ノンフィクションで見る戦後犯罪史
【1961〜1965年】(昭和36〜40年)



【1961年】(昭和36年)

日 付事 件
3/28 概 要 <名張毒ぶどう酒事件>
 1961年3月28日、三重県名張市郊外の村で、生活改善クラブの寄り合いで女性陣が飲むぶどう酒に農薬のニッカリンTを仕込み、妻、愛人などを含む5人が死亡、12人が重軽傷。元クラブ会長だった奥西勝(34)は狭い村の中で妻の他にも数人と関係を結んでいたが、特に愛人との中を周囲に知られて妻との仲が険悪になっており、一切を精算しようとするために妻殺しを企んだのが動機とされる。当初は妻による無理心中説も出ていたが、事情を追求された奥西が自白し、逮捕された。しかし、裁判では一貫して無罪を訴え続けた。1964年12月23日、津地裁は無罪判決を言い渡すも、1969年9月10日、名古屋高裁は死刑判決を言い渡した。1972年6月15日、最高裁が上告を棄却し、死刑が確定した。証拠らしい証拠もなく、村は男女関係がオープンで不倫は日常茶飯事だったことから動機自体に疑問を持つ声も多い。
 2005年4月5日、奥西死刑囚の第7次再審請求に対し、名古屋高裁第1部は再審開始の決定を出すも、名古屋高検は異議申立を提出。2006年12月26日、名古屋高裁第2部は異議申立を認め、再審開始の決定を取り消した。弁護側は最高裁へ特別抗告。2010年4月5日付で最高裁第三小法廷(堀籠幸男裁判長)は、ニッカリンTについて改めて鑑定して審理すべきだと述べ、名古屋高裁に差し戻す決定を出した。三者協議によって再鑑定が行われるも、2012年5月25日、名古屋高裁は検察側異議申立を再び認め、再審を取り消した。弁護側は最高裁へ特別上告した。
文 献 「名張毒ぶどう酒事件」(青地晨『魔の時間 六つの冤罪事件』(社会思想社 現代教養文庫,1980)所収)

「名張毒ぶどう酒事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「命の限り闘い続ける―無実の叫び―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)

「名張毒ぶどう酒事件 奥西勝」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1993)

江川紹子『六人目の犠牲者−名張毒ブドウ酒殺人事件』(文藝春秋,1994/新風舎文庫,2005)

佐藤貴美子『銀の林』(新日本出版社,1998)

田中 良彦『名張毒ブドウ酒殺人事件―曙光』(鳥影社,1998)
備 考  
12/7 概 要 <ニセ千円札「チ-37号」>
 1961年12月7日、日銀秋田支店の発券課員が、損傷券を扱う廃札係に回される直前でニセ千円札を発見。真券よりほんの少し薄く、ツルツルした感じで艶があったが、そのあまりもの精巧ぶりに専門家が「見事」というほどの出来映えであった。その後、1963年11月4日までで、秋田から鹿児島にかけて22都府県下で合計343枚発見された。しかも、報道を受けて欠点を少しずつ修正していくという技術であった。
 今回の事件を受け、大蔵省は1963年11月1日より千円札の図柄を聖徳太子像から伊藤博文像に切り替えた。以後、ニセ千円札は出てこなかった。
 目撃証言等もあったが、事件は迷宮入りし、時効が成立した。
文 献 「ニセ千円札「チー37号」の顛末」(鎌田忠良『迷宮入り事件と戦後犯罪』(王国社,1989)収録)
備 考  「チ」とはニセの千円札に対する警察関係者のコードナンバーである。十円札は「伊」、百円札は「呂」、五千円札は「利」、一万円札は「和」と呼び慣わされている。37号はニセ千円札の発見順番を表している。

【1962年】(昭和37年)

