ノンフィクションで見る戦後犯罪史
【1981〜1985年】(昭和56〜60年)



【1981年】(昭和56年)

日 付事 件
1/22 概 要 <替え玉保険金殺人事件>
 1981年1月22日、佐賀の漁港で墜落したレンタカーの中から死体が発見された。死体は水産会社社長S(42)のものと判明し、妻H美(41)と水産会社社員で愛人のY子(43)はともに死体がSであると証言した。警察はこの証言を鵜呑みにし、死体をSと断定した。ただ、レンタカーの破片などから事故ではなく殺人と判断。Sの保険金目当ての殺人とにらみ、H美とY子を逮捕した。警察は二人を追求していたが、二人の供述にばらつきがあることが判明。さらに尋問を続けた結果、H美が自供した。実は死体はSではなく、Sが競艇場で知り合った大工M(46)であった。経営する水産会社が数億円の負債を抱えたため、自分は自殺したことにし、保険金を妻と愛人に与え、借金を返そうと目論んだ替え玉殺人だった。Sは28日、下関駅で列車に飛び込み自殺した。1984年5月、佐賀地裁はH美に懲役4年、Y子に懲役7年と、この種の事件にしては軽い判決を言い渡した。
文 献 「替え玉殺人事件―『S・妻と愛人を犯行の道連れに』」(岡田晃房『TRUE CRIME JAPANシリーズ3 営利殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)
備 考  
4/4 概 要 <大宮母子殺人事件>
 S(30)は女性問題で勤務先を退職させられて金に困り、中学時代の友人を誘って強盗事件を計画。1981年4月4日午前2時頃、埼玉県大宮市で共犯者とともに面識のあった和裁教師(当時60)方に侵入。物色中に共犯者が教師に気付かれたため、共犯者が持参した鉄パイプで殴打した上、2人がかりで絞殺。さらに別室で寝ていた長女(当時38)を鉄パイプで殴った上、絞殺した。殺害後、預金通帳や現金など約670万円相当を奪った。
 Sは1992年1月、死刑確定。共犯者は逃亡し続け、1997年に病死。1999年12月17日、Sに対する死刑執行、48歳没。死刑反対グループが15日、執行停止を求める人身保護請求を東京地裁に申し立てていたが、裁判所の判断を待たずに処刑された。東京地裁は東京拘置所長に対し、17日までに申し立てに対する意見書を提出するように要請していた。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  共犯同士の片方は死刑台に、片方は、心の中はともかく、ベッドの上での死。運命とはいえ、境遇のあまりもの違いに驚かされる。もし共犯がどこかで逮捕されていたら、まだ執行されることはなかっただろう。
6/11 概 要 <パリ人肉嗜食事件>
 1981年6月11日午後4時頃、パリ第三大学サンシェ分校の留学生S(32)は、自分のアパートに、同じ大学で学ぶオランダ人留学生のLさん(25)を呼び出し、関係を迫ったところ、彼女から強く拒否されたので、カービン銃で背後から射殺。尻、太ももなどをナマで食べたあと、死姦。死体を運搬するために解体。その間にも人肉をビフテキのように焼いて食べ、冷蔵庫に死体の一部を保存していた。13日、Sは遺体をパリの西方にあるブローニュの森の湖畔に棄てた。同日夕方、死体を詰めたスーツケースが発見され、15日に逮捕、犯行を自供。Sは3月31日、Sはパリ郊外の精神病院に収容された。7月11日、フランスの予審裁判所は、事件当時Sは心神喪失状態であったとする医師の鑑定にもとづき不起訴を決定して確定した。1984年5月22日、帰国すると同時に精神科に入院。1985年8月の退院後、小説を出版しマスコミにも登場した。
文 献 「パリ日本人留学生人肉食事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「パリ人肉嗜食事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

安田雅企『パリ留学生人肉食事件』(思想の科学社,1983)
備 考  
6/14 概 要 <みどりちゃん殺人事件>
 1981年6月14日午後1時頃、千葉県柏市にある小学校近くで、小学6年生のみどりちゃん(11)が刺殺死体で発見された。捜査の結果、近くに住む中学3年生の少年が、現場付近のスーパーで凶器と同型のナイフを事件の1週間前に購入したことを突き止めた。警察は少年を参考人として連行。立会人なしで事情聴取し、犯行を自供したと7月6日に逮捕した。千葉家裁松戸支部は8月、少年院送致の保護処分と決定した。
 少年は1982年5月、無罪を主張、再審を申し立てた。根拠として、「返り血を浴びていない」「凶器とされたナイフと同型のナイフが自宅で発見されている」「アリバイがある」が挙げられた。少年は少年院を退院し、1985年7月17日までに保護処分が取り消された。8月22日、千葉家裁は、保護処分が取り消されていることを理由に少年の訴えを退けた。抗告したが、11月に東京高裁も「保護処分を終了したものは、その処分の取り消しを求めることはできない」として請求を退けた。1986年1月11日、最高裁は下級審の決定を支持し、少年側の再抗告を退けた。一般刑事事件では認められている再審は認められず、法の上の不平等を明らかにした。
文 献 小笠原和彦『少年は、なぜ殺人犯にされたか 「みどりちゃん殺人事件」えん罪の構造』(現代史出版会,1983)
備 考  
6/17 概 要 <深川通り魔殺人事件>
 1981年6月17日、東京深川の商店街で、元すし職人K(29)が主婦二人(33)(29)、幼児二人(3、1)を包丁で刺殺、女性二人に重軽傷を負わせた。さらに別の主婦を人質にして中華料理店に立てこもった。約7時間後に逮捕。就職を断られたことが直接の動機だが、血液と尿から覚醒剤が検出された。また立てこもっているときも「黒幕を出せ」「電波を送られる」などと叫んでいた。
 心神耗弱という鑑定結果から、検察の求刑無期懲役。1982年12月23日、東京地裁は求刑通り無期懲役判決を言い渡した。Kは当初は控訴する予定だったが、担当の国選弁護人が説得してやめさせ、一審で判決確定。
文 献 佐木隆三『深川通り魔殺人事件』(文藝春秋,1983/文春文庫,1988/新風舎文庫,2004)(改題『白昼凶刃』(小学館文庫,2000))
備 考  弁護人が説得した際、彼は「模範囚になって12、3年で出所する」とにっこり笑ったそうである。彼は本当に責任能力が欠けていたのだろうか。
6/27 概 要 <みどり荘事件>
 1981年6月27日深夜から翌日未明にかけて、大分市のアパートに住む短大生(18)が自室で乱暴され、首を絞められて殺害された。警察は隣に住む会社員の男性を重要参考人として捜査。任意で呼んだ男性にポリグラフをかけたり、指紋・足跡・唾液・下着などを提出。半年後の翌年1月14日、警察は男性を逮捕した。厳しい“尋問”により男性は犯行を“自白”した。
 男性は捜査段階や地裁公判の初期に「被害者の部屋にいたことは覚えている」などと供述していたが、裁判途中から無罪を主張。直接証拠はなかったが、1989年3月、大分地裁は求刑通り無期懲役判決。しかし福岡高裁の控訴審では1991年10月、裁判長が職権で現場に残されていたとされる毛髪の一部から検出したDNA鑑定の証拠採用を決定。鑑定結果は「現場から採取された毛髪の一本から被告と同一型のDNAを検出した」とした。しかし男性自身が獄中でDNA鑑定書に多くの矛盾があることを発見。男性のものであるはずの髪の毛が男性のものではなかったことや、鑑定書写真と報告書に多数の誤りがあった。1994年12月、担当した筑波大学の助教授自らが信用性を否定。なお男性は、1994年8月、福岡高裁の決定により保釈になっていた。1995年6月30日、逆転無罪判決、そのまま確定した。
 無罪確定時で時効まで1年以上残っており、高裁裁判長が真犯人の存在を示唆したにもかかわらず、警察は「捜査はやり尽くした」と再捜査はせず、1996年に時効となった。
文 献 天笠啓祐・三浦 英明『DNA鑑定―科学の名による冤罪』(緑風出版,2006(増補改訂版))

小林道雄『夢遊裁判―なぜ「自白」したのか』(講談社,1993)(後に『「冤罪」のつくり方―大分・女子短大生殺人事件』(講談社文庫,1993)と改題、増補)

