ノンフィクションで見る戦後犯罪史
【1951〜1955年】(昭和26〜30年)



【1951年】(昭和26年)

日 付事 件
1/17 概 要 <洋服商夫婦殺害事件>
 1951年1月17日、詐欺容疑で指名手配中の孫斗八(25)は、以前にオーバーを買ったことがある神戸市の呉服商を訪れ、酒をふるまってもらって別れた。その後、再び呉服商を訪れて酒を飲もうとしたが断られたため、家に上がり込み、目に付いた金槌で夫婦(49、40)を殺害し、現金・服などを奪って逃走した。10日後に逮捕され、1955年に死刑判決が確定した。
 1954年に、「新聞社への投稿を禁じられた」と拘置所長を職権乱用罪で告訴した後、ありとあらゆる罪名で拘置職員を告訴。「基本的人権」に反すると、監獄規則をことごとく訴えた。さらに死刑訴訟に関することで、10数件の裁判を起こし、「獄中訴訟魔」「日本のチェスマン」と呼ばれた。1963年7月、裁判のほとんどは審理中のまま死刑執行、37歳没。執行の際には相当暴れたらしく、口の中や腕は傷だらけ。両腕には看守の指の跡が痣となって残っていた。「だまし討ちにするのか!」が最後の言葉だったと言われている。
文 献 「獄中訴訟」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

「獄中闘争の斗「日本のチェスマン」」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)

丸山友岐子『さかうらみの人生』(社会公論社,1968/三一書房,1970/社会評論社,1981)(丸山友岐子『超闘死刑囚伝―孫斗八の生涯』(現代教養文庫,1993)と改題)
備 考  キャロル・チェスマンは、死刑判決後10年以上も獄中闘争を続け、数回、死刑執行命令を撤回させた人物。後に執行されている。
1/24 概 要 <八海事件>
 1951年1月25日早朝、山口県熊毛郡麻郷村八海(やかい)で老夫婦の惨殺死体を発見された。指紋からY(22)が指名手配され、翌々日逮捕。24日夜に忍び込み、盗みを働こうとしたところで夫(64)が目を覚まし、とっさに台所にあった斧を素早く取ってきて一撃。夢中で斧をふるいめった斬りにした。そして恐怖で腰が抜けていた細君(64)の口を押さえて窒息死させた。室内を物色して現金一万数千円を盗んだ後、鴨居から首を吊ったように見せかける偽装工作を行っていた。
 証拠もそろい、一件落着するはずだったが、警察は現場の状況から複数犯だと先入観を持ち、さらにYを追求。最初は驚いたが、別に首謀者がいれば罪は軽くなると判断したYは、遊び仲間の阿藤周平さんほか3人の名前を「自供」。4人は逮捕され、拷問を受けて無理矢理「自供」させられた。証拠は何もなかった。阿藤さんが主犯、Yを含む4人が共犯と警察は発表。1952年6月2日、一審山口地裁は阿藤さんに死刑、Yを含む4人に無期懲役(求刑死刑)の判決を言い渡した。全員が控訴するも、1953年9月18日の広島高裁で阿藤さんとYの控訴を棄却、他3人に有期懲役を言い渡した。Yは二審の無期懲役判決に従った。阿藤さんは冤罪事件で有名な弁護士、正木ひろしに手紙を書き救いを求める。正木は綿密な調査により無罪を確信、『裁判官』を出版してベストセラーになり、この事件は全国に知られるようになった。
 その後、1957年10月15日、最高裁で差し戻し判決。1959年9月23日、広島高裁で無罪判決。1962年5月19日、最高裁で差し戻し判決。1965年8月30日、広島高裁で有罪判決。1968年10月25日、最高裁で無罪判決が言い渡され、確定した。すでにYは出所していた。映画『真昼の暗黒』はこの事件をモデルにしたものであり、一、二審で死刑判決を受けた阿藤さんが「まだ最高裁がある」と絶叫する姿が観客を感動させた。
 阿藤さんは2011年4月28日、肝臓がんで死亡。84歳没。本事件の冤罪被害者は全て亡くなった。
文 献 阿藤周平『八海事件獄中日記』(朝日新聞社,1968)

上田誠吉・後藤昌次郎『誤った裁判』(岩波書店,1960)

五島義重『真相八海事件』(五島書房,1963)

中山雅城『検証冤罪―帝銀事件・八海事件・松山事件』(文芸社,2003)

難波英夫『死をみつめて』(理論社,1968)

原田香留夫『真実』(大同書院,1956)

原田香留夫・佐々木静子『真昼の暗黒 八海事件15年と今後』(大同書院,1967)

藤崎あきら『八海事件』(一粒社,1956)

藤崎あきら『証拠 続・八海事件』(一粒社,1957)

正木ひろし『裁判官』(光文社カッパブックス,1955)

正木ひろし『検察官』(光文社カッパブックス,1956)

正木ひろし『裁判官・検察官』(上2冊の合本)(現代史出版会,1977)

正木ひろし『八海裁判』(中央公論社,1969)

正木ひろし『正木ひろし著作集2 八海裁判』(三省堂,1983)

「八海事件十八年」刊行会『八海事件十八年』(労働旬報社,1969)

「八海事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
備 考  先入観捜査による警察の捏造という、典型的な冤罪事件。
2/22 概 要 <築地八宝亭一家惨殺事件>
 1951年2月22日、東京築地の中華料理店「八宝亭」で主人(48)、妻(43)、長男(11)、長女(10)の家族4人が長柄の薪割りで滅多打ちにされて殺された。同日朝、住み込みのコック見習いY(25)が築地署に飛び込んで通報。Yの証言により、前日より店に住み込みで働くことになった「O」なる女性が重要容疑者として浮かび上がる。しかもOが銀行からお金を引き出そうとして失敗していたことも判明。Yの協力によるモンタージュ写真から「O」はNさん(23)であることが判明、3月10日に捕まる。ところがNさんはYに頼まれてお金を下ろしに行っただけだった。そして犯人はYであることが判明。同日に逮捕。ところが、Yは留置所で隠し持っていた青酸カリを飲んで自殺。動機は謎のままである。Nさんは懲役1年、執行猶予3年の判決となった。
文 献 「なぜ、お前は生き残ったのか?」(蜂巣敦『日本の殺人者』(青林工藝舎,1998)所収)

