ノンフィクションで見る戦後犯罪史
【1971〜1975年】(昭和46〜50年)



【1971年】(昭和46年)

日 付事 件
1/12 概 要 <保険金目当実母殺人事件>
 T(40)は保険金騙取の目的で実姉と共謀し、1971年1月12日、交通事故を装って実母を殺害し、保険金(約4000万円)を騙取した。また、事件の発覚を恐れて口封じのため実兄と共謀して1972年7月1日、妻を殺害し、その死体を遺棄した。
 実母殺害と妻殺害の間で、詐欺事件によって起訴されていたため、別々の事件として起訴された。実母殺害については無実を主張していたが、1981年6月、実母殺害で死刑、妻殺害で無期懲役の判決が確定。兄、姉はともに一審で懲役15年判決、確定。1993年3月26日、執行。62歳没。
文 献 佐木隆三『殺人百科II』(文春文庫)

「交通事故偽装実母殺害事件」(室伏哲郎『保険金殺人−心の商品化』(世界書院,2000)所収)
備 考  
5/13 概 要 <大久保清連続殺人事件>
 大久保清は小学生の頃から早熟で、強姦他で前科4犯だった。1971年3月に出所後、親に最新型のスポーツカーを買ってもらい、コスチュームはベレー棒とルパシカ。画家や詩人、教師になりすまし、女性を誘い続けた。逮捕されるまでの73日間に127人の女性に声を掛け、35人を車に連れ込んでいた。騒がれた相手には強姦、そして殺害して死体を山中に埋めていた。合計で8人を殺害。1971年5月13日、群馬県藤岡市の会社員(21)を誘拐した容疑で群馬県警藤岡署に逮捕された。色々と抵抗したものの、7月までに全てを自供。死体は掘り出された。
 1973年2月の一審判決に控訴せず、そのまま死刑が確定。1976年1月、死刑執行。腰を抜かし、刑務官に支えられたまま死刑台に連れていかれたといわれる。
文 献 「大久保清事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「おれは血も涙もない冷血動動だ―『大久保清・八女性誘拐殺人事件』」(池上正樹『TRUE CRIME JAPANシリーズ2 連続殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

「死へのおびえに腰を抜かす」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)

「強姦魔・大久保清」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)

「大久保清事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「大久保清事件 大久保清」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

飯塚訓『完全自供 殺人魔大久保清VS.捜査官』(講談社,2003)

大久保清著 大島英三郎編『訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記』(ロングセラーズ ムックの本,1973)

さとうまさあき『大久保清事件 実録昭和猟奇事件1』(アスペクト,1997)

筑波昭『昭和四十六年、群馬の春 大久保清の犯罪』(草思社,1982)→『連続殺人鬼大久保清の犯罪』(新潮OH文庫,2002)
備 考  
8/21 概 要 <赤衛軍事件>
 1971年8月21日、埼玉県朝霞市の自衛隊朝霞駐屯地で、パトロール中の自衛官(21)が殺害された。現場付近に「赤衛軍」と書かれた赤色ヘルメットやアジビラが遺留品として残されていたため、過激派の武器奪取を目的とした犯行と断定。11月16日に、日大生菊井良治(22)と少年(19)が逮捕。のちにさらに7名が逮捕された。菊井の供述から、京都大学経済学部助手T(ペンネーム滝田修)の名が出された。
 埼玉県警はTを1972年1月に指名手配したが、Tは手配と同時に地下に潜行。1982年8月8日、川崎市でTは逮捕された。途中、Tは『只今潜行中 中間報告』と題する手記を出版、雑誌にも手記を発表。埼玉県警はT捜索の名目で全国に家宅捜査の手を伸ばし、犯人隠匿の容疑で活動家を逮捕するなど、弾圧の口実とした。Tの潜行中に捜索の名目で繰り返された弾圧事件を「滝田事件」と呼んでいる。
文 献 滝田修『わが潜行四〇〇〇日』(三一書房,1983)

福井惇『1970年の狂気―滝田修と菊井良治』(文藝春秋,1987)
備 考  
9/16 概 要 <成田空港東峰十字路事件>
 成田空港建設地の第2次執行で、建設予定地に近い東峰十字路で1971年9月16日、機動隊と空港反対派、過激派学生が衝突。神奈川県警F警部補(47)、K巡査部長(55)、M巡査(24)が火炎瓶や鉄パイプのめった打ちを受けて死亡した。
文 献 伊佐千尋『衝突』(文藝春秋,1988)
備 考  
11/10 概 要 <沖縄ゼネスト警官殺害事件>
 1971年11月10日、沖縄で返還協定批准阻止の24時間ゼネストが全軍労・官公労・教組など14万6500人の労働者が参加して行われ、沖縄全島は麻痺状態になった。沖縄県祖国復帰協議会は那覇市内で県民大会を開催。7万人近いデモ行進の渦中、午後5時50分頃、琉球警察の機動隊員1名が路上で殺害された。直後、警察は無差別な報復攻撃をし600余名の重軽傷者が出た。
 11月16日、沖縄の伝統工芸・紅型の研究に来ていた染色家の男性(24)が逮捕され、マスコミは「本土から派遣された過激派リーダー」と大々的に報道した。他に58名が逮捕され、23名が起訴された。
 男性は否認したまま起訴された。弁護側は裁判で提出した映像には、炎の中で倒れている警察官を救出する男性の姿を明確に映しだしていた。1974年10月7日、那覇地裁は傷害致死で男性に懲役1年、執行猶予2年の判決を言い渡す。しかし1976年4月5日、那覇高裁は無罪を言い渡し、そのまま確定した。
文 献 松永闘争を支援する市民会議・松永優を守る会編『冬の砦』(たいまつ社,1977)

