2013年01月20日

1920年代の体罰の実例

 日本の法律では、学校教育での体罰は1879年以来(1885〜90年の間を除き)法的に禁止されてきた、ということは前述した。が、これはもちろん、実際に体罰が存在しなかったことを意味するわけではない。

 河野通保『学校事件の教育的法律的実際研究』上巻(文化書房、1933年)「第八章 教育者の懲戒権問題」近代デジタルライブラリーには、1920〜30年代の新聞報道に現われた、教師のゆきすぎた懲戒が引き起こしたトラブル事例が数多く掲載されている。同書には生徒の自殺やお礼参りなどの事例も取り上げられているが、ここでは、体罰の事例を年代順に抜き書きしてみる。

 以下は原文そのままではなく、適宜表現を現代的に修正したり、要約したりしていることをお断りしておく。「訓導」は小学校の正規教員、つまり現在の「教諭」。「受持訓導」は担任教諭。年齢は当時は数え年表記なので、満年齢では1〜2歳下となる。当時の制度では尋常小学校6年(満6〜12歳)のみが義務教育であり、その上は高等小学校2年(満12〜15歳)、または中学校5年(満12〜17歳)。つまり高等科1・2年は現在の中学1・2年、中学4・5年は現在の高校1・2年と同じ年齢になる。

  • 1923年1月:佐世保市[長崎県]外某小学校3年生受持訓導A(39)は、算術の授業中、答えの合わなかった児童を、十数名の答えの出来た児童に命じて殴打、あるいはつねらせて泣き叫ぶのを傍観し自らも青竹の鞭を持って殴打したので、父兄間の大問題となった。
  • 1923年7月:東京市外渋谷町某小学校尋常科3年生Bは、授業中受持のC訓導が非常な見幕で叱責した上、体罰を科したので学校を休んでいることが判明、父兄側および町学務課の大問題となった。取調べによると、C教員は3日間にわたり、あるいはなぐり、あるいは耳を引っ張りなどして極度の憎しみの情をもってBを体罰したことが判明した。Bはこれがため脳神経を極度に刺激し一種の恐怖に襲われていると附近の医師が診断したので、父親は訴訟を起こす模様である。
  • 1924年8月:北海道亀田郡某小学校訓導Dは高等科1年生E・尋常科4年生Fの両名に暴行を加え、Fを死に至らしめた椿事がある。当日D訓導は両生徒が廊下で遊んでいる際、「この天気のよいのに家の中にいる奴があるか」と乱暴にもEの両耳をつまんで戸外に引き出し、Fの腰部を足で蹴ったので、Fは暴行後4日目ついに死亡し、Eは片耳をもぎとられたので大問題となり所轄警察署で取調べ中である。

