しみだったデートの筈が処刑台に踏み出す罪人の気分で足を踏み出す。
 そうしながら思う。
 エリシアにも容易く悟られる程、雰囲気が乱れていた訳か。
 感情の制御自体は完璧な筈なんだが。
 それを敢えて表に出す加減がまだ上手く掴めて居ない訳か。
 未熟だな。
 色んな意味で自嘲しつつ、せめてエリシアを楽しませる事で何とか埋め合わせをしようと考え、スレイは城下でのデートへと繰り出すのだった。

某日【ディラク島】クランドの国“クランドの城”クランドの寝室
「時にクランドよ。いったい何時いつ、かの鬼刃ノブツナの国に本格的に侵攻を開始するつもりだ?」
「なんだ、突然?」
 自らの上に跨り、交わりながら、その大きな胸を揺らし扇情的な姿を見せる占い師。
 しかし汗を撒き散らし紅潮する肌とは真逆に、クランドと同様にその表情は冷め、互いに真意を探りあうように見詰め合う最中の突然の言葉に、クランドは疑問の声を返す。
「ふむ、私があそこまでしてやり、お膳立てをしたのだ。そろそろ頃合かと思ってな」
「ふっ」
「ん?何がおかしい?」
 占い師の言葉に思わず苦笑するクランド。
「いや、なに。そうだな、答えてやるとしよう。侵攻はしない、これから先ずっとな」
「なにっ!?」
 今まで見た事が無い取り乱した占い師の表情に、クランドはどこか楽しさすら覚え、滔々と自らの考えを語る。
「確かにお前のおかげで我が軍は勝利を重ねている。しかしそれは局所的な物に過ぎん、大局的に見ればその程度の戦果でこの島の天下を取ろうなど、それこそ笑えるではないか」
「そのようなもの、私の力を以ってすればっ……!!」
「何よりだ、これ以上戦火が広がれば民に犠牲が広がる、それは俺の本意ではない。本来ならあのままある程度の戦果を上げて、ノブヨリ、そうこの場合はノブヨリだ。ノブツナでは我が意を汲んでくれんだろうからな。奴から停戦交渉を引き出し、我が民の扱いを保証させるつもりだった。その為ならこの首くらいくれてやってもいいと思っていた。そしてそれは今も変わらん。お前のおかげで少々戦火が広がり、民の犠牲が増えすぎたが……。俺こそ尋ねたいものだ、いったいお前の目的はなんだ?」
 どうやら自らの力に絶対の確信を以って天下統一を成せると告げようとしたらしい占い師に、言葉を被せるように、それもまた自らにとっては余計な事だと告げるクランド。
「……くくくっ」
「なんだ、占い師?目的までは分からんが、やはりこれで“目算”が狂ったか?」
「はははっ、そうだな、その通りだクランドよ。私の計算をこうまで狂わせてくれるとは、本当に貴様という男は。……本来ならばお前にディラク島を統一させ達成感を味わわせた後、ディラク島全土を絶望に陥れ、お前の絶望も味わう計画だったのだが、これではそれは到底叶わんな」
「それは、また……。随分とまあ、悠長な計画だ」
 占い師の告げた計画のあまりの遠大さに、呆れを通り越し感心さえするクランド。
 だがやはりこの国に、己が傍に留めておいて正解だったと確信する。
 このような者がいては、ディラク島にとって害だ。
 ならばその芽はここで摘む事にしよう。
 思い、自らの太刀を取ろうとしたその時。
 クランドは、自らの中に何か得体のしれない、邪悪で強大な力が急激に流れ込んで来るのを感じる。
 身体が動かない。
「なっ!?」
「仕方が無い、予定は変更だ。お前の意識を保ったまま我が使徒とする為に、身体を交えながら徐々に我が力を流し込んでいたのだが、こうなってはお前の意識が失われても仕方あるまい。このまま一気に我が使徒と成し、お前の手でディラク島を絶望に陥れてもらうことにしようか?」
「くっ……残念だったな、貴様が何者か知らんが、俺が変わり果てたというのなら、我が民が我が兵が俺を討つっ!!そう俺が育てたっ!!お前の望みは絶対に叶わんっ!!」
 圧倒的な力を流し込まれながらも、なお強大な精神力で以って意識を保ち自らを睨み付けるクランドに、占い師の女は愉しげに笑いながら告げる。
「ああ、お前の民と兵なら今、全て死んだぞ?」
「なっ!?」
「まあ、その内1万は我が尖兵としてアンデッド兵化させたがな。お前が我が使徒となり奴らを率いれば、このディラク島を絶望に陥れるのに十分事足りるだろう」
「……」
 信じ難い占い師の言葉。
 思わず絶句するも、占い師の顔を見てクランドは理解する。
 ああ、これは真実だ、と。
 ……そうか……我が民が全て殺されたか……この、女に。
 クランドの心は静かであった、どこまでも凪いでいた。
 もはや流し込まれている力など感じていない、そう何も感じていない。
 あるのは無、無のみ……これが絶望というものか?