松永国賠を闘う会編『冤罪と国家賠償』(緑風出版,1994)
備 考  
12/18 概 要 <土田警視庁警務部長宅小包爆弾事件>
 1971年12月18日、土田国保警視庁警務部長(後に警視総監)の自宅に送られたお歳暮の中に爆弾が爆発、T夫人(47)が死亡、四男(13)が重傷を負った。事件後の記者会見で部長は「犯人に向かって叫びたい。君はひきょうだ」と訴えた。
 一年前の12月18日、京浜安保共闘(後に赤軍派と連合赤軍を結成)のメンバー3名が、拳銃強奪を目的に上赤塚交番で立番中の巡査を襲撃した。巡査に重傷を負わせた彼らは、休懇室で仮眠をとっていた巡査長と格闘になる。その際、巡査長が拳銃を発砲し、横浜国立大学四年生のS(24)が死亡。他の2名も負傷して逮捕された。普通に考えると正当防衛だが、過激派グループから見たら“弾圧”であった。小包爆弾事件は、土田警務部長が「拳銃使用は正当」と発言したことによる報復と見られた。
 他にも次の事件がある。
  • 1969年10月24日、東京都新宿区の警視庁第8機動隊庁舎に、50本入りピース缶に偽装した爆弾が投げ込まれたが、不発だった。
  • 1969年11月1日、東京都港区のアメリカ人文化センターに、ピース缶を使用した時限装置付爆弾が入ったダンボール箱が配達されて爆発。職員1人が負傷した。
  • 1971年10月18日、東京都港区の日本石油本社ビル地階にある郵便局に運ばれた郵便小包の中に入っていた爆弾が爆発。郵便局員1人が重傷を負った。宛先は後藤田正春警察庁長官と、新東京国際空港公団総裁だった。
 新左翼活動家の犯行と警察は断定し捜査。1972〜1973年の間に警察は、当時赤軍派に属していたMTを全事件の主犯と断定。他17名も逮捕した。しかしMTを含む18名は、裁判で無罪を主張した。
 公判中の1979年、赤軍派のYが1969年10月の事件の実行犯であると証言。ただしこの証言は、大雑把であると判決で否定されている。さらに1982年5月、新左翼活動家であるMYは1969年10月の事件で自らが爆弾を製造したと暴露。「秘密の暴露」があったため、その証言は真実であるとされた。
 検察側はMTに死刑を求刑、他にも有期〜無期懲役を求刑した。しかし1983年5月19日、東京地裁はMTを含む統一公判組被告人9名全員に無罪判決(MTは別件で懲役1年執行猶予2年の有罪判決)を言い渡した。検察側は控訴するも1985年12月13日、東京高裁は検察側の控訴を棄却、無罪が確定した。他に逮捕された人たちも全員、無罪判決を受けている。MYはすでに時効であったため、逮捕されなかった。
 逮捕された18人のうち、ピース缶爆弾事件で有罪判決が出た2名を除く16名が一審で無罪判決が出された。5名は一審で無罪が確定、6名は控訴棄却され確定、5名は控訴取り下げにより、1985年12月28日までに無罪が確定している。また有罪が確定したうちの1名については再審で無罪が確定している。
 MTらは国と東京都に対して損害賠償請求の民事訴訟を起こしたが、1名のみ100万円が支払われた他はいずれも棄却されている。
文 献 荒井まり子『子ねこチビンケと地しばりの花 未決囚十一年の青春』(径書房,1986/風塵社,2010)

榎下一雄『僕は犯人じゃない 土田・日石事件一被告の叫び』(筑摩書房,1983)

高沢皓司『フレームアップ―土田・日石・ピース缶事件の真相』(新泉社,1983)

中島修『40年目の真実―日石・土田爆弾事件』(創出版,2011)

爆弾フレームアップ事件資料編集委員会編『爆弾とデッチあげ』(たいまつ社,1978)
備 考  
12/21 概 要 <三崎事件>
 1971年12月21日、A(44)は神奈川県三浦市で借金を断られて、船舶食糧品商の一家三人を包丁で刺殺した。捜査段階では「自白」したものの、裁判でAは第一発見者でしかないと、無実を主張。物的証拠もほとんどなく、目撃証言も、足を怪我しているAの特徴と一致しないなどの疑問点が残る。
 1976年9月25日、横浜地裁横須賀支部で求刑通り死刑判決。1990年10月16日、最高裁で死刑判決が確定。1991年1月、再審請求。しかし地裁での審理が続いたまま、2009年9月3日午前7時55分、敗血症のため死亡。82歳没。再審は遺族が引き継いだ。
 2010年3月16日付で横浜地裁横須賀支部は、判決の根拠となった物証の一つで被害者の返り血とされた血痕のDNA型鑑定を決めた。弁護側はA自身の血痕であると主張したが、7月2日、道具袋に付着していた血痕からはAのDNA型は検出されなかったことを弁護団が明らかにした。2011年8月23日付で横浜地裁横須賀支部は、再審請求を棄却する決定を出した。8月29日、弁護団は東京高裁に即時抗告した。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  

