いくら躍起になったところで、人間のずるさや弱さは消せない。みんないい人、日本は平等で安心な社会—そんな呪文を繰り返し唱えるうちに、この国は強さも勇気も、そして思考力も失いつつある。
なぜ人はいじめるのか
日本の教育が抱える最も大きな問題は、教育制度を変えれば、いじめをなくすことができると考えている点にあります。制度改革、つまり政治の力で、いじめをなくすことは決してできません。
理由はふたつあります。ひとつは、およそ人間社会において、いじめのない世界はないということです。子どもであろうと大人であろうと、いくつになっても、どんな組織でもいじめはいろいろな形で存在するのです。
そしてもうひとつの理由は、いじめは「楽しい」ものでもあるということです。もちろん、いじめられる側にとってはたまらなく辛いことでしょう。しかし、いじめる側の精神が幼いと、楽しい、面白いと思う。
私たち人間の心の中には、いじめを「楽しむ」という悪い心根が確かにあるのです。それを認めて論議をしないとだめですね。
このように、人間の本質と繋がっているいじめを、人為的に設けた制度によってなくすことができる、あるいは減らすことができると考えるのは間違っています。制度の見直しだけでは、いじめ問題の根本的な解決にはとうてい至らないという認識を持つべきです。
いじめをなくすことができないならば、いじめに耐えて生きてゆける強い子どもたちをどう育てていくか。これこそが大切なのですが、そのことに教育関係者も政治家も、誰ひとり言及しません。
日本の教育の罪は「たとえ子どもであろうと、悪い心を持たない人はひとりとしていない」という事実から目を背けてきたことです。もちろん人にはそれぞれ良いところもあるけれど、必ず悪い面もあるということを教えてこなかった。問題はここにあります。
まず誰の中にも、いじめを楽しいと感じてしまう「悪」の部分があるのを認識することです。それがなければ教育は始まりません。重要なのは、その「悪」をいかにしてコントロールするかです。それが、人間として完成するということです。
人間は動物とは違うのだから、理性によって自分をコントロールして然るべきで、それを訓練するのが教育なのです。
大阪市立桜宮高校の体罰事件で、バスケットボール部のキャプテンが、顧問の男性教師から他の部員への見せしめに殴られていたと聞いて、思い出したことがあります。
イヌイットは、犬ぞりを引く犬の中に「啼き犬」というのを1匹作ることがある。この犬は、そりを引くことには役に立たないけれど、鞭で叩かれて啼くことによって、他の犬を怖がらせる役には立つんですね。
この「啼き犬」のことを知っていれば、暴力によって子どもたちを従わせようとした教師の考え方が、動物を従わせる方法と同じであるとわかります。もっとも今回は、この教師本人はもちろん、関係者の誰ひとりとして、そのような見識を持つ人はいなかったのでしょうが。
私が「人はみな、いい部分ばかりではない」ということに気付いたのは、ミッション・スクールでキリスト教の教育を受けてきたおかげでした。
よく「クリスチャンは悪いことをしないのでしょう」とおっしゃる方がいますが、とんでもない。
キリスト教は性悪説の宗教です。聖書に何が書かれているかというと、要するに「悪い人間がどんな運命を辿ったか」という話です。ずるい人間、卑怯な人間、弱い人間、そういう人たちの羅列といってもいい。そもそも聖書には、イエス・キリストは「義人のためではなく罪人のためにこの世にやってきた」と書いてあります。
人間の本性に悪があることを認めたうえで、たとえどんな悪人でも、その人が世の中のために働くことができる手立てを考えるんですね。
善人のなかにある「悪意」
もうずいぶん昔のことになりますけれど、わが家に泥棒が入ったことがありました。私は泥棒が逃げていくところを目撃したのですが、彼は身のこなしがものすごく素早かった。その後、泥棒も私が見ていたのに気付いていたのでしょう、脅迫の電話を何回もかけてきて「お前を殺ってやるからな」などと言ってくるんです。
