ノンフィクションで見る戦後犯罪史
【1986〜1990年】(昭和61〜平成2年)
日 付 | 事 件 | |
2/19 | 概 要 |
<マニラ保険金殺人事件> 1986年2月19日、マニラ市を旅行中の元都庁職員Hさん(51)が鈍器で頭を殴られ死亡した。Hさんは7500万円の海外旅行傷害保険に加入しており、受取人は第三者の不動産業者K(53)であった。その後、芸能会社社長O(39)と、Kが逮捕された。KとOはHさん殺害の前にも保険金殺害未遂事件を起こしていた。Hは懲役12年、Kは最高裁で懲役20年が確定している。 |
文 献 |
「マニラ保険金殺人事件―『O・被害者を求人募集』」(岡田晃房『TRUE CRIME JAPANシリーズ3 営利殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)
井上安正『マニラ保険金殺人事件』(中公新書ラクレ,2009) |
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備 考 | この事件の前後で3件、保険金殺人事件らしき日本人殺人事件がマニラ周辺で発生している。 | |
3/11 | 概 要 |
<新潟ラブホテル殺人事件> 無職Fは1981年に結婚、子供を一人設けたが、典型的なヒモであった。1985年、傷害事件を起こして逮捕、新潟刑務所に収容されたのを幸いに妻は離婚届を提出、新潟から出ていった。しかしFの判決は執行猶予。三ヶ月余りで出所した1986年3月6日、山梨県に住む妻の養母であり実の祖母(当時73)の所へ直行、様子を探っていたが、祖母に見つかりとがめられて逆上。祖母の顔を浴槽の水に押しつけて窒息死させたところに、たまたま元妻が戻ってきたため、Fは元妻を連れて逃走。 二人は元妻の婚約者である茨城県の会社員(当時26)から金を奪おうと計画。3月11日未明、会社員を新潟市内のホテルに連れ込み、両手足をシーツなどで縛り、会社員を浴槽に押し込んで水死させた。死体は円形ベッドのマットを持ち上げて隠したが、偶然ベニヤ板で覆われた密封状態であったため、腐敗が進まず、死体に気がつかなかったという。Fは元妻を連れて逃走。17日、京都で銃砲刀剣類所持等取締法違反により現行犯逮捕。18日に犯行を自供した。1995年、最高裁で死刑確定。Fは現在、再審請求中。元妻は懲役5年の判決。 |
文 献 | 「新潟・ラブホテル殺人事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収) | |
備 考 | ||
3/19 | 概 要 |
<福井女子中学生殺人事件> 1986年3月19日夜、福井市の市営団地で中学三年生の女子生徒(15)が顔や首を包丁で刺され、殺害された。福井県警は1987年3月「血の付いた服を着た姿を目撃した」との知人証言などから、殺人容疑で同市に住む無職男性を逮捕。男性は一貫して関与を否定したが、福井地検は7月に起訴した。 1990年9月、福井地裁は「証言は信用できない」として無罪判決を言い渡した。1995年2月、名古屋高裁金沢支部は証言の信用性を認めた上で、シンナー乱用による心神耗弱の状態にあったとして、懲役7年の逆転有罪判決。1997年11月、最高裁が上告を棄却し確定した。 2003年3月に満期出所した男性は、2004年7月に再審を請求した。2011年11月30日、名古屋高裁金沢支部は、男性の再審請求を認め、再審を開始する決定をした。伊藤裁判長は「弁護側が提出した鑑定結果は、有罪の根拠になった関係者の供述の信用性に疑問を生じさせる」と述べた。名古屋高検金沢支部は、高裁金沢支部に異議申し立てをした。 |
文 献 | ||
備 考 | ||
5/9 | 概 要 |
<裕士ちゃん誘拐殺人事件> 1986年5月9日、S被告(45)は引っ越し費用に困り、東京江東区で6歳の児童を誘拐。石で殴った後、首を絞めて殺害。2000万円を要求して現金受け取りに現れたところを逮捕された。1986年12月、一審死刑判決。本人控訴取り下げで確定。「拘置所の中で裕士ちゃんの供養をしたい」と言った。1995年5月26日執行、53歳没。 |
文 献 | ||
備 考 | ||
5/15 | 概 要 |
<人肉スライス事件> 1986年5月15日、新潟市内にあるラブホテルの浄化槽から約60個の肉片が出てきた。指紋と行方不明者リストから、高松市の鰻屋店員N子(49)と判明。自宅浴室からルミノール反応が確認され、さらに夫のOが行方不明となっていた。Oは4月19日にN子を殺害後、手足を除いて肉体を細切れにし、行く先々の途中で各部分を捨てていった。5月28日、Oは全国指名手配された。30日、滋賀県琵琶湖の近くで、車をエンコさせ観念。近くの家から新聞記者を呼び出し、殺害の事実のみを否定して残りを自供。同時に記者の通報で警察に逮捕された。もともとぐうたらで仕事をせずに金をせびるOをN子が罵倒したことによってOは激怒し、かっとなって殺害したものだった。 |
文 献 | 「邪推から生まれた“恋敵”」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収) | |
備 考 | ||
5/20 | 概 要 |
<トリカブト保険金殺人事件> 1986年5月20日、沖縄旅行中の神谷力被告(46)と三度目の妻であるA子さんは、A子さんが半年前まで池袋のクラブで働いていたホステス時代の仲間3人を那覇空港に出迎えた。神谷被告は急用があると空港に残り、女性陣は予定どおり石垣島行きの飛行機に乗った。島に着いた正午過ぎ、A子さんは多量の発汗、悪寒、手足麻痺で苦しみ、3時に死亡した。死因は心筋梗塞とされた。 1991年、神谷被告は別の横領容疑で警察に逮捕されたが、その取調中にA子さんの変死事件が浮上した。A子さんは神谷被告を受取人として1億8500万円の生命保険金に入っていた。死亡後、神谷被告は保険金を請求したが、死因に不審を抱いた保険会社は支払いを保留。神谷被告は訴訟を起こすものの、取り下げていた。同年7月1日、警察は殺人と詐欺未遂で再逮捕した。証拠らしい証拠はなかったが、A子さんの検視医が不審を抱いて心臓や血液を保存しており、血液からトリカブト毒、さらにフグ毒が検出された。 神谷被告は全てを否認しアリバイを主張。さらにトリカブト毒の即効性により自分に殺害は不可能であると主張した。状況証拠はあるが、直接証拠はない事件である。一審・東京地裁は、被告がトリカブトを大量に購入していたことや、妻に1億8500万円の保険をかけていた事実などを積み重ねて有罪と判断。二審・東京高裁も一審の結論を支持し、被告の控訴を棄却していた。2002年2月21日、最高裁は神谷被告の上告を棄却、無期懲役が確定した。 |
文 献 |
神谷力『被疑者 トリカブト殺人事件』(かや書房,1995)
神谷力『仕組まれた無期懲役 トリカブト殺人事件の真実』(かや書房,2002) 坂口拓史『トリカブト事件−完全犯罪をつき崩した五年間の執念の記録』(ポケットブック社,1991/新風舎文庫,2004) 山元泰生『トリカブト殺人疑惑』(世界文化社,1991) 「トリカブト殺人事件―『神谷力・保険金目当ての妻毒殺』」(岡田晃房『TRUE CRIME JAPANシリーズ3 営利殺人事件』(同朋社出版,1996)所収) 「トリカブト保険金殺人事件」(室伏哲郎『保険金殺人−心の商品化』(世界書院,2000)所収) |
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備 考 | ||
6/24 | 概 要 |