 そう思ったその時、クランドは己が内にある何か得体の知れない黒い塊に気付く。
 そこには自らの民や兵1人1人を無くした時の悲哀があった慟哭があった怒りがあったそして絶望もあった。
 そしてそこに今、一気に大量の、今この時死んだこの国の民と兵全てに対するクランドの感情、その数に比例する同質の物が一気にその塊に流れ込んでいく。
 塊に亀裂が走り、そして……一気に塊が割れ、中に詰まったあらゆる負の感情がクランドの全てに広がっていった。
 だが……クランドは決して負の感情に染まらなかった、それら全てを受け止め、そして……。
「なっ!?」
 占い師は、クランドから突然逆流してくる自らの力に驚愕する。
 いやそれだけではない。
 クランドを既に完全に染め上げていた筈の自らの力が駆逐し尽くされ、クランドに得体の知れない力が満ちていくのを呆然と眺める。
 その力に色は無い。
 ただ透徹した、どこまでも透徹した、純粋なる無色。
 何ものにも染まらず何ものにでもなれる無限を越えた可能性。
「くっ!!」
 もはや計画などに拘っている場合ではない。
 クランドを殺す。
 そう決めた占い師が自らの全力で以ってクランドに干渉し、死を与えようとしたその時。
 だが、もはや全ては遅きに失した。
「なにっ!?」
 自らの“何事も成せる”力が通じない、その異常に呆然とした占い師に向かい、“何事も識れる”占い師の認識の外から突然クランドの太刀が現れ、それが振るわれていた。
 ……。
「ふむ、逃したか」
 血糊さえ残らぬ自らの太刀を見て呟くクランド。
 今のクランドは自らの内に在った、そして先程与えられた底知れぬ負の感情全てを受け止めなお冷静で凪いでいた。
 もはやあらゆる負の感情が昇華され、透徹され、クランドの一部となり果てている。
 ここに在るクランドはそういう存在モノだ。
「だがまあ、致命傷は与えた、時間の問題だろう」
 そう、クランドの一撃は致命傷を与えていた。
 全能たる“真の神”にだ。
 クランドはまたかの占い師の正体が絶望の邪神クライスターだという事も既に“識って”いた。
 それもまた、クランドがそういう存在モノと成ったからだ。
 しかし確かにこの世界では“真の神”の力にも制限が掛かるが、クランドの一撃がクライスターに致命傷を与えたのはそういう問題ではない。
 クランドの太刀は、“真の神”であるクライスターの存在を構成する要素に対し決して回復不能なダメージを与えたのだ。
 全能だけではない、無効化能力すら無視している。
 クランドは確かに人の無限を超えた可能性の極限に“到り”、人の完成形にして究極形という特異点の一種になったにも関わらずだ。
 だがそれも無理はなかろう。
 人の可能性の果て、それは特異点の中でも異端中の異端、イレギュラーなモノだ。
 無効化能力ですら意味は無い。
 まあ尤も今回の場合はそれ以前に、クランドが既にクライスター以上の全能へと“到って”いる事が本当の理由だろうが。
「さて、どうしたものか」
 クランドは考える。
 今のクランドになら、死んだ自らの国の民を生き返らせる事とて、この世界の歴史を変える事とて可能だろう。
 いや、この世界の歴史を変える事は無理らしい。
 すぐにこの世界が異端な力を内包した特別な世界だと“識り”思い直すクランド。
 だがどちらにせよ、できようができまいが、クランドにそんな事をするつもりはなかった。
 歴史を変えるなどこれまで歴史を紡いできた者達の生を汚すあまりにも下らない最低の行いだ。
 そして同様に自らの民を生き返らせるのも彼らの今まで必死に生きてきたその人生の全てを侮辱するに等しい。
 そのような下らぬ事を成そうとする者に力を手にする資格などない。
 もし力を手にしてそのような事をしようという者がいるのなら、この手で消す。
 それはそれ程に許されぬ罪悪だ。
 故に結論は出た。
「せめてもの手向けを送るか」
 手向けとは何か。
 簡単だ。
 この国の民が目指していた物。
 ディラク島の覇権。
 せめて、この島の中央。
 今ならばノブツナの居城だろうか?
 そこに己が国の御旗を立てさせてやろう、と思う。
 彼ら自身の手でだ。
 今の彼らなら、まあごく一部の例外を除き、問題は無かろう。
 そしてそのごく一部の例外への対処と、彼らに相手を殺させぬ為に自らも同行する事にする。
 あくまでもこれは彼らに対する手向けだ。
 それでディラク島の民に犠牲を出すつもりはクランドには無かった。
「その後はどうしたものか?」
 それが問題であった。
 民とは彼の全てであった。
 それを失った今、彼はもはや何者でもない。
 だが軽く結論は出る。
「ふむ、そうだな。この世界の民の為に邪神共でも全て完全に消し去るとするか。その後は……まあ、ただこの世界を見守ろう。俺が手にした力は個人の意思で振るわれるべきではない物だ」
 そうあまりにも簡単にクランドは結論を出していた。
 後半は淡白で素っ気なくさえある。
 彼はあまりに無欲に過ぎた。
 しかしそれは手にした力に相応しい人格だと言えよう。
 超越者とは本来こう在るべきなのだ。
 だが前半はとんでもなかった。
 邪神達が復活している、もしくは復活しつつあるという状況を“識った”が故に、封印中の邪神も含め、この世界の安定の為に、全ての邪神を倒すというのだ。
 クランドは思う。
 先程のクライスターで下級と“識った”、そして自らより遥かに強い邪神がいるというのも分かる。
 それでもなお、全く負ける気がしないのは何故だろうか、と。
 クランドは確かに全能にも“到って”はいたが、それは決して全能感などではなかった。
 しいていうならばそれは可能性。
 何だってできる、何処にだって行ける、何にだってなれる。
 この手がどこまでも届く、そんな感覚。
 人の可能性の極限、それが今のクランドだ。
 その感覚は当然の物だっただろう。
 だが、とクランドは予感を覚える。
 この手向けの行軍、その先に、自分は運命と出会う。
 そんな予感だ。
 それがナニかは分からない。
 分からないという事は自分と対等以上のモノという事。
 ふっ、と唇が柔らかく微笑を浮かべる。
「初めて、ただ己の為だけに刀を振るう。それもまた悪くは無いか」
 民という、国という、己の全てを失ったクランドは、だからこそ生まれて初めてただ1人の剣士となっていた。


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