……晴れの日に廊下で遊んでいたので殺された、という恐ろしい事例である。

  • 1924年9月:新潟県某中学5年生Gは「下越オリムピック大会」に槍投げの選手として出場し、もろくも敗れたというのでH教諭が立腹し、夕刻運動場においてGを足蹴にかけ校長室に引き入れて鉄拳制裁を加えたことが生徒間に知れ、生徒に憤慨し同教諭を難詰するところがあったが、Gが槍投げの練習をしなかったのは高等学校入学準備のためだと。
  • 1924年12月:埼玉県某市尋常高等小学校等5年生受持訓導I(24)は、教室の掃除中、中高2年生J(15)が尋常2年教室用バケツを使用したのでこれをとがめたところ、Jが抗弁したので、さんざん打擲した上、そのバケツで数杯の冷水を頭から浴びせたため、Jは寒中のこととて帰宅後発熱し39℃の高熱に苦しんでいる。
  • 1925年1月:鶴岡市[山形県]某小学校K・Lの両訓導は受持5・6年生40余名を殴打したことが知れ教育界の大問題となった。原因は生徒等が教師にあだ名をつけたためである。
  • 1925年1月:新潟県東頸城郡某小学校訓導M(25)は、高等科2年生Nが教室内で汽車を見て万歳を叫んだとして竹棒で同人を殴打し、なお同級生一同に命じて殴打せしめ、ついに大股部に全治2週間の傷を負わせたこと発覚、警察官・視学官等が取り調べ中。
  • 1925年1月:千葉県印旛郡某小学校6年クラス39名が、学校からの帰途、寒さをしのぐため山林内でたき火したことを聞知した受持O訓導は大いに怒り、児童が登校するや教室内に一列にならべて殴打し、これがため児童は同訓導の処置を恐れ、ついに申し合わせて休校してしまった。父兄等はO訓導の苛酷なる処置に憤慨し、協議の結果同訓導排斥運動を起こし、村長や校長を訪れ、その処置をなじり紛擾中である。
  • 1926年2月:横須賀市外某尋常高等小学校訓導P(27)は、高等科1年生Q(13)の父Rから傷害罪で告訴され、横須賀署に召喚、取り調べを受けた。P訓導は去る日の朝、自転車で通行を厳禁されたSトンネル内を自転車で走って来たので、通学途次のQ等が「先生降りねばいけません」と注意したところ、訓導は大いに怒り、いきなり自転車から飛び降りQを捕らえて殴打した上、柔道2段の腕で投げ飛ばした。その際Qは傍のレンガで頭部を強打し一週間の負傷を受けたのである。同訓導はS町の飲食店を飲み歩き乱暴を働いていた由で、この暴行事件を起こすや、S町民は非常に憤慨してその処分を町当局に迫っている。

生徒に注意されたことに逆ギレした暴力教師! よく考えるとこれ、校外だから「体罰」じゃないな。武道をやっている人間が人格者とは限らない、という話でもある。

  • 1926年7月:埼玉県川越市外某小学校代用教員T(21)は、受持の6年生U(13)が宿題をやって来なかったのを憤り、頭部その他数ヶ所を殴打したため、Uは極度の恐怖に襲われた結果精神に異常を来し、同地方教育界の大問題となろうとしている。
  • 1926年11月:福島県安積郡某尋常高等小学校尋常科5年生V(12)は11月21日より休校していたが30日死亡した。その原因については端無くも20日受持次席訓導W(38)に殴打されたのが原因で床につき、ついに死に至った事が判明し、学校当局は極力事件をもみ消しているが、父兄間では大問題となし、近く村民大会を開き、Vの父Xは告訴するといきまいている。

殴られた理由は不明。

  • 1927年5月:東京・千駄ヶ谷某小学校6年生Y(12)は、学校の帰途、同級のZと喧嘩し、Zの足部に過傷を負わせたが、YとZの両家は平素より懇意な間柄なので無事にすんでいたところ、翌日Yが登校するや、クラス担当のa訓導(27)が前日の喧嘩についてYを厳しく訓戒した。このクラスは翌日鎌倉・江の島方面へ遠足することになっており、生徒一同はその費用として各自75銭ずつをその朝訓導に差し出したが、a訓導より厳戒されたせいか、平素より神経質のYはすでに差し出した遠足費用の返還を乞い、「明日は遠足に行かない」と申し出たところ、a訓導は非常に怒ってやにわにYの頭部に鉄拳を加え、さらにえり首をつかんで教壇まで引きずり行き、同人の頭部をはげしく数回教卓に激突せしめた後、「帰れ」と怒鳴りつけたので、Yは泣きながら帰宅した。a訓導の制裁により後頭部を激打したためか、その夜から発熱すると共にはげしい発作的な精神異常を来し、裸体で屋根に駆けのぼったり、泣きながら戸外へ駆けだしたり、何者かにおびえて突然叫び声をあげたりし始めた。父bは驚いて附近の医師の診察を乞うと、後頭部の異常なる打撃のため病弱なる頭脳をさらに痛めた結果であると診断したので、さっそく校長を面詰し一時は告訴するとまで憤慨したが、町議等が仲裁して、ようやく、Yの治療代は学校で負担し、a訓導は他へ転任させることとしてひと段落した。校長は「[a訓導は]生徒からも親しまれ、父兄の信用もあるのですが、かかる事件を起こしたことは同君のためにも気の毒」「Yという少年は級でも操行のよくない生徒」「発作的に気が狂ったりするのはべつにa訓導の制裁が原因しているのではなく、幼少からそんな性癖があるのです」と語っている