<名古屋実娘保険金殺人事件> 1986年6月24日夜、名古屋市のパチンコ店員Yさん(20)が婚約者宅前で、二人組の男に木製バットで乱打され、二日後に死亡した。翌年1月13日、愛知県警は実父でホテル従業員のI(57)が実の娘の生命を対象に保険金の詐欺を狙った嘱託殺人と断定し、犯行否認(後に認めた)のまま、殺人と6000万円の保険金詐欺未遂の疑いで逮捕。Iの依頼を受けてYさんを撲殺したY(53)とA(48)を再逮捕し、殺害に使った木製の野球バットを現場近くの民家で発見し、押収した。 Iは農家の末っ子に生まれ、甘やかされて育った。結婚したはいいが、自分の言うことを聞いてくれないという理由で離婚。二人の娘を自分で引き取ったものの、育てる能力はなかったらしい。離婚後は些細な理由から34回も転職をしている。自分が悪いのに、「娘はいうことを聞かない」という理由から、保険金殺人を計画。最初は就職後に家を離れた長女を狙ったものの、危険を感じて家出同然に父親の元を去った。パチンコ屋の店員になっていた次女の所に、毎月5万円を無心していたが、ついに次女Yさんをターゲットとした保険金殺人を計画。Yさんは中学時代非行に走ったという負い目から、どんなに苦しい目にあってもくじけないことを示そうと必死だった。そのことが徒となり、とうとう殺害された。 1998年3月24日、名古屋地裁でIに求刑通り無期懲役、YとAに求刑通り懲役20年が言い渡された。Iだけが控訴。1998年10月27日、名古屋高裁で控訴棄却。1990年4月21日までに、被告側上告が棄却され、確定した。 |
文 献 | 「名古屋・実父による保険金殺人事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収) | |
備 考 | ||
7/20 | 概 要 |
<えい児9人連続殺人事件> 1986年7月20日、北海道富良野市のホステスE被告(41)の家から異臭がすると、男性の声で匿名の通報があり、富良野市署員が自宅を捜査したところ、バスタオルなどでくるんだミイラ化したえい児の遺体9体が発見された。Eは20歳でホステスになり、1972年、25歳で富良野市に来た。この頃から1982年までのほとんど毎年、生んでは殺しを繰り返していたという。Eは妊娠しても目立たない体格だった上、始終店を変わっていたため、周囲からも気付かれなかったという。通報した男性は、Eとの昼の情事を楽しむために訪れ、異臭に気がついたという。 |
文 献 | 「北海道・えい児九人連続殺人事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収) | |
備 考 | ||
10/11 | 概 要 |
<高校教師教え子殺人事件> 1986年10月14日、岐阜県羽島市の屋外中古車展示場で、若い女性の死体が灯油をかけられ、燃えているのが発見された。死体の首にはタオルがきつく巻き付けられ、両手を紐のようなもので縛られていた。落ちていた鍵から、女性は元モデルWさん(22)と判明。19日、高校教諭K(38)と元看護婦U(22)が、殺人と死体遺棄の容疑で逮捕された。 Kは、外車を三種類とっかえひっかえして乗り回したり、服やアクセサリーも全てブランドもので決めていた。しかも財布にはいつもに、三十万円は入っていた。また、Kは父親が地元企業の取締役、妻が美容院経営と財力があったため、自由になる小遣いは多かった。多くの女生徒がKに憧れたが、Wさんもそんな一人で、いつの間にか男と女の関係になっていた。 Wさんは高校卒業後、Kの紹介でモデルクラブに就職したが、8ヶ月後に退職。OLになるも1年でやめ、岐阜のソープランドで働いていた。すべてKの指示だった。売れっ子だったWさんは2年間で2000万円近い金を貯め込んだが、全てKが使い込んでしまった。この頃Kは、生徒の中で目立つ子がいると、デッサンをしたいといってインスタントカメラでヌード写真を撮り、後で複写を取り脅迫する手口を繰り返していた。Wさんは1986年3月にソープランドをやめ、Kに金銭返却か結婚を迫った。そしてWさんの一年後輩で、いつの間にか愛人になっていたUとともに、KはWさんを殺害した。 1987年12月岐阜地裁判決、Uは懲役1年6ヶ月、執行猶予3年。Kは懲役15年。Kの両親がWさんの家族に2000万円を慰謝料として渡したことが大きな理由であった。しかし検察側は控訴。2000万円も、Wさんからの借金の返済分でしかないと認定、改めて求刑通り無期懲役が言い渡され、最高裁で確定した。 |
文 献 |
「高校教師教え子殺人事件」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ4 情痴殺人事件』(同朋社出版, 1996)所収)
「岐阜・教え子焼き殺し事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収) |
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備 考 |
日 付 | 事 件 | |
2/8 | 概 要 |
<カンボジア難民男性の妻子殺害事件> M一家は1985年3月22日、カンボジア難民として日本へ入国。神奈川県大和市のインドシナ難民訓練施設へ入所して日本語教育などの訓練を受けた後、8月20日に同県秦野市内へ転居し、Mは市内のプレス工場に勤めた。当初は真面目に働いていたが、日本語が十分に話せないことや、同胞が退職したことで次第に孤立。さらに職場で弁当を捨てられるなどいじめにあったことから仕事に身が入らず、翌年9月には退職。以後、定職がなくブラブラしており、夫婦仲が悪化。妻は自宅でアルミ製品を洗浄する内職をしていたが、1987年2月4日より持病で入院した。 2月8日午後、秦野市の自宅でM(34)は小学2年生の長女(8)、長男(6)、二女(4)を刺身包丁とハンマーで殺害。さらに午後6時30分頃、入院中の妻(26)の元を訪れ、同室の入院患者2人が気を利かせて席を外した隙に刺身包丁で何箇所も刺して殺害した。 Mはそのまま逃亡したが、午後11時頃に病院近くの川沿いに潜んでいるところを発見され、殺害を自供。緊急逮捕された。 一審でMは起訴事実を認めたが、弁護側は「事件の背景には、日本の難民受け入れ態勢の不備や、日本社会特有の閉鎖性があり、こうした事情が被告を精神的に追い詰めた」と主張。裁判所が行った精神鑑定で「被告には被害妄想が見られ、難民性精神障害」と認定。検察側も論告で「犯行当時、心神耗弱状態だった」とし、日本人に対して被害意識を持ち、心が病んでいったことを認めた。 1992年1月31日、横浜地裁小田原支部は懲役12年(求刑懲役15年)を言い渡した。 |
文 献 | 八塩弘二『空しく消えたS・O・S―カンボジア難民の妻子殺害事件』(東京図書出版会,2010) | |
備 考 | ||
2/22 | 概 要 |
<藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件> 1987年2月22日、神奈川県藤沢市で、ロックミュージシャンのMさん(32)が従兄弟で不動産業者のS被告(39)とMさんの妻であるMM被告(27)の2人に殺害された。「Mさんに憑いた悪魔を祓うため」に犯行に及んだとし、S被告が「首を絞めて殺さなければ悪魔は出ていかない」と首を絞めて殺したもの。2人はかつて同じ新興宗教の信者で、犯行当時はS被告を「教祖」とする3人だけの宗教集団を結成していた。加害者2人は「体内に棲む悪魔を追い祓えば、そのうちMさんが復活する」と信じていた。 |
文 献 |
「藤沢市悪魔祓い殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
「立ち退き話のもつれが招いた惨劇」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収) |
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備 考 | ||
4/27 | 概 要 |
<童話作家宝石商殺人事件> 1万円札を偽造して逮捕された童話作家T(49)が1987年4月27日、1月16日に東京上野の宝石商(38)を殺害し、榛名山に埋めて、宝石1億円余りを奪ったことを自供。Tが経営していた企画会社の元社員N(51)と知人の室内装飾業W(41)共犯として逮捕された。榛名山中に埋めに行くとき、Wが運転するTのBMWには、Tの愛人であり偽札事件の共犯でもあるU(25)、元社員H(45)も同乗していた。Tは北原綴の筆名で、全国学校図書館協議会推薦図書の著作もあった。偽札事件では他に、Tの友人で元出版社社長のM(42)も逮捕されている。Tらが偽造された1万円札は36億円分で、通貨偽造では史上最大の金額。ただし、偽造されたお札は出来の悪いものだったため廃棄したが、それが見つかって事件発覚につながっている。Tは無期懲役が確定。 |