日 付事 件
3/29 概 要 <姫島村リンチ致死事件>
 大分県の姫島村で1962年3月29日、別府の暴力団とつながりがあったF(27)、S(23)の兄弟が、村の若者39名にリンチを受け、たたき殺された。兄弟は親戚に村会議長、村会議員がいたため、村で暴力をふるいまくっていた。警察はうやむやにしか処理できなかった。3月中旬、同村の青年クラブが少女歌劇講演会を開いたため、Fが開いていた映画館の客がガタ減り。怒った兄弟は3月27日、公民館の宿へ殴り込み青年9名に怪我を負わせた。伝統ある宿を荒らされて、面子が立たないと村の青年39名はとうとう兄弟宅へ殴り込み、今回の事件になった。
文 献 「姫島村リンチ致死事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
備 考
7/17 概 要 <富山・教室猟銃殺人事件>
 1962年7月17日、富山県にある県立高校分校定時制四年教室での試験中、同校OBの青年Y(20)が二丁の猟銃を持って窓から生徒全員に「みんな前へ出ろ」と脅した。18人の生徒はわけもわからず黒板の前に整列した。教室に入ったYは、「覚悟しておろうな」と言った後、猟銃で女子生徒Fさん(18)を撃ち、逃走した。Fさんは即死。当初はYの気が狂ったかと思われていたのだが、調べていくうちにかつてYとFさんが一年前に付き合っていたことが判明した。しかし、昨年末からFさんの態度がよそよそしくなった。Yはその原因が、子供の頃に火傷してできたハゲであると思いこんだ。気持を確かめようとしても返事はもらえず、思い悩んだあげくの犯行であった。
 YはFさんを射殺した後、平橋へ行き身を投げようとした。しかし谷底を見た瞬間死ぬ勇気をなくした。結局Yは、懲役7年の刑を受けた。
文 献 「冨山・教室猟銃殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考
11/4 概 要 <草加次郎事件>
 1962年11月4日、東京都品川区の歌手島倉千代子後援会事務所で爆発が起き、事務員がけがを負った。原因はボール紙製の爆発物で、「草加次郎」の署名入りだった。「草加」はほかにも東京・京橋の地下鉄京橋駅ホームで10人の重軽傷者を出した爆発事件など、この年に6件の爆発騒ぎを起こした。その後も次々と事件を引き起こし、爆発7件、脅迫状14件、狙撃1件。負傷者14名にのぼる。犯人は「草加次郎」と名乗り、指紋も検出されたが、1978年9月5日、時効成立。
文 献 「草加次郎事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

(無差別テロ犯罪の原点"姿なき爆弾魔"『草加次郎事件』」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ5 迷宮入り事件』(同朋社出版)所収)

「アンチ・ヒーロー「草加次郎」」(鎌田忠良『迷宮入り事件と戦後犯罪』(王国社,1989)収録)
備 考

【1963年】(昭和38年)

日 付事 件
3/31 概 要 <吉展ちゃん誘拐殺人事件>
 1963年3月31日、東京・入谷の建築業者の長男の吉展ちゃん(4)が行方不明になり、犯人と目される男から50万円の身代金の要求があった。警察のミスにより金は奪われ、犯人は逃走。ラジオやテレビで犯人の声を公開するなど異例の捜査が行われた。警察側は名警部と言われた平塚八兵衛を陣頭指揮に活動。声が似ているとの電話によるたれ込みから、1965年7月、元時計修理工小原保(32)を逮捕。小原は二度、捜査線上にあがっていたものの、アリバイがあるということから犯人ではないと目されていた。平塚は再捜査の上小原を尋問、追求。アリバイが破れ、小原は自白。吉展ちゃんは荒川区の円通寺にて遺体で発見された。
 1966年3月17日、東京地裁で死刑判決。1966年11月29日、東京高裁で控訴棄却。1967年10月13日、最高裁で死刑確定。小原は拘置所の中で短歌を学び、更生したという。1971年12月23日死刑執行。38歳没。
文 献 「吉展ちゃん誘拐殺人事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「吉展ちゃん誘拐事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「東京・幼児誘拐殺人事件―『吉展ちゃん事件―営利誘拐の罰則強化へ』」(斎藤充功『TRUE CRIME JAPANシリーズ1 誘拐殺人事件』(同朋社出版,1995)所収)