「不可思議な生き証人」(近藤昭二『捜査一課 謎の殺人事件簿』(二見書房 二見WaiWai文庫,1997)所収)


「築地八宝亭一家惨殺事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  
10/10 概 要 <おせんころがし事件>
 K(26)は1951年10月10日、千葉県小湊町で、3人の幼児と共にいた女性(29)に強姦目的で近づいた。おせんころがしと呼ばれる断崖に差し掛かると、まず5歳の男児と7歳の女児を崖下に投げ捨て、女性を強姦。その後2歳の幼女とともに首を絞めながら投げ落とした。崖の中腹に引っかかっていたことに気付いたKはさらに崖から降りて、女性、男児、女児を石で殴って殺害した。このとき、7歳の女児は崖の途中に引っかかって茂みに隠れたため、奇跡的に命を取り留めた。
 1952年1月13日、Kは千葉県で泥棒に入った家の主婦(24)を絞殺、死姦。いっしょにいた叔母(63)も出刃包丁で刺し殺して死姦した。このとき指紋を残したため、1月17日にKは逮捕された。その後の取り調べで、1948年、付き合っていた20歳の女性、その友達の17歳の女性を、それぞれ性交後に絞殺したことを告白。さらに1951年8月8日、赤城山麓の人家に押し入り、女性(24)を強姦、絞殺した事件、おせんころがし事件も自白した。
 殺害した人数は計8人。他にも殺人未遂、窃盗事件などがあり、戦後もっとも凶悪な男と呼ばれた。起訴の都合で、千葉県の事件と他の事件で別々に裁判を受けることとなった。1952年8月13日、千葉の強姦殺人により千葉地裁死刑判決。1953年12月21日、他の事件により宇都宮地裁で死刑判決を受けた。両件とも控訴するも、罪の意識からか幻想を見るようになり、1954年10月、自ら控訴を取り下げ、確定。
 1956年に死刑反対運動が盛んになった頃、矯正不可能な人種がいるということでKの名前が挙げられた。1958年からの死刑反対運動のさなか、だれが死刑を執行しても問題がないという観点からKが選ばれ、1959年10月14日執行。33歳没。この頃は、死の恐怖からか、ところ構わず無罪を訴えていたという。
文 献 「生贄」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)
備 考  一人が二度の死刑判決を受けて確定したのは初めて。
 ちなみにおせんころがしの由来。昔土地の豪族古仙家におせんという一人の娘がいた。おせんは村人たちを人とも思わぬ強欲非道な父親を改心させようと説得した。しかし、父親の心を改心させることは無理なことを悟り、この断崖から身を投げて、死をもって諫めた。
12/27 概 要 <印藤巡査殺害事件(練馬事件)>
 1951年12月26日22時過ぎ、警視庁練馬署旭町駐在所に「行き倒れがあるから来てもらいたい」と一人の男が飛び込んできた。印藤巡査(32)は届出人とともに現場に向かったが、三時間が経っても連絡がないため、隣接の田柄駐在所に電話連絡をした。その後、27日7時頃、後頭部を殴られ死体となった伊藤巡査が発見された。所持していた拳銃が奪われていた。犯行現場近くではO株式会社東京工場があり、共産党系の第一組合と穏健派第二組合の抗争が起きていた。2月13日、別件で東京工場の5名が逮捕。それから芋蔓式に、6月までに9名が逮捕された。一労組を越える組織の指揮計画のもとに行われたものだった。被告側は無罪を主張したが、1953年4月14日、東京地裁は傷害致死の罪で主犯に懲役5年、他の9被告にも1名を除いて有罪を言い渡した。
文 献 「印藤巡査殺害事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
備 考  推測だが、印藤巡査は駐在所巡査の任務を越えた公安的な任務を担当していたと思われる。礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)より)

【1952年】(昭和27年)

日 付事 件
1/21 概 要 <白鳥警部射殺事件>
 1952年1月21日夜、札幌市内路上で、札幌市警察本部警備課長の白鳥警部(36)が何者かによって射殺された。23日、同市内で日本共産党員札幌委員会名による天誅ビラが撒かれた。警察は日本共産党を集中的に捜査、20名近くの党員が芋蔓式に別件で検挙された。
 事件発生5ヶ月後、札幌信用組合元従業員Hが、首謀者は同信用組合理事長S、実行者は拳銃殺人前科があるTと公表。しかしSは、別件逮捕後保釈中の1952年12月23日に自殺した。
 1952年10月、警察は日共札幌委員会委員長Mらを逮捕。しかし殺人の罪で起訴したのは2年10ヶ月後であった。
 法廷では謀議の不存在、伝聞証拠の違法性などが争われた。また唯一の物的証拠である遺体摘出弾丸と、試射現場土中から発見された弾丸が同一の拳銃から発射されたかどうかが争われ、捏造が科学的に証明された。しかし札幌地裁は1957年5月、Mに無期懲役判決を言い渡した(他に共犯1名が執行猶予付きの有罪判決、共謀を自供した共犯は分離公判で執行猶予付きの有罪判決が一審で確定)。1960年6月、札幌高裁で懲役20年に減軽され、1963年10月に最高裁で確定した。
 Mは無実を訴え、1965年10月に再審請求。しかし1975年5月に最高裁で特別抗告が棄却された。
 Mは1969年に仮出所。1994年11月3日、埼玉県大宮市内の自宅火災により死亡した。71歳没。
文 献 「白鳥警部射殺事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

高木彬光『追跡』(光文社カッパノベルス,1962/角川文庫他)

谷村正太郎『再審と鑑定』(日本評論社,2005)

長岡千代『国治よ母と姉の心の叫び 謀略白鳥事件とともに生きて』(光陽出版社,1997)

長崎誠三『作られた証拠―白鳥事件と弾丸鑑定』(アグネ技術センター,2003)

松本清張『日本の黒い霧』(文藝春秋,1960/文春文庫,1974)