文 献 | ||
備 考 | ||
5/3 | 概 要 |
<赤報隊テロ事件> 1987年5月3日午後8時15分頃、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局2階の編集室に目出し帽の男が侵入し、散弾銃2発を発射。夕食中のK記者(29)が死亡、I記者が重傷を負った。9月24日午後6時45分過ぎ、朝日新聞名古屋本社の新出来寮に目出し帽の男が侵入。1階居間兼食堂のテレビに散弾銃を1発発射。逃走途中、マンションの壁にも1発が発射された。このときは負傷者が出なかった。警視庁は広域指定116号事件に指定した。その後、報道機関に「すべての朝日社員に死刑を言いわたす。ほかのマスコミも同罪である。反日分子には極刑あるのみ」との声明文が届いた。差出人の名は「赤報隊 一同」。その声明文の中で、1月24日、朝日新聞東京本社に銃撃したことが記されていた。調査の結果、外壁から弾痕が発見された。1988年3月11日、朝日新聞静岡支局駐車場で、時限発火装置付きピース缶爆弾が入った紙袋が発見された。さらに、中曽根元首相事務所と竹下首相宛てに脅迫状が届けられた。8月10日には、東京港区Eリクルート前会長の自宅玄関に、散弾銃1発が発車された。1990年5月17日、名古屋市内の愛知韓国快感玄関で、灯油入りのプラスチック容器と発煙筒が燃え、壁ガラスが破損した。いずれの事件にも犯行声明文が出された。 2003年、全ての事件が時効となった。 2009年1月29日発売の「週刊新潮」2月5日号から4回に渡り、実行犯を名乗る男性(65)の手記が実名で掲載された。これに対し朝日新聞は「事実と異なる」とする記事を載せた。また手記で犯行の指示役とされた元在日米国大使館職員の男性(54)が新潮社に抗議。謝罪と記事の訂正を求めた。男性は新潮社と数回にわたり話し合った結果、「抗議した点について納得できた」として、3月19日に新潮社と和解の合意書を交わした。ただし、謝罪や訂正については触れられていない。朝日新聞は4月1日付朝刊で「虚報を放置するわけにはいかない」とする検証記事をあらためて掲載し、週刊新潮に訂正と謝罪を求めた。週刊新潮は4月16日発売の4月23日号で、「手記が誤報であったことを率直に認め、お詫びする」とした記事を掲載した。 |
文 献 |
「赤報隊テロ事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社)所収)
木村三浩「真相・赤報隊事件」(『ワニの穴10 ドキュメント 消えた殺人者たち』(ワニマガジン社)所収) |
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備 考 | ||
9/4 | 概 要 |
<熊本・大学生誘拐殺人事件> 1987年9月14日、T(21)は知人3人と共謀し、熊本県玉名市内をドライブ中だった小学校時代の同級生で資産家の長男の大学生(当時21)とその女友達を誘い出して拉致。同市内の山中にある廃材捨て場に連れ出し、空き瓶やコンクリートブロックで殴るなどして殺した。さらにこの大学生が生存しているように装って、父親に身代金5000万円を要求した。また女友達を12日間、ホテルなどに監禁、強姦した。 熊本県警は、9月25日、連れ回されていた女友達を保護し、Tを除く3人を逮捕。その後Tは出頭し、逮捕された。 裁判で共犯3人は、Tが主犯であると主張。Tは責任の押しつけと反論したが、1988年3月30日、熊本地裁で一審死刑判決。知人3人はそれぞれ無期懲役、懲役20年、懲役18年が言い渡され、そのまま確定した。福岡高裁の公判で、共犯2名は責任を押しつけたと認めたが、1991年3月26日、控訴棄却。 最高裁に上告中の1997年12月下旬、Tは仲良くなった拘置所看守(懲戒免職)から金切りノコ、現金などを入手。鉄格子を切断して脱走しようとしたが、切断する音を別の職員に見付けられ発覚。親に会いたかった、一度会ったら帰るつもりだったと供述。看守は逃走援助未遂で実刑判決を受けた。また、福岡拘置所所長が調査の成り行きを気にし、勤務中に刃物で自分の胸を数回刺した。その後病院に運ばれて応急処置を受けたが、病院の五階から飛び降りて自殺した。また、監督責任を問われた当時の同拘置所処遇部長を訓告にするなど、職員計12人が減給や戒告、厳重注意などの処分にされた。Tは加重逃走未遂容疑で書類送検され、起訴猶予処分となった。 1998年4月23日、最高裁で死刑確定。2002年9月18日、死刑執行、36歳没。 |
文 献 |
「彼はなぜ殺人犯の脱獄を手助けしたのか」(『別冊宝島333 隣りの殺人者たち』(宝島社,1997)所収)
「熊本・大学生誘拐殺人事件 田本竜也」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収) |
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備 考 |
日 付 | 事 件 | |
1/15 | 概 要 |
<地下鉄短大生殺人事件> M(48)は1988年1月15日午後10時半頃、大阪市にある地下鉄の駅の階段で通行人から金を奪おうと待ちかまえていたところ、女子短大生(19)が近づいてきた。包丁を突きつけて「騒ぐな」と脅したが「助けて」と大声を上げたので、左右の胸を数回突き刺して殺した。悲鳴で駆け付けて来た通行人の足音を聞いて、何も取らずに逃げている。 他にも、1987年8月、大阪市のマンションのエレベーターホールで女性(当時19)の背中を果物ナイフで突き刺し25日間のけがを負わせて、逃走した。同年9月、別のマンションの廊下で女性(当時18)の頭を金属パイプで殴り10日間のけがをさせたうえ、現金600円入りのセカンドバッグを奪った。 Mは1968年9月19日、大阪市のビル4階で金を奪おうとして24歳の女性を刺殺。強盗殺人容疑で逮捕された。1970年3月に最高裁で無期懲役が確定し、1987年4月30日に大阪刑務所を仮出所していた。 Mは「若い女性が憎いから襲っただけで、強盗目的ではない」と主張。1991年2月、一審死刑判決。2001年、最高裁で確定した。 Mは再審請求を起こしたが棄却。2008年9月11日、Mは死刑を執行された。68歳没。 |
文 献 | 「若い女がにくいんや―再犯の心理―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収) | |
備 考 | ||
1/29 | 概 要 |
<コスモ・リサーチ事件> 山口組系暴力団幹部K(31)と投資顧問業S(36)、暴力団組長Iは、株の売買でつき合いがあった投資顧問会社「コスモ・リサーチ」の実質的な経営者であるKさん(43)の資金力に目をつけ、金を奪おうと計画。 1988年1月29日、大阪の投資顧問会社「コスモ・リサーチ」の社員だったWさん(23)を退社直後に車に乗せて大阪府豊中市にある「コスモ・リサーチ」の実質的な経営者であるKさん(43)の自宅まで案内させ、Kさんを拉致して脅した。Kさんは知人に「株の取引で必要になった」と1億円を用意させ、別の社員に大阪市住吉区内のレストラン駐車場まで車で運ばせた。Kさんがレストランに電話し、社員を帰らせた後、Kらは現金を奪った。その後、KらはKさんとWさんを絞殺。数日後、東大阪市の貸倉庫内でコンクリート詰めにした。ところが腐汁がしみ出し、においが激しくなったため、7月17日未明と夜、1体ずつ、Kが知人(死体遺棄容疑で逮捕)とクレーン車で京都府の造成地まで運び、穴を掘って埋めた。1億円はK、Sが3500万円、Iが3000万円と分けた。 9月初め、貸倉庫から腐臭が漂い、住民からの通報で警察が調べると、血痕がついたシートやセメントをこねた跡、台座などがあった。倉庫を借りていたIが浮かんだがI、組員は全員姿を消した。しかし捜査4課が別の暴力行為でIを逮捕、追求したところ殺人、死体遺棄を自供。別の詐欺事件で逮捕されていたK、Sも再逮捕された。10月18日、白骨化した遺体が自供した山林から発見された。 Kさんは多いときで1000億円を動かす派手な仕手を手がけたため、「30年に1度の相場師」などと呼ばれていた。 1995年3月23日、大阪地裁でK、Sに死刑、Iに無期懲役判決。1999年3月5日、大阪高裁で控訴棄却。Iは確定。2004年9月13日、最高裁で上告棄却。Kのみ再審請求中。 |