みどり荘事件弁護団『完全無罪へ 13年の軌跡―みどり荘事件弁護の記録』(現代人文社,1997)
備 考  当番弁護士制度発足のきっかけとなった事件である。また、男性に対する報道被害の問題が指摘されているが、マスコミ側からの謝罪は一切ない。
7/ 概 要 <覚醒剤密輸入冤罪事件>
 北九州市の自営業者Sは1980年10月、覚醒剤約3キロ(当時の末端価格約9億円)を当時北九州市に住んでいた男性Aらに運び込ませて韓国から福岡空港に密輸した。さらに1981年6月にも同様の手口で覚醒剤約1キロを持ち込んだ。さらにSは現金235万円を渡し韓国へ行かせたが、Aは覚醒剤を入手できないまま帰国した。
 1981年7月、福岡県警はSの幼なじみである暴力団組長Kを逮捕。Kは逮捕当初から全面否認し、物証もなかったが、福岡地裁はSやAが「Kに脅されて密輸した」という証言を認め、1982年10月、懲役16年を言い渡した。Sは懲役8年、Aは懲役2年が既に確定している。
 1983年3月、福岡高裁はKの控訴を棄却。1985年3月、最高裁はKの上告を棄却し、確定した。
 Kは1986年7月、第一次再審請求。福岡地裁は1987年3月、棄却した。Kは1988年8月、第二次再審請求。1989年11月、福岡地裁は棄却した。
 しかし1992年9月、Sが弁護団に偽証を告白。Sは10月に死亡したものの、弁護団は偽証告白のテープを元に、1993年7月に第三次再審請求を起こした。請求審では運び屋のAも偽証を認めた。
 1996年4月1日までに、福岡地裁は再審開始を決定した。共犯とされていたSやAの偽証告白の信用性を認めた上に、二人の旧供述自体の矛盾も指摘しての新旧証拠を総合判断した結論だった。
 検察側は即時抗告したが、2000年2月29日、福岡高裁は即時抗告を棄却した。福岡高検は最高裁への特別抗告を断念、再審開始が決定した。Kはすでに1988年に徳島刑務所を出所していた。
 2000年9月26日、福岡地裁の初公判でKは無罪を主張、検察側は確定判決は妥当と訴えた。
 2001年7月17日、福岡地裁はKに覚醒剤取締法違反については無罪を、傷害罪については懲役1年6月の判決を言い渡した。判決で裁判長は、2人の旧供述と新供述の信用性を、Kの渡韓記録や再審で初めて証拠採用された国際電話の通話記録など客観的な証拠に照らして検討し、「旧供述はKから密輸を依頼された経緯など重要な部分で変遷があり、不自然な点が多々ある。新供述はKに強要された形跡もなく、信用性は否定しがたい」とした。
 福岡地検は控訴を断念し、無罪判決は確定した。本事件では、捜査段階で収集されたKに有利な証拠が再審請求審で初めて開示されるなど、当時の捜査や立証方法の問題点が指摘されたが、地検はコメントを控えた。
文 献 目森一喜、斉藤三雄『司法の崩壊 やくざに人権はないのか』(現代人文社,2002)
備 考  
7/6 概 要 <神田ビル放火殺人事件>
 1981年7月6日、I(31)は会社の金の使い込みがばれるのを恐れて上司とビル管理人をバットで撲殺、ビルに放火して逃走した。Iは、会社の帳簿書類を焼いて逃亡するつもりであり、殺人は偶発的だと主張するも、1988年7月1日に死刑確定。1996年7月12日、執行。48歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
9/5 概 要 <銀行オンラインシステム搾取事件>
 
文 献 松田美智子『なにが彼女を狂わせたか』(恒友出版,1996)(後に『美人銀行員オンライン横領事件』(幻冬舎アウトロー文庫,1997)と改題)
備 考  
10/2 概 要 <群馬老婆殺人事件>
 1959年、千葉県での女性殺害時件で無期懲役判決を受け、仮釈放中だったS(54)が、1981年10月2日と1982年7月3日、群馬県内で農作業中の主婦二人にそれぞれいたずらしようとして抵抗され殺害した。逮捕後、時効が成立していたが、1947年に引き起こした1件の殺人を自供。1988年5月、死刑確定。1995年12月21日執行、68歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
12/18 概 要 <「疑惑の銃弾」事件>
 1981年11月18日、三浦和義と妻(34)がロサンゼルス市内で何者かに襲撃され、妻は重傷、三浦も怪我を負った。三浦は意識不明の妻のために奔走し、1982年1月、米軍の病院機で帰国させたが、月末に死亡した。三浦は1億5千万円の生命保険金を受け取った。
 1984年1月〜3月、雑誌「文藝春秋」は「疑惑の銃弾」を連載し、事件と三浦に疑問を投げ掛けた。この特集にテレビ、新聞、雑誌などが追随、報道合戦を繰り広げ、「ロス疑惑」騒動が広がった。3月末には捜査当局も動き始めた。
 1981年8月31日に三浦の妻はロスのホテルで何者かに襲われ、1週間の軽傷を負っていたが、1984年5月に当時三浦と付き合っていた元ポルノ女優が犯人であると警察に名乗り出た。
 さらに三浦の交際相手であったSさん(34)が行方不明になっていることが判明した。Sさんは1979年3月に夫との離婚が成立し、29日にロスへ飛んだ後姿を消していた。三浦は3月27日にロスに行き、4月4日に帰国していた。また、Sさんの銀行口座に振り込まれていた離婚慰謝料のうちから約430万円を三浦が引き出していた。同年5月ロス郊外で身元不明死体が発見されていたが、1984年3月28日にロサンゼルス市警が歯形などからSさんと断定した。
 警視庁は1985年9月、三浦と元女優を殺人未遂容疑で逮捕。元女優は犯行を認めたが三浦は否認。1986年、東京地裁は三浦被告に懲役6年、元女優に懲役2年6ヶ月の実刑判決を下した。三浦被告は控訴した。
警視庁の取り調べはさらに続いていたが、Sさん事件では立件できず、妻の殺害容疑で三浦被告を計画者、同業者のOさんを実行者として起訴した。
 1994年3月、東京地裁で三浦被告に求刑通り無期懲役判決が言い渡された。しかしOさんに無罪判決が下された。さらに1998年7月の東京高裁では、三浦被告、Oさんともに無罪判決が言い渡された。検察側はOさんに対する上告を断念、しかし三浦被告に対しては実行者不明という形で上告した。
 三浦被告は控訴審無罪判決で13年ぶりに釈放されたものの、殺人未遂事件の実刑判決が1998年9月に最高裁で確定。11月に東京拘置所へ収監された。2001年1月に出所している。
 2003年3月5日付で最高裁は検察側の上告を棄却。殺害容疑の無罪判決が確定した。三浦元被告は別に会社の商品を故意に壊して保険金をだまし取った詐欺罪にも問われており、こちらについては懲役1年、執行猶予3年の一・二審判決が確定した。
 三浦元被告は多くの記事に対して名誉毀損を訴え、ほとんどの裁判で勝利している。
 三浦氏は2003年5月には東京都内の書店で雑誌1冊を万引した疑いで現行犯逮捕されたが、不起訴処分になっている。また2007年4月には、神奈川県内のコンビニエンスストアでサプリメントを万引した疑いで逮捕された。略式起訴で罰金刑が下されたが、三浦氏は正式裁判を申し立て、公判では万引を否認した。
 2008年2月22日(現地時間)、ロサンゼルス市警は、米自治領サイパン島のサイパン国際空港で日本からの飛行機を降りた直後の三浦和義氏を、妻殺害における殺人と共謀の容疑で逮捕した。1988年にロス市警が請求、発付されていた逮捕状が執行された。銃撃事件の舞台になったカリフォルニア州では、同じ犯罪行為の刑事責任を何度も追及することを禁じる「一事不再理」の原則を州刑法で定めているが、2004年9月に米国外での裁判に対しては同原則を適用しないと改正されていた。
 三浦氏及び弁護側は移送手続き取り消しと即時釈放の申し立てを行ったが、いずれも棄却。3月3日、サイパン地裁でロサンゼルス市への移送の可否を巡る審理が始まった。3月19日に開かれた審理で弁護側は、逮捕と身柄拘束が合衆国憲法に違反する不当な拘束であるとして、人身保護請求を申し立てた。
 4月23日、三浦和義氏の訴訟の可否を争う審理がロサンゼルス郡地裁で始まった。
 9月12日、三浦和義氏が申し立てた人身保護請求の審理が開かれ、サイパン地裁は請求を却下し、身柄移送命令を出した。
 9月26日、三浦和義氏の逮捕状取り消し請求についてロサンゼルス郡地裁は殺人罪を無効、共謀罪は有効とする決定を出した。決定でバンシックレン裁判官は、殺人罪については「2005年の州法改正前に日本で判決が出ており、改正をさかのぼって適用することはできない」と判断。一事不再理にあたり、米国で再訴追はできないとした。一方、共謀罪については、「『日本の刑法にある共同正犯とは構成要件が違い、一事不再理にあたらない』という検察側の主張に弁護側は十分反証しなかった」との理由で弁護側の主張を退けた。
 9月29日、三浦氏及び弁護側は人身保護請求を取り下げ、ロサンゼルスへの身柄移送に同意した。
 10月10日早朝、三浦氏は米サイパン島からロサンゼルスに移送された。同日夜、三浦氏はロス市警本部の留置場で、Tシャツで首を吊って自殺した。61歳没。遺書は見つかっていない。遺族、弁護側は他殺を主張したが、ロサンゼルス郡検視局は12月3日、ベッドにシャツをくくりつけての首つり自殺と断定する最終報告書を公表した。
 2009年1月14日、ロサンゼルス市警は三浦和義氏がSさんを殺害した容疑者だったと結論づける捜査結果とともに、容疑者死亡により捜査は終結したと公式に発表した。捜査報告では、事件の詳細が不明で新証拠はないとしながらも、事件後に三浦氏がSさんの銀行口座から多額の現金を引き出すなど、以前から明らかになっていた状況証拠から判断したとしている。2010年3月17日、ロス郡検察は、死亡時に対応した市警の看守らに刑事責任はないとし、三浦氏の自殺に関する捜査を終結するとの報告書(2010年1月4日付)を公表した。
文 献 「「疑惑の銃弾」事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「ロス銃撃事件」(室伏哲郎『保険金殺人−心の商品化』(世界書院,2000)所収)

