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「体罰」と「暴力」を一緒にすべきではない。 暴力は感情であり、体罰は愛情であります。

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桜宮高校での自殺から体罰についてマスコミの取り上げ方を含めて一言書かせて頂きます。
 
「体罰」と「暴力」。これがいつの間にか混同されているように思えます。
マスコミの報道全体として、体罰と暴力を一緒にして体罰はダメだと流しています。
テレビの番組である司会者が体罰と暴力の区別も出来ずに“体罰”を批判していました。「その線引きが難しい」とテレビで司会者が言っていました。
体罰と暴力の区別がつかない司会の女性が“体罰は一切悪い”と決めつけて発言していることはおかしいのです。体罰についての専門家が賛否を論じているのに、司会者が体罰反対の方を擁護して、体罰も必要であるという専門家に文句を言っているのです。
本来、司会者はあくまでも中立でなければ偏ってしまいます。主観でものを言って視聴者を誘導するようなことはすべきではないでしょう。しかし、その司会者は自ら自分の考えを正しいと思い込んで専門家にモノを言っているのです。いつの間にかスタジオでは体罰も必要である、と言っている専門家がまるで悪者になってしまっているのです。
 
体罰というのは、使い方によっては効果を出すものだと思います。これを全否定して、指導側が委縮する今のマスコミの論調は間違いであると思います。
 
桜宮高校での自殺。これを体罰というのは難しい。30発も叩けばその生徒が成長すると考えて叩いたのかということでありますが、そうではない気がします。その後のことも考えずに闇雲に叩けばもちろん暴力です。暴力から生まれるのは成長ではなく憎しみです。しかも暴力となれば先生と生徒という立場ではなく対等な立場になってしまうものです。ここでは生徒は無抵抗です。抵抗できずに暴力をふるわれるのはまさに恐怖心しか生みません。
 
家庭の躾でも同じかもしれません。躾という名の下で親が子供を本気でぶん殴って体中あざだらけにしたら暴力(虐待)です。こんなものは躾ではないのです。
あざだらけになった子供はそれがために人間的に成長するのかということであります。暴力(虐待)する親はこれがわからないのではないか。
子供よりも自分の感情が先に立ち、一時的な苛立ちから暴力(虐待)をふるう。恐怖心で服従させることが本当の血の通った親子関係なのでしょうか。
昔は父親というのは怖い存在でありました。なぜなら“威厳”があったからです。悪いことをしたらこっぴどく叱られる。時には叩かれることもあります。しかし、それは暴力ではないのです。威厳もない親とは違い、限度も知らずに感情だけで殴って、体中あざだらけになり、子供がぐったりするまで殴ることはないからであります。
 
私は日本の本来の強さは精神力にあると思います。そしてど根性であると思います。これを浪花節だと揶揄して切り捨てるのは惜しいことだと思います。
そして、この精神力を鍛えるひとつの手段として体罰は残しておくべきだと思います。この有効な手段をあえて失う必要はないのです。体罰を大いにやるべきとは言いませんが、時には必要な時もあるということです。指導者にはあらゆる手段は使えるようにしておくべきであります。
 
今回の問題の本質は「体罰」ではないような気がします。
本質は叱る側、つまり教師や指導者の「人間性」に尽きると思えるのです。指導者への信頼感、もっと言えば徳であります。
 
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 体罰と暴力を一緒にして体罰を無くしてしまうことはおかしい、
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