【1972年】(昭和47年)

日 付事 件
2/17 概 要 <連合赤軍リンチ事件>
 赤軍派9名と京浜安保共闘20名が連合して1971年12月下旬に連合赤軍が結成された。当時、アパート・ローラー作戦により都市部での活動拠点は押さえられており、軍事訓練と称して丹沢、榛名、妙義山中の山岳アジトを点々。リーダーである森恒夫(27)、永田洋子(27)は自分の気にくわないもの、反抗的な者へ対し、次々に“総括”と称したリンチを敢行。12月31日から2月10日までに12名が死亡した。京浜安保共闘は、連合前に同志2名を殺害している。途中、“総括”に怯え4名が脱走。捜査の手は山岳地帯にまで及び、2月16日に2名、17日に森、永田が逮捕。19日、植垣他4名が逮捕。残った5名は「あさま山荘」の銃撃戦へ突入する。
文 献 <連合赤軍あさま山荘事件>参照
備 考  
2/19 概 要 <連合赤軍あさま山荘事件>
 1972年2月19日、連合赤軍のメンバー坂口弘(25)、坂東国男(25)、吉野雅邦(23)、N・K(19)、弟のM・K(16)が逃走中に警官隊と銃撃戦を交えた後、「あさま山荘」に逃げ込み、管理人の妻を人質に取り籠城した。以後、激しい銃撃戦を展開。22日、民間人Tさん(30)が説得を試みようと単身山荘に近づくも犯人に頭を撃たれ3月1日に死亡。2月28日、警察はクレーン車から吊した大鉄球で三階部分を破戒、突入。銃撃戦の末に5人を逮捕。人質は無事だった。銃撃戦の途中で警官2名が死亡。
 森は1973年1月1日、初公判を前に東京拘置所で首吊り自殺。永田、坂口は1993年に死刑確定。吉野は求刑死刑に対し無期懲役判決が確定。坂東は1975年8月4日、日本赤軍によるクアラルンプールのアメリカ大使館占拠事件の超法規的措置により海外へ逃亡し、日本赤軍と合流した。他のメンバーも懲役3年〜20年が確定した。
 永田洋子は2011年2月6日病死、65歳没。
文 献 「連合赤軍浅間山荘事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「連合赤軍あさま山荘事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「連合赤軍事件 坂口洋、永田洋子」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

荒岱介編『ブントの連赤問題総括 真理を求めるものは正しい省察を求む』(実践社,1995)

植垣康博『兵士たちの連合赤軍』(彩流社,1984)

植垣康博『連合赤軍27年目の証言』(彩流社,2001)

大泉康雄『氷の城 連合赤軍事件・吉野雅邦ノート』(新潮社,1998)→『「あさま山荘」籠城 無期懲役囚・吉野雅邦ノート』(祥伝社文庫,2001)

大泉康雄『あさま山荘銃撃戦の深層』(小学館,2003)

大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義』(文藝春秋,1996/角川文庫,2001)

大槻節子『優しさをください』(彩流社,1986)

加藤倫教『連合赤軍少年A』(新潮社,2003)

角間隆『赤い雪 総括・連合赤軍事件』(読売新聞社,1980/新風舎文庫,2004)

久能靖『浅間山荘事件の真実』(河出書房新社,2000)

坂口弘『あさま山荘1972』上下(彩流社,1993)

坂口弘『続あさま山荘1972』(彩流社,1995)

査証編集委員会編『新編「赤軍」ドキュメント』(新泉社,1983)

佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文藝春秋,1996/文春文庫,1999)

椎野礼仁編『連合赤軍事件を読む年表 事件の全貌をこの1冊に凝縮!』(彩流社 オフサイド・ブックス22,2002)

情況編集委員会編『連合赤軍の軌跡 獄中書簡集』(情況出版,1974)

白鳥忠義『「あさま山荘事件」審判担当書記官の回想』(国書刊行会,1988)

高沢皓司『兵士たちの闇』(マルジュ社,1982)

高沢皓司編『資料連合赤軍問題1』(「銃撃戦と粛清」「森恒夫自己批判書全文」森恒夫著)(新泉社,1984)

高橋檀『語られざる連合赤軍―浅間山荘から30年 』(彩流社,2002)

パトリシア・スタインホフ(木村由美子訳)『日本赤軍派 その社会学的物語』(河出書房新社,1991)

パトリシア・スタインホフ,伊東良徳『連合赤軍とオウム真理教 日本社会を語る』(彩流社,1996)

坂東国男『永田洋子さんへの手紙』(彩流社,1984)

永田洋子『十六の墓標』上下(彩流社,1982〜1983)

永田洋子『続十六の墓標』(彩流社,1990)

永田洋子『氷解 女の自立を求めて』(講談社,1983)

永田洋子『私生きてます』(彩流社,1986)

松田久『銃よ、おまえは誰のために 連合赤軍総括への試論』(査証編集委員会『査証』臨時増刊 ,1973)