足立東『ロス疑惑三浦事件』(霞出版社,1995)

安倍隆典『三浦和義との闘い』(文藝春秋,1985)

飯室勝彦『報道の中の名誉・プライバシー 「ロス疑惑」にみる法的限界』(現代書館,1991)

家田荘子『三浦和義氏からの手紙−「ロス疑惑」の心の検証−』(幻冬舎アウトロー文庫,1998)

北岡和義『13人目の目撃者 三浦事件「ロスからの報告書」』(恒友出版,1984)

現代人文社編集部編『11年目の「ロス疑惑」事件 一審有罪判決への疑問』(現代人文社,1997)

佐々木良次『叫べ! 一美よ、真実を』(双葉社,1984)

島田荘司『三浦和義事件』(角川書店,1997)

週刊文春特別取材班『疑惑の銃弾』(ネスコ,1985)

福田洋『疑惑の銃弾 ロス殺人事件』(日本文華社文華新書,1984)

三浦和義『ネヴァ』(モッツ出版,2001)

三浦良枝『ラヴァ』(モッツ出版,2001)

三浦和義『弁護士いらず』(太田出版,2007)
備 考  

【1982年】(昭和57年)

日 付事 件
2/9 概 要 <西成覚醒剤常習者通り魔事件>
 1982年2月7日午前9時過ぎ、大阪市のアパートの2階に住むH(47)は、妻(34)が食事の用意もせず外出しようとしたのに激怒。台所から刺身包丁を持ってきて妻の胸を刺した。妻は出血多量で死亡。さらに止めようとした一人息子(11)も刺した。錯乱したHは隣の部屋に押し入り、Aさん夫婦をめった刺しにした。Aさん夫婦は血まみれになりながらも、廊下に逃げ出した。Aさんの妻は後に死亡。同じ二階に住むBさんはAさん夫婦を見付け仰天、慌てて自分の部屋に駆け込み、夫に向かって救急車を呼んでと叫んだ。Hはその声を聞きつけ、Bさん宅に飛び込み、たまたま一緒に食事をしていた同じアパートの住人C子さん(49)の胸を刺して殺害。一階に駆け下りたHは出勤しようとしていたDさん(56)の娘E子さん(20)と鉢合わせ。HはいきなりE子さんの顔に切り付けた。悲鳴を聞いて飛び出したDさんの胸にも包丁を刺し、Dさんは死亡。そのまま、表の路地に飛び出したが、通報で駆けつけた警官に逮捕された。
 Hは覚醒剤の常習者で、7年前にも幻覚症状から妻を切り付け、逮捕されていた。生活保護を受けていたが、どこからか金を工面し、覚醒剤を続けていた。近所の人々も彼が覚醒剤常習者だと気付いていて、半年ほど前にも連名で警察に何とかしてくれと届けていた。心神耗弱が認められ、無期懲役が確定。
文 献 「西成覚醒剤常習者通り魔事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
備 考  
2/24 概 要 <「無尽蔵」殺人事件>
 1982年8月、東京・日本橋の三越デパートで開催された古代ペルシア秘宝展の展示秘宝が全て偽物と判明した。ニセ秘宝のルートに関わると見られる人物である、東京池袋の古美術店「無尽蔵」の店主は、1982年2月末以来失踪していた。警察は、当時「無尽蔵」の店員をしていた男性が店主を殺害、死体を隠したと疑った。9月26日以降、捜査当局は男性を連日2週間にわたって警察へ呼んで取り調べる一方、店主のアパートや男性が当時住んでいたマンションなどの家宅捜査を行った。12月4日、男性を別件の横領で逮捕。もっともこの「横領事件」容疑は骨董業界の商慣習を無視した強引なものであった。後に容疑は私文書偽造・行使、詐欺に切り替えられたが、この容疑もまた日常的な業務の一環として行われたものであり、身柄を確保するための強引な手法であった。警察の厳しい追及を受けた男性は、店主の殺害を自供した。
 1982年2月24日午後7時40分頃、「無尽蔵」店内で男性は店主を激情にかられて撲殺。死体を布で梱包し、翌日夜、車に積み込んだ。さらに10日後の3月6日、神奈川県の運河へ遺棄した、というのが「自白」内容である。ただし、「自白」内容には矛盾点も多く、さらには物的証拠は何一つ発見されていない。警察が「無尽蔵」で採集したという血痕は微量で、しかも人血かどうかさえ不明であった。しかも、犯行日以降に店主にあった者が法廷へ出廷した証人だけで5人もいる。遺体も発見されていない。
 法廷で男性は無実を訴えたが、1985年3月13日、東京地裁で懲役13年の判決が言い渡された。裁判所は目撃証言などは全て否定、自白は全面的に信用できると判断した。1987年5月19日、東京高裁で被告側控訴棄却。1990年6月21日までに、最高裁は上告を棄却し、懲役刑が確定した。
文 献 佐藤友之『夢の屍―無尽蔵殺人事件の謎を追う』(立風書房,1985)
備 考  
5/27 概 要 <広域重要指定112号事件>
 1982年5月27日、F(当時20)は藤沢市の会社員Hさんの長女(当時16)との交際を断られたことを根に持ってHさん方に押し入り、長女、次女(当時13)、妻(当時45)の母娘3人を次々と刺し殺した。さらに6月、犯行の手助けをし、一緒に逃亡していた元ゲームセンター店員の少年(当時19)を兵庫県尼崎市内で、犯行の発覚を恐れて刺殺した。
 Fはこれに先立つ1981年10月、横浜市戸塚区のキャベツ畑で、金のいざこざから盗みの仲間の無職男性(当時20)を刺殺している。
 1988年3月10日、一審死刑判決。控訴するも1991年4月、Fは控訴を取り下げた。1995年6月29日、最高裁で控訴取り下げが無効になった。2001年、控訴審でも死刑判決。2004年6月15日、上告棄却、死刑確定。2007年12月7日、死刑執行。47歳没。
文 献 遠藤允『静波の家―ある連続殺人事件の記録』(新声社,1983/講談社文庫,1988)
備 考  
8/19 概 要 <松山ホステス殺害逃亡事件>
 1982年8月19日、愛媛県松山市のマンションからホステスA子さん(31)が失踪。間もなく、郊外の山林に埋められていた遺体が発見された。捜査の結果、店の同僚だった福田和子(34)がA子さんを殺し、現金13万円と家具など956万円相当の品物を盗み、逃亡。犯行から2週間後の8月30日には東京の美容整形外科で隆鼻と二重瞼の手術を受けた。その後、大阪でも鼻と口元の美容手術を受け、各地を転々とした。
 1985年には石川県の和菓子店主Bさんの内妻に納まっていた。Bさんは入籍の話を持ち出すも、福田は返事を保留。1988年にBさんは親戚に事情を説明。ひとりが知り合いの警官に相談を持ちかけ、会ってみようと店を訪ねたら、近くの学校の行事の手伝いをしているという。学校に行くと既に帰ったとの返事。福田は警官の来訪を知り、そのまま自転車で逃亡していた。
 時効直前、愛媛県警や整形外科医は福田に懸賞金をかけ、それをマスコミが大々的に報じた。福井市内のおでん屋の女将と常連客は、手配写真が時々現れる客にそっくりであることに気付き、通報。1997年7月29日、福田は逮捕された。時効成立の3週間前だった。
 福田は裁判で、強盗目的ではなくA子さんとの競争心、嫉妬心が動機であることを主張。二審ではさらに同性愛からのもつれである偶発的犯行と主張した。しかし裁判所は強盗目的として一審、二審とも無期懲役判決。2003年12月、上告棄却、確定。
 福田受刑囚は、和歌山刑務所に服役中の2005年2月末、刑務所内で倒れ、和歌山市内の病院に搬送されたが、3月11日、脳梗塞のため死亡。57歳没。
文 献 「松山ホステス殺害逃亡事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

