2013-02-20
■世界の爆弾をすべて解体したハート・ロッカーの末路『ゼロ・ダーク・サーティ』

『ゼロ・ダーク・サーティ』鑑賞。
それはそれとして。余談から書き始めますが。ヘルメットにくっついた暗視グラスや、その緑がかった映像は異様に燃える。あと、目に見えないけどセンサーに反応は出ていて、その反応が徐々に近づいてくる描写も燃える。もちろん秘密兵器や公にはできない秘密作戦も燃える。
その点、『ゼロ・ダーク・サーティ』の燃焼加減はハンパでは無い。そもそもこのタイトルが「深夜0時30分」を意味する軍用語だと言うじゃないか!
本作は全ての元中学生を焚きつける「暗視グラス」「秘密作戦」「センサー反応」にあふれた燃え作品です。さらに、史実を元にしていながら、ものすっごいカッコいい場所ですげーカッコいい兵器開発をしているケレンの利き方には、椅子の上で転げまわるほど燃えました。
あと先日、本ブログで紹介したナッシュ・エジャートンの弟、ジョエル・エドガートン*1も、シールズ隊員のリーダーで登場します。気付かなかったけど、SWの新3作でオーウェンおじさんやってたのね。
ゲーム『コール・オブ・デューティ』のモダン・ウォーにハマった人は絶対に必見です。
(以下、オチについて言及しています!)
キャスリン・ビグローの新作について、最初に知ったのは「ビン・ラディンの殺害によって映画の内容に変更が出る」というニュースです。その「内容に変更」が出た映画こそ本作『ゼロ・ダーク・サーティ』です。そう鑑みて本作を思い返すと、どういう意図を持って作られたのかがよく解ります。
本作は高校時代にCIAにリクルートされて以来、ボーイフレンドも作らずCIAの仕事一直線の女性局員マヤがガッツと執念でアルカイダを追っていく物語です。本作では史実通りの展開をしていきます。ビン・ラディンは潜伏していたパキスタンのアジトをアメリカ軍特殊部隊に急襲、殺害されます。ただ、本作は「ビン・ラディン殺害」前から動いていた企画でした。となればその時点では映画の終わり方も違った形であったはずです。
監督キャスリン・ビグローの作家性とは「没頭した人」を描くことです。前作『ハート・ロッカー』は言うにおよばず。『ブルー・スティール』は拳銃という暴力に没頭した人同士の対話のような映画です。『ハート・ブルー』はアドレナリンを噴出させるエクストリーム・スポーツの延長として、強盗に没頭した男たちの物語です。『ストレンジ・デイズ 1999年12月31日』では過去の記憶に没頭した男の無残さを描きます。
『ゼロ・ダーク・サーティ』で描かれているのは、男性社会であるCIAで男の中を歩きまわり自分を認めさせようと奮闘するうちに、手段に伴う判断や男女差、承認欲求などなどが入り混じった感情の渦の中で、元々あったハズの「目的」がよく解らなくなっていくマヤの様子です。
本作は9.11実行犯の協力者を拷問するシーンで幕を開けます。真っ暗なバラック小屋に両手を広げてくくりつけられた中東出身と思わしき顔立ちの男。慣れた様子でCIA局員ダンが念押しするように「嘘をついたら痛くする。」と繰り返し語りかけながら、呼吸するように殴りつけます。マヤはそんな様子から目をそむけながら、それでも職務だとその場を立ち去りません。
しかし、中盤でアズグレイブ刑務所での拷問が明るみになり、世論のバッシングが激しくなり、オバマ大統領による「拷問まかりならん!」とお達しがくだされると「拷問も出来ないのに、どうやって居場所を吐かせられるのか!?」と上司にくってかかります。ただ、そのシーンは社会(や、CIAといった特殊な集合体)における風通しの悪さを象徴するエピソードとして演出されています。
確かにアルカイダは数千人を殺したテロリストで、その罪は重いものです。しかも、9.11でテロは終結したわけではなく、さらなる自爆テロが国内外を問わず繰り返されています。それでも首謀者を追い詰めるために人権を無視して良いという法は無いのです。マヤ自身、映画が始まったばかりの冒頭では、人の尊厳を踏みにじる行為に対する呵責があったのですが目的追行のために感情を切り捨てていきます。その一連の描写は私たち観客にも、目的のための手段に歯止めが効かなくなる心情を追体験させるのです。「そうだ!そうだ! 拷問も出来ないのに成果を上げろなんて無理だ!マヤかわいそう!」とエールを送ってしまうのです。
前記した通り、本作は製作の途中でビン・ラディンが殺害された史実に沿う内容に作り直されました。もしも、実際の作戦が行われないまま本作が作り続けられたら。おそらくキャスリン・ビグローは本当の狂気を見せてくれたのではないだろうか? もはや死んでいるとまで噂されたビン・ラディンを探し続けるために、違法・合法問わずあらゆる手段を駆使し、男社会の中で“女だてら”に剛腕を奮い続けるマヤの狂気の姿です。
キャスリン・ビグローは前作『ハート・ロッカー』でアカデミー賞、作品賞、監督賞を受賞し、ある種の頂点に辿り着いたと言っても良い成果をあげました。そんな彼女とビン・ラディン殺害という頂点に辿り着いた『ゼロ・ダーク・サーティ』マヤの心象を重ねることは出来ます。しかし、キャスリン・ビグロー自身の本意はそこには無かったように思います。
ラスト、マヤは任務を成功のうちに終えて、軍用機に乗り込みます。マヤ一人に対して何人も乗れる巨大な輸送機です。そんな待遇に「あんた、よっぽどすげえんだな。」そうパイロットに声をかけられますが、マヤはただただ、なんとも言えない表情をうかべるばかりです。「どこまで行きますか?」行先を問われ、こらえていたであろう涙を一すじ流します。
本編での意味は、初めての大仕事に邁進し、成功もおさめたが自分の仕事が(良し悪しは置いておくとしても)人殺しであったことを改めて突きつけられた残酷さです。同時に「ビン・ラディン殺害」という、終焉を迎えた仕事への郷愁でもあります。
その涙はキャスリン・ビグローが本当に描きたかった狂気を描けなかった悔し涙にも見えるのです。終着しない狂気を描こうとしたら史実が終着してしまったジレンマです。しかし、その変更は意図していない「解体すべき爆弾をすべて解体してしまったハート・ロッカーの末路」を描くこととなり、結果的に凄まじい作品を産んだように思えます。