文 献 |
河村啓三『こんな僕でも生きてていいの』(インパクト出版,2006)
河村啓三『生きる 大阪拘置所・死刑囚房から』(インパクト出版会,2009) 河村啓三『落伍者』(インパクト出版会,2012) |
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備 考 | ||
2/6 | 概 要 |
<警察官ネコババ事件> 1988年2月6日午前11時40分ごろ、大阪府堺市の主婦(当時36)は、店先に落ちていた15万円入りの封筒を、槙塚台派出所に届けた。しかし派出所にいたN巡査(当時31)がネコババ。堺南署は、主婦が15万円を隠した犯人であるとでっち上げようとした。後に大阪府警が捜査に乗り出し、別の大事件が発生している日にN巡査の犯行であることを発表。しかし主婦が民事訴訟を起こしたことから騒ぎは拡大し、当時の境南署長が引責辞任するなど、警察側もようやく非を認めた。しかし、誰がでっち上げようとしたかは、明らかにされないままだった。 |
文 献 | 読売新聞大阪社会部『警察官ネコババ事件―おなかの赤ちゃんが助けてくれた』(講談社,1989/講談社文庫,1992) | |
備 考 | ||
2/23 | 概 要 |
<名古屋アベック殺人事件> A(19)をリーダーとする非行少年グループ6名(少女2名を含む)は、1988年2月22日深夜、名古屋市のテレビ塔付近に集まっていた。懐が寂しかったので、アベックを襲って金品を強奪しようということになり、二台の車で名古屋埠頭へ向かう。二台の乗用車を次々と襲い、8万6千円を強奪。シンナーに酔っていた彼らは勢いづいて、大高緑地公園入口の駐車場に乗り入れた。日付が変わっていた早朝、駐車場内に停まっている乗用車のアベックを襲った。理容師Dさん(19)は必死に抵抗したが、鉄パイプや木刀で滅多打ちにされた。そして社内で腰を抜かしていたE子さん(20)を四人の男で輪姦した。その後、Dさんを絞殺。死体を車のトランクに入れ、吸い殻などの拾い集め逃げ出した。E子さんは車内で監禁していたが、処置に困り絞殺。二人の死体を三重県の山林に埋めた。 23日にE子さんの車が発見。E子さんが行方不明になっていることから警察の捜査が始まり、グループは27日に逮捕された。1989年6月の名古屋地裁で、主犯Aに死刑、Bに無期懲役、他の4人に懲役5年から17年の判決が下された。少年への死刑判決は永山則夫元死刑囚以来、10年ぶりだった。当時19歳だったAに死刑判決が出されたのは、「少年だから死刑になるはずがない」とうそぶいたことと、「E子さんの首に綱を巻き付け、綱引きをしよう」といった犯行の残虐ぶりが原因と思われる。しかし控訴審でAは無期懲役に減刑され、そのまま確定した。 Aは地裁判決後、被害者2人の両親に謝罪文を送り続け、高裁判決確定後に岡山刑務所に収監された1997年以後は作業賞与金(刑務作業に支払う恩恵的な給与で時給10−数十円程度)も添えて謝罪文を送り続けた。E子さんの父親が初めて返事を出したのは2005年3月で、作業賞与金送付への礼状だった。以後、文通を続けているという。謝罪を繰り返す受刑者に対し、父は「決して許さないが1人の人間として接している」と話している。 |
文 献 |
「名古屋アベック殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
「反省し「シャバ」に戻った少年少女のそれから―名古屋「アベック」殺人事件」(「新潮45」編集部編『殺戮者は二度わらう』(新潮文庫,2004)所収) |
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備 考 | Aが無期懲役に減軽されたのは、一審から控訴審の間、写経などをして反省の態度を示していたからだという。 | |
3/18 | 概 要 |
<名古屋妊婦殺人事件> 1988年3月18日午後、名古屋市の会社員Mさん(31)の妻Mさん(27)が、自宅のアパートで、何ものかに電気炬燵のコードで絞殺されていた。さらに、臨月だったMさんの腹を切り裂き、男の赤ん坊を生きたまま取り出した。代わりに、コードを切断した電話機と車のキーホルダーを突っ込んだ。そして数千円の入った財布を奪い、逃走した。19時前、夫のMさんが帰宅し、妻の死体を発見、通報した。赤ん坊は生きており、手当を受け奇跡的に助かった。 暴行を受けた形跡はなかった。殺害方法が残酷すぎることから、知り合いによる犯行という可能性もあったが、怨恨の線はなかった。物取りの犯行とも思われたが、殺害方法が異常である。警察が特定人物をマークしているという噂もあるが、2003年に時効となった。 |
文 献 |
蜂巣敦「名古屋妊婦切り裂き事件」(『ワニの穴10 ドキュメント 消えた殺人者たち』(ワニマガジン社)所収)
「切り裂かれた腹部に詰め込んだ「受話器と人形」−名古屋「臨月妊婦」殺人事件」(「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる』(新潮文庫,2002)所収) |
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備 考 | ||
6/20 | 概 要 |
<鶴見事件> 電気工事業Tは、知人の土地や建物を担保に約1200万円を借りる約束をして、1988年6月20日午前10時40分頃、横浜市鶴見区の不動産業兼金融業の男性(当時65)の事務所を訪れた。Tは男性と奥の和室へ入った後、隠し持っていたバールで男性の顔などを殴り、さらにドライバーで胸や背中などを刺して殺害。男性が用意していた現金1200万円を奪って逃げようとしたが、外出から帰ってきた男性の内縁の妻(当時60)と鉢合わせをしたため、妻も奥の和室で滅多打ちにして殺害した。Tは、妹の夫が経営する会社の資金難を援助してから約4910万円の借金があり、奪った金は金融業者への支払いに充てられた。殺害した男性からも借金をしていた。夫婦の知人が午後2時30分頃に事務所を訪れ、遺体を発見した。捜査本部は7月1日、Tを強盗殺人容疑で逮捕した。 Tは自白するも公判では無罪を主張。弁護側は現場の状況と自白の内容が合致しないと主張。凶器について3度の鑑定が行われるなど、裁判は長期化した。1995年9月7日、横浜地裁で求刑通り死刑判決。凶器や殺害態様について、「完全に解明できない」としながらも、捜査段階の被告人の自白に任意性があることや、事件当時被告人が犯行時間帯に現場にいた事実などから起訴事実を認定した。 Tと弁護側は無罪を訴え続けるも、2002年10月30日、控訴棄却。2006年3月28日、最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。Tは2007年4月、横浜地裁へ再審請求を提出した。 |
文 献 |
大河内秀明『無実でも死刑、真犯人はどこに』(現代企画室,1998)
高橋和利『『鶴見事件』抹殺された真実』(インパクト出版会,2011) |
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備 考 |
被害者夫婦の娘である女性は最高裁公判日時の通知を希望していたが、最高検が郵送した通知書は事件当時の旧住所であったため、転居先不明で返送された。女性は最高裁弁論、判決を傍聴することができなかったため、上告審を担当した最高裁第三小法廷に手紙を送った。上告審を担当した裁判長は「遺族の気持ちに最大限応えるべきだ」と刑事局に指示し、刑事局幹部が女性宅を訪れて判決文を手渡し、内容を説明するという異例の措置をとった。 検察庁の被害者通知制度は1999年4月に始まったが、この事件は制度開始前に起訴されたため対象外であった。しかし最高裁に上告している死刑判決事件の遺族については、最高検が可能な限り日時を伝えていた。 |
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10/28 | 概 要 |