宮川弘『スパイSM37指令 白鳥事件の謎』(東洋書房,1967)

宮川弘『白鳥事件の謎』(上と同じ内容か?)(東洋書房,1968)

村上国治『怒りの十年 村上国治獄中文集』(新日本出版社,1962)

村上国治『壁あつくとも 村上国治獄中詩・書簡書』(日本青年出版社,1969)

村上国治『網走獄中記 上・下』(日本青年出版社,1970)

山田清三郎『怒りの十年』(新日本出版社,1962)

山田清三郎『ばあちゃん』(新日本出版社,1963)

山田清三郎『白鳥事件研究』(白石書店,1977)

山田清三郎『小説 白鳥事件』第一部〜第四部(東邦出版社,1969〜1970)

山田清三郎『白鳥事件』(新風舎文庫,2005)
備 考  Mは無実を訴え、1965年10月に再審請求。しかし1975年5月に最高裁で特別抗告が棄却された。しかしこの最高裁では、「疑わしきは被告人の利益に、という刑事裁判の鉄則は再審でも適用される」「再審請求の条件を、確定判決の事実認定の中に合理的な疑問があれば開始してよい」、というレベルに緩和された「白鳥決定」が出された。これを機に再審請求の重い扉は少しだけ開かれた。
2/19 概 要 <青梅事件>
 1952年2月19日早朝、国鉄青梅線小作駅から貨車4両が暴走した。それ以前の1951年9月から他に4つの列車妨害事件が起きていた。警察は白鳥事件、三鷹事件、松川事件と同様に日本共産党の計画的犯行と断定。約1年後に労組関係者など10名を起訴した。
 1958年11月の一審、1961年5月の二審とも有罪判決。しかし上告中の1964年11月、自然流出事故であったことを明記した国鉄の『責任運転事故原簿』が東京鉄道管理局に秘蔵してあるのが発見された。1966年3月、最高裁は原判決を破棄し、東京高裁へ差し戻した。1968年3月30日、無罪判決が言い渡され、確定した。被告のうち2名は拷問と脅迫がもとで、再起不能の病身を床に伏していた。
文 献 青木英五郎『裁判を見る眼』(一粒社,1971)
備 考  
2/25 概 要 <米谷事件>
 1952年2月25日、青森県高田村で女性(57)が強姦、殺害された。3月2日、村内の米谷四郎氏(30)が逮捕される。起訴直前で自白を翻し、無実を訴えたが、12月25日、青森地裁で懲役10年の判決。翌年の8月22日、仙台高裁で控訴棄却。米谷氏は「金のない者は無実でも泣き寝入りして服役せざるを得ない」と上告を断念して刑が確定。1958年4月に仮出所した。
 1966年4月、東京で窃盗などで裁判中の被害者の甥(33 事件当時18)が女性殺害を告白。東京地検は1967年2月に起訴。1968年7月、東京地裁は無罪判決を言い渡すが、検察側控訴中の1970年5月、甥は自殺した。
 米谷氏は1967年、日弁連へ救済を訴え、同年8月、青森地裁へ再審請求した。1973年3月、地裁は棄却したが、即時抗告した後の1976年10月31日、仙台高裁は再審開始を決定。1978年7月31日、青森地裁は無罪の判決を下し、そのまま確定した。慰留精液から判明した血液型が米谷氏の血液型と異なる事実、目撃証言は事実上不可能、自白内容に矛盾点が多すぎるなど、粗雑な捜査と強引な確定判決であった。
 米谷氏は国家賠償請求を起こしたが、棄却されている。
 米谷氏は2006年6月29日に死亡。84歳没。
文 献 渡部保夫『無罪の発見』(勁草書房,1992)
備 考  
5/10 概 要 <荒川放水路バラバラ殺人事件>
 1952年5月10日、東京・荒川放水路の岸辺に何かが浮かんでいるのを通行人が発見。中を開けてみると胴体だけの男性の死体だった。5日後、頭部が発見。被害者が板橋区の外勤係巡査であることが判明。ただちに調査した結果、小学校教師である内縁の妻と、巡査の借金問題などでトラブルが生じていたことがわかる。16日には上肢が発見、指紋から完全に死体が巡査のものであることが判明。同日、逮捕状がないまま妻を緊急逮捕、翌日犯行を自供。「殺すのは惜しい。売れば金になる」という寝言に戦慄した妻が巡査を殺害、そして母に犯行を打ち明け、二人でバラバラにしたのであった。結局妻に懲役12年、妻の母に懲役4年が確定。母は翌年、拘置所内で病死。
文 献 「夫を解体した妻の猟奇」(近藤昭二『捜査一課 謎の殺人事件簿』(二見書房 二見WaiWai文庫,1997)所収)

「荒川バラバラ殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「警官の夫を殺した小学校教師」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収)
備 考  「もし夫が巡査でなく、私が教師でなかったらこのような事件は引き起こさず、あっさりと別れていたかも知れない」と語っている。世間体を恥じ、体面を保つことに囚われなければ、このような事件は引き起こさなかったであろう。ある意味、この妻も被害者であったのかも知れない。
6/2 概 要 <菅生村派出所爆破事件>
 1952年6月2日午前0時過ぎ、大分県直入郡菅生村で、派出所が爆破された。爆破直後、付近を歩いていた日本共産党員二名Gさん(24)、Sさん(23)が現行犯として逮捕された。ところが、この夜派出所で就寝しているはずの巡査夫妻は事件発生を予知していて、いつでも犯人を捕まえることが出来るように準備していた。また、まわりには百名近い警官が張り込み、カメラマンを含む新聞記者が現場に待機していた。
 「現行犯」の二人は、市来春秋と名乗る「知り合い」に呼び出されていただけと主張し、犯行を否認した。また共同謀議者として逮捕された3名も無罪を主張。1955年7月、大分地裁はG氏に懲役10年、S氏に懲役8年の判決、他3名にも有罪判決を言い渡した。ところが事件当初から弁護活動をしていた清源敏孝弁護士の尽力により、次第にこの事件は人々の注目を集め、しかも二審の途中で市来春秋が現職の警察官Tであると判明。共同通信社の記者たちは、逃亡していたTを探し出し、法廷に突き出した。Tは大分県警の警備部長Kの指示により、おとり捜査官として働いていた。この事件は警察の自作自演による謀略であった。1958年6月、福岡高裁で二人に無罪判決が言い渡された。1960年12月、最高裁で上告が棄却され、確定した。
 Tは起訴されたが、一審は無罪、1959年9月の二審では有罪判決が言い渡されたが、刑は免除された。Tは3ヶ月後に警視庁へ復帰。1983年には、警察大学技術課教養部長兼教授に上り詰めている。
文 献 上田誠吉、後藤昌次郎『誤まった裁判』(岩波新書,1960)