「実録・連合赤軍」編集委員会+掛川正幸『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(朝日新聞社,2008)

連合赤軍事件の全体像を残す会『証言連合赤軍1〜10』(皓星社,2004〜2012)
備 考  
5/6 概 要 <晴山事件>
 1972年5月6日、北海道空知郡のTさん(19)が帰宅途中に行方不明となり、翌日に自宅付近で全裸死体で発見。同年8月19日、砂川市在住のKさん(19)も帰宅途中に行方不明となり、同月26日に樺戸郡の山林内において全裸死体で発見された。警察は連続婦女暴行殺人事件とみて捜査、2年後の1974年5月11日に空知郡奈井江町で発生した強姦致傷事件の容疑で同月26日に逮捕されたH(40)が上記2件の犯行を「自白」。一審途中から自白を否認、無実を訴える。一審判決は無期懲役であったが、二審で死刑判決。1990年9月13日に最高裁で死刑が確定した。
 1992年、札幌高裁に再審請求。証拠物件らしい証拠物件がないこと、犯行に使われたはずの車が警察に押収されたまま行方不明になっていること、現場に残された血液型が複数あることなどから冤罪の可能性が高いとされていた。1997年、裁判所権限によって証拠物件のハンカチについていた体液(犯人のものである可能性が高かった)をDNA鑑定した結果、H死刑囚と一致した。
 2001年2月、札幌高裁は再審請求を棄却。異議を申し立て、審理中の2004年6月4日午前7時40分すぎ、収容されていた札幌刑務所(拘置支所)で、がんによる全身衰弱のため死亡した。70歳没。2003年12月に八王子医療刑務所(東京)で進行性胃がんの手術を受け、4月に札幌刑務所に戻ってきていた。遺族は異議申立を取り下げた。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
5/11 概 要 <山中事件>
 1972年5月11日、石川県加賀市在住のDさん(24)が行方不明となり、7月26日に同県江沼郡山中町の林道において白骨死体で発見された。「共犯者」の証言により、霜上則男さん(26)が殺人容疑で逮捕された。1975年10月27日、金沢地裁で霜上被告に求刑通り死刑、共犯者に懲役8年が言い渡された。1982年1月19日、名古屋高裁で霜上被告の控訴棄却。しかし1989年6月22日、最高裁で「共犯者の証言に疑問有り」と差し戻し。1990年7月27日、名古屋高裁で無罪判決、確定。
文 献 正延哲士『蒔絵職人・霜上則男の冤罪 山中温泉殺人事件』(東京法経学院出版,1985)

武山哲夫『自由と無罪への道のり』(同時代社,1996)
備 考  
5/30 概 要 <日本赤軍テルアビブ空港事件>
 1972年5月8日、アラブゲリラはサベナ航空機をハイジャックし、イスラエルのテルアビブ(現ロッド)空港に着陸、逮捕されている多数の同志の釈放をイスラエル政府に要求するも、全員が射殺された。この事件の報復のため、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)はテルアビブ空港奇襲作戦を計画。1971年に重信房子とともにベイルートで海外赤軍派(1974年、日本赤軍と名称変更)を結成した奥平剛士にPFLPは協力を依頼。日本人なので、空港のチェックが厳しくないとの判断からだった。奥平はベイルート入りしていた安田安之、岡本公三と相談、要請に応じた。1972年5月30日、パリ発ローマ経由のフランス航空機でテルアビブ空港に到着、税関で受け取ったスーツケースから自動小銃と手榴弾を取り出し、イスラエル警備隊に向け銃を乱射、空港内の飛行機に向かって手榴弾を投げた。26人が死亡、73人が重軽傷を負う。奥平、安本は自爆死。岡本は逮捕された。岡本はイスラエルの軍事法廷で「我々三人は、潔く死んで、オリオンの三つ星になりたいと思った」と語った。1972年8月、岡本は終身刑が確定。1985年、捕虜交換で岡本は日本赤軍に戻った。1997年、岡本はレバノンで日本赤軍の他のメンバー4人とともに、偽造旅券、不法入国の罪で逮捕。禁固三年の刑を受けた。2000年、レバノンは岡本の政治亡命を認めた。
文 献 「日本赤軍テルアビブ空港事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
備 考  
6/23 概 要 <亭主バラバラ殺人事件>
 1964年1月、洋裁店員Y代(27)はとび職人K男(23)と恋愛結婚をした。ところがK男は酒癖が悪く、すぐに暴力を振るう。怠け癖があり、しかも前科9犯だった。結局Y代はバーのホステスとして働くようになるが、K男の暴力に耐えきれず、1968年、留守中に逃げ出した。1970年、名古屋のクラブで8歳下のホステスMと仲良くなり、翌年同居するようになる。1972年3月、K男が二人の住むマンションを探し出し、居座るようになった。6月23日、徹夜麻雀で負けたK男はY代に「食事を作れ」と命令したがY代に拒否され逆上、刺身包丁を持ち出して襲いかかろうとしたため、Y代はそばにあった金属製の置物でK男の頭を殴りつけた。倒れたK男にMが刺身包丁を拾い、背中を突き刺して殺害した。死体を運ぼうとしたが重くて運べなかったため、バラバラにすることを決意。翌日、鋸でバラバラにし、包装して死体を何日かに分けて処分した。1ヶ月後、腐乱した死体が発見。指紋からK男であることが判明。すぐに容疑は妻であるY代に向けられた。7月30日、帰宅したY代に捜査員が声をかけたとたんY代は自白。Mもすぐに自白した。
文 献 「横暴な夫の生首は新幹線に乗せて」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収)
備 考  
6/26 概 要 <女性歯科医ホテル内殺人事件>
 1972年6月26日、東京新橋のホテル内で、熊本県八代市の女性歯科医(37)が全裸で死んでいるのを、一緒に上京した男性歯科医の2人(ともに37)が発見した。3人は25日、毎月1回東京で開かれる講習会に出席後、3人で近くの店で飲んでいたが、女性のみが先に帰っていた。死体には洋服や下着が掛けられてあったが、全身に皮下出血、暴行のあとがあった。女性が内側からドアを開けた様子が見られたが、医療器材会社に支払う予定の160万円が見当たらない(のちに自宅から発見された)ため、警察は顔見知り、行きずりの両面から捜査を開始した。25日午後8時30分頃、「助けて」という女性の叫び声を聞いたという証言が複数あったが、他の証言や目撃証言はなかったため捜査は難航。事件は迷宮入りした。
文 献 朝倉喬司『誰が私を殺したの 三大未解決殺人事件の迷宮』(恒文社,2001/新風舎文庫,2007)
備 考  