「短歌と文鳥に生き甲斐を見いだす」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)

「吉展ちゃん事件」(佐々木嘉信『刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫,2004)所収)

「吉展ちゃん誘拐殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「吉展ちゃん誘拐殺人事件 小原保」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

鬼春人『吉展ちゃん事件の犯人 その科学的推理』(弘文堂フロンティアブックス,1965)

小池英男『吉展ちゃん事件』(東都書房)

佐々木嘉信『刑事一代』(日新報道,1994)

中郡英男『誘拐捜査 吉展ちゃん事件』(集英社,2008)

原野彌見『記者―吉展ちゃん事件50年・スクープ秘話と縁深き人々』(中央公論事業出版,2012)

堀隆次『刑事根性』(恒文社,1966)

堀隆次『一万三千人の容疑者 吉展ちゃん事件・捜査の記録』(集英社コンパクトブックス,1966)

本田靖春『誘拐』(文藝春秋,1977/文春文庫,1981)
備 考  本事件により、営利誘拐の罰則が強化された。
5/1 概 要 <狭山事件>
 1963年5月1日、埼玉県入間川の女子高生Yさん(16)が行方不明になった。その日の夜、20万円を要求する脅迫状が届けられる。3日未明、Yさんの姉が待つ受け渡し場所に犯人が現れるが、姉と二言三言交わした後、警察が張り込んでいることを察知して逃走。警察もすぐ後を追ったが、逃げられるという失態を犯す。5月4日、入間川の農道で死体が発見された。顔見知りの犯行という可能性が強かったが、突如被差別部落出身のI(24)が逮捕された。Iさんは警察の誘導に引っかかり、自白。1964年3月11日、浦和地裁で求刑通り一審死刑判決。控訴審から無罪を主張したが、1971年10月31日、東京高裁で一審破棄、無期懲役判決。1977年8月9日、最高裁で無期懲役が確定。千葉刑務所に収監された。
 Yさんの元使用人が遺体発見の明後日に井戸に投身自殺。11日には犯行現場で怪しい三人組を見たと届けた男がノイローゼで自殺。1964年7月14日にはYさんの姉が農薬を飲み自殺。1966年10月24日には、当時参考人リストに載っていた中年男が電車に轢かれて死亡。1977年10月にはYさんの次兄が首吊り自殺。Yさんの周辺に変死者が続出しており、多くの謎が今も残っている。
 Iさんは冤罪を主張、再審請求を求める。1977年8月30日、東京高裁へ再審請求を提出。部落解放同盟を中心に、多くの支援者が後押しをしている。Iさんは1994年に仮釈放。2005年、第二次再審請求が最高裁で棄却された。2007年、第三次再審請求を提出。
文 献 「狭山事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「狭山事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

青木英五郎『「狭山裁判」批判」』(辺境社,1975)

石川一郎『狭山現地報告』(三一書房,1978)

石川一雄/狭山事件弁護団、部落解放同盟中央本部編『石川一雄獄中日記』(三一書房,1977)

石川一雄『石川一雄獄中歌集』(たいまつ社,1979)

伊吹隼人『検証・狭山事件』(風早書林,2009/社会評論社,2010)

甲斐仁志『狭山事件を推理する』(三一書房,1988)

鎌田慧『狭山事件』(草思社,2004)

亀井トム『狭山事件』(辺境社,1972)

亀井トム『狭山事件第2集』(辺境社,1974)

亀井トム『狭山事件権力犯罪の構造』(三一書房,1975)

亀井トム『狭山事件権力犯人と真犯人』(三一書房,1977)

亀井トム『狭山事件への告発状』(三一書房,1978)

亀井トム『狭山事件(続)無実の新事実』(JCA出版,1980)

亀井トム・栗崎ゆたか『狭山事件無罪の新事実』(三一新書,1978)

北川鉄夫『狭山事件の真実』(部落解放研究所,1972)

木山茂劇画『差別が奪った青春 実録・狭山事件』(部落解放研究所,1973/解放出版社,1978)