清源敏孝『消えた警察官』(現代社,1957)

坂上遼『消えた警官 ドキュメント菅生事件』(講談社,2009)

清水一行『風の骨』(双葉社,1977/集英社文庫他)

諌山博『駐在所爆破犯人は現職警官だった』(新日本出版社,1978)

正木ひろし『エン罪の内幕』(三省堂新書,1970)

宮川弘『スパイFS6工作―菅生スパイ事件の真相』(東洋書房,1966)

宮川弘『菅生スパイ事件』(東洋書房,1968)

「菅生村派出所爆破事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
備 考  警察とは、あくまで体制を維持するための機関であることがはっきりする事件である。
7/7 概 要 <藤本事件>
 1952年7月7日、熊本県菊池郡の路上で、同村役場衛生係A氏の刺殺死体が発見された。
 一年前にさかのぼるが、1951年8月1日、A氏の自宅にダイナマイトが投げ込まれる事件があった。この事件で警察は、A氏が県当局にらい病(現在のハンセン病)患者であると通報し、認定されて「国立療養所」へ収容するとの通知を受けたF(当時30)の犯行であると推測し、Fを逮捕した。ダイナマイトの入手経路が不明なこと、Fがダイナマイトの取扱を知らないなどの矛盾があるにも関わらず、6月9日、熊本地裁で懲役10年の判決が出された。その一週間後、Fは脱走していた。
 警察はFの犯行であると即断、7月13日に発見し、逃げようとしたところをピストルで射撃し、逮捕した。Fはピストルによる怪我の治療をまともに受けられず、「自白」させられた。そして1953年8月29日、熊本地裁で死刑判決。1957年8月23日、最高裁で死刑が確定した。もっとも裁判は「国立療養所」の中の特別法廷で開かれ、証拠物件の取扱に裁判官はゴム手袋をした上、1m以上の菜箸で扱われた。特別法廷のため、当然傍聴人もいない。不十分な審理の中での死刑確定であった。
 Fは裁判で一貫として無罪を主張。十分な証拠もなく、冤罪の可能性は高かった。現在でもそうだが、当時はハンセン氏病患者に対する差別が激しかった。この事件を知った数多くの人たちが再審を求めて活動を行った。第3次請求までなされたが、全て棄却。当時死刑反対運動が盛り上がっていた時期であった。法務省はこの頃、特に再審活動の激しかった帝銀事件の平沢死刑確定囚とF死刑確定囚のどちらを執行するか協議していたという。1962年9月14日、留置されていた熊本から福岡拘置所に移ったF死刑確定囚は突然の死刑執行。第3次再審請求は9月13日に棄却されていた。まさにだまし討ちともいえる執行であった。
文 献 「差別」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

木々高太郎『熊笹にかくれて』(桃源社,1960)

「ハンセン病を恐れて―不公正裁判―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)
備 考  日本版「サッコ・バンゼッティー事件」と言われている。ただし、アメリカでの「サッコ・バンゼッティー事件」と異なり、冤罪は晴らされていない。2007年、中山節夫監督により「新・あつい壁」として映画化された。
7/29 概 要 <芦別事件>
 1952年7月29日夜、北海道の国鉄根室本線芦別平岸間における芦別駅付近で線路がダイナマイトで爆破された。近所の少年が異常な音と煙に気づき通報したため、列車事故は回避された。発見された遺留品の発破器やダイナマイトから芦別市内の炭坑関係者が調べられ、翌年3月、坑内炭坑夫だった2人の共産党員IとJが逮捕された。Iはレッドパージで1951年6月に炭鉱を追い出され、別の炭坑に入ったが、賃金不払いのために団体交渉をしていた。
 2人は裁判で無罪を主張。証拠として提出された雷管が腐食せずに新品だったことや、使用したとされる発破器はIによって盗まれたものではないことを知っていながら検察側は隠していたことなどが明らかにされたが、一審札幌地裁岩見沢支部は懲役5年の判決。2人は控訴したが、Iは1960年に交通事故で死亡し公訴棄却。1963年、札幌高裁はJに無罪を言い渡し、判決は確定した。事件の真相は不明のままである。
 Iの遺族らは国会賠償請求を提出。1971年、札幌地裁は捜査と起訴に違法があったとして国と捜査官に893万円の支払いを命じた。しかし検察側が控訴し、1973年、札幌高裁は捜査の合法性を認め、一審判決を取り消し、原告側の請求を棄却した。1978年、最高裁は無実の人物を誤認逮捕、起訴した場合にも原則として国家賠償法上の違法性を有しないとの判断を示して二審判決を支持し、原告側の敗訴が確定した。
文 献 井尻光子『飯場女のうた 芦別事件・怒りの26年』(学習の友社,1984)

谷村正太郎『再審と鑑定』(日本評論社,2005)
備 考  
12/6 概 要 <花巻事件>
 1952年12月6日、岩手県花巻駅近くの飲食店で火災発生。店にいた男性が、翌朝放火未遂の容疑で逮捕された。実況見分も現場保存もせずに店主の申告を鵜呑みにした逮捕だった。男性は否認していたが、拷問により自白。一審で懲役3年執行猶予5年、二審では懲役2年6ヶ月執行猶予4年が言い渡された。
文 献 上田誠吉・後藤昌次郎『誤まった裁判 ―八つの刑事事件―』(岩波書店,1960)
備 考  

【1953年】(昭和28年)

