ノンフィクションで見る戦後犯罪史
【1956〜1960年】(昭和31〜35年)



【1956年】(昭和31年)

日 付事 件
1/18 概 要 <銀座・弁護士妻子殺人事件>
 1956年1月18日、東京・銀座にあるI弁護士(61)の法律事務所に中華料理店出前持ちB(27)が侵入。Iさんの妻(52)と大学生の次女(22)を殺害、現金800円と日本刀を奪って逃走。Bは2日後に自首した。I弁護士は熱心な死刑廃止論者で、「望まれれば、被告の弁護に立つ」と語った。
 1956年11月20日、東京地裁で死刑判決。控訴せず、そのまま確定した。Bは1960年に宮城刑務所で執行されている。
文 献  
備 考  
7/17 概 要 <品川トランク詰め殺人事件>
 1956年7月17日夜、運送店の店員が東京・大井町署に「運んだトランクが腐った臭いがした。死体ではないか?」と届け出た。翌日、品川区の不在の借家を訪ねた捜査員が、腐敗したトランク詰めの遺体を発見した。捜査の結果、機会工業会社の金81万5540円を横領したまま失踪し、指名手配されていた会計係(60)と判明。同僚の西谷郁太郎(31)とその愛人(23)が指名手配された。
 西谷は妻と3人の子供がいたが、別に愛人と1人の子供もいた。金がなかったことから、2ヶ月ほど前に30万円を使い込んだことで解雇された男性に近づき、睡眠薬で昏睡させて奪おうと計画。その後6月28日、青酸カリつきの鮨を食べさせて殺害。死体をトランクに入れて愛人宅の押入に隠し、子供を知人に預けると、2人で旅行に出かけた。17日後に帰って来ると、トランクから異様な臭いが放っていたため、運送屋に頼んでトランクを新しい借家に移送した。
 借家の契約書などから2人の身元がばれて指名手配。2人は青森から鹿児島にかけて逃避行を続けたが、76日後、所持金を使い果たして大阪市内に潜伏していることを逮捕された。
 1957年6月18日、東京地裁で死刑判決。1958年1月29日、東京高裁で控訴棄却。1959年9月18日、最高裁で死刑が確定した。執行日時は不明である。
文 献 「品川・トランク詰め殺人事件 西谷郁太郎」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  
9/5 概 要 <別府銀行員強盗殺人事件>
 大分県別府市の無職N(32)は無職T(23)と共謀。1956年9月5日、日掛の集金に来る銀行員の男性(34)を借りた家に誘い出した。Nが対談中にTが後ろから手斧にて一撃を加えた。逃げようとする男性をNが抱きしめ、Tが背後から包丁で突き刺して殺害。集金していた現金約67240円や小切手3枚(約80000円)などを奪った。さらに用意していたビニールの敷物に遺体を包んだうえ、柳行李に詰めた後、布団袋にて梱包。予約してあった船を借りようとしたが不在であったため、翌日Nは一人でし、海へ遺棄した。12日、Nが逮捕。14日、神戸へ逃亡していたTが逮捕された。
 1958年9月1日、大分地裁でNに死刑、Tに無期懲役が言い渡された。Nは、実行犯のTが無期で自分が死刑なのはおかしいと控訴。1959年4月30日、福岡高裁で控訴棄却。1960年6月28日、上告棄却、確定。
 死刑確定後、Nは刑務官で教育部長の指導により、点字奉仕を始めた。13年間で1500冊以上の点訳書を完成させたという。1973年5月11日、執行。49歳没。
 獄中結婚をしており、離婚するまで検問済みの手紙の他に、秘密通信1500枚を妻へ送ったとされる。
文 献 市川悦子『足音が近づく』(立風書房,1979)/インパクト出版会,1997)

矢貫隆『刑場に消ゆ 点訳死刑囚二宮邦彦の罪と罰』(文藝春秋,2007)
備 考  

【1957年】(昭和32年)