佐木隆三『狭山事件』(文藝春秋,1977)(『ドキュメント狭山事件』(文春文庫,1979)と改題)

佐藤一『狭山事件・別件取調室の30日間』(解放出版社,1995)

狭山事件弁護団編『石川さんは無実だ 狭山裁判の真相』(解放出版社,1976)

狭山事件弁護団編『自白崩壊』(日本評論社,1984)

下田雄一郎『史上最大のミステリーを推理せよ!狭山事件』(新風舎文庫,2006)

武谷三男『狭山裁判と科学』(社会思想社,1977)

多田敏行『真実は細部に 狭山事件、「自白」調書の分析』(解放出版社,1986)

殿岡駿星『犯人』(晩聲社,1990)

殿岡駿星『狭山事件の真犯人』(デジプロ,2005)

殿岡駿星『狭山事件 50年目の心理分析』(勝どき書房,2012)

野間宏『狭山裁判』上下(岩波新書,1976/集英社,1977,1979)

野間宏『狭山差別裁判』(三一書房,1978)

野間宏『完本狭山裁判』全3巻(藤原書店,1997)

野間宏、安岡章太郎『差別・その根源を問う』上・中・下(朝日新聞社,1977)

浜田寿美男『狭山事件虚偽自白』(日本評論社,1988)

土方鉄『差別裁判』(社会新報,1970)

土方鉄『狭山事件考』(創樹社,1977)

雛元昌弘編『冤罪・狭山事件』(現代書館,1977)

部落解放同盟編『狭山差別裁判』第1〜8集(部落解放同盟中央出版局,1970〜1978)

部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編『無実の獄25年』(解放出版社,1988)

部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編『すべての力を一つに』(解放出版社,1993)

部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編『知っていますか?狭山事件一問一答』(解放出版社,1994)

部落解放同盟福岡県連合会編『狭山同盟休校の闘い 石川兄ちゃんは無実だ!』(明治図書出版 解放教育新書,1976)

無実の石川一雄さんをとりもどそう狭山市民の会編『狭山事件・現地からの報告』(たいまつ社たいまつ新書,1979)

森井?『狭山事件とは』(部落解放研究所,1988)

師岡佑行『狭山事件考』(新泉社,1977)

山下恒男『狭山自白・「不自然さ」の解明』(日本評論社,1978)

リトル・モア編集部編『狭山事件 石川一雄・獄中27年』(リトル・モア,1990)

和島岩吉『狭山事件再審』(部落解放研究所,1984)

『狭山差別事件を許すな』(前進社,1977)

 匿名氏による狭山事件関連本の感想はこちら
備 考  一審死刑から二審無期懲役判決になった理由の一つに、Iさんが無罪の可能性が高いことから、あえて裁判官が無期判決を出したという説がある。帝銀事件とともに、二大冤罪事件の一つといわれている。
8/26 概 要 <波崎事件>
 1963年8月26日午前1時30分頃、T(45)の内妻のいとこで、茨城県鹿島郡波崎町に住む農業Iさん(35)が、自宅から約1.3キロ離れたT宅から帰宅した後、苦しみ出し、病院へ収容されたが死亡。医師は急性心不全であると死んだ。このとき、Iさんは妻に、「Tにやられた」と呟いた。Tが保険金をだまし取ろうとして、Iさんに600万円の生命保険をかけさせたあと、交通事故死にみせかけようと計画、立ち寄ったIさんに青酸化合物入りのカプセルを飲ませた。というものである。
 妻が騒ぎ出したため、警察が捜査に乗り出し、Tは10月23日に別件で逮捕。11月23日、殺人の罪で起訴された。物証、自白は一切ない。被害者が死ぬ前に「Tにやられた」と呟いたことのみが唯一の「証拠」である。毒物の入手経路など、一切明らかにされていない。
 1966年12月24日、水戸地裁土浦支部で死刑判決。毒物を飲ませるところを見た証人もなく、毒物の入手先も処分方法も不明のままで死刑を言い渡している。1973年7月6日、東京高裁は一審判決を破棄し殺人未遂事件について無罪を言い渡した上で、改めて死刑判決を言い渡した。1976年4月1日、最高裁で死刑確定。
 1980年に再審請求するも4年後に棄却。1987年に第二次再審請求するも2002年に棄却。第三次請求準備中の2003年9月3日獄死。86歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1993)