日 付事 件
1/12 概 要 <竜門事件>
 1953年1月12日、和歌山県竜門村にある神社のそばの谷川で、女性(19)の暴行死体(ただし、凌辱の実態はない)が発見された。凶行に使われた棍棒の切れ端が発見されたことから、農業F(62)と作男K(18)が逮捕。Kは当初単独犯を自供したが、後にFとの共謀を自供。Fは犯行を否認。Fが女性にふられたことが動機とされているが証拠はない。1953年11月、一審でKは懲役5〜10年の不定期刑、Fは無罪が言い渡された。二審で、Fは懲役8年の実刑判決、Kは懲役6年が言い渡された。Fのみが上告したが、1959年、最高裁で刑が確定。1961年3月、Fは再審請求。胃潰瘍のため、Fは刑の執行停止。
文 献 「竜門事件」(青地晨『冤罪の恐怖 無実の叫び』(社会思想社 現代教養文庫,1975)所収)

備 考  
3/17 概 要 <雑貨商一家殺人事件>
 菊池正(26)は母親思いの働き者の青年だった。村の青年団長を務め、真面目で礼儀正しかった。ところが、菊池の義理の父は、母を下女扱いし、さらに母はソコヒ(白内障)を煩って失明した。手術をすれば治るが、そんな大金は家にはなかった。そこで菊池は強盗殺人を計画。1953年3月17日、小金を貯めていると噂のある村の雑貨屋に押し入り、女主人(49)ら一家四人を絞殺。家中を探し回ったが、現金二千円しか見つからず、腹いせに女主人とお手伝いを死姦。女物の腕時計を一個盗んだ。
 1ヶ月ほどたっても犯人は見つからず、迷宮入りの雰囲気が高かったが、菊池が東京に暮らしている妹に腕時計をあげたことをつきとめた警察が二ヶ月後に逮捕。1953年11月25日、東京地裁で死刑判決。1954年9月29日、東京高裁で控訴棄却。。
 上告中の1955年5月11日夜、母親に会うために東京拘置所を脱走、11日目に逮捕。逮捕時、警察の情けで母親と最後の対面を果たすことができた。
 1955年6月28日、最高裁で死刑確定。4ヶ月後の11月21日に宮城刑務所へ押送され、翌朝に死刑執行。28歳没。
文 献 「脱獄」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

K・O『さらばわが友 正』(現代史出版会・徳間書店,1986)

「死の獄舎を脱獄、仙台送りの翌朝処刑」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)

「栃木雑貨商一家殺害事件 菊池正」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  暴行を受けた女性の死体から二種類の体液が検出されたらしいが、Kは単独犯を主張した。
 死刑囚もしくは死刑判決上訴中の脱獄犯では最長日数である。脱走の責任を取り、東京拘置所長が解任されたのを始め、多くの刑務官が処分を受けた。そのため、東京拘置所に連れ戻された後は、懲罰房に2ヶ月、その後独居房と厳重に監視されていた。仙台送りの翌朝に執行されたのも異例である。
7/27 概 要 <バー・メッカ殺人事件>
 1953年7月27日、東京新橋のバー「メッカ」の天井から血の滴が落ちてきたことから調べたところ、両脚を電気コードで縛られ、鈍器で全身30ヶ所を滅多打ちにされており、首にも電気コードで絞められた痕があった死体が発見された。死体は証券ブローカー(39)で、殺された当日、証券を担保に銀行から四十万円を引き出していた。共犯2人はすぐに逮捕、主犯正田昭(24)も78日後に京都で逮捕。金ほしさの犯行であったが、正田が慶応大出身のインテリ美少年であったことから、マスコミはアプレゲール犯罪の典型として大きく取り上げた。殺人演習に参加したが実行には不参加だったI(22)は懲役5年、共犯のボーイ(19)は懲役10年、そして正田は1963年1月25日、死刑確定。その間、獄中から投稿した「サハラの水」が新人賞候補作となり、雑誌「群像」に掲載された。1969年12月9日、死刑執行、40歳没。
文 献 「絵と文学とお金」(蜂巣敦『日本の殺人者』(青林工藝舎,1998)所収)

K・O『さらばわが友 正』(現代史出版会・徳間書店,1986)

「バー・メッカ事件 正田昭」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

加賀乙彦『ある死刑囚との対話』(弘文堂,1990)

加賀乙彦『宣告』(新潮文庫,1979)

「バー・メッカ殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

正田昭『黙想ノート』(みすず書房,1967)

正田昭『獄中日記 母への最後の手紙』(女子パウロ会,1971)

「メッカ殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  日本におけるモンタージュ写真手配の第1号でもある。
11/5 概 要 <徳島ラジオ商殺害事件>
 1953年11月5日、徳島県の「M営業所」を不審な人物が訪れ、応対している内妻富士茂子さん(43)の声にも返事がないことに不審を持った主人のSさん(53)が裏口の障子を開けたところ、人影が侵入。Sさんを刺殺し、そのまま逃走した。翌年5月、暴力団員Kが逮捕され、犯行を自白するものの証拠不十分にて釈放。8月13日、富士さんが逮捕された。逮捕された証拠は、裏の小屋に住んでいた少年店員二人の証言のみであった。
 富士さんは逮捕段階でこそ「自白」したものの、裁判では無罪を主張。しかし、1956年4月18日、徳島地裁は富士さんに懲役13年の有罪判決を言い渡した。1957年12月21日、高松高裁は富士さんの控訴を棄却。富士さんは上告するも、1958年5月10日、裁判費用が続かないため上告を取り下げ、確定した。
 判決確定後、重責に堪えきれず店員の一人が地元新聞に偽証であったことを発表。この証言を頼りに第1次〜第3次再審請求を提出するも、いずれも棄却された。富士さんは1966年11月30日に仮出所。以後も再審請求を提出するも、第5次再審請求中の1979年11月15日、富士さんは肝臓がんで死亡した。4人の姉妹弟が再審請求を引き継ぎ(第6次再審請求へ移行)、1980年12月13日、徳島地裁は再審を決定。1983年3月12日、高松高裁が検察側の即時抗告を棄却し、再審が開始された。そして1985年7月9日、徳島地裁は富士山へ無罪を言い渡し、そのまま確定した。日本で初めて、死後再審による無罪判決が言い渡された事例である。
文 献 「世にも恐るべき冤罪事件」(近藤昭二『捜査一課 謎の殺人事件簿』(二見書房 二見WaiWai文庫,1997)所収)