<札幌テレホンクラブ殺人事件> 1988年10月28日、札幌市のマンションの一室から若い女性のガス中毒死体が発見された。部屋の住人はY(25)。病院での検死後、Yの両親に遺体を確認させたところ、「娘に間違いない」と断言。Yは腰痛などで入退院を繰り返したことや離婚歴があったこと、窓ガラスをガムテープで目張りしていたことから、前途を悲観してのガス中毒と判断。札幌南署は遺体を両親に引き渡した。 2日後、札幌市の教師Fさん(32)が、Yの部屋で死んだのは自分の妻S(27)ではないか、との届出があった。Fさんは23日から修学旅行の付き添いで留守にしていたが、29日に帰ってみるとSさんの姿がない。捜索願いを提出後、妻は協会の信者友達であるYのところへ遊びに行ったことを思いだした。札幌南署で確認したところ、遺体の血液型はO型で妻と同じだった。ところがYの血液型はAB型だった。南署は直ちにYの両親に連絡したが、遺体は既に荼毘に付されていた。 31日、南署がYの部屋で再検証に行ったが、部屋は既に両親の手によって綺麗に片付けられていた。しかし、Fさんの家で採取したSさんの指紋と遺体の指紋が一致し、遺体はSさんと断定された。 11月2日、Yの部屋で採取した指紋が、1987年5月28日に札幌市ススキノのラブホテルで刺殺された会社員Sさん(27)の現場で採取された指紋と一致した。捜査本部は直ちにYを指名手配。11月4日、Yはススキノを歩いているところで逮捕された。元々の動機は、彼女が両親に肯定された存在でなかったことが始まりだったらしい。 Y側は心神耗弱を訴えたが、1991年2月、札幌地裁で求刑通り一審無期懲役判決。1992年9月、札幌高裁で被告側控訴棄却。1995年5月、最高裁で被告側上告が棄却され、確定した。 |
文 献 | 「札幌テレホンクラブ殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収) | |
備 考 | ||
11/16 | 概 要 |
<綾瀬母子殺人事件> 1988年11月16日、東京・綾瀬の中学生3人が母子強盗殺人容疑で逮捕された。3少年は自白したのち無罪を主張、1人はアリバイが成立、2人も証拠不十分で不起訴処分。警察の取調べでの暴行・脅迫、捜査の杜撰さが非難を浴びた。特に警察・検察は、アリバイのあることを知っていながら取り調べを続けていた。少年の1人は「警察は怖かった。最後になってもやっていないといえば暴行されると思った」と証言している。また父親の1人は、弁護士に巡り合わなければ無罪にならなかっただろうと語っている。 |
文 献 | 横川和夫・保坂渉『ぼくたちやってない 東京・綾瀬母子強盗殺人事件』(共同通信社,1992) | |
備 考 |
日 付 | 事 件 | |
1/4 | 概 要 |
<女子高生コンクリート詰め殺人事件> 1988年11月25日、帰宅途中の女子高生Wさん(18)に少年Cが襲いかかった。主犯である少年Aが助けるふりをして近づき、甘言を弄して誘拐。少年B、Dも荷担。C宅に略取した。その後41日間、Wさんを不法に監禁、強姦行為や暴力行為、陵辱を繰り返した。1989年1月4日、Wさんはショック死。4人は遺体をボストンバックに入れた後ドラム缶にコンクリート詰めにし、空き地に投げ出した。 3月29日、別事件で少年鑑別所に収容されていたA、Bのもとに、綾瀬署の刑事が訪れた。刑事たちは、1988年11月16日に起きた綾瀬母子殺人事件の捜査で、現場付近の不良グループを虱潰しにチェックしていた。刑事はAを見て、何かあると思い「お前、人を殺しちゃ駄目じゃないか」とカマをかけた。Aは「すみません、殺しました」と答えた。しかし告白したのは、綾瀬の事件ではなく、本事件であった。 1990年7月、東京地裁はAに懲役17年(求刑無期懲役)、Bに懲役5年〜10年(求刑懲役13年)、Cに懲役4年〜6年(求刑懲役5〜10年)、Dに懲役3年〜4年(求刑懲役5〜10年)の刑を言い渡したが、検察側は刑が軽過ぎると控訴。1991年7月、東京高裁でAに懲役20年、Bに懲役5年〜10年、Cに懲役5年〜9年、Dに懲役5年〜7年の刑を言い渡し、確定。 99年に出所したBは2004年5月19日未明、東京都足立区の路上で、好意を寄せていた女性と交際していると思い込んだ知人男性に「女を取っただろう」などと言いがかりをつけ、車のトランクに押し込んで埼玉県内のスナックに4時間以上監禁し、顔を殴るなどして約10日間のけがをさせた。このとき、Bは男性を「人を殺したことがあるんだぞ。本当に殺すぞ」などと脅していたとされる。Bは6月4日に捕監禁致傷の疑いで逮捕された。2005年3月1日、東京地裁はBに対し、懲役4年(求刑懲役7年)を言い渡した。 |
文 献 |
「女子高生コンクリート詰め殺人事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
「女子高生コンクリート詰め殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社, 1999)所収) おんな通信社編『女子高生コンクリート詰め殺人事件』(社会評論社,1991) おんな通信社編『報道のなかの女の人権 「女子高生コンクリート詰め殺人事件」をめぐって』(社会評論社,1991) 佐瀬稔『うちの子が、なぜ!−女子高生コンクリート詰め殺人事件』(草思社,1990) 死刑をなくす女の会『女子高生コンクリート詰め殺人事件―彼女のくやしさがわかりますか?』(社会評論社,2004 おんな通信社編『女子高生コンクリート詰め殺人事件』の新装版) 別府育郎・村田雅裕『迷走−女子高生コンクリート詰殺人事件』(あいわ出版,1990) 藤井誠二『少年の街』(教育史料出版会,1992) 藤井誠二『17歳の殺人者』(ワニブックス,2000/朝日文庫,2002) 藤木あきこ『だらだら坂のとらんたん』(日本図書刊行会,1994) 横川和夫・保坂渉『かげろうの家』(共同通信社,1990) |
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備 考 | ||
1/27 | 概 要 |
<佐賀女性七人連続殺人事件> 1989年1月27日、佐賀県北方町の山林で三人の女性の死体や白骨が発見された。佐賀県警は捜査本部を開設、連続殺人と見た。白骨遺体は武雄市の料亭従業員A子さん(48)で、1987年7月8日から行方不明になっていた。二遺体は、北方町の主婦B子さん(50 1988年12月7日から行方不明)と、同町の従業員C子さん(1989年1月25日行方不明 37)であり、二遺体はいずれも絞め殺されていた。国道34号線は佐賀県鳥栖市から長崎に至る幹線道路であり、この間で4人の女性の未解決殺人事件があった。1980年6月24日、白石町のウェイトレスD子さん(20)。6月27日、白石町の中学生F子さん(12)。1981年10月21日、中原町の会社員F子さん(27)。1982年2月18日、北茂安町の小学生G子さん(11)。C子さんを主要対象に選び捜査が進められたが、物証はほとんどなかった。被害者同士の接点はなにもない。奇妙なのは、失踪したのがほとんど水曜日であることだった。既に4人の事件については時効が成立している。 時効直前の2002年6月11日、佐賀県警はC子さん殺害容疑で、住居侵入と窃盗の罪で鹿児島刑務所に服役中の元運転手M(39)を逮捕した。MはC子さんと顔見知りであり、1989年には一度C子さん殺害を自供していた。ところがその後、容疑を否認。物証が乏しく、逮捕が見送られていた。引き続きA子さん、B子さん殺害でも逮捕、起訴された。Mは容疑を一切否認している。2005年5月10日、求刑死刑に対し佐賀地裁で無罪判決。2007年3月19日、福岡高裁は検察側の控訴を棄却、一審判決(無罪)を支持した。検察側は上告せず、無罪は確定した。7月6日、Mは弁護士を通じて、無罪判決が言い渡されるまでの464日間の拘置期間について、佐賀地裁に補償を請求。地裁は「長期間拘置された上、無期懲役および死刑を求刑され、精神的にも肉体的にも大きな被害を受け、名誉も傷つけられた」として、刑事補償法の上限である1日当たり1万2500円、総額580万円を支払うことを決めた。 Mはその後、福岡、宮崎、大分、鹿児島の4県で127件の窃盗事件などを繰り返した。被害総額は約440万円に上る。このうち2011年6月〜12月に起こした5件の窃盗(被害総額計約34万円)と、2012年1月に使用した覚せい剤取締法違反容疑で福岡地検に送検された。2012年6月11日、福岡地裁は懲役2年10月(求刑懲役3年6月)を言い渡した。 |