「波崎事件」(無実の「死刑囚」連絡会議編『無実を叫ぶ死刑囚たち』(三一書房,1978)所収)

「今回はもうだめかな―無念の獄死―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)

足立東『情況証拠―「波崎事件」無罪の証明』(朝日新聞社,1990)

根本行雄『司法殺人〜『波崎事件』と冤罪を生む構造〜』(影書房,2009)
備 考  
10/18 概 要 <西口彰連続強盗殺人事件>
 前科四犯、トラック運転手西口彰(37)は1963年10月18日、福岡県で専売公社集金車を襲撃し、職員、運転手の2人を殺害、27万円を奪って逃走した。すぐに全国指名手配され、23日には捜査本部に「自分が犯人であるが、自殺する」という手紙を投函した。10月25日、宇高連絡船から投身自殺を図った形跡があるとの連絡があったが、偽装自殺と断定。広島に現れた西口は、電気店から寄付名目でテレビを騙し取り、質に入れて8万円を手に入れる。11月15日、浜松市で大学教授と偽って旅館に泊まり、女将(41)と母親(60)を絞殺、宝石類、現金を奪った。12月には千葉地方裁判所、兜町、福島県、苫小牧市などで詐欺を働いている。12月29日には弁護士(82)を絞殺、現金や弁護士バッチを奪った。
 1964年1月2日、西口は熊本県に現れ、福岡事件で判決を受けた二人の死刑囚の救援活動を続けている教誨師(43)のところに訪れ、弁護活動を支援すると約束。ところが小学生の娘(11)は、弁護士の顔が駐在所の手配書とそっくりであることを思い出し、母親に告げた。母親は駐在所で確認、警察に連絡し、ついに西口は逮捕された。
 1964年12月、福岡地裁死刑判決。「史上最高の黒い金メダルチャンピョン」「悪魔の申し子」と呼ばれた。1966年8月、突如上告を取り下げ、死刑確定。1969年12月、死刑執行。43歳没。
文 献 「西口彰連続強盗殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「西口彰連続強盗殺人事件 西口彰」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

佐木隆三『復讐するは我にあり』(講談社,1975/講談社文庫,1978)
備 考  
12/8 概 要 <力道山刺殺事件>
 1963年12月8日、プロレスラーの力道山(39)が、東京赤坂のキャバレーで口論から暴力団員(25)に腹を刺される。入院し、一時は体調を回復したものの、体力を過信して病院食以外の食事をしたことから15日に腸閉塞を併発、死亡した。事件直後、犯人は力道山のボディガードをつとめていた暴力団員たちに袋叩きに合い、入院した。
文 献 牛島秀彦『力道山物語』(徳間文庫,1983)
備 考  犯人の娘が、2001年に格闘技デビューした。

【1964年】(昭和39年)

日 付事 件
3/24 概 要 <ライシャワー駐日大使刺傷事件>
 1964年3月24日、アメリカ大使館でライシャワー駐日大使が精神分裂病の少年(19)にナイフで刺されて負傷する。傷は右大腿部の深いところまで達し、出血もひどかったが手術は成功した。しかし、輸血した血がもとで、大使は肝臓を痛め退院が遅れた。当時の輸血用血液は「売血者」と呼ばれる半職業的血液提供者から血液銀行が買い入れたものがほとんどであった。この後、売血者血液の危険性を訴えるキャンペーンが広がるとともに、献血運動が広がり、1967年1月、売血は全廃された。
文 献 「ライシャワー駐日大使刺傷事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