日 付事 件
1/30 概 要 <ジラード事件>
 1957年1月30日、群馬県の米軍演習場で薬莢拾いの農婦(46)が、米兵ジラード3等特技兵(22)に射殺される。このとき、農婦に対し、呼び寄せてから狙い撃ちにしていた。日米どちらで裁判するか争われたが、米軍側が裁判権を行使しないと通告。日本側が傷害致死で起訴。11月、前橋地裁で懲役3年、執行猶予4年という軽い判決が出された。3週間後、ジラードは日本人女性を連れて帰国した。米軍からの見舞金は、わずか62万円だった。
文 献  
備 考  
4/2 概 要 <少年誘拐ホルマリン漬け事件>
 1957年4月2日、東京・中野区のH(26)がプロレスラーである清美川の中学1年生になる息子を殺害した。死体をコマ切れにして、熱帯魚の水槽ふたつにギッシリ詰め込んでホルマリン漬けにし、フタはパテで完全に密閉していた。さらに、少年の衣類や肉片を風呂敷で包み裏庭に埋めた。Hは以前に、2度ほど精神病院に入院歴があり、風呂屋やそろばん塾で男の子を誘ってはイタズラや乱暴をしていた。また、この犯行の過程を詳細に日記に付けていた。
 1958年、「充分に刑事責任を問える」と、東京地裁はHに懲役10年を言い渡した。Hは一審判決に従い、そのまま服役した。
文 献  「少年愛マニアの死体愛好事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)
備 考  

【1958年】(昭和33年)

日 付事 件
8/21 概 要 <小松川高校女子生徒殺害事件>
 1958年8月17日、小松川高校定時制二年生Oさん(16)が行方不明となった。家族の届出で小松川警察署が捜査中、8月21日、同署に「家出娘なら小松川高校の屋上で絞殺し、屋上の横穴に捨ててある」と電話があった。検索したところ、絞殺された同女の腐乱死体を発見。24日には被害者宛に奪った櫛を、26日には操作一課長に被害品の鏡と写真を送り返してきた。しかも再三に渡って新聞社に電話をするなど犯行を誇示し、警察の無能さを笑ってきたが、捜査の結果、朝鮮人工員小松川高校定時制一年生李珍宇(18)を9月1日に逮捕した。李はOさん殺しを自供、さらに4月21日に賄婦Tさん(23)を強姦殺害した事件も自供した。
 1959年2月27日、東京地裁で死刑判決。1959年12月28日、東京高裁で控訴棄却。1961年8月17日、最高裁で死刑が確定した。1962年11月26日、仙台刑務所で死刑執行、22歳没。
文 献 「小松川高校女子生徒殺害事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「小松川高校女生徒殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

K・O『さらばわが友 正』(現代史出版会・徳間書店,1986)

「小松川女高生殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「小松川女子高生殺人事件 李珍宇」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

小笠原和彦『李珍宇の謎 なぜ犯行を認めたのか』(三一書房,1987)

築山俊昭『無罪!李珍宇』(三一書房,1982)

野崎六助『李珍宇ノオト―死刑にされた在日朝鮮人』(三一書房,1994)

朴寿南編『罪と死と愛と〜李珍宇の手紙』(三一書房,1982)

朴寿南編『李珍宇全書簡集』(新人物往来社,1979)
備 考  生い立ちが不幸であること、頭脳明晰ながら朝鮮人ということで差別されていたことなどから助命嘆願運動が広がったが、当の李が、運動をするぐらいならその資金を両親、兄弟に援助してほしいと訴えていた。
 犯人逮捕時、少年でありながら実名報道されことから、改めて少年法の問題が取り上げられた。
 逮捕が唐突であったこと、別の人物が逮捕寸前であったことなどから、李無罪説も出ている。

【1959年】(昭和34年)

日 付事 件
3/10 概 要 <杉並スチュワーデス怪死事件>
 1959年3月10日、杉並区の善福寺川に首を絞められた若い女性の死体が上がった。被害者は、英国海外航空スチュワーデスTさん(27)。容疑者として、Tさんと交際していたベルギー人の神父(38)の名前が挙がった。警視庁は、相手がカトリック教団サレジオ会の神父であることから、国際問題に波及してしまうことを恐れて慎重な、弱気な態度をとっていた。極秘の捜査を重ねた後、神父の出頭を要請したが、本人も教会も出頭を拒否。世論から批判の声が上がったため、神父は二、三度出頭したものの、胃病と神経衰弱を理由に歳暮病院に入院。6月11日、警視庁に連絡もせず、イタリアに帰国した。サレジオ会は傘下の社会事業団を利用して、アメリカから回された救済物資を闇ルートに横流しし、莫大な利益を得ていたという。神父の帰国により、事件は迷宮入りした。
文 献 「スチュワーデス事件」(佐々木嘉信『刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫,2004)所収)