「徳島事件」(青地晨『冤罪の恐怖 無実の叫び』(社会思想社 現代教養文庫,1975)所収)

稲木哲郎『裁判官の犯罪』(晩聲社,1983)→『裁判官の論理を問う』(朝日文庫,1992)と改訂

開高健『片隅の迷路』(毎日新聞社,1962,1968/角川書店,1963/東方社,1968/角川文庫,1972)

小林久三・近藤昭二『月蝕の迷路』(文藝春秋,1979)

斎藤茂男『われの言葉は火と狂い』(築地書館,1990)

瀬戸内晴美・富士茂子『恐怖の裁判』(読売新聞社,1971)

「ニュースと写真で綴る徳島ラジオ商事件闘いの記録」編集委員会/編 『無実』(第一出版,1986)

堀田宗路『主なき再審』(風雅書房,1995)

和島岩吉・原田香留夫『富士茂子事件・再審入門 “徳島ラジオ商殺し”冤罪 第五次再審請求資料』(大同書院,1978)

渡辺倍夫『徳島ラジオ商殺し』(木馬書館,1983/新風舎文庫,2004)
備 考  見込み捜査の恐ろしさがよくわかる事件の一つ。

【1954年】(昭和29年)

日 付事 件
2/17 概 要 <三里塚事件>
 1954年2月17日夜、千葉県成田市三里塚で駄菓子屋の女性(58)が自宅で殺害された。4月17日、駄菓子屋によく遊びに来ていた近所の高校生(18)が逮捕され犯行を自白した。凶器は自宅にあった竹割きとされたが、血痕は付着していなかった。1955年7月6日、千葉地裁は無期懲役判決を言い渡した。ただ、どのように打ったかについては、鑑定人である千葉大学の宮内義之介、東京大学の古畑種基らの発言が何度も変換している。
 二審から正木ひろしが弁護人となり、凶器は和裁用のコテ様のものと主張したが、1958年12月27日、東京高裁は控訴を棄却。1963年2月21日、上告が棄却され、確定した。
 その後、再審請求が提出されたが棄却されている。犯人とされた男性は1977年3月に千葉刑務所を仮出所したが、翌年8月に死亡した。42歳没。
文 献 正木ひろし『ある殺人事件』(光文社,1960)

正木ひろし『冤罪の証明』(旺文社,1981)
備 考  
3/10 概 要 <島田事件>
 1954年3月10日、静岡県島田市で幼稚園中のお遊戯会中に幼女(6)が行方不明となり、3日後に暴行、絞殺された死体となって発見された。5月24日、赤堀政夫さん(25)が逮捕された。一旦釈放されたが、28日に別件の窃盗容疑で逮捕。激しい追求の後、1週間後に自白した。1958年5月23日、静岡地裁で死刑判決。1960年2月17日、東京高裁で控訴棄却。1960年12月5日、最高裁で死刑が確定。  1986年5月30日、第4次再審請求の差し戻し審で静岡地裁は再審開始の決定を言い渡す。1987年3月25日、東京高裁は検察側の即時抗告を棄却し、再審が開始された。そして1989年1月31日、静岡地裁で無罪判決が下され、確定、35年ぶりに解放された。
文 献 「島田事件」(青地晨『冤罪の恐怖 無実の叫び』(社会思想社 現代教養文庫,1975)所収)

「島田事件」(無実の「死刑囚」連絡会議編『無実を叫ぶ死刑囚たち』(三一書房,1978)所収)

「島田事件」(青地晨『魔の時間 六つの冤罪事件』(社会思想社 現代教養文庫,1980)所収)

「島田事件と松山事件」(佐久間哲夫『恐るべき証人−東大法医学教室の事件簿』(悠飛社,1991)所収)

赤堀闘争全国活動者会議編『島田事件と赤堀政夫』(たいまつ社,1977)

佐藤友之・真壁昊『冤罪の戦後史』(図書出版社,1981)

佐藤一『不在証明』(時事通信社,1979)

伊佐千尋『島田事件』(潮出版社,1989)

森源『島田事件レポート』(森源,1989)

白砂巌『雪冤島田事件』(社会評論社,1987)
備 考  
4/19 概 要 <鏡子ちゃん殺人事件>
 1954年4月19日、S(21)は友人に金の無心に行ったが不在だった。自宅に戻る途中に尿意を催し、近くの小学校のトイレを使っていたとき、少し開いた女子トイレのドアから鏡子ちゃん(7)のお尻が見えた。急に情欲を催してトイレに押し入り、暴行のうえ絞殺、逃亡。しかしイニシャル入りのハンカチを落としていたため10日後に逮捕、その1週間後、Sは自供した。Sは静岡県の国立療養所で結核療養中だった。しかし、入院費は滞納、無断外泊は当たり前、借りた金は返さない、ヒロポン中毒というので評判は悪かった。本人も、刹那的に生きようとしていたらしい。
 1956年10月、死刑確定。1957年6月22日、宮城刑務所にて死刑執行。22歳没。刑務所の中でも楽天的に過ごしていたらしい。
文 献 「一年半で結審、二十二歳で死に赴く」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)

