問題は「否認」にあるのではない。
アルコール依存症の問題を考えるとき、その対策としての予防、回復のどちらにも、
「否認」が最大の障壁となっているであろうことを否定しようというのではない。
知らず知らずのうちに深みに嵌ってしまう罠、ひとたび入り込んだら抜け出せなく
なる迷宮。その仕掛けの役割を果たしているのが「否認」なのだろう。
そのことについては、自分の体験を通して既に理解できているつもりだが、断酒が
安定してから気づいたことも少なくないから、たぶんこれからも同様の「新しい否
認」に気付くことがあるかもしれない。
自分の酒の飲み方に問題があると知り、できればやめたいと思いつつも酒を飲む。
世の中の理不尽さ、いわゆる「生き辛さ」から酒に逃げ込む。こういう自分を正当
化するのが「否認」。
しかし、断酒後のスリップ(=再飲酒)の要因までをも「否認」(言うところの
「第二の否認」であっても)とすることには若干の違和感がある。
不躾、無礼を承知の上でsyousukeさんのブログ記事から無断で引用させてもらう。
アルコール依存症という病気を認めて酒を手放しても、酒に頼らなければ生きて
いけなかった本来の心の病を放っておいて本当の回復はない。
自分勝手なわがまま気ままな生き方自体、病んだ精神の成せる業。その根っこの
病を認めないこと、これを第二の否認と呼んでいます。
酒を止めてるんやからもう自分には何も問題は無い。
こういった考え方で飲酒以外の問題を認めようとしないことを『第二の否認』と
呼んでいます。
「酒に頼らなければ生きていけなかった本来の心の病」や「飲酒以外の問題」から
目を逸らすことなく、これと向き合うこと。それが大事だということに異論はない。
だけど、断酒を続けていく(=スリップしない)という本来の命題を全うしていく
上では、そんなものと対峙することは本筋ではないと思うのだ。
それよりも、理不尽さや生きづらさに捉われたときに、何故酒を飲むのかを、改め
て考えてみるべきではないのか。
酒を飲むことで、そういう理不尽さから逃げられたのかを、改めて問うてみるべき
ではないのか。
辛いときや、世の中がバカバカしくなったときに「酒でも飲まなきゃやってられな
い」という気分になる。ホントにそれは自分の心の欲求なのか。
いつの間にか何者かによって植えつけられた迷妄ではないのか。
断酒を始めてからも同じ気分に襲われるのは、その断酒がいわば第一の否認を認め
ることによって、嫌々ながら「飲むのを我慢している」ものになっているからでは
ないのか。
その「我慢」の袋が破裂したときに再飲酒に走るのではないのか。
それは「否認」ではなく、「酒(の持つ力)」に対する「妄信」とでも言うべきも
のではないだろうか。
言葉を変えると、「飲酒の根っこ」にあるもの、あったものは、そもそも酒でどう
にかできるようなものではないのだ、と思う。
それは、アルコール依存症とは、また別の問題として取り組むべきことなのだ。
アルコール依存症がその妨げとなっていることと混同してはならない。

にほんブログ村
刺激的かつ挑戦的なタイトルを付けましたが、これは「販促戦略」みたいなもので、
以前からオレが「嫌いだ」と言ってきたことです
。
実際の中味は、反論、異論というより、同じことを論点・切り口を変えて言ってるだけですかね。
「否認」が最大の障壁となっているであろうことを否定しようというのではない。
知らず知らずのうちに深みに嵌ってしまう罠、ひとたび入り込んだら抜け出せなく
なる迷宮。その仕掛けの役割を果たしているのが「否認」なのだろう。
そのことについては、自分の体験を通して既に理解できているつもりだが、断酒が
安定してから気づいたことも少なくないから、たぶんこれからも同様の「新しい否
認」に気付くことがあるかもしれない。
自分の酒の飲み方に問題があると知り、できればやめたいと思いつつも酒を飲む。
世の中の理不尽さ、いわゆる「生き辛さ」から酒に逃げ込む。こういう自分を正当
化するのが「否認」。
しかし、断酒後のスリップ(=再飲酒)の要因までをも「否認」(言うところの
「第二の否認」であっても)とすることには若干の違和感がある。
不躾、無礼を承知の上でsyousukeさんのブログ記事から無断で引用させてもらう。
アルコール依存症という病気を認めて酒を手放しても、酒に頼らなければ生きて
いけなかった本来の心の病を放っておいて本当の回復はない。
自分勝手なわがまま気ままな生き方自体、病んだ精神の成せる業。その根っこの
病を認めないこと、これを第二の否認と呼んでいます。
酒を止めてるんやからもう自分には何も問題は無い。
こういった考え方で飲酒以外の問題を認めようとしないことを『第二の否認』と
呼んでいます。
「酒に頼らなければ生きていけなかった本来の心の病」や「飲酒以外の問題」から
目を逸らすことなく、これと向き合うこと。それが大事だということに異論はない。
だけど、断酒を続けていく(=スリップしない)という本来の命題を全うしていく
上では、そんなものと対峙することは本筋ではないと思うのだ。
それよりも、理不尽さや生きづらさに捉われたときに、何故酒を飲むのかを、改め
て考えてみるべきではないのか。
酒を飲むことで、そういう理不尽さから逃げられたのかを、改めて問うてみるべき
ではないのか。
辛いときや、世の中がバカバカしくなったときに「酒でも飲まなきゃやってられな
い」という気分になる。ホントにそれは自分の心の欲求なのか。
いつの間にか何者かによって植えつけられた迷妄ではないのか。
断酒を始めてからも同じ気分に襲われるのは、その断酒がいわば第一の否認を認め
ることによって、嫌々ながら「飲むのを我慢している」ものになっているからでは
ないのか。
その「我慢」の袋が破裂したときに再飲酒に走るのではないのか。
それは「否認」ではなく、「酒(の持つ力)」に対する「妄信」とでも言うべきも
のではないだろうか。
言葉を変えると、「飲酒の根っこ」にあるもの、あったものは、そもそも酒でどう
にかできるようなものではないのだ、と思う。
それは、アルコール依存症とは、また別の問題として取り組むべきことなのだ。
アルコール依存症がその妨げとなっていることと混同してはならない。
にほんブログ村
刺激的かつ挑戦的なタイトルを付けましたが、これは「販促戦略」みたいなもので、
以前からオレが「嫌いだ」と言ってきたことです
実際の中味は、反論、異論というより、同じことを論点・切り口を変えて言ってるだけですかね。