文 献 |
「佐賀女性七人連続殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
「水曜の夜に女が消える『佐賀連続殺人事件』」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ5 迷宮入り事件』(同朋社出版,1996)所収) |
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備 考 | ||
2/14 | 概 要 |
<先妻家族3人殺人事件> パチンコ店員だったM(45)は、勤め先の女性と親しくなったのが原因で、妻と離婚。その後、復縁をしようとしたが、元妻の両親(67、57)と妹(32)の3人に反対されて復縁できなくなったと思い込み、恨みをはらすため、1989年2月14日午前3時半ごろ、両親宅に押し入り、3人を包丁で次々と刺し殺した。 殺意はなかったと訴えたが、1989年12月、名古屋地裁で死刑判決。1990年7月、名古屋高裁で控訴棄却。キリスト教に入信したMは、裁判で争うことに消極的になったことや、親兄弟が苦しむのを見たくない、と1994年3月に上告取り下げ、死刑確定。2000年11月30日、死刑執行、57歳没。 |
文 献 | 「自分の兄弟も苦しむ―上告取下げ―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収) | |
備 考 | ||
7/23 | 概 要 |
<宮ア勤幼女連続殺人事件> 1989年7月23日午後、宮崎勤(26)は幼女(6)に声をかけて車に乗せ、八王子郊外の山林に連れ込み、裸にしてビデオを撮ろうとしたところ、尾行していた幼女の父親に捕まった。その後の取り調べにより、4件の犯行が明らかになった。 1988年8月22日夕方、入間市内を歩いていた幼女(4)に声をかけ、八王子市内の山林に連れ出したが泣き出したので絞殺。遺体をビデオに撮った後、衣服を持ち帰る。 1988年10月3日、飯能市の小学校付近で遊んでいた幼女(7)を誘拐して殺害。 1988年12月9日、川越市の自宅団地のそばで遊んでいた幼女(4)を誘い出し、殺害。 1989年2月6日、8月22日に殺害した幼女の骨片や歯などが入ったダンボールを、幼女の家の玄関に置いた。 1989年2月10日、朝日新聞社宛に、誘拐、殺害の詳細を綴った「今田勇子」名義の手紙が届く。 1989年6月6日、江東区の公園で遊んでいた幼女(5)を誘拐して悪戯、殺害。遺体を自宅に持ち帰り、ビデオ撮影。二日目には遺体を切断し飯能市の霊園などに捨てた。 1989年8月11日、一連の幼女連続殺人事件の被告として、正式に逮捕された。 一審東京地裁での精神鑑定では、「極端な性格的偏り(人格障害)はあったが、精神病の状態にはなかった」「多重人格と離人症を主体とする反応性精神病」「精神分裂病だった」という3通りの結果が出た。一審判決では最初の精神鑑定を採用し、刑事責任能力があると判断して死刑判決。弁護側の「心神喪失もしくは心神耗弱」という意見は退けられた。2001年6月28日控訴棄却。2006年1月、最高裁で死刑が確定した。 宮ア勤は2008年6月17日、死刑を執行された。45歳没。再審請求準備中だった。 |
文 献 |
「宮崎勤事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社)所収)
「幼女連続誘拐殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収) 「連続幼女殺人事件 宮崎勤」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収) 天笠啓祐・三浦 英明『DNA鑑定―科学の名による冤罪』(緑風出版,2006(増補改訂版)) 一橋文哉『宮崎勤事件―塗り潰されたシナリオ』(新潮社,2001/新潮文庫,2003) 大和田徹『今田勇子VS警察』(三一書房,1991) 小笠原和彦『宮崎勤事件・夢の中』(現代人文社,1997) 佐木隆三『宮崎勤裁判』上中下(朝日新聞社,1991〜1997/朝日学芸文庫,1997〜2000) 芹沢俊介『“宮崎勤”を探して』(雲母書房,2006) 都市のフォークロアの会編『幼女連続殺人事件を読む 全資料・宮崎勤はどう語られたか?』(JICC出版局,1989) 宮川俊彦『君は宮崎勤をどう見るか』(中野書店,1990) 宮崎勤『夢のなか』(創出版,1998) 宮崎勤『夢のなか、いまも』(創出版,2006) 吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』(文藝春秋,2000) |
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備 考 | 精神鑑定で意見が分かれており、多重人格との鑑定結果も出されている。 | |
11/3 | 概 要 |
<坂本弁護士一家殺害事件> 横浜市磯子区のアパートに住んでいた坂本弁護士(33)、妻(29)、長男(1)が1989年11月3日、忽然と姿を消した。襖などから微量の血痕が検出されたこと、蒲団などの寝具類は消えていたが財布などは残っていたことから、深夜何者かに拉致された可能性が強かった。坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所は、オウム真理教が事件に関わっていると主張した。室内にオウム真理教のバッジが落ちていた。また坂本弁護士は、オウムに入信して帰ってこない子供の親たちが集まって結成した「オウム真理教被害者の会」の中心的役割を果たしていた。さらに10月31日、オウムの幹部が横浜法律事務所を訪ねてきて、激しい口論を繰り返していたなどが理由である。オウム真理教は、活動を阻害しようとする罠、もしくは坂本弁護士の狂言だと反論した。事件は公開捜査となり、弁護士仲間が「救う会」を結成したが、捜査は停滞したままだった。 1995年3月20日の地下鉄サリン事件で、警視庁は3月22日にオウム真理教の強制捜査を開始した。1995年9月、実行犯の供述により新潟、富山、長野の山中から三人の遺体が発見された。10月13日、松本智津夫(麻原彰晃)被告と五人の実行犯が起訴された。 検察の冒頭陳述で、オウムの幹部たちは1989年10月26日TBSへ乗り込み、坂本弁護士の教団批判の収録テープを見て知り、殺害を決意した、としている。オウムが抗議に来て放映中止を要求したという事実を、TBSは隠し通そうとしたため、TBSの報道倫理が厳しく問われることになった。 松本は2006年に死刑判決が確定(1993年の地下鉄サリン事件に詳細を記載)。実行犯である佐伯一明は2005年4月に死刑判決が最高裁で確定。端本悟は2007年10月に死刑判決が最高裁で確定。早川紀代秀は2009年に死刑判決が最高裁で確定。新実智光は2010年に死刑判決が最高裁で確定。中川智正は2011年に死刑判決が最高裁で確定。 佐伯、松本、早川は再審請求中である。 |
文 献 |
「坂本弁護士一家殺害事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
「坂本弁護士一家殺害事件 岡崎一明」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収) 江川紹子『横浜・弁護士一家拉致事件』(新日本出版,1992) 江川紹子『全真相坂本弁護士一家拉致・殺害事件』(文藝春秋,1997) 大山友之『都子聞こえますか オウム坂本一家殺害事件・父親の手記』(新潮社,2000) 坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会編『生きてかえれ!』(坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会,1996) 佐木隆三『三つの墓標 小説・坂本弁護士一家殺害事件』(小学館,2002) |