岡村青『十九歳・テロルの季節 ライシャワー米駐日大使刺傷事件』(現代書館)
備 考  
4/24 概 要 <CMソングプロダクション社長殺人事件>
 1964年4月24日午前0時30分頃、東京都港区で、CMソングを専門に製作するプロダクションの社長(29)が、会社から自宅のアパート前まで自家用車で帰ってきたとき、待ち伏せをしていた若い男に柳刃包丁で襲われて死亡した。約1ヶ月後、プロダクションの総務課長N(29)とタクシー運転手S(25)が逮捕される。Nはある経理事務所から2年前に引き抜かれたが、1年足らずで会社の金を100万円使い込んでいた。しかもNは社長に無断で裏金づくりをしておりその金額は600万円にのぼった。そのことが社長にばれたため、Nは会社乗っ取りをたくらみ、Sに報酬120万円で社長殺害を依頼したものだった。
 法廷でNは情緒不安定であったという証言が続いたため、裁判所は精神鑑定の実施を決定。二度行われた結果、1965年10月4日、東京地裁でNは精神分裂病で犯行前から心神喪失の状態であったとして無罪判決(求刑なし)。Sは無期懲役(求刑同)、Sの共犯Tに懲役4年が言い渡された。ところがNは入院先で周囲に精神分裂は詐病であると言いふらしてしまったため、検察側が控訴。東京高裁では再び精神鑑定が行われ、Nの「妄想型精神分裂病」は仮病と判断された。1969年3月26日、東京高裁はNに対し無期懲役(求刑死刑)の判決を言い渡した。
文 献 「都市の仮面」(鎌田忠良『迷宮入り事件と戦後犯罪』(王国社,1989)収録)
備 考  
12/21 概 要 <元俳優幼児誘拐殺人事件>
 1964年12月21日、芸名天津七三郎こと元俳優のK(29)は、金に困って仙台市に住む金融業の三男(6)を誘拐し殺害。身代金500万円を要求したが、受け取りに失敗。その後、逮捕された。一審では無期懲役だったが、二審で逆転死刑判決。1968年7月、死刑確定。1974年7月、死刑執行。
文 献 「仙台・幼児誘拐殺人事件―『元映画俳優の罪―無期懲役から死刑執行へ』」(斎藤充功『TRUE CRIME JAPANシリーズ1 誘拐殺人事件』(同朋社出版,1995)所収)
備 考  

【1965年】(昭和40年)

日 付事 件
1/13 概 要 <新潟デザイナー誘拐殺人事件>
 1965年1月13日、新潟市で、警察を装った人物からの電話で呼び出されたデザイナーOさん(24)が誘拐され、700万円の身代金を要求される。犯人は映画『天国と地獄』を真似、走っている列車から金を落とさせ、奪い取ろうとしたが失敗。その数時間後にOさんの遺体が発見された。1月20日、証拠からY(23)が逮捕。逮捕当初は病気を装っていたものの、数日後に全面自白した。
 裁判では、別に主犯がいて、自分は手伝わされただけだと主張したが、判決では単独犯であると認定。1971年5月、最高裁で死刑確定。Yは1975年3月4日、新潟地裁に再審請求。しかし1977年5月21日、Yは東京拘置所で隠し持っていたガラス片を首に刺し、自殺した。35歳没。
文 献 「自殺」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

「新潟・デザイナー誘拐殺人事件―『映画「天国と地獄」をまねた列車誘拐劇』」(斎藤充功『TRUE CRIME JAPANシリーズ1 誘拐殺人事件』(同朋社出版,1995)所収)