大下英治『福田和子 整形逃亡5459日』(廣済堂出版,1998)(『魔性』(徳間文庫,2001/新風舎文庫,2006)と改題)

大庭嘉文『逃げる福田和子 極限生活15年の全真相』(リヨン社,1999)

佐木隆三『悪女の涙 福田和子の逃亡十五年』(新潮社,1998)

福田和子『涙の谷』(扶桑社文庫,2002)

松田美智子『整形逃亡 松山ホステス殺人事件』(幻冬舎アウトロー文庫)
備 考  
12/12 概 要 <戸塚ヨットスクール事件>
 戸塚ヨットスクールは、太平洋横断単独ヨットレース優勝者でもあった戸塚宏校長が、家庭内暴力や登校拒否などの情緒障害児を集団生活とヨット訓練によって矯正、治療を目的として開校された。規律第一で、違反すれば厳しい体罰が加えられる過酷なものであったが、スパルタ式教育で心身とも健康になった子供も多かった。
 1980年11月、大学受験生Yさん(21)が暴行による外傷性ショックにより死亡。1982年12月12日、訓練中の学生(13)がヨット上で角材で殴られ、死亡した。また1982年8月には、高校生M君、S君(ともに15)が、鹿児島県・奄美大島の夏季合宿の帰途、フェリーから海に飛び込み行方不明となっていることも判明した。他に1979年2月にも少年(13)が死亡しているが、こちらは病死として不起訴となっている。
 1983年6月13日、愛知県警は戸塚校長や関係者を逮捕。逮捕者は計20人、傷害致死罪、監禁致死罪などで起訴されたのは14人にのぼる。9月30日、ヨットスクールは自主閉鎖した。裁判は9年近く続き、1992年7月27日、名古屋地裁は戸塚校長に懲役3年・執行猶予3年(求刑懲役10年)、他の9被告に執行猶予付の懲役2年6ヶ月〜1年6ヶ月の有罪判決を言い渡した。ところが名古屋高裁は1997年3月12日、「無抵抗な訓練生に暴行を加えた犯行は悪質残忍」として一審判決を破棄、戸塚被告に懲役6年、コーチら3人に懲役3年6月〜2年6月の実刑を、元コーチの2人に懲役2年6月〜2年、執行猶予4〜3年を言い渡した。2002年2月27日、最高裁は上告を棄却、刑は確定した。
文 献 「戸塚ヨットスクール事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

有園幸生写真『戸塚ヨットスクール地獄の曳航』(レインボー企画,1983)

戸塚宏『私が直す』(飛鳥新社,1983)

戸塚宏『私はこの子たちを救いたい』(光文社カッパブックス,1983)

戸塚宏『孤独の挑戦』(ズーム社,1983)
備 考  戸塚宏は1986年に保釈され、ヨットスクールを再開。2009年現在もヨットスクールは戸塚たちの手によって運営されている。

【1983年】(昭和58年)

日 付事 件
1/7 概 要 <千葉大女医殺人事件>
 1983年1月7日早朝、千葉市の路上で千葉大医学部の女性研修医(25)の死体が発見される。警察は顔見知り、行きずりの両面から捜査を開始し、22日、夫である元千葉大附属病院研修医S(25)を逮捕した。二人は新婚3ヶ月だったが同棲期間は長く、既に仲は冷え切っていた。Sは女性研修医の婿養子であり、病院を経営している妻の父親から自宅を新築、就職の世話もしてもらっていた。しかし女遊びの癖がついており、フィリピン人ダンサーと付き合っていた。1982年末、出張だと偽り、地方巡業しているダンサーと愛媛県で密会。帰宅後の6日、妻から女性関係、金銭問題で追求され逆上。電気コードで首を絞め殺したものだった。我に返ったSは強盗に襲われたように偽装するため、遺体を付近の路上に放置した。
 Sは取調中も不可解な言動を続け、初公判では起訴事実を否認。その後は妻から自殺したいと頼まれたので殺したと嘱託殺人を主張。その後の言動も子供じみていた。1984年、一審で懲役13年判決。1990年、最高裁で懲役13年が確定。特別抗告中に首吊り自殺。
文 献 「千葉大女医殺人事件」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ4 情痴殺人事件』(同朋社出版)所収)

「千葉大女医絞殺事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「千葉大女医殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

恋塚稔『虚構の館 小説・千葉大女医殺人事件』(評伝社,1983)

佐木隆三『千葉大女医殺人事件』(徳間書店,1984/徳間文庫,1989)(改題『女医絞殺』(小学館文庫,2000))
備 考  
1/16 概 要 <パチンコ景品商殺人事件>
 寿司店経営S(51)は、二人目の子供が産まれて金に困り、ギャンブルに手を出したが、約300万円の借金を抱えることになった。その返済に困り、1983年1月16日、東京都内で知人のパチンコ景品買い業者(69)に借金を申し込んだものの断られ、持ってきた石塊で殴打するなどして殺害、現金128万円を奪った。Sは1950年7月に強盗殺人罪で無期懲役の判決を受け、1975年に千葉刑務所を仮釈放。仮出所後7年目の事件だった。1991年2月、死刑確定。1998年6月25日死刑執行、66歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
1/19 概 要 <赤穂母子殺人事件>
 会社員N(32)はゲーム機とばくに凝ったことためサラ金から借りた多額の負債返済に窮し、保険証を奪うことを計画。1983年1月19日夜、兵庫県赤穂市内の同僚方へ電話をし、同僚の妻(33)に対し、同僚が自殺未遂の果てに病院にいるので保険証が必要である旨嘘をついておびき出し、長男(当時4)を連れてきた妻を自動車に乗せて走行し兵庫県内の人気のないところに停車し、午後11時頃、ひもで妻の頸部を強く絞めて殺害し、保険証と印鑑を奪った。さらに寝ていた長男を橋の上から23m下の千種川に投げ込み、水死させた。奪った健康保険証を使ってサラ金から現金100万円を詐取した。妻の死体は海中に投棄した。搾取した金は賭博ゲームに使用した。
 1984年7月10日、神戸地裁姫路支部で死刑判決。1987年1月23日、大阪高裁で控訴棄却。1992年9月29日、最高裁で死刑確定。
 殺意はなかったと、再審請求と恩赦を繰り返し出願していた。2007年4月17日、第五次恩赦請求棄却。第五次再審請求の準備を始めた2007年4月27日、死刑執行、56歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
1/29 概 要 <元昭石重役一家殺人事件>
 I(42)は、伯父で元昭和石油重役(76)に借金を申し込んで断られたため、1983年1月29日未明、重役方に侵入。夫婦一家3人を殺害し、預金通帳を奪った。1985年11月、東京高裁で死刑判決。1988年10月、天皇陛下ご逝去に伴う恩赦を期待して、上告取り下げ、死刑確定。1996年12月20日死刑執行、55歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
1/31 概 要 <勝田清孝連続殺人事件>
 勝田清孝は、72年に京都市で飲食店従業員の女性を殺害し現金を奪った後、80年までに京都、大阪などで7人を殺害。さらに82年10月には名古屋市で警察官を車ではね、奪った短銃で殺人、強盗など一連の警察庁指定113号事件を起こした。1983年1月31日、逮捕。
 1986年3月24日、名古屋地裁で死刑判決。1988年2月19日、名古屋高裁で控訴棄却。1994年1月17日、最高裁で死刑確定。2000年11月30日死刑執行、52歳没。
文 献 「勝田清孝連続殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「勝田清孝連続殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

大下英治『勝田清孝の冷血』(現代書林,1983)後に『勝田清孝事件―冷血・連続殺人鬼』(新風舎文庫,2005)と改題

勝田清孝『冥界に潜みし日々』(創出版,1987)

来栖宥子『113号事件 勝田清孝の真実』(恒友出版,1996)

「不幸を撒き散らす男―『勝田清孝・広域重要手配一一三号事件』」(池上正樹『TRUE CRIME JAPANシリーズ2 連続殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

福田洋『連続殺人』(双葉ノベルス,1986)(『近畿・東海連続殺人』(双葉文庫,1988)と改題)

「点訳奉仕で身を粉に―罪障の償い―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)