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備 考 | ||
12/27 | 概 要 |
<道後事件> 風俗関係の仕事をしていたタイ国籍の女性K(25)は、松山市内に住む管理売春のボスであるタイ人女性S(当時自称29)方のマンションで、別のタイ人女性二人と同居していたが、三人は女性の理不尽な処遇に不満を募らせていた。1989年12月27日午前3時すぎ、三人はこれまでの不満が爆発、他の二人がSの首をカッターナイフで刺し、ひん死の状態にさせた。Sの金庫を壊して所持金を奪おうと、Kに隣室の台所から金づちを持ってこさせた時、Sの肩などがけいれんして動いているのを見て、KはSを確実に殺そうと金づちで頭を数回殴り、くも膜下出血による脳機能マヒで死亡させ、殺害した。三人はそのまま逃走。松山東署は殺人容疑で3人を指名手配した。 1996年1月28日、Kは売春防止法違反の疑いで、大阪府警曽根崎署に逮捕、大阪入国管理局に収容された。2月2日、殺人容疑でKは逮捕された。2名は現在も逃亡中である(すでに時効か?)。 1996年9月、松山地裁で懲役8年(求刑懲役12年)の判決。一審の法廷通訳人(日本人)はタイ語の日常会話すらできず、初公判で「私には出来ない」と訴えた。しかし、裁判官が「100点を要求している訳ではない。ベストを尽くせば」と慰留し、公判は続けられた。また、判決の認定理由部分は、「訳す必要はない」との裁判長の判断でタイ語に訳されなかった。 控訴審では経験の豊富なタイ人の通訳人が付き、法廷内でのやり取りはていねいにタイ語に訳された。しかし、通訳人の日本語能力には難があったため、意志の疎通を欠いた。弁護側は「一審は法廷通訳人の通訳能力が著しく低く、調書内容が説明されないなど、十分な審理がされていない」と訴訟手続きの法令違反を主張した。さらに鑑定書の誤りを指摘し、殴打前に女性は死亡していたとして、殺人について無罪を主張した。さらに「日本の性産業は、悪質な日本人ブローカーに借金漬けにされたアジアからの貧しい出稼ぎ女性たちに支えられている。こんな構造がなければ不幸な事件は生じなかった」として、「弁護側の主張が認められなくとも、大幅な減刑措置を望みたい」と訴えた。しかし1998年3月、高松高裁は弁護側の訴えをすべて退け、控訴を棄却。刑は確定した。 |
文 献 | 深見史『通訳の必要はありません―道後・タイ人女性殺人事件裁判の記録』(創風社出版,1999) | |
備 考 |
日 付 | 事 件 | |
5/12 | 概 要 |
<17歳小学1年男児誘拐殺人事件> 1990年2月2日、福岡県太宰府市で下校中の小学1年生男児(7)が行方不明となった。筑紫野署や地元消防団、PTAらによる捜査で5日午前、林の中から首を絞められた遺体で発見された。捜査本部は目撃証言や過去の補導歴から13日、筑紫野市内の無職少年(17)に任意同行を求めて事情聴取、少年は犯行を認めたため未成年略取誘拐、殺人容疑で逮捕した。少年は殺害された男児が通っていた小学校の卒業生で、福岡市内の私立高校を89年12月に退学していた。 少年は中学2年だった1986年11月、筑紫野市内で小学3年生女児を誘拐。3時間に渡って山中を連れ回した上、頭を金属バットで殴ったり、首を絞めたりするなどした上、一晩置き去りにした。未成年略取誘拐、傷害で初等少年院送致が決定し、89年3月まで少年院で過ごし、8月に保護観察処分が解けたばかりだった。 少年側は誘拐を否認し、心神耗弱を訴えたが、1991年6月14日、福岡地裁は求刑通り懲役5-10年の不定期刑を言い渡した。少年は控訴したが、後に取り下げ確定した。10月に佐賀少年刑務所へ入所し、2000年12月に出所した。 元少年は2001年9月、住居侵入容疑で逮捕。2002年10月に懲役7月が確定し、福岡拘置所に入所。翌月、出所した。 2004年7月7日、元少年は佐賀県三養基郡内の団地踊り場で、下校中の小学生女児に声をかけ、体を触るなどした強制わいせつの罪で逮捕された。取り調べで、似たような余罪十数件を供述した。 |
文 献 | 西日本新聞社「少年事件・更生と償い」取材班『僕は人を殺めた』(西日本新聞社,2005) | |
備 考 | ||
5/12 | 概 要 |
<足利事件> 1990年5月12日、4歳の少女が行方不明となり、翌日渡良瀬川河川敷で遺体が発見された。1991年12月2日、幼稚園バス運転手菅家利和さんが足利署に連行され自白。被害者の下着に付着していた精液のDNAがS被告の型と一致したこともあり、菅家さんは起訴された。菅家さんは公判途中から無実を訴えた。公判では特にDNA鑑定の証拠能力について争われたが、1993年7月7日、宇都宮地裁で求刑通り無期懲役判決。1996年5月9日、東京高裁で控訴棄却。2000年7月17日、最高裁上告棄却、確定。 2002年12月25日、弁護団は宇都宮地裁に再審請求を提出。検察側のDNA鑑定について、「捜査段階のDNA鑑定は、今は利用されていない初期のもので鑑定結果は不正確」と主張した。また殺害方法についても、自白とは矛盾すると訴えた。 2008年2月13日、宇都宮地裁は再審請求を棄却した。決定理由で池本寿美子裁判長は、弁護側が提出した証拠の新規性を認めた上で、女児の下着に付いた体液と受刑者とのDNA型が一致しないとする主張や、殺害方法と自白の内容とが矛盾するとした鑑定結果について「いずれも明白性を欠く」と判断した。弁護側は即時抗告した。 2008年12月24日、東京高裁はDNA型の再鑑定を行う決定をした。検察、弁護側がそれぞれ推薦した専門家2人が別々に再鑑定を実施。ともに菅家さんと下着に付着した体液のDNA型が一致しないという結果となった。2009年5月8日、東京高裁は再鑑定結果を検察側、弁護側双方に交付した。 2009年5月19日、菅家さんの弁護側は刑事訴訟法442条(検察官は再審請求があった場合、裁判所の再審開始の可否決定前に刑を執行停止できる)に基づき刑の執行停止を申し立てた。6月4日午前、東京高検は東京高裁の再審請求即時抗告審で、女児の下着に残された体液と菅家さんのDNA型が一致しないとした2件の再鑑定のうち、検察側推薦の鑑定人の鑑定内容を是認し、再審開始を容認する意見書を提出した。その後、東京高検は刑の執行を停止する措置を取ったため、午後3時50分に菅家さんは収監先の千葉刑務所から釈放された。法務省によると、検察が同法に基づき、無罪を見込んで裁判所の決定前に受刑者を釈放したのは初めて。6月23日、東京高裁は再審開始を決定した。 10月21日、宇都宮地裁で再審初公判。佐藤正信裁判長は菅家さんに対し、被告名ではなくさん付けで呼んだ。11月、同様のDNA鑑定で死刑判決を受け、後に執行された飯塚事件の再審弁護団主任弁護士が弁護団に加わった。12月24日の第3回公判では警察庁科学警察研究所(科警研)の福島弘文所長が証人として出廷。DNA鑑定について「当時の技官らに聞き取り調査したが、大きな問題はなかった」「(今回の結果については)誤りではなく、今回より高度な鑑定で事実が分かった」と釈明したが謝罪は拒否した。捜査に用いることの是非については「数百人に一人が一致すると考えれば、参考程度で出すべきだった」と述べ、DNA鑑定への過大評価があったことを認めた。2010年1月21日、22日の第4〜5回公判では、宇都宮地検の森川大司検事(当時)から取調べを受けて「自白」するまでの取調べテープが再生された。22日の公判では、森川元検事が証人として出廷したが、菅家さんには謝罪しなかった。2月12日、検察側は菅家さんに論告で「法廷で取り調べた関係証拠により無罪の言い渡しがされるべきことは明らか」と無罪を求めるとともに法廷で謝罪した。 3月26日、宇都宮地裁は菅家さんに無罪を言い渡した。佐藤正信裁判長は「菅家さんの真実の声に十分耳を傾けられず、(釈放までの)17年半自由を奪うことになり、裁判官として誠に申し訳なく思う」と謝罪。陪席裁判官2人と立ち上がり、頭を下げた。検察側は上訴権放棄を申し立て、地裁に受理された。菅家さんの無罪が確定した。 2010年9月、菅家さんは無実の罪で不当な拘束を受けたとして刑事補償などを請求。宇都宮地裁は2011年1月13日、「(逮捕や服役など身柄の)拘束の種類や期間の長さ、精神上の苦痛などを考慮すると、刑事補償法が定める上限が相当」と指摘。請求通り逮捕された1991年12月2日から釈放された2009年6月4日までの6395日分について、上限額の1日当たり12500円、計7993万7500円を認めた。また、無期懲役だった一審から再審公判までの弁護報酬などの訴訟費用約1200万円の補償も認めた。その際、「再審請求段階で弁護団が行ったDNA型鑑定が重要な契機となり再審に至った」として、本来は補償対象外の弁護側の鑑定費用も考慮した。菅家さんは「冤罪に苦しむ人の弁護に役立ててほしい」として刑事補償の一部を日弁連に寄付する意向。 |