福田洋『極刑』(講談社)
備 考  死刑確定囚の自殺は、1961年以降3人目。
5/15 概 要 <農大ワンゲル部「死のシゴキ」事件>
 1965年5月15日から4日間、東京農業大学ワンダーフォーゲル部は新入部員の訓練を目的に奥秩父縦走に出かけた。新入生は慣れぬ山道にも関わらず3日間、30kgの荷物を背負って、健脚のベテランでも8時間かかるコースを5時間でかけさせられた。一行から遅れると、登山具で足や尻を蹴られ、ピッケルやロープで殴られた。行進中に倒れると、木の杖で上級生から胸などを叩かれた。
 22日、同大1年生のW君(18)が、練馬病院に入院したものの、全身に傷があり、肺水腫による呼吸困難で吐血しながら死亡した。他に2人が重体、25人が怪我を負った。
 6月4日までに、監督のI(28)、主将Y(21)ら8名が逮捕された。取り調べで監督らは、「自分たちも1年の時から同じ訓練を受けた」と弁明。大学当局はYを退学、参加した状況生17名全員を無期停学処分とした。また翌年6月に開かれた判決公判において、7人の被告に有罪が言い渡された。
文 献 「農大ワンゲル部「死のシゴキ」事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
備 考  この事件から、“シゴキ”と言う言葉が一般的に使われるようになったという。
7/29 概 要 <少年ライフル魔事件>
 1965年7月29日午前11時頃、神奈川県座間町の山中、銃の禁止区域内でライフルを発砲していた少年片桐操(18)を職務質問しようとしたT巡査(21)が、ライフルで撃たれて死亡。「おどかすつもりでライフルを右に振りながら引き金を引いたら、引くのが早すぎて当たってしまった」との供述が残されている。片桐は巡査から警察手帳、拳銃、制服、ズボンを奪って警官になりすます。発砲後、まもなくパトカーで駆けつけたT巡査(27)、S巡査(23)がパトカーから降りた瞬間、片桐は両巡査に発砲して逃走。S巡査は重傷、T巡査はバンドの留め金に弾が当たったため奇跡的に無傷であった。
 その後片桐は人質を取って車で逃走。銃砲火薬店に人質4人を取って立て籠もり、銃を乱射した。午後7時、警察からの催涙弾で、二人を盾にして外に出てきたところを逮捕される。警官隊との市街戦で16名が重軽傷を負った。片桐は警察の調べに「好きな銃を思いっきり撃ってスカッとした」と供述した。
 少年であったことから矯正の可能性があると、東京地裁で一審無期懲役判決。しかし、片桐自身が「銃への魅力は、今なお尽きない。将来社会へ出て、再び多くの人に迷惑を掛けることのないように、死刑にしてほしい」と主張したためか、二審東京高裁で死刑判決。1969年、最高裁で死刑確定。1972年7月21日、死刑執行。25歳没。
文 献 「銃は、神だ!−少年ライフル魔事件」(蜂巣敦『日本の殺人者』(青林工藝舎,1998)所収)

「少年ライフル魔事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「このつらさ、苦しさを、いまの若者に伝えて……」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)

「乱射の導火線」(鎌田忠良『迷宮入り事件と戦後犯罪』(王国社,1989)収録)