「勝田事件 勝田清孝」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  1972年〜80年の事件と、広域113号事件の二つの事件で死刑判決を受けた。一人が二度の死刑判決を受けて確定したのは二人目。最高裁判決では初めて。
2/10 概 要 <横浜浮浪者襲撃殺人事件>
 1982年12月半ばから、横浜市内のマリナード地下街、横浜スタジアム、山下公園などでホームレスが襲われる事件が続出した。1983年2月10日早朝、横浜市中区の松影公園で、43歳のホームレスが頭から血を流して死んでいるのが発見された。2月12日、神奈川県警合同捜査本部は横浜市内の中学生を含む少年10人を傷害致死の疑いで逮捕した。メンバーは市立中学生が5人、定時制高校生が1人、無職少年が4人だった。彼らはゲームセンターなどで遊んでいるうちに徒党を組むようになり、退屈しのぎにホームレス狩りを始めるようになった。彼ら10人にはいずれも補導歴があり、しかも複雑な家庭環境を経験していた。2月5日夜も、横浜スタジアムでホームレス9人を次々に襲って重軽傷を負わせた。さらに山下公園で60歳のホームレスに殴る蹴るの暴行を加えた。このホームレスは2月7日に死亡した。
 被害者の証言ではほかに幾つかホームレス狩り集団があったらしい。このグループについては横浜スタジアムでの暴行事件、山下公園のでの殺人事件しか特定できなかった。横浜家裁は9人を少年院に、1人を救護院へ送致する決定をした。
文 献 「横浜中学生ホームレス狩り事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
備 考  
2/23 概 要 <横浜老女強盗殺人放火事件>
 少年院3回、刑務所5回と、15歳から31年間で娑婆にいたのは11ヶ月と2週間というS(46)は1983年2月5日に満期で横浜刑務所を出所。横浜に住む母のアパートにいたが、4日後から盗みを再開。2月23日、Sは横浜市金沢区の家へ盗みに入ったが、家人の老女(63)が帰ってきた。Sは老女を押さえつけたが抵抗されたため、所持していた日本刀で殺害。現金を盗んだ後、家に火を付けて全焼させた。3月12日、Sは別の強盗事件で逮捕。4ヶ月後、殺人を自供した。さらにSは、32年前に幼女(3)を溜め池に放り込んで殺害したことも上申書として提出した。この件は既に時効となっている。
 Sは服役前の強盗2件を含む窃盗10、強盗6、強盗殺人1、強盗強姦1、現住建造物等放火2、傷害1、銃砲刀剣類所持等取締法違反1件の合計22件で起訴。後日、独房内で暴れた器物損壊1と傷害1が追加された。
 1986年3月25日、横浜地裁は無期懲役+懲役5年(求刑死刑+懲役7年)を言い渡した。Sは控訴したが2ヶ月後に取り下げた。検察側は控訴していなかったため、刑は確定した。
文 献 吉田和正『死刑を志願した男』(三一書房,1992)
備 考  
6/19 概 要 <練馬OLラストダンス殺人事件>
 1983年7月30日、練馬区にあるアパートの部屋からの悪臭に耐えかねた住人たちの訴えにより、大家が合い鍵を使って中に入り、奥にある六畳間の床板をはがしたところ、パンツ一枚の男性の腐乱死体が出てきた。その部屋に住んでいるのはOLであるF(23)であり、週末には実家の横浜へ帰っていた。そこで警察が横浜へ急行し、Fに任意同行を求めるとあっさりと自供した。被害者は鎌倉市の料亭経営Oさん(28)であった。二人は大学の映画研究会の先輩、後輩で、すぐに付き合うようになり、結婚の約束を交わした。Oさんは大学卒業後、機器メーカーに就職していたが、2年後に退社し、料亭を継いだ。その頃からFは、向上心を失っていくOさんへの愛情を失っていった。Fは大学卒業後就職し、別れ話を持ち出した。しかし結局ずるずる付き合い続けていた。
 6月17日、悩んだあげくFは殺害を決意。18日、Fのアパートへ来たOさんとデートをし、料理をして一緒に食べた。ラジオの音楽に合わせてダンスを踊り、セックスをした。19日午前0時頃、眠ってしまったOさんの首を電話のコードで絞めて殺害。鎮痛剤20錠を飲み、果物ナイフで手首を切り、ガスを漏出させたが、死ぬことは出来なかった。その後、Fは死体が白骨化するのを待ち、ふたりで旅行したことのある佐渡で遺骨を抱いて死のうと決意。8月末までに会社を辞めると伝えてあり、それまで彼女は床下に死体を隠し、一緒に暮らしていた。
 Fは逮捕後も食事を拒否した。精神鑑定で離人症を主徴、抑鬱症状を伴っている神経症状にあったと判断された。1985年1月22日の東京地裁で懲役9年の判決。弁護側が量刑不当と控訴。11月28日の東京高裁判決で、情状酌量の余地ありということで懲役7年の判決が下された。
文 献 「練馬OLラストダンス殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  
6/27 概 要 <練馬一家五人殺人事件>
 東京杉並区の不動産鑑定士朝倉幸治郎(48)は、練馬区の洋書販売会社課長Sさん(45)が貸借して住んでいた家と土地が東京地裁の競売にかけられているのを知り、1983年2月、約1億円を支払って所有権を得るとともに、6月末に引き渡す転売契約を4月中旬に別の会社と結んだ。ところがSさん一家はまったく立ち退こうとしない。一度は民事に訴えるも、Sさんが転居を認めたことにより朝倉は訴えを取り下げた。ところがその後、Sさんは転居を再び拒否。引き渡しが出来ない場合、違約金3000万円を支払うことになる。焦った朝倉はSさんのところへ何回も訪れるも、家族の反応は冷ややかだった。
 1983年6月27日昼、再びSさん宅を訪れた朝倉は妻のS子さん(41)をいきなり金槌で殴り殺し、続いて次男(1)、三女(6)を殴殺、絞殺。まもなく帰宅した次女(9)も絞殺。夜、Sさんが帰ってくると、持ってきた鉞で切り付け、失血死させた。その後、死体をバラバラにし、ミンチ状にした。家を出たところを近所から不審の電話をもらった警察官に見とがめられ逮捕。「骨まで粉々にしてやりたかった」と自供した。次男は翌日死亡。長女(11)だけは林間学校に行っていたため、命拾いした。
 1985年12月20日、東京地裁で死刑判決。1990年1月23日、東京高裁で控訴棄却。1996年11月14日、最高裁で死刑確定。2001年12月27日、死刑執行。66歳没。
文 献 「練馬一家五人殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「練馬区一家五人惨殺事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「立ち退き話のもつれが招いた惨劇」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収)

「練馬一家5人惨殺事件 朝倉幸治郎」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  立ち退きのトラブルとあるが、どちらが悪いかといえば立ち退かなかった一家の方であることは、法律的に見て明らかである。だからといって、Aのやった行為をかばうわけではないのだが、やりきれないものが残ることは確かである。
9/6 概 要 <杉並看護学生殺人事件>
 1983年9月6日午前2時40分頃、東京都杉並区の電気工事業A(35)は、杉並区のアパートに一人暮らしをしている看護学校生の女性(26)の部屋に侵入。寝ていた女性の首を両手で絞めて殺してから乱暴、ナイフで遺体の下腹部を切り取るなどした。
 Aは強姦致死、殺人、死体損壊の罪で逮捕された後自供したが、公判では「乱暴はしたが、殺したり死体を傷つけたのは、自分が逃げた直後に侵入した別人の犯行」と主張した。A及び弁護側は(1)被害者の首や背中の傷は、検察側が主張する犯行の態様ではできない(2)凶器とされた電気工事用のナイフからは血液反応が出ていない(3)被害者が殺害された時間帯には、被告は自宅に帰りテレビを見ていたアリバイがある(4)侵入、逃走の仕方や犯行時の履物、現場の足跡や血痕など、自白の内容と多くの食い違いが見られる。以上より、一連の犯行を認めた捜査段階での自白に信用性はないとした。
 1985年7月の東京地裁判決で、裁判長は被告の自白調書の信用性を一括して否定、凶器とされたナイフが犯行に使われたとは認められないなど証拠に疑問を投げかけた弁護側の主張に沿う判断を示したものの、「被害者の隣人らの証言、室内や遺体の状況から見て、一連の犯行を2人以上の人間が行ったとは考えられず、1人の人間が続けて行ったもの」と判断。求刑通り無期懲役を言い渡した。
 被告側は控訴したが、1987年2月に控訴棄却。1989年3月に上告が棄却され、刑が確定した。
文 献 五十嵐二葉『殺さなかった ドキュメント杉並看護学生殺し事件』(恒友出版,1988)
備 考  一審では、被告に現場で犯行を再現させた捜査側のビデオが証拠として出され、その信用性なども問題となったが、東京地裁裁判長は「犯行再現ビデオ」一般の信用性については触れず、その中身の信用性を退けた。
12/18 概 要 <桐生独居老人殺人事件>
 1983年12月18日、群馬県桐生市にある木造アパートの部家で、中年の女性2人が部家の住人である男性老人(84)を絞殺。部家を物色して現金と印鑑、90万円ほど入った預金通帳を盗んだ。翌日、女性は銀行で90万円を引き出した。
 捜査の結果、静岡県三島市に住む主婦O(49)とK(50)が浮上。翌年1月8日、任意同行された2人は犯行を自供、逮捕された。Oは1800万円、Kは360万円と2人ともサラ金から多額の借金をしていたため、Oがかつて桐生市に住んでいたときに面識のあった老人を殺害する計画を立て、相談。すぐにKも承諾した。二人は老人の家を訪ね、強引に泊めさせてもらい、犯行に及んだものだった。
 1985年3月13日、前橋地裁桐生支部で求刑通り無期懲役判決。2人とも控訴せず確定。
文 献 「独居老人殺人事件―『O・サラ金地獄による犯行』」(岡田晃房『TRUE CRIME JAPANシリーズ3 営利殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)
備 考  