【1973年】(昭和48年)

日 付事 件
2/25 概 要 <大阪ニセ夜間金庫事件>
 1973年2月25日午後8時40分頃、大阪市の三和銀行梅田北支店通用口前に、何者かがニセ夜間金庫を設置した。これにだまされた預金者が次々と投入し、現金2,576万円までになった。しかし午後9時20分頃、投げ込まれた現金袋の重みでニセ金庫の前面のベニヤ板がわん曲し、偽物であることが発覚して未遂に終わった。迷宮入り。
文 献 佐木隆三『事件百景』(文春文庫)

「ニセ夜間金庫のトリック」(鎌田忠良『迷宮入り事件と戦後犯罪』(王国社,1989)収録)
備 考  
7/20 概 要 <立教大助教授教え子殺人事件>
 1973年9月6日、立教大助教授O(38)の一家四人が静岡で入水自殺し、遺体が見つかった。警察の調べの結果、Oの女性問題で夫婦がノイローゼ状態にあることがわかった。Oは教え子である大学院生S(24)と結婚すると約束して深い関係にあったが、Sが妻の座をしつこく要求したことから憎しみを覚え、7月20日、八王子にある恩師の別荘で殺害し、死体を埋めた。死体が発見されたのは、事件から7ヶ月後の1974年2月28日だった。
文 献 「大学助教授教え子殺人事件」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ4 情痴殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

松田美智子『大学助教授の不完全犯罪』(恒友出版,1994)
備 考  
8/8 概 要 <金大中氏拉致事件>
 韓国の有力政治家で大統領候補でもあった金大中氏は、1973年8月8日、東京飯田橋のホテルで会談後、廊下を出たところで屈強な男たちに拉致され、近くの部屋に連れ込まれた。そこで睡眠薬をかがせられ、地下駐車場に乗せられた。車は大津インター近くのアジトに入り、その後車で海岸に連れられ、モーターボートで1時間後、大きな船(後に韓国船と判明)に移される。9日の午前、船室で寝入っていた金氏は体をロープ、包帯等でグルグル巻きにされ、右腕、左手首に40kgぐらいのおもりをつけられる。このとき、飛行機が飛んできて照明弾を落とした。船は約30分間全速で航行するが、その後巡航速度に戻る。しばらくして金氏の元に一人の男がやってきて「助かりましたよ」と囁いた。
 後に事件は、韓国中央情報部により実行されたことが判明。飛行機は、アメリカの要請により日本国が飛ばしたものであった。
文 献 「金大中氏拉致事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「金大中事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「金大中拉致事件 もうひとつの日米「密約」」(週刊朝日ムック『未解決事件ファイル 真犯人に告ぐ』(朝日新聞出版,2010)所収)

『金大中事件全貌』(毎日新聞社,1978)

金大中『わたしの自叙伝』(NHK出版,1995)

中園英輔『拉致』(光文社カッパノベルス,1983)
備 考  

【1974年】(昭和49年)

日 付事 件
2/7 概 要 <上野消火器販売会社一家殺人事件>
 消火器販売の元セールスマンである徳永励一(36)は親子2代で得意先を取られた怨みから、友人であり同性愛人である鳶職木村繁治(39)を誘い、1974年2月7日、上野の消火器販売会社社長(71)、妻(69)、3男(33)、3男の妻(27)、アルバイト男性(26)をハンマーとバットで殴り殺した。金欲しさが目的であった木村繁治は金銭も奪った。遺留品から翌日には徳永が、4日後には木村が指名手配された。同日の11日、木村が逮捕、3月8日に徳永が逮捕された。
 1975年12月22日、東京地裁で死刑判決。1977年3月17日、東京高裁で控訴棄却。1979年12月25日、最高裁で死刑が確定。1986年5月20日、死刑が執行された。徳永48歳没、木村51歳没。
文 献 佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1975/文春文庫,1981他)