松本清張『黒い福音』(中央公論社,1961/新潮文庫,1970)

朝倉喬司『誰が私を殺したの 三大未解決殺人事件の迷宮』(恒文社,2001/新風舎文庫,2007)
備 考  
4/5 概 要 <獄中歌人>
 Nは赤貧の生活を送り、しかも成績はいつもびり、幼児期から病気ばかりだった。中学卒業後、仕事を転々とするも、自宅を出奔。わざと空き家に放火し、懲役4年の判決を受ける。出所後の1959年4月5日夜、新潟県の寺で宿泊を拒否され、近くの農家の軒先ですきっ腹を抱えたまましゃがみこんでいた。ところが家の主人が彼を見つけ「ドロボー」と叫びだし、あわてて家に入り、家族五人を縛り上げ、2千円を奪った。始発電車が出るまで五時間近く粘り、いったんはそのまま家を出たものの、すぐに舞い戻り、主人の頭を棍棒で殴り重傷を負わせ、妻をタオルで絞め殺した。
 41時間後には逮捕。一審死刑判決後、短歌の世界を知り、作歌に没頭する。窪田空穂に師事し、毎日新聞歌壇欄に掲載されるようになった。このとき、ペンネームを島秋人とした。処刑前夜、最後の短歌を作り、1967年11月2日執行。享年33。その1ヵ月後、歌集が発行された。
文 献 「獄中歌人」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

児島桂子『一死刑囚への祈り−歌人・島秋人の生涯』(修道者出版,1969)

島秋人『遺愛集』(東京美術,1967)

島秋人/前坂和子編『空と祈り 『遺愛集』島秋人との出会い』(東京美術,1997)

「愚かな者の死の後は―改心の短歌―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)

「島秋人は、異例な人として悲しい!」(『別冊宝島333 隣りの殺人者たち』(宝島社,1997)所収)
備 考  
4/19 概 要 <理髪店「ホープ」バラバラ殺人事件>
 AとK蔵は結婚紹介所で知り合い、1953年に結婚。1955年に東京都足立区で理髪店「ホープ」を開業したが、K蔵が不器用だったため、店の采配などはAが全て取り仕切った。1958年、腕のいいKが店員として住み込むようになると、AはKと関係を持つようになった。二人の関係はK蔵や親族に知れることとなり、1959年4月末をもって解雇とすることを通告。財産と好きな男の両方を手に入れるため、A(29)はK蔵(34)の殺人を決意。1959年4月19日、酒によって眠っているK蔵をKが押さえつけ、Aが腰ひもで首を絞めて殺害。翌日、居間の床下に死体を埋めた。はがきによる偽装工作のおかげで「K蔵は金持ちの未亡人と大阪に逃げた」ことになっていた。しかし10ヶ月後ぐらいから異臭がするようになり、死体の遺棄を決意。1960年2月8日、Aが子供と店員を連れて出かけている間にKが死体を掘り起こし、8日、15日に2人は死体を切断、墓地などに埋め直した。ところが3月3日深夜、血染めのシャツと寝間着を風呂敷に包んだKはパトロール中の警察官に職務質問され、事件が発覚。Kは自供し、翌日Aも逮捕された。二人は裁判で罪のなすりあいを演じたが、7月5日、東京地裁でAに無期懲役(求刑死刑)、Kに懲役20年の判決。1961年6月29日、最高裁で上告が棄却され、確定した。
 Aは十数年後に仮釈放され、その後刑を免除される恩赦を受けている。
文 献 「女の業の深さはどこまでも」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収)
備 考  

【1960年】(昭和35年)