【1984年】(昭和59年)

日 付事 件
1/10 概 要 <北海道男児行方不明事件>
 1984年1月10日午前9時35分ごろ、札幌市豊平区の自宅で電話を受けたH君(当時9)が「ワタナベさんのお母さんが、ぼくの物を知らないうちに借りた。それを返したいと言っている」と家族に伝えて外出し、行方不明になった。
 88年6月、Kが以前住んでいた農家の納屋からポリ袋に入った人骨片などが見つかった。行方不明となった当時、H君の自宅近くに住んでいたKは任意の事情聴取に対し、関与を否定した。
 殺人事件の時効成立2ヶ月前である98年11月、道警はDNA鑑定により人骨片がH君のものと断定し、Kを逮捕した。 借金636万円の返済を迫られていたために身代金目的で誘拐したが、犯行発覚を恐れて殺害したというのが動機とされた。しかし「詳細な殺害方法は不明」であり、Kは完全黙秘を続けたため、事件の全容については明らかになっていない。
 2001年3月、札幌地裁において検察側は無期懲役を求刑するも証拠不十分により無罪判決。検察側は事実誤認を理由に控訴するも2002年3月19日、札幌高裁は一審判決を支持。K被告の無罪が確定した。
 Kは2002年5月1日までに、1998年11月の逮捕から2001年5月の釈放までに至る928日分について、1日あたり12,500円、合計1160万円の刑事補償と裁判費用を札幌地裁に請求。11月18日、1日10,000円、計928万円の刑事補償が決定した。裁判費用については約250万円を認めた。
文 献 「北海道男児行方不明事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「「完黙の女」は紅蓮の炎を見つめた−札幌「社長令息」誘拐殺害事件」(「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる』(新潮文庫,2002)所収)
備 考  
2/13 概 要 <学童誘拐殺人事件>
 1984年2月13日、T(44)は借金に困り、福山市議の長男で自分がコーチをしている少年ソフトの児童(9)を誘拐して殺害した。その後、身代金1000万円を要求するも、受け取りに失敗。逮捕される。会社の経営が苦しくなり、サラ金から借りた金の返済が動機。Tは1991年6月11日、最高裁で死刑確定。1998年6月25日執行、59歳没。
文 献 「境界線」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1993)所収)

大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  1980年、似たような誘拐事件が山梨であった。このK(というか、その家族)は被害者の遺族に慰謝料を支払った。そのせいか、Kは一審こそ死刑だったものの、二審では無期懲役に減刑され、確定した。しかしTにはそんな金はなかった。もちろん、慰謝料を支払うというのは罪を悔いている証明の一つかも知れないが、同様・同時期の事件で片や死刑、片や無期懲役というのも残酷である。と同時に、裁判官の裁量一つで死刑、無期懲役が決まってしまう法律の矛盾を示している。
3/12 概 要 <横浜・東高校生殺傷事件>
 1984年3月12日、学校から帰宅途中の4人の高校1年生の背後から、男性が運転する車が加速して突っ込み、はね飛ばした。1人は衣服ごと車のシャフトに巻き込まれ、約100mひきずられた。さらに男性は車から降りて登山用ナイフを持ち出し、倒れて動けなくなっていた3人を次々に刺した。1人(16)が死亡、3人が重傷を負った。
 H(26)はその場で逮捕。Hは前年7月18日にも、傷害容疑で逮捕されていたが、心神喪失で不起訴になっている。Hは精神分裂病の疑いで1982年、83年と医師にかかっていたが、きちんとした治療は受けていなかった。男性の精神鑑定の結果、横浜地検は7月14日、心神喪失を理由に不起訴処分とした。
 Hは不起訴処分後、措置入院となったものの、わずか3ヶ月で開放治療に切り替えられ、その4ヶ月後には自宅に戻っている。
文 献 野口幹世『犯人を裁いて下さい―横浜・東高校生殺傷事件の被害者は訴える』(星雲社,1985)
備 考  
3/18 概 要 <グリコ・森永事件>
 1984年3月18日夜、江崎グリコ社長E氏(42)が兵庫県の自宅で入浴中、銃を持った三人組の男に連れ去られた。犯人組は金塊100kgと十億円の身代金を要求。しかしE氏は21日に大阪府茨木市の倉庫から自力で脱出。犯人組は4月10日、江崎グリコ本社などに放火した。4月12日、警察庁は広域重要指定第114号事件に指定した。
 4月22日、犯人組は初めて“かい人21面相”と名乗る挑戦状をマスコミに出した。5月10日には「グリコ製品に青酸ソーダを入れた」との脅迫状が届く。グリコは28日、裏取引に応じるも犯人は現れなかった。6月22日には丸大食品に脅迫状が届く。6月26日には「グリコゆるしたる」の声明文が届く。9月12日には森永製菓に脅迫状。10月中旬、大阪、兵庫などのスーパーで青酸入りの菓子が発見された。11月7日にはハウス食品に脅迫状が届く。11月14日、森永との取引場所に犯人が現れるも、警察の横の連携が取れておらず、犯人を取り逃がした。12月7日には不二家に脅迫状が届いた。1985年2月には東京、名古屋で青酸入りの菓子が発見される。2月27日「森永ゆるしたろ」の終結宣言。8月7日、前滋賀県警本部長が自殺した。8月12日、犯行終結宣言が届き、以後の連絡はなくなった。
 2000年2月、全ての事件について時効が成立した。
文 献 「グリコ・森永事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「グリコ・森永事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「警察とマスコミを手玉にとった「かい人二十一面相」『グリコ・森永事件』」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ5 迷宮入り事件』(同朋社出版,1996)所収)

朝日新聞大阪社会部『グリコ・森永事件』(朝日新聞社,1985/朝日文庫,1994加筆/新風舎文庫,2004)

NHKスペシャル取材班『未解決事件 グリコ・森永事件~捜査員300人の証言』(文藝春秋,2012)

情報研究所編『21面相の手記』(データハウス,1985)

一橋文哉『闇に消えた怪人』(新潮社,1996/新潮文庫,2001)

小田晋『グリコ・森永事件』(朝日新聞社,1985)

グリコ・森永事件取材班『グリコ・森永事件中間報告』(山手書房,1984)

グループばぐ『かい人21面相の戦争』(泰流社,1985)

宮崎学・大谷昭宏『グリコ・森永事件 最重要参考人M』(幻冬舎/幻冬舎文庫,2000)

森下香枝『真犯人 グリコ・森永事件「最終報告」』(朝日新聞社,2007)
備 考  
3/23 概 要 <山下事件>
 1984年3月23日朝、横浜市の会社員Yさん(45)が起きたところ、隣で寝ていた妻のNさん(44)が亡くなっていた。Yさんはすぐに病院等に連絡を入れた。ところが警察がやってきて、Nさんは変死扱いということで解剖、扼殺と判断され、Yさんが逮捕された。取り調べで「自白」を強要。Nさんは重い心臓病であり、裁判で弁護側は、死体に扼痕が残っていない、頭部内出血は薬によるものであり、病死であると主張。第三者鑑定で東大法医学教室が乗り出し、I教授は殺人と判定。ところが裁判所は、弁護側が要求した第四鑑定を認め、藤田学園保健衛生大学法医学教室のN教授は病死と判定。1987年11月、横浜地裁無罪判決。検察側は控訴せず、そのまま確定。
文 献 「山下事件」(佐久間哲夫『恐るべき証人−東大法医学教室の事件簿』(悠飛社,1991)所収)
備 考  
4/11 概 要 <史上最大拳銃密輸事件>
 1984年4月11日、東京の暴力団員らが貨物船のコンテナに短銃や実弾などをフィリピンから逆輸入しようとしたところを警視庁保安一課と東京税関が見つけ、5人を銃刀法違反で逮捕した。押収されたのは短銃351丁、実弾5564発にのぼる。短銃はS&W(スミスアンドウェッソン)、コルト、ルガーなどで、一部には米軍の刻印が入っていたことから、米軍から流出されたものと思われたが、実際はフィリピンで作られた海賊版だった。
 拳銃を送り出したKはフィリピンで逮捕され、日本へ強制出国させられた。懲役15年の判決を受けている。
文 献 金田仁『流転 「拳銃密輸王」と呼ばれて』(日本文芸社,2009)
備 考  Kは忌野清志郎を発掘し、RCサクセションをデビューさせた人物としても知られている。
5/5 概 要 <夕張保険金目当て放火殺人事件>
 H夫婦(41、38)は1984年5月5日、暴力団員に命令し、保険金目当てに自分の会社の従業員宿舎に放火させ、従業員4人、子供2人が焼死した。また消火時に消防士1名が殉職している。H夫婦は保険金約1億3800万円を騙し取った。しかし殺害されると思った実行犯である暴力団員の訴えにより、H夫婦は逮捕された。H夫婦は放火こそ認めたが、殺意は否認した。1987年3月9日、札幌地裁で一審死刑判決。共犯の暴力団員は分離公判で無期懲役判決がそのまま確定した。
 H夫婦は控訴したものの、昭和天皇崩御に伴う恩赦を期待して1988年10月11日に妻が、13日に夫が控訴を取り下げたため、死刑判決は確定した。恩赦はなく、夫は1996年5月、控訴取り下げは恩赦があると誤解したためなので無効であるとして札幌高裁に対し審理再開申立を行った。8月、札幌高裁は訴えを棄却。最高裁に対する特別抗告も1997年6月に棄却。
 1997年8月1日に死刑執行。夫54歳没、妻51歳没。夫婦ともへの死刑判決確定及び執行は戦後初。妻は戦後3人目の女性死刑執行者となった。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