「少年ライフル魔事件 片桐操」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  
8/3 概 要 <六甲山事件>
 1965年8月3日、大阪市住吉区のアパートに住む一人暮らしの保育士の女性(35)が失踪した。警察は同じ会社に住む会社社長の男性が女性と交際していた理由で疑い、11月1日、詐欺の別件で逮捕。さらに「自白」に基づいて女性の死体が六甲山中で発見された。起訴状では、男性は8月3日の夜に女性を誘い、住所氏名不詳の男が運転する乗用車で六甲山へ行き、車の中で女性の首をタオルで絞め、死体を山中に遺棄したとある。物的証拠は、男性が描いたという死体遺棄場所の地図だけであった。
 裁判の過程で、無罪証拠が次々と出てきた。死体遺棄場所は短時間に運ぶことが困難であること。「自白」以前に警察が死体を発見していた可能性が強いこと。地図は死体発見後に捜査官が男性に書かせていたこと。殺されたはずの翌日である8月4日にアパートの管理人が女性と会っていたことなどである。
 一審大阪地裁は無罪判決。しかし二審大阪高裁は原判決破棄、差し戻しを言い渡す。差し戻し一審の大阪地裁では求刑通り無期懲役判決。しかし1982年8月、二審の大阪高裁では無罪判決が言い渡され、そのまま確定した。
文 献 佐藤友之『つくられた殺人犯―六甲山(殺人死体遺棄)事件』(現代書林,1983)
備 考  男性は逮捕直後、捜査官に弁護士を指定して選任を申し出たが、捜査官は連絡しなかった。また、男性は取り調べの際正座を強要されたと訴えた。上記二点は弁護人選任権の妨害及び脅迫・強制・拷問にあたるかどうかも争われたが、最初の一審判決以外は全て否定された。
11/9 概 要 <古谷惣吉連続殺人事件>
 1965年11月9日、滋賀県大津市で海水浴場管理人(59)の絞殺死体が発見される。22日、福岡県新宮町で英語塾教師(50)が死体で発見された。遺留品からOさんが犯人と目されたが、11月29日、既に死体となっていた廃品回収業者Oさん(57)が絞殺死体で発見された。10月30日に殺害されていた。12月9日、警察庁は広域重要事件105号に指定。12月11日、京都市で二人の廃品回収業者(60、67)の絞殺死体が発見。現場から前科のある古谷(ふるや)惣吉(50)の指紋が検出された。12月12日、警察庁が全国指名手配したわずか18時間後、古谷は西宮市大浜町の廃品回収業者の老人二人を襲って殺した後、巡邏中の芦屋署の警官三人に職務質問を受け、現行犯として逮捕された。取調中、12月5日に大阪府高槻市で建設作業員(53)を殺害したことも自供。他にも1964年11月から1965年5月にかけて、米子市と松山市でも老人と老婆を殺害した嫌疑を掛けられていたが、これは本人の否定と証拠固めが弱かったため、起訴までには至らなかった。
 古谷は1951年、福岡で2件の強盗事件を起こし2人を殺害していた。このときは、先にS元死刑囚(20)が捕まっており、共犯者がいるにもかかわらず、1953年3月に執行。1953年9月に犯行がばれたが、あくまで従犯であることを主張し、懲役10年ですんでいた。
 古谷は判明しているだけでも10名を殺害。個人としては戦後最大の数字である。1978年最高裁で死刑確定。1985年5月、死刑執行。71歳没。死刑囚の執行時年齢としては、2006年12月まで最高齢であった。
文 献 「古谷惣吉連続八人殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「戦後最大、日本のシリアルキラーの犯罪―『古谷惣吉・広域重要手配105号事件』」(池上正樹『TRUE CRIME JAPANシリーズ2 連続殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

中村光至『広域指定105号事件』(ケイブンシャ文庫,1990)

「古谷惣吉連続殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「連続8人殺人事件 古谷惣吉」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

福田洋『強殺−広域捜査一〇五号』(講談社,1980)

「後世に名を残したい―絞首最高齢―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)
備 考  警察庁広域重要指定事件で初の殺人事件。
11/25 概 要 <女子高生籠の鳥事件>
 1965年11月25日、東京都に住む女子高校三年生A子(17)は、学校からの帰り、自宅から30mほど手前の路地で無職S(39)に誘拐、監禁された。Sは以前から誘拐すべき対象の若い女性を求めてさまよい歩いていた。SはA子を裸にして自宅に監禁、ナイフで脅して関係を持とうとしたが出来ず、口淫をさせた。そのような生活は12月3日まで続き、A子は悲観し、家族に迷惑を掛けるよりは自分が犠牲になればいいと逃亡を諦めた。逆にA子はSに奇妙な愛情を持つようになり、以後、二人の同棲生活はママゴトのように続いたが、5月18日、知人に目撃されたA子は警察に保護され、Sは逮捕された。Sは誘拐、監禁などで懲役6年の刑が確定した。
文 献 「蒸発−女子高生籠の鳥事件」(小沢信男『犯罪紳士録』(講談社文庫,1984)所収)

松田美智子『少女はなぜ逃げなかったのか――女子高生誘拐飼育事件』(恒友出版,1994)(後に『女子高生誘拐飼育事件』(幻冬舎アウトロー文庫,1997)と文庫化)
備 考  


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