「上野消火器商一家殺害事件 徳永励一、木村繁治」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  
3/17 概 要 <甲山事件>
 1974年3月17日、兵庫県西宮市の知的障害幼児施設「甲山学園」でMちゃん(12)が行方不明になる。19日、S君(12)も行方不明となった。捜査の結果同日深夜、S君とMちゃんの遺体が園内の浄化槽で見つかった。兵庫県警はS君殺害容疑で学園保母のYさん(23)を逮捕するも証拠がなく不起訴処分。しかし、S君の遺族の不服申し立てで神戸検察審査会が不起訴不当を議決。事件の3年後に園児の目撃証言が得られたこともあり、神戸地裁は1978年3月に再逮捕、起訴。Yさんは最初の逮捕後に自白こそしたが、その後は完全否認。85年、神戸地裁で無罪判決。ところが90年、大阪高裁は「園児の証言や自白は信用できる」と差し戻し、特別抗告した最高裁も92年にそれを支持。98年3月、神戸地裁の差し戻し審で再び無罪判決。控訴するものの99年9月無罪判決。検察が上訴を放棄し、無罪確定。
文 献 上野勝・山田悦子『甲山事件 えん罪のつくられ方』(現代人文社,2008)

木部克己『犯人視という凶器』(あさを社,1993)

清水一行『捜査一課長』(集英社,1972)

浜田寿美男『証言台の子どもたち』(日本評論社,1986)

松下竜一『記憶の闇』(河出書房新社,1985)
備 考  殺人事件、もしくはそれに類似したケースにおいて、裁判期間21年は史上最長。その前の記録は、永山元死刑囚の20年。なぜこれだけ裁判が長くかかったか、裁判所、検察側が反省すべき事件である。
3/20 概 要 <手製毒ガス保険金殺人事件>
 山形県釈迦堂の農業Y(46)は、妻(43)に掛けた生命保険金6000万円を奪おうと1974年3月20日、ビニルハウス内で、自分で作成した高濃度の一酸化炭素ガスを詰めたマスクを付けさせてかがせて殺害した。無期懲役が確定。
文 献 佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1975/文春文庫,1981他)
備 考  
8/8 概 要 <夫殺人事件>
 バー経営者Mは、夫(当時47)に愛人ができ、家庭をかえりみなくなったことから、バーテンの愛人と共謀して殺害を計画。1974年8月8日夜、夫が東京都江東区の自宅で熟睡中、都市ガスを放出して一酸化炭素中毒死させたうえ、愛人と2人で死体をふろ場に運び、入浴中に誤って中毒死したように偽装した。
 さらにMは、バーホステスが内縁の夫(当時36)と別れたがっていたことから、夫を殺し、夫が入っていた死亡時1200万円の保険金を分配することをホステスと共謀。愛人と店のバーテンを仲間に引き込んだうえ、1978年4月24日深夜、内縁の夫を江東区内のカーフェリー埠頭に誘い出し、睡眠薬の入ったドリンク剤を飲ませて首を絞めて殺害。死体は草むらに捨てた。
 内縁の夫殺人事件の取調中に夫殺しを自供。
 しかし裁判でMは「夫は自殺。義父との不倫関係を書いた夫の遺書が明るみに出るのを恐れて事故死を装った」と夫殺しに関しては無実を主張する。しかし1991年1月、最高裁で死刑確定。
 愛人のバーテンは懲役9年が確定。バーテンは懲役10年が確定。バーホステスは懲役18年が確定。
 第三次再審請求中だったMは2007年5月14日、急性心筋こうそくと診断され、都内の病院で治療を受けていたが、7月17日に間質性肺炎で死亡。75歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

早瀬圭一『失われしもの』(毎日新聞社/新潮文庫,1988)
備 考  戦後5人目の女性死刑確定囚である。
8/28 概 要 <ピアノ騒音殺人事件>
 神奈川県平塚市の団地に住む無職Oは、5年前に引っ越してきた階下に住む会社員の家族がピアノを弾いたり、大工仕事で出したりする音に悩まされていた。特にピアノの音については再三注意をするものの、辞める気配をまったく見せなかった。仕事の方も退職させられて自棄になっていたところに、騒音でノイローゼ状態になっていたOは殺人を決意。1974年8月28日午前9時10分頃、会社員方で妻(33)、長女(8)、次女(4)の3人を、刺身包丁で複数回突き刺して殺害。このとき「迷惑かけるんだからスミマセンの一言位言え、気分の問題だ、来た時アイサツにもこないし、馬鹿づらしてガンとばすとは何事だ、人間殺人鬼にはなれないものだ」と襖に書き付けている。その後、Oは海で死にたいと思いさまよったが死にきれず、三日後に自首した。
 ピアノ騒音に悩む人たちから同情の声もあがったが、1975年10月20日、横浜地裁小田原支部で死刑判決。弁護人が控訴。控訴審の精神鑑定で、Oはパラノイアで事件当時の責任能力はないという鑑定がなされたが、拘置所内の騒音に悩まされたOは鑑定書が提出される前に控訴取下書を提出。弁護人によって異議申立も提出されたが、1977年4月16日、取り下げが認められ、死刑判決は確定した。
文 献 「自殺志願」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1993)所収)