原裕司『極刑を恐れし汝の名は―昭和の生贄にされた死刑囚たち』(洋泉社,1998)

「夕張従業員殺傷放火事件」(室伏哲郎『保険金殺人−心の商品化』(世界書院,2000)所収)
備 考  
9/4 概 要 <元警官強盗殺人事件>
 1984年9月4日、京都市上京区の船岡山公園を巡回中の京都府警西陣署巡査(30)が元同府警巡査部長の広田雅晴(41)に襲われ、刃物で刺されたうえ携帯していた短銃で撃たれて死亡した。短銃を奪った広田は、約3時間後に大阪市都島区のサラ金店に押し入り従業員(23)を射殺し、現金73万円を奪って逃走。警視庁広域重要指定115号事件に指定される。翌日、千葉県の実家に戻ったところを逮捕された。広田は現職警官だった6年前に郵便局強盗をして服役、8月30日に仮出所したばかりだった。
 1988年10月25日、大阪地裁で死刑判決。1993年4月30日、大阪高裁で控訴棄却。1997年12月19日、最高裁で死刑確定。無実であると訴え、再審請求を繰り返している。
文 献 「元警官強盗殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「元警官強盗殺人事件 広田雅晴」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  
10/6 概 要 <調理人妻殺害事件>
 1984年10月6日午後、板橋区のアパートで主婦Sさん(26)が胸を刺されて殺害された。Sさんは妊娠9ヶ月だった。深夜、夫で調理人のF(24)が自供、殺人の容疑で逮捕された。給料のことで強くなじられたことにカッとなったのが動機と語った。
 1986年7月、東京地裁第5回公判で「精神分裂症で責任能力なし。決定的誘因は、カナダの日本大使館高官との同性愛体験による」との鑑定書が出された。Fは1979年から1981年の約1年半、駐カナダ日本大使館の公使公邸に勤務していたが、この公使に同性愛体験を押しつけられていた。給料が動機と話していたが、実際は充分な給料をもらっており、真の原因は同性愛体験によって精神のバランスが崩れていたことであることがはっきりした。なおこの高官は週刊誌のインタビューに対し、原則論を繰り返すのみであった。
文 献 「外務省高官によってホモにされた男の妻殺し」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)
備 考  
10/11 概 要 <山中湖連続殺人事件>
 元警部で、割烹料理店長の澤地和夫は、商売がうまく行かず、借金で首が回らなくなっていた。Iも一時は羽振りがよかったが、経営に失敗し借金を抱えていた。その二人が借金返済を企んで共謀し、1984年10月11日に宝石商、25日に女性金融業者を騙して連れ出し殺害、現金などを奪った。澤地は、1993年3月26日に死刑執行が3年4ヶ月ぶりに再開されたことに抗議し、7月にあえて上告を取り下げて死刑が確定。もっとも、他にも色々な計算(最高裁まで争った死刑囚よりも、途中で取り下げた方が執行が遅いなど。実際にはそのようなデータはない)があったようである。Iは1995年7月に死刑が確定。現在、ともに再審請求中。宝石商殺害の共犯Bは無期懲役判決が確定。
 澤地死刑囚は2007年10月に胃ガンが判明。11月に手術したが切除できず、その後は抗ガン剤治療などを拒んでいた。2008年12月16日午前1時47分、多臓器不全のため東京拘置所で死亡。69歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

佐藤友之『死刑と無期の間』(三一書房,1991)

澤地和夫『殺意の時』(彩流社,1987)

澤地和夫『監獄日記』(彩流社,1989)

澤地和夫『東京拘置所死刑囚物語』(彩流社,2005)

澤地和夫『なぜ死刑なのですか―元警察官死刑囚の言い分』(柘植書房新社,2006)

宍倉正弘『手錠−ある警察官の犯罪』(講談社,1987/講談社文庫,1990)

「山中湖連続殺人事件 澤地和夫」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  

【1985年】(昭和60年)

日 付事 件
1/26 概 要 <山口組竹中組長射殺事件>
 1981年、山口組三代目組長田岡一雄が亡くなった。半年後、四代目に決まっていた山本健一が服役中に病死。その後組の運営は、八人の最高幹部によって行われてきた。1983年、組長代行の山本広山広組組長が入札による決定を提案。9月の定例会で立候補を宣言。武闘派の竹中正久若頭を筆頭とする竹中グループは反対運動を始めた。田岡文子三代目組長は、入札を辞めることを山本組長に言った。さらに遺言で山健(山本健一)のあとは竹中と言っていたと発言した。当然山広(山本広)は反発。1984年6月、竹中正久は四代目組長に襲名。山広グループは山口組脱退、一和会結成を宣言。このとき、山口組4700人、一和会6000人の構成員がいたと見られている。
 その後、山口組により一和会切り崩しが執拗に行われ、分裂1ヶ月後には山口組8000人、一和会4000人と勢力は逆転した。その後も切り崩しは続き、一和会は2800人まで追いつめられた。会が壊滅すると危機感を強めた一和会は、山広組行動隊を組織。1985年1月26日、竹中組長(当時50)は愛人が住む大阪府吹田市のマンションロビーで、行動隊8人による銃撃を受け死亡。ボディガードの若頭(当時47)、山口組系組長(当時47)2人も即死した。直ちに報復攻撃が始まり、死者25人、317件の抗争が続いた。
 計画者のIは1987年3月14日、大阪地裁で求刑死刑に対し無期懲役判決。裁判長は「山口組側の激しい切り崩し工作が誘発した犯行で、組長側にも落ち度があった。死刑適用は慎重にすべきである」と述べた。実行犯4人はいずれも無期懲役判決(求刑同)。監視役の3被告に懲役10年判決(求刑懲役20年)。 1989年3月20日、大阪高裁で検察側控訴棄却。そのまま確定。
文 献 木村勝美『極道の品格 山口組四代目暗殺の首謀者 元一和会直参・悟道連合会会長石川裕雄の闘い』(メディアックス,2011)