釈明の余地のない暴力行為だと思うのだが、校長のコメントがひどすぎる。

  • 1928年7月:東京府立某中学校では、体操柔道師範柔道5段c氏の暴力沙汰が問題となり、全校生徒ならびに先輩等は学校当局に対し積極的警告を発しようとしている。c教諭は平素生徒を取り扱うのに暴力をもって臨み、先日も、運動場の掲示板に落書きしてあったのを同教諭が発見し、そこに集まっていた5年生丙組に「だれが書いたか出ろ」と言ったところ、dが「私が書きました」と申し出たので、「学校全部の落書きはお前がしたのだろう」と言って、なぐる、蹴るの暴力沙汰に及び、鼻血をだしているdを50メートルも引きずり、e師範が駆けつけたがこれも傍観するにすぎなかったので、5年生は「理非を明かにせぬ間は授業を受けない」と憤慨し、ついに重大問題化するにいたったのである。
  • 1929年1月:千葉県印旛郡某小学校高等科1年f(13)・同級生g(14)の両名は、授業中雑談したとして、受持訓導hは憤慨し、教授用のコンパスで両名の頭部をなぐったが、コンパスの針が刺さり、両名とも深さが骨膜に達する重傷を負い、血まみれになってその場に昏倒したという騒ぎがある。訓導は事の意外に驚き、ただちに医師を招き手当てを施し、学務委員や村有力者を介して秘密に示談を懇請しているが、農民組合千葉県連合会本部は「真相を調査し断固たる処置をとる」といきまいている。
  • 1930年10月:京都市上京区某小学校で訓導の児童に対する暴行事件が暴露し、京都市教育界の大問題となった。同校尋常科6年生のi(13)が中等学校入学試験の予習のため、登校するのに5分間遅れたため「今日は休む」と言い出したので、母親が同校を尋ね、受持j訓導(26)に欠席する旨を届け出たところ、訓導はその後、むりやりにiを呼び出し、学校で無法にもなぐる、蹴る、つねる、のひどい目に会わして、悲鳴をあげさせぬように口に手ぬぐいをねじこむ、等の暴行を加え、同校の真向かいにあるiの家まで悲鳴がもれ聞こえるので、母親が学校に駆けつけると、同訓導は何食わぬ顔をして、しかもiを引きとめ、自分の下宿に連れ帰り、痛さに悩むiを更にしかりつけて、氷を買いにやり、痛むところを当てさせ四時間ほど寝かした上で帰宅させたが、これが端緒となって同訓導の日ごろの乱暴が判明した。市学務課から2名の視学が主張、詳細に実情調査を行い、j訓導の受持児童42名中、少しも被害を受けない者はわずか3名しかいないことを突き止めたので、ますます問題は大きくなっている。
  • 1931年9月:東京市外目黒町某小学校の訓導k(25)が、尋常1年生lの「書取りの出来が悪い」として持っていたムチでlの後頭部を殴打し、lは帰宅後発熱、m校長(37)は見舞いに行きひどく恐縮し心痛していた。m校長は見舞いから2日後の夕方に自宅で脳溢血により急死したが、k訓導の過失を極度に心痛した結果ではないかという風説がたった。

 ……抜き書きしていて胸が悪くなってきた。

 注意しておいてほしいのは、こうした事件が横行していた、ということとともに、これらが生徒や父兄の抗議などで問題化し、新聞沙汰になっている、ということである。つまり、当時の社会通念においても、こうした体罰は認められていなかったのである。

タグ:体罰 教育史
posted by 長谷川@望夢楼 at 01:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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