文 献 |
小林篤『幼稚園バス運転手は幼児を殺したか』(草思社,2001)(後に『足利事件 冤罪を証明した一冊のこの本』(講談社文庫,2009)と改題、増補)
佐久間哲『魔力DNA鑑定』(三一書房,1998) 菅家利和『冤罪 ある日、私は犯人にされた』(朝日新聞出版,2009) 下野新聞社編集局『冤罪足利事件―「らせんの真実」を追った四〇〇日』(下野新聞社,2010) 菅家利和・佐藤博史『訊問の罠 足利事件の真実』(角川書店,2009) 菅家利和・河野義行『足利事件 松本サリン事件』(TOブックス,2009) 「足利幼女連続殺人事件 「冤罪」で逃れた真犯人を追う」(週刊朝日ムック『未解決事件ファイル 真犯人に告ぐ』(朝日新聞出版,2010)所収) |
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備 考 | 最高裁でDNA鑑定が証拠として認められた初めての判決。 | |
7/6 | 概 要 |
<女子高生校門圧死事件> 1990年7月6日午前8時半ごろ、神戸市の県立高校で、校門指導のH(39)が門限時刻になったため、校門のレール式扉を閉め始めた。登校中の生徒が扉の隙間に殺到したが、このとき1年生のIさん(15)が門扉と門柱に挟まれ、圧死した。 11月16日、高校側は過失を全面的に認め、兵庫県はIさんの遺族に賠償金を支払うことで示談が成立した。 1993年2月10日、神戸地裁はH被告に禁固1年、執行猶予3年の判決を言い渡した。H被告は控訴せず、刑が確定した。 |
文 献 | 細井敏彦『校門の時計だけが知っている』(草思社,1993) | |
備 考 | ||
11/16 | 概 要 |
<川崎製鉄専務夫人殺人事件> 1975年12月26日正午ごろ、岡山市のマンションに住む川崎製鉄専務の妻(55)が自宅の和室で後頭部を床に打ち付けられた上、ストッキングで首を絞められ殺害された。犯人は現金20万円、預金通帳(額面260万4456円)、印鑑、株券92枚(870万円相当)を奪って逃走。さらに同日午後0時40分頃、銀行で通帳から全額を引きだした。 遺体は翌日、発見された。遺体発見が犯行から10時間以上も後だったため、初動捜査が送れ、難航した。 時効直前の1990年春、岡山県警は専従捜査員を3人から7人に増員。さらに銀行の払戻請求書に残されていた指先3分の1の指紋を、導入したばかりのコンピュータで分析。目撃された犯人の身長、年齢などを元に指紋を復元し、コンピュータで照合した結果、1976年に滋賀で窃盗容疑で逮捕されたことのある、千葉県八千代市に住む不動産会社支店長の男性(49)の指紋と一致した。 岡山県警は12月16日午前、佐倉市の会社にいた男性を任意同行し取り調べ、午後2時に逮捕した。時効成立40日前だった。 男性は当時神戸市内で新聞販売店を経営していたが、資金繰りに困っていた。男性はその後1986年に不動産会社に就職していた。 1991年6月19日、岡山地裁は男性に懲役15年(求刑無期懲役)を言い渡した。判決で裁判長は逃亡していた15年間について「長期間が経過したことで被告に有利な情状とすることは、いわゆる逃げ得を許すことになる」としながらも、「被告は、いわゆる逃亡生活をしてきたわけではなく、普通の社会人として、過ごしてきた」と判断。その上で「再犯の可能性もなく、刑罰を加える必要性は犯行直後に比べ、格段に減少した。無期懲役にするのは、もはや重すぎる」と酌量減軽。「犯行は、冷酷非道で被害者と遺族の苦痛、無念さは計り知れないが、被告の反社会性は(逮捕までの)15年の歳月によってほとんど消えたと思われる」と述べた。 |
文 献 | 松垣透『時効40日前の逮捕―殺人犯の逃亡の記録』(リム出版新社,1994) | |
備 考 | ||
12/11 | 概 要 |
<群馬県妻子保険金殺人事件> 1990年12月11日20時過ぎ、石材店従業員K(52)から群馬県新里村駐在所に「娘(10)が帰ってこない」との届出があった。「19時前、村道を車で帰宅中、算盤塾帰りの娘と出会い車に乗せたが、友達の所に寄りたいので友人宅に降ろした。買い物を済ませ30分後に迎えに行くと顔も出していなかった」とのことであった。翌日になっても帰らなかったため、警官、消防団、PTAなども協力して捜査が始まったが、一切の手掛かりがなかった。1週間後、娘の絞殺死体が村道から10mほど入った林の中で発見。調べでKはパチンコに狂い、サラ金に1500万円の借金があったことが発覚。取調中に殺害を自供し、19日に逮捕。さらに20日、3年前の1987年10月23日、病弱の妻(当時40)をもロープで絞殺し、自殺に偽装して保険金500万円を受け取っていたことが発覚。逮捕された。1992年6月、東京高裁で求刑通り無期懲役判決が確定。 |
文 献 | 「10歳の塾帰り実娘保険金殺人の父親」(室伏哲郎『保険金殺人−心の商品化』(世界書院,2000)所収) | |
備 考 | ||
2/25 | 概 要 |
<宝石店従業員他保険金殺人事件> 1990年12月28日、無職の男性Sさん(27)と宝石店従業員Kさん(20)の遺体が、福岡県田川郡赤池町の駐車場で全焼し放置された乗用車内で見つかった。二人とも刺し傷があったが、Kさんに抵抗した後があったのと、Sさんの筆跡で「誘ったがバカにされた。死ぬ」という遺書めいたものがダッシュボードにあった。そのため、当初は無理心中を図った事件として処理されそうになったが、女性に災害死亡時1億円の保険金がかけられていたことが判明。心中を装った保険金殺人と分かった。Kさんが働く北九州市の宝石店女性経営者M(21)と古美術店主O(41)が共謀、従業員と、テレホンクラブで女性経営者が知り合ったSさんとの無理心中を装い、保険金を受け取ることを計画。90年12月25日から26日にかけて、2人を果物ナイフで刺すなどして殺害、遺体を置いた男性の車にガソリンをかけ放火したものだった。この事件で保険金は支払われていない。1月31日、地元新聞が「保険金殺人として捜査開始」の記事を出し、Mは姿を消した。その後、二人は指名手配された。 なお、Mが経営していた宝石店であるが、実際は商取引が皆無と言ってよいペーパーカンパニーであった。M、KさんはOの古美術店従業員募集で応募してきた同僚であった。MはすぐにOと情交を結び、今回の偽装計画を立てたものであった。 Oは、埼玉県で起こしたとされる強盗事件で公判中の1994年2月、殺人容疑で逮捕されるも、物証に乏しく処分保留のまま釈放。2年後の1996年2月、親族らの「犯行状況を告白された」という検察官調書などを「新証拠」として、再逮捕された。捜査段階から一貫して黙秘を続けるも、1999年3月の第25回公判で突然、殺人を認める供述を行う。その後の公判で、「取り調べは無意味だと思い黙秘。自分の罪を逃れるためではない」と説明した。2000年3月15日、福岡地裁で死刑判決。弁護人が控訴するも本人が取り下げ、3月30日、死刑確定。 Mは指名手配後関東方面に潜伏していたが、Oの死刑判決を知り、4月29日に福岡県警田川署に出頭、逮捕された。2002年6月28日、福岡地裁はMの共同正犯を認め、求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。 Oは2007年4月27日、死刑を執行された。59歳没。 |
文 献 | 「女宝石店主無軌道保険金殺人」(室伏哲郎『保険金殺人−心の商品化』(世界書院,2000)所収) | |
備 考 | O被告はなぜ、公判途中で殺人を認める供述を行ったのか。その心変わりの理由は不明である。 |