日 付事 件
2/6 概 要 <ホテル日本閣殺人事件>
 K(52)は栃木県塩原温泉で土産物店、食堂店を開いていた。土産を仕入れるときは代金の代わりに身体で払い、店自体も色仕掛け、肉体仕掛けで稼いだ。しかし、Kの野望は旅館経営であった。物色しているうちに、温泉街の外れにあるホテル日本閣に目を付ける。そこは経営者の才覚のなさか、場所が悪いのか、温泉を引き湯する権利がないからか、客数は今ひとつであった。Kはホテルの乗っ取りを計画、経営者Uさん(53)の愛人になり、さらに色仕掛けで仲間に引き込んだ従業員のO(37)と共謀し、Uさんの妻(49)を1960年2月6日に殺害。そのままホテルに乗り込み采配を始めた、今まで貯めた金をホテルの再建につぎ込んだが、二重三重に抵当に入っていることがわかり激怒。さらにUさんが全然仕事をせず、Kを追い出そうとしたため、12月31日にOとともにUさんを殺害した。その後もホテルを経営していたが、1961年2月19日に逮捕。自供中に、9年前に当時同棲していたN巡査(役職は当時 34)と共謀して夫(当時49)を青酸カリで毒殺したことも自白した。
 一審では夫の殺害は証拠がないと退けられ、N元巡査は銃刀法違反のみで懲役1年、Kは死刑、Oは無期懲役判決だった。しかし検察、Kが控訴。二審で夫の殺害も認定され、K、Oともに死刑判決、N元巡査は懲役10年の判決。1966年7月14日、最高裁で刑が確定した。
 1970年6月11日、K、Oは揃って死刑執行。K、61歳没。O、46歳没。Kは戦後3番目の女性死刑確定囚、戦後に執行された第1号の女性死刑囚である。
文 献 「日本閣殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「昭和の毒婦・戦後初の女性死刑執行」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)

「ホテル日本閣殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

吉田和正『誘う女 ドキュメント日本閣殺人事件』(三一書房)
備 考  
5/16 概 要 <雅樹ちゃん誘拐事件>
 1960年5月16日、生活の乱れから借金苦に陥った歯科医本山茂久(32)が、東京・銀座のカバン店社長長男雅樹ちゃん(7)を登校途中、誘拐。身代金200万円を請求したが、受け取りに失敗。事件報道に焦った本山は雅樹ちゃんを殺害、杉並区の路上に放置して逃亡した。2ヶ月後の7月17日、本山は大阪で別名で働いていたところを逮捕された。
 1961年3月31日、東京地裁で死刑判決。1966年8月26日、東京高裁で控訴棄却。1967年5月25日、最高裁で死刑が確定した。1971年、死刑執行、43歳没。死刑を免れるために自分の糞を食べるなど、発狂したふりをしていたというが、最後の方では本当に発狂していたという説もある。
文 献 K・O『さらばわが友 正』(現代史出版会・徳間書店,1986)

「雅樹ちゃん誘拐殺人事件 本山茂久」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  この事件が元で、誘拐事件は人命を尊重するため、警察が許可を出すまで一切報道をしないという協定が生まれた。
6/8 概 要 <母親バラバラ殺人事件>
 O(36)は、性格が極めて従順で、近所では評判の孝行息子で通っていた。その性格が従順なゆえ、気が弱く、意志薄弱であった。その気弱さから強盗殺人事件の共犯にひきずりこまれ、1949年頃、懲役15年の判決で大阪刑務所に服役。1957年、仮出所。その後、結婚し働きに出たが、すぐにやめてしまい、パチンコ漬けの生活が続く。母親はひとりで漬物屋を始めていたが、うまく行かず、借金だらけだった。しかし、見栄っ張りなうえ、いろいろな男を引き入れていたこともあり、いつも小言をOにかぶせていた。耐えきれなくなったOは、出所2年が経った1960年6月8日早朝に母親を殺害。何も知らない妻を無理矢理実家に帰らせ、夜を待って死体を行李に入れようとしたが、死後硬直のため、足がはみ出す。そのため、死体をバラバラにし、両脚を竹駕籠に、他の部分を行李に入れ、雑木林に捨てた。
 犯行はすぐに判明し、逮捕。1954年2月、死刑確定。1967年死刑執行。享年43。
文 献 「執行命令」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