「山口組竹中組長射殺事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
備 考  
3/8 概 要 <芦屋市幼児誘拐事件>
 1985年3月8日未明、兵庫県芦屋市のAさん方に男が押し入り、二階にいた母親をエーテルで眠らせ、そばに寝ていた園児(6)を連れ去った。隣室にいたAさんはすぐに後を追ったが、既に車で逃げ去っていた。午前10時41分以降、Aさん方に犯人から30回に及ぶ脅迫電話が入り、身代金5000万円を要求。中国自動車道の西宮北インターを指定。Aさんは20時33分、インターに到着。その後、電話の指示に従い下り車線長尾バス停に移動、22時34分、バス停のベンチの下に現金を置いてAさんは立ち去った。捜査員らはバス停周辺で待っていたが、22時40分、犯人は反対側上り車線から高速道路を横切り始めた。ところがそこに急ブレーキの音。上り車線を走行していたトラックが犯人を跳ね飛ばしたのである。犯人Y(26)は即死。捜査当局は、所持品検査からYが犯人であることは確認できたが、園児の所在を記した場所は発見できなかった。共犯がいる可能性もあったが、捜査の結果共犯者はいないと判断。9日午前、兵庫県警は公開捜査に切り替えた。13時34分、神戸市北区の駐車場のトラックで寝ていた園児を発見、無事に保護した。
文 献 「芦屋市幼児誘拐事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
備 考  
5/26 概 要 <函館妻バラバラ殺人事件>
 1985年5月26日、函館市の会社員K(50)は、24年間連れ添った妻(50)を両手で首を絞めて殺害、バラバラにして、函館市の山林に捨てた。動機は、妻が不倫をしているのに気付き、妻に文句を言ったが、馬耳東風で逆に堂々と外泊するようになり、とうとう怒りが爆発したものであった。27日に死体をバラバラにして、山林まで捨てたが、死体の入っていた麻袋を無造作に放り投げていたため、犯行を隠すというつもりはまるでなかったらしい。28日に死体が発見、数時間後に自首した。
文 献 「函館・夫による妻のバラバラ殺人」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)
備 考  北海道の女性は「性行為は強烈で或溺も深いが、動物的で刹那的」と船山馨が書いている(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)より)。
6/18 概 要 <豊田商事永野会長刺殺事件>
 永野一男会長は、1981年に豊田商事の前身である大阪豊田商事を設立。「純金ファミリー証券」を販売するペーパー商法などの悪徳商法により4年間で2000億円を集めることに成功した。しかし1985年には悪徳商法が社会問題になり、警察やマスコミの注目を浴びていた。
 1985年6月18日、永野会長(32)は大阪市北区にあるマンションの自室にこもっていた。逮捕情報が流れていたため、周辺には行動をマークしている約30人の報道陣が張り込んでいた。午後4時30分過ぎ、自称右翼を名乗る町工場経営I(56)とY(30)が部屋のドアの前に立った。Iは「被害者六人から、永野をぶっ殺せと頼まれてきたんや」と報道陣に答え、報道陣のパイプ椅子を取り上げドアを激しく叩き始めた。Yは玄関横の窓のアルミ桟を蹴り、はぎ取ると窓ガラスを蹴破って部屋に飛び込んだ。数分後、Iが窓から出てきた。血まみれの銃剣を持ち、服にも返り血が付いていた。永野会長は病院に運ばれたが、出血多量により約40分後に死亡。二人は天満署員に殺人の現行犯で逮捕された。報道陣は二人を止めようともせず、テレビカメラを回し、シャッターを押し続けるだけだった。
 IとYには懲役10年、8年の実刑判決が言い渡され、確定している。
文 献 「豊田商事永野会長惨殺事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
備 考  豊田商事が集めた金のほとんどは流用されてなくなっていた。金の流れについては永野会長の死亡により、解明されなかった。
7/24 概 要 <熊本母娘殺人事件>
 Mは高校中退後、定職もつかずに全国を転々、各地で傷害事件を起こし刑務所とシャバを往復する生活を繰り返していた。1958年、Mは前科を隠して郷里の熊本でTさんと結婚。ところが仕事をせず酒を飲んで妻に乱暴する毎日。1962年には離婚の話し合いが持たれたが逆上。ナイフで義母を殺害、妻に重傷を負わせた。同年11月、熊本地方裁判所は求刑死刑に対し無期懲役の判決を下した。Mは服役中、Tさんの一族に対する恨みから復讐することばかり考えていた。1976年12月、仮出獄。子供の頃から育ててくれた叔父夫婦のところに身を寄せたが、相変わらずの酒浸り。注意されたら暴力を振るう。1978年6月、刺身包丁を振り回して叔母夫婦を殺害しようとした。そのため仮出獄は取り消し、熊本刑務所に逆戻りした。1984年2月、再び仮出獄。保護施設にいる間に復讐ノートを作成。ターゲットはTさん一族の他に、叔母夫婦や実兄も含まれていた。元妻の居場所を探るが成果が得られなかった。1985年7月24日、M(55)はTさんの親族であり仲人の未亡人でもあるMさん(63)を訪ねるも「Tさんの居場所は知らない」と言われ逆上。元々殺害を計画していたため、深夜になって忍び込みMさんを、さらに養女のNさん(22)を殺害した。Mさんが41ヶ所、Nさんが35ヶ所刺し傷があったという。現金を奪って逃亡、5日後に逃亡先の荒尾市で逮捕された。1992年死刑確定。1999年9月、執行。69歳没。
文 献 「「無期懲役」で出所した男の憎悪の矛先−熊本「お礼参り」連続殺人事件」(「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる』(新潮文庫,2002)所収)
備 考  
9/19 概 要 <下関無差別殺人事件>
 1985年9月19日早朝、下関市農業A(37)方で、Aが母(72)の頭と首に日本刀で切り付け、即死。さらに団地内で就寝中の近所の人たちや牛乳配達、ジョギング中の人たちを次々に襲い、3人が死亡、3人が重体、5人が重傷を負った。Aは精神障害者として病院に運ばれた。
文 献 「下関・無差別殺人事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)
備 考  
9/23 概 要 <キャッツアイ事件>
 暴力団会長Kは副会長を通じて組員2人に、対立する暴力団の組員殺害を命令。2人は1985年9月23日夜、暴力団関係者が経営する尼崎市のスナックに乗り込み、相手組員に向け3発発砲。1発が組員にあたり、1ヶ月の重傷を負わせた。もう1発はドラム演奏の片付けをしていたアルバイト女性(当時19)の腹部を貫通し、女性は死亡した。
 組員ら3人は1987年に逮捕された。Kは1989年2月21日に逮捕された。
 襲撃を直接指示した副会長は1990年に懲役12年の判決が確定。襲撃した組員は懲役18年の判決が1988年に確定。同行していたもう1人の実行犯は懲役7年の判決が1988年に確定している。
 Kは事件当初から無罪を主著。1996年2月7日、神戸地裁尼崎支部は懲役15年(求刑無期懲役)の判決を言い渡した。直接証拠はなかったが、実行犯の「Kの指示だと聞いた」という証言が重視された。Kはこの事件とは別に、有印私文書偽造、同行使罪などでも懲役1年6月(求刑同)を受けている。ただし実行犯は後に、証言を否定している。
 1998年2月23日、大阪高裁で検察・被告側控訴棄却。2001年12月3日、最高裁第二小法廷で被告側上告棄却、確定。Kは現在でも無実を訴えている。
 実行犯の男性は出所後の2006年8月11日、仲間の暴力団員と2人で大阪府堺市内の自営業の知人男性方を訪れ、事件のお礼参りとして因縁を付けて脅迫。出所祝い金名目で現金25万円を脅し取った。さらに500万円振り込めと脅したが、25日までに男性は逮捕された。2007年2月21日、大阪地裁で男性は懲役7年(求刑懲役8年)が言い渡された。共犯の暴力団員は懲役3年保護観察付執行猶予5年(求刑懲役3年6月)が言い渡された。
 殺害された女性の母親は1992年7月、「組長には組員の行為に対する使用者責任がある」として、Kらを相手取り1億1千万円の損害賠償を求めた。1995年5月、Kは「使用者責任は認められないが、配下組員がしたことへの道義的責任を感じている」と述べ、4000万円を支払うことで、和解が成立した。母親は和解金4000万円のうち500万円を日本弁護士連合会に暴力団被害の救済訴訟の支援のために寄付した。本件は、組長の使用者責任を問うた初のケースである。女性は現在でも「暴力団被害者の会」会長として、暴力団根絶を訴えている。
文 献 目森一喜、斉藤三雄『司法の崩壊 やくざに人権はないのか』(現代人文社,2002)

山平重樹『冤罪・キャッツアイ事件: ヤクザであることが罪だったのか』(筑摩書房,2012)
備 考  本事件は、暴力団対策法創設のきっかけともなった。
11/29 概 要 <神戸メッタ刺し事件>
 1985年11月29日、姫路少年刑務所を3日前に出所したばかりの無職M(24)は、姫路市の塗装業Fさん(35)宅に侵入。現金4万円を奪い、妻のHさん(30)を台所テーブルに仰向けにして両手両脚を縛り付けた。そのとき、奥から長男(3)が駆け寄ってきたため、腹や背中などを十数回刺した上に左首を切って殺害、続いてHさんもメッタ突きにしたうえ、首を切って殺害した。
 12月3日、神戸市の左官業Nさん(34)宅に侵入。妻のTさん(34)を脅迫、後ろ手に縛るも悲鳴を上げたため、胸、腹など十数カ所をメッタ付きにして殺害した。Mは1996年、最高裁で死刑確定。2003年9月、死刑執行、42歳没。
文 献 「神戸・メッタ刺し殺人事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)

秋吉好『棄身KISHIN』(大阪文学学校・葦書房,1998)

向井伸二の生と死を記録する会『子よ、甦れ―死刑囚とともに生きた養父母の祈り』(明石書店,2005)

向井武子『死刑囚の母となって―この病は死に至らず』(新教出版社,2009)

「養母と殺人者 人の道を踏みはずした者は救われないか」(『別冊宝島333 隣りの殺人者たち』(宝島社,1997)所収)
備 考  


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