大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

「ピアノ騒音殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「ピアノ騒音殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「ピアノ騒音殺人事件 大浜松三」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

上前淳一郎『狂気 ピアノ殺人事件』(文藝春秋,1978/文春文庫,1982)
備 考  自殺したいができないので、国の手で殺して欲しいと自殺志願ともいえる側面を持つ事件である。拘禁症か精神病のため、皮肉なことに、未だ刑は執行されていない。
8/30 概 要 <連続企業爆破事件>
(その他事件も含む)
 1971年12月から1972年10月までの間、静岡県熱海市の興亜観音の境内にある七士の碑などを爆破した。
 1974年8月12日から13日にかけ、天皇特別列車を爆破するため、東京都北区の荒川鉄橋に手製爆弾2個を装着しようとした。
 1974年8月30日、東京都千代田区の三菱重工ビルを爆破し死者8人、重軽傷者165人を出した。
 その他、1975年4月にかけて、9件の爆破事件を起こした。
 大道寺将司(27)、片岡利明(27)はともに死刑判決が1987年3月24日、最高裁で確定。その他の被告も無期懲役〜懲役3年の実刑判決。一部の被告は、「クアラルンプール事件」「日本赤軍日航機ハイジャック事件」における超法規的措置により、海外へ出国した。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

鈴木邦男『テロ 東アジア反日武装戦線と赤報隊』(彩流社,1988)

大道寺将司『明けの星を見上げて 大道寺将司獄中書簡集』(れんが書房新社,1984)

大道寺将司『死刑確定中』(太田出版,1997)

片岡利明『爆弾世代の証言−東京拘置所・死刑囚監房から』(三一書房,1985)

東アジア反日武装戦線KF部隊(準)著『反日革命宣言 東アジア反日武装戦線の戦闘史』(鹿砦社発売,1979)

東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議・編『あの狼煙はいま』(インパクト出版会,1996)

福井惇『狼・さそり・大地の牙』(文藝春秋,2009)

松下竜一『狼煙を見よ 東アジア反日武装戦線“狼”部隊』(現代教養文庫,1993/読売新聞社,1997他)

「獄中者の人権確立を―活路の訴訟―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)

「三菱重工ビル爆破事件 大道寺将司、片岡利明」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  
9/25 概 要 <二股殺人事件>
 大阪府和泉市の会社社長子息T(26)は、5年前に集団就職でやってきたふたりの女性を妊娠させたため、5月に殺害、死体を埋めた。9月25日、犯行を自供。無期懲役が確定。
文 献 佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1975/文春文庫,1981他)
備 考  
10/17 概 要 <愛人の子誘拐殺人事件>
 1974年10月17日、東京都葛飾区で鋼材販売業を経営するI(37)の娘Mちゃん(8)が、学校から帰った後行方不明になり、Iは捜索願を出した。1週間後の24日、Iの家に一通の脅迫状が届いた。そこには一千万円を要求する内容が書かれており、翌日支持された場所へ行ったが、犯人は姿を現さなかった。捜査本部はIの周囲を洗ううちに、女性従業員H(25)が浮かび上がった。Hは、Mちゃんが行方不明になった時間帯のアリバイ工作を行っていた。29日、捜査本部はHを任意で取り調べはじめた。Hは犯行を否定、深夜に縊死を図ったが果たせず、翌日、Mちゃんを殺害したことを自供した。さらに11月2日、捜査本部はIを死体遺棄容疑で逮捕した。
 IとHは、四年前からの愛人関係であった。Hも当初は、恋愛感情よりも性に対する興味から付き合っていた。しかし、二人の浮気が妻にばれ別れることになったが、そのときHはIに対し恋愛感情を持つようになった。結局二人は寄りを戻し、アパートを借りるようになった。しかし、二人の関係はまたも妻に発覚。妻はアパートに怒鳴り込んだため、Hは別のアパートに引っ越すことになった。この頃から、Iの心はHから離れていった。
 10月17日、I夫婦は従業員の仲人を務めるため、礼服を着ていた。下にいたHに向かい、Iは「きみもいい人がいたら結婚した方がいいよ」と言った。言い知れない怒りを、Hはたまたま帰ってきたMちゃんに向けたのであった。
 Iは捜索願を出した後、まさかと思ってHのアパートを訪れた。そこにはMちゃんの死体があった。IはHに、「死体を冷蔵庫に隠せ」「土曜日に埋めろ」と指示を出した。19日、HはIの指示通り、ひとりでMちゃんの死体を埋めた。そのことを21日に報告すると、「もっと深く埋めろ」と言われ、22日穴を掘って埋めた。しかしIは「もっと埋めろ」と言ったため、27日さらに深く埋めようとしたが、結局止めた。そして29日、取り調べを受けることになった。
 Hは1975年6月5日、東京地裁で懲役13年の判決を受け、そのまま確定した。Iは6月10日、懲役1年8ヶ月、執行猶予3年の刑を受けた。
文 献 「愛人の子殺人事件」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ4 情痴殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

松田美智子『やがて哀しき「ラブ・ノート」―幼女殺害・死体遺棄事件』(恒友出版,1995)(後に『情事の果て』(幻冬舎アウトロー文庫,1998)と改題)

佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1975/文春文庫,1981他)