「母親の借金・叱責…におびえ、扼殺」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)
備 考  
6/15 概 要 <6・15事件>
 日米安保条約改正の時期が迫ると、安保反対運動が急速に盛り上がった。1960年5月19日、危機感を抱いた自民党は国会での強行採決に踏み切る。全日本学生自治会総連合(全学連)の学生や労働組合員を中核としたデモ隊は連日国会を包囲した。6月15日、ついに国会内に乱入。東大生の樺美智子さんが圧殺される。それがきっかけで市民の参加が増え、ついに30余万人が国会を包囲するようになった。
文 献 江刺昭子『樺美智子 聖少女伝説』(文藝春秋,2010)

樺俊男『最後の微笑 樺美智子の生と死と』(文藝春秋,1970)

樺光子編『人知れず微笑まん−樺美智子遺稿集−』(三一新書,1960)

樺光子編『友へ−樺美智子の手紙−』(三一新書,1969)

全京都出版委員会編『足音は絶ゆる時なく 樺美智子追悼詩集』(白川書院,1960)

中島誠『全学連−70年安保と全学連』(三一新書,1968)

東大全学共闘会議編『果てしなき進撃−東大闘争反撃宣言−』(三一書房,1969)

日大文闘委書記局編『叛逆のバリケード−日大闘争の記録−』(三一書房,1969)

林紘義『哀惜の樺美智子 60年代安保闘争獄中記』(三一書房,1997)

松岡利康『敗北における勝利 樺美智子の死から唐牛健太郎の死へ』(エスエル出版会,1985)
備 考  
10/12 概 要 <浅沼稲次郎刺殺事件>
 1960年10月12日、日比谷公会堂で自民、社会、民社の三党首立会演説会で浅沼稲次郎社会党委員長が演説中、学生服姿の元愛国党員Y(17)が壇上に駆け上り、34センチの脇差しを構え、体ごと浅沼にぶつかっていった。Yは二回凶刃を振るい、浅沼委員長は死亡した。Yはその場で逮捕されたが、11月2日、少年鑑別所内で自殺した。部屋の壁には歯磨き粉で「天皇陛下万歳、七生報国」という文字が大書きされていた。
文 献 「浅沼稲次郎刺殺事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「浅沼社会党委員長暗殺事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

沢木耕太郎『テロルの決算』(文藝春秋,1978/文春文庫,1982)

森川哲郎『現代暗殺史』(三一書房,1971)

山口二矢顕彰会『山口二矢供述調書―社会党委員長浅沼稲次郎刺殺事件』(展転社,2010)
備 考  Yは単独犯行であると自供しているが、愛国党総裁Aが指示、教唆したのではないかという疑いがあった。しかし、ついに立証できなかった。
 Yは新旧右翼団体により神格化されている。
 毎日新聞社の長尾靖カメラマンは、Yによる刺殺時の写真により、日本人初のピューリッツァー賞賞を受賞している。
12/6 概 要 <女性三人連続毒殺事件>
 年末を控え、借金165,800円の返済を迫られていた(実際はそれほど切羽詰まっていなかったようである)熊本県熊本市のS(48)は1960年12月6日、Sの死んだ夫の母に、好物である乳酸飲料に農薬を飲ませ殺害。しかし、金を持っていなかったため、目的は達せられなかった。このとき、医者の診断は「卒中」であった。
 12月14日、Sは隣家の主婦Tさんを馬肉に農薬を混入して食べさせて殺害。同様に金を奪うことは出来ず、目的は達成できなかったが、こちらも「卒中」ということで片が付いた。
 12月18日、Sは自宅に訪れた顔なじみの行商人Yさんに、農薬入りの鯛味噌を食べさせ、13,500円を奪う。Yさんは命こそ取り留めたものの、内蔵から脳に至るまで毒に犯され廃人となった。
 12月28日、Sは行商人Oさんを農薬入り納豆で殺害。29日、Yさんの件で任意同行。家宅捜査の結果、様々な物証が出てきて逮捕される。残り2件も死体が発掘、解剖されたため、犯行が露呈。1963年3月28日、死刑確定。1970年9月19日、死刑執行。59歳没。
文 献 「仏門に帰依、模範囚の堂々たる最期」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)
備 考  Sは、戦後2番目に死刑台に昇った女性死刑囚。


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