K・O『さらばわが友 正』(現代史出版会・徳間書店,1986)
備 考  
8/13 概 要 <松尾事件>
 1954年8月13日、熊本県南村で映画館帰りの女性(21)が男に襲われ、暴行された。松尾政夫氏が容疑者として任意同行され、取り調べにより犯行を自白。その後は、捜査・公判を通じて否認を続けた。しかし1955年12月23日、熊本地裁で一審懲役3年の判決。1956年4月13日、福岡高裁で控訴が棄却され、上告せずに確定した。
 1958年に満期出所後、松尾氏は再審請求を提出し続けた。1988年3月28日、熊本地裁は第13次再審請求を認め、検察側が抗告しなかったため確定した。しかし松尾氏は5月5日に食道静脈瘤破裂により死亡、71歳没。公判で検察側は全く争おうともせず、求刑も行われずに2回で結審。1989年1月31日、熊本地裁は松尾氏に無罪判決。そのまま確定した。
文 献 堀田宗路『主なき再審』(風雅書房,1995)
備 考  被告人の死後に再審の判決が行われたのは、「徳島ラジオ商殺人事件」に続き二件目。
9/5 概 要 <埼玉入間バラバラ殺人事件>
 F(28)は、4年前に親しくなった女性(19)にふられたあとも追いかけ回していた。Fは定職についておらずブラブラしており、女性にとっては迷惑この上なかった。女性は親戚の家に隠れたが、結婚する運命にあると信じていたFはしつこく探し回った。1954年9月5日、埼玉県入間郡で女性を探し当て殺害、バラバラにした。ところが、その女性は全くの別人であった。Fはすぐに逮捕され、一審無期懲役判決。ところが二審で、女性が証言台に立ったときに「Fとは何の関係もありません」と証言したことに逆上、隠し持っていた竹べらで女性の腕を刺し、全治2週間の怪我を負わせた。そのことが裁判官の逆鱗に触れたか、二審で死刑判決。最高裁で確定した。1959年5月、執行。
文 献 「逆転死刑」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

「恋の一念が生んだ悲喜劇」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収)
備 考  
9/5 概 要 <茨城一家九人毒殺事件>
 1954年10月11日午前5時頃、茨城県鹿島郡の農家が全焼し、焼け跡から、主人、妻、長男など一家8人と女中の計9人が死体として発見された。司法解剖の結果、全員が青酸カリで毒殺されていたことが判明。無理心中説もあったが、聞き込みで、前日に保健所の者と名乗る白衣の男が、一家の聞き回っていたことがわかり、毒殺放火事件の判断に絞られた。事件の手口から、帝銀事件との関連も噂された。その後、家の自転車が乗り捨てられていた場所から、名前入りのワイシャツが発見。11月6日、捜査本部は、神奈川県横須賀市出身のM(42)を指名手配。Mは窃盗や詐欺などで前科8犯、計24年を刑務所で過ごしてきた。7日、Mは塩原温泉の旅館から逃亡したが、山狩りで発見され、逮捕される。しかし身柄の移送中、持っていた仁丹ケースの二重底に隠していた青酸カリを飲んで自殺した。殺人の手口や動機は不明のままとなった。
文 献 黒木曜之助『実録・県警最大事件』(弘済出版社こだまブック,1973)
備 考  
10/26 概 要 <仁保事件>
 1954年10月26日朝、山口県吉城郡大内村仁保で、農業Yさん一家(夫婦、母、子供3人)が惨殺死体で発見され、7700円が奪われていた。怨恨に基づく複数犯という見解のもとで捜査されたが、誤認逮捕のあげく、1年後に大阪にいた仁保出身のOさん(38)を別件逮捕。160日以上もの拘留、取り調べの末、ついにOさんは「自白」した。
 1962年6月15日、山口地裁で死刑判決。1968年2月14日、広島高裁で控訴棄却。1970年7月31日、「自白の信憑性に乏しい」事から最高裁で差し戻し判決。1972年12月14日、広島高裁で無罪判決が出て、そのまま確定した。
文 献 青木英五郎『自白過程の研究』(一粒社,1969)

「仁保事件」(青地晨『魔の時間 六つの冤罪事件』(社会思想社 現代教養文庫,1980)所収)

上野裕久『仁保事件』(敬文堂出版部,1970)

金重剛二『タスケテクダサイ』(理論社,1970)

故小沢千鶴子さん追悼文集刊行委員会編『微笑の勝利 仁保無罪を導いた一主婦の歩み』(故小沢千鶴子さん追悼文集刊行委員会,1981)

徳永辰雄『天国と地獄』(自費出版,1997)

播磨信義『仁保事件救援運動史―命と人権はいかにして守られたか 』(日本評論社,1992)

播磨信義『人権を守った人々―仁保冤罪事件、支援者の群像』(法律文化社,1993)

山口大学教育学部社会科学研究室法律学分室編『仁保事件・その風化を許すまじ』(四季出版,1988)
備 考  
11/4 概 要 <オランダ兵タクシー強盗事件>
 1954年11月4日午前0時過ぎ、埼玉県内で乗り込んだ二人の制服外人兵が、東京板橋区内で運転手Oさん(43)の後頭部を薪で強打、自動車を奪って逃走した。逃走途中、犯人はタクシーを乱暴に運転し、通りかかった板橋署の警察官をはね、しかも池袋で別のタクシーに追突。外人兵は大破したタクシーを残して逃走。現金6000円が奪われていた。運転手の証言から朝霞キャンプ内にいたオランダ兵と推測、さらにタクシー内から指紋が検出された。捜査本部はオランダ駐屯軍司令部に指紋採取を要請。最初は難色を示したものの最終的に承諾を得、犯人二人は逮捕された。
文 献 「オランダ兵タクシー強盗事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
備 考  

【1955年】(昭和30年)

日 付事 件
2/7 概 要 <八王子屍老化死体事件>
 1955年2月7日3時頃、農業Aさんが農作業中に肥溜めから屎尿をくみ出していると、屍老化した女性の死体が発見された。首にはネクタイが巻かれており、殺人事件として捜査が開始された。着衣から名前が判明、さらに一緒にあったタオルに別の名前の墨書きがあった。地取り捜査で近くから泥土にまみれた木箱が発見された。捜査の結果、被害者(30)が判明し、さらに愛人U(23)が逮捕された。
文 献 「八王子屍老化死体事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
備 考  この事件の有力な手掛かりは「土」であった。FBIから導入された「微量土壌の比重検定法」により、死体遺棄を手伝ったUのいとこの旧宅から採取されたものと、木箱についていた土が一致した。「土の捜査の始まりともいえる殺人事件」といえる。
5/12 概 要 <丸正事件>
 1955年5月12日早朝、静岡県三島市で営業していた『丸正運送店』の女性店主Kさん(33)が絞殺された。警察は証言からトラック関係に捜査の中心を置き、事件当夜に沼津から東京へ向かっていたトラック運転手R(42)、助手S(34)が逮捕された。Rは終始犯行を否認し、Sも一度は自白したものの、公判では全面的に否認した。1957年10月31日、一審静岡地裁でRに無期懲役(求刑死刑)、Sに懲役15年の判決。1960年7月19日、最高裁で刑が確定した。新鑑定で、殺害時刻は11日深夜とする証拠が出(この時間には二人ともアリバイがある)、1963年に再審請求するも1982年に静岡地裁で、1986年に静岡高裁で棄却。その間にSは満期出獄、Rも1977年に仮出所した。最高裁に即時抗告するも、1989年にRが、1992年にSが死亡。再審請求の手続きは審理途中で終了した。
 正木ひろし、鈴木忠五弁護士は、『告発』の中で真犯人は別にいると公表、その“真犯人”から名誉毀損で告発された。1965年、一審で禁固六ヶ月の有罪判決を受ける。このときの特別弁護人は、作家の高木彬光だった。
文 献 「丸正事件」(青地晨『冤罪の恐怖 無実の叫び』(社会思想社 現代教養文庫,1975)所収)