「H少女殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  
10/30 概 要 <両親殺害事件>
 Sは1974年10月30日、父親から女性交際について叱責されたことに腹を立て両親を殺害、死体を海に捨てた。1992年、死刑確定。しかしSは、父親は母親が、母親は第三者に殺されたと主張。現在、第二次再審請求中。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

中上健次『蛇淫』(河出書房新社,1976/角川文庫他)
備 考  
11/17 概 要 <荒木虎美3億円保険金殺人事件>
 1974年11月17日、大分県別府市の国際観光港岸壁から乗用車が海中に転落した。脱出した荒木虎美(47)は釣り人に救助されたが、車の中に残された男の妻(40)と妻の連れ子である長女(12)次女(10)は溺死した。最初は事故と見られていたが、荒木が三人に、6つの生命保険会社との間に3億1千万円の保険金をかけていることが判明。マスコミは保険金目当ての殺人ではないかと騒ぎ立てた。荒木は報道陣の取材に素直に応じ、綿々とした口調で無実を訴えた。12月11日、荒木はワイドショー「3時のあなた」に生出演。喋りまくった後、矛盾点をアナウンサーに突かれると激怒、席を立ってテレビ局を出たところ、殺人の疑いで逮捕された。
 荒木は旧姓山口。保険金目当ての放火事件、傷害罪などの前科があった。結婚相談所、福祉事務所、町内の民生委員などで母子家庭の母親と結婚したいと相談し、荒木さんと知り合い、1974年に結婚していた。
 状況はほとんどクロであったが、決定的物証はなかった。荒木は一貫して無実を訴えた。検察側も目撃証言にこだわったり、作為的な検証を行うなどの不手際が多かった。公判は波乱続きだったが、一・二審死刑判決。上告中の1989年1月、八王子医療刑務所でガンで死亡。61歳没。
文 献 「荒木虎美三億円保険金殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「母子偽装殺人事件―『荒木虎美・保険金目当ての決死のダイビング』」(岡田晃房『TRUE CRIME JAPANシリーズ3 営利殺人事件』(同朋社出版,1996)所収) 

「別府三億円保険金殺人事件」(室伏哲郎『保険金殺人−心の商品化』(世界書院,2000)所収)

「別府三億円保険金殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

佐木隆三『一・二審死刑、残る疑問』(徳間書店,1985)
備 考  

【1975年】(昭和50年)

日 付事 件
4/3 概 要 <広域連続殺人事件>
 1975年4月3日午前0時頃、K(30)は兵庫県内の事務所兼居宅に侵入し、就寝中の夫婦(38、36)の頭部をハンマーで殴り重傷を負わせた。さらに三女(4)の頭をハンマーで殴り、頸部を両手で絞め、ナイフで刺すなどして殺害。さらに長女(10)の頭部をハンマーで殴り殺害し、現金8000円を奪った。
 1977年8月15日午前3時15分頃、Kは兵庫県内の事務所に押し入り、宿直の事務員2名(49、48)を脅して計約30000円が入った二人の財布を奪い、さらに殺害しようとナイフで二人を数回刺し、重傷を負わせた。
 1977年8月18日午後1時頃、Kは三重県内の民家に侵入し、留守番をしていた女性(70)に切出ナイフを突きつけて脅迫し、同女が声をあげたりしたためその頸部を切出ナイフで突き刺して殺害したうえ、同女所有の現金28000円等を奪った。
 他に強盗3件、強盗致傷3件、強盗殺人未遂1件などがある。7都道府県で犯行を行った。
 強盗事件と、1975年の事件の間に確定判決があり、1975年と77年の事件の間に確定判決がある。Kは14歳頃から窃盗事件を犯し、少年院に計5回入院している。成人後も強盗致傷、窃盗等で服役を繰り返した。Kは貧しい家庭に生まれ、幼少の頃父を失い、母と生別して小学校にも満足に通えなかったことが、被告の人格形成に大きな影響を与えている。被告の知能が精神薄弱者の域に達している。
 1980年9月13日、神戸地裁は1975年以前の強盗事件で懲役10年、1975年の事件で死刑、1977年以降の事件で無期懲役判決を下した。1984年9月13日、最高裁で刑が確定。
 確定後、一部は冤罪であると主張して再審を準備していたものの、精神分裂症の症状が重くなり、事情聴取が不能のために、再審請求の準備は中断した。精神病の疑いがあるにもかかわらず、1993年3月26日に死刑執行。48歳没。
文 献 「ブッシュに釈放頼む―法相の拒否―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)
備 考  
8/25 概 要 <秋山兄弟事件>
 秋山兄弟は、経営している工場に仕事が入らず、借金返済に窮し殺人を計画。1975年3月24日、秋山(弟)(46)の妻の保険金殺人を目論んだが未遂。8月25日、知人の工場主を殺し、1020万円を奪う。裁判で秋山(弟)は、妻の保険金殺人を否認。また、工場主殺害は兄が主犯であると主張。しかし、1987年7月17日、最高裁で死刑確定。秋山(兄)は無期懲役が確定した。
 秋山(弟)死刑確定囚は再審請求するが棄却。2006年12月25日、執行。77歳没。戦後史上最高齢の執行である。また確定から19年5ヶ月後の執行も史上最長である。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

秋山芳光『苦い罠』(私家版,1982)
備 考  


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