佐木隆三『誓いて我に告げよ』(角川書店,1978/角川文庫,1984)

佐藤友之・真壁昊『冤罪の戦後史』(図書出版社,1981)

鈴木忠五『世にも不思議な丸正事件』(谷沢書房,1985)

正木ひろし『エン罪の内幕』(三省堂,1970)

正木ひろし・鈴木忠五『告発―犯人は別にいる』(実業之日本社,1960)

丸正事件再審をかちとる東京・神奈川の会『開かずの門へ 丸正事件は終っていない』(丸正事件再審をかちとる東京・神奈川の会,1978)
備 考  
6/1 概 要 <特別手配一号事件>
 山口県下関市でO(27)が1955年6月1日、家庭の不和などを原因に養父母夫婦(60、56)を青酸入りジュースで毒殺。会社の金130万円を持って、妻子を残したまま逃走した。1956年2月、Oは逃走中に知り合ったMさん(22)を岡山県倉敷市で毒殺、死体を焼き、Mさんの戸籍を奪い成り代わった。東京で結婚し、建設会社の運転手として就職したが、1957年12月28日、窃盗容疑で警察に指紋を採られた。そのことで過去の事件が発覚するのではと恐れを抱き、1958年1月11日、浅草で知り合ったSさんを(29)を水戸市の湖に連れ出して殺害。死体を切断した上、頭部を硫酸で焼き、身元をわからなくした。Sさんに成り代わろうとしたものの、硫酸で顔を焼くという手口に警察が不審を抱いたこと、さらに警察に採られた指紋がOのものと一致したため、警察はOを指名手配。Oは7月16日に逮捕された。
 1959年12月23日、水戸地裁で死刑判決。二審では、国選弁護人が弁護を拒否、裁判で「被告は死刑に処するべき」という趣意書を裁判所に提出し、問題になった。1960年6月13日、東京高裁で控訴棄却。1961年3月30日に最高裁で死刑が確定した。Oは半年後、二審担当の国選弁護人を弁護放棄で告訴。1963年11月、東京地裁は被告弁護士に3万円の賠償を命じる判決を下した。1965年、死刑執行。
文 献 「弁護放棄」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)
備 考  警察庁は1958年7月9日に、殺人・強盗事件21件、計26人を総合特別手配した。その中で最初に捕まったのがOである。
8/7 概 要 <トニー谷長男誘拐事件>
 1955年8月7日、人気ボードビリアン、トニー谷の長男(7)が誘拐され、身代金200万円を要求する速達が届いた。1週間後の21日、渋谷駅前のハチ公付近へ身代金を受け取りに現れた雑誌編集者Mを逮捕。長男は翌22日、無事に両親の元に返された。
文 献
備 考  
10/18 概 要 <松山事件>
 1955年10月18日、午前3時半頃、宮城県志田郡松山町で農家を営む一家の家が全焼。焼け跡から夫(53)、妻(42)、娘(9)、息子(6)がマキワリで斬りつけられ死亡した遺体が発見された。最初は痴情による怨恨説が中心であったが、斎藤幸夫さん(24)が12月に別件で逮捕、4日後に一度自白したが、その後は否認。しかし強盗殺人・放火で起訴された。1957年10月29日、仙台地裁古川支部で死刑判決。1959年5月26日、仙台高裁で控訴棄却。1960年11月1日、最高裁で死刑が確定した。
 1979年12月6日、第2次再審請求の差し戻し審で仙台地裁は再審開始の決定。1983年1月31日、仙台高裁が検察側の即時抗告を棄却し、再審が開始された。そして1984年7月11日、仙台地裁で無罪判決が下され、確定。斎藤さんは29年ぶりに解放された。捜査当局による証拠捏造が発覚している。
 斎藤さんと母は1985年に国家賠償請求訴訟を起こしたが、2001年に最高裁で敗訴が確定した。
 2006年7月4日、斎藤さんは多臓器不全のため死去した。75歳没。斉藤さんの再審を支え続けた母も2008年12月24日、入所先の施設で亡くなった。101歳没。
文 献 「松山事件」(青地晨『魔の時間 六つの冤罪事件』(社会思想社 現代教養文庫,1980)所収)

「島田事件と松山事件」(佐久間哲夫『恐るべき証人−東大法医学教室の事件簿』(悠飛社,1991)所収)

小田中聰樹『冤罪はこうして作られる』(講談社現代新書,1993)

木下厚『つくられた死刑囚〜再審・松山事件の全貌〜』(評伝社,1984)

佐藤秀郎『最後の大冤罪「松山事件」 〜船越坂は何を見たか』(現代史出版会/徳間書店,1984)

佐藤一『松山事件』(大和書房,1978)

菅原利雄『現場鑑識と布団襟当の血痕 松山事件再審無罪事件を顧りみて』(非売品,1988)

中山雅城『検証冤罪―帝銀事件・八海事件・松山事件』(文芸社,2003)

吉田タキノ『炎と血の証言』(理論社,1966)

吉田タキノ『裁かれるのはだれか』(けやき書房,1985)
備 考  


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