それでいちいち応対していたら、何度も話すうちにだんだん打ち解けて、仲よくなりました。何度目かの電話のとき、「あなたの身のこなしはとても素晴らしいから、きっと鳶におなりになったら、超一流になれますよ」と私は言ったんです。そうしたら、泥棒さんが何ともいえず嬉しそうな声を出しましてね。
その人、しまいには「泥棒に入られないようにするには、こう戸締まりしたらいい」なんて全部私に教えてくれました。盗みもするけど、親切な心根もある。
犯罪にもいろいろあります。殺人犯や放火犯には、心のほとんどが悪で占められている人もいるかもしれない。でも、どんな凶悪犯であっても、心のどこかにはよい部分、優しい部分があるでしょうね。
そして、これとちょうど反対に、どんな善人の中にも悪が潜んでいるというわけです。この悪の部分を見ないまま「みんないい子」だと決め付けてきたのが戦後日本の教育でした。
日本の学校では「みんな平等でなければいけない」とも教わりますけれど、考えてみてくださいよ。世の中が平等であるはずがないんです。その証拠に、私は山本富士子さんやオードリー・ヘップバーンとほぼ同年齢ですが、このおふたりと私を並べたら、一目見ただけで、人間は平等などではないことが明白でしょう。
にもかかわらず、人間は平等でなければならないと言い張っている。
社会全体を見渡しても、いまは世の中の悪や、想定外の出来事から目を逸らすようになっています。東日本大震災の前から、「安心して暮らせる社会」が求められるようになりましたが、私ははっきり言って、冗談じゃないと思っていますよ。「安心して暮らせる社会」だけはないんです。
それを約束するのは詐欺師ですね。だから、安心、安心と繰り返す政治家はそれだけで嘘つきだと私は思っているんです。だいたい私くらいの年齢になりますと、今日は元気でも、明日元気だという保証はない。いつ病気で倒れるかわからないから、全然安心なんてできません。
悪い方に転ぶのも想定外なら、よい方へ転ぶのもまた想定外です。私は小学6年生のときから小説家になりたいと思っていましたが、一時は完全に文学をやめようと考えたこともありました。ところが、通りかかった本屋さんで立ち読みした文芸雑誌に、私の作品が小さく取り上げられているのをたまたま見つけて、再び文学の道に戻ろうと決心した。全くの偶然が、私のその後の人生全てを決めたのです。
福島第一原発の事故では「想定外という言い訳は許さない」と言われましたけれど、これはおかしい。なぜなら、人はみな想定外の中で生きているからです。
キリスト教では人間は弱いものであって、永遠の時間の中の一瞬を生きる旅人にすぎないと考えている。だから、たとえいま豪邸に住んでいようと、よい暮らしがいつまで続くかは誰にもわからない。私は自分の親やキリスト教の教えから、人生は想定できないことだらけだということを学んできました。
それとは正反対に、「想定外は許さない」「いじめはあってはならない」「子どもはみんないい子だ」という誤った前提のもとで行われてきたのが、日本の教育なのです。
愚かな教師に会ったとき
繰り返しますが、制度を変えてもいじめは本当にはなくならないでしょう。
小学5~6年生を過ぎると、自己というものがかなり形成されてきます。その年頃になると、学校の成績がうんとよくなる子と悪くなる子に分かれたりしますが、これも自己ができてくるためです。
教育の責任は親にあるのか、教師にあるのかということがよく議論されますが、そのくらいの年頃になれば、教育の責任の半分はまず本人にあります。残り半分のうちのさらに半分、つまり4分の1は親の責任。そして、残った4分の1が教師と社会の責任です。
教師や社会の責任はせいぜい全体の8分の1にすぎない。私は昔からそう考えてきました。
半分が本人の責任であるとする理由は、たとえどんなに愚かな教師に教わり、どんなに愚かな社会に身をおいていても、個人の意志で抵抗することはできるからです。
たとえば昭和の戦争中、軍国主義に対して、こっそりと、しかし毅然として抵抗していた家族が、実はたくさんあった。
当時の文部省は、「英語は敵性語である」として英語教育を禁じましたが、私の母親でも「そんなことはおかしいから、英語の勉強は続けなさい」と言っていました。
それで戦争中も英語の勉強は続けていました。女学校2年生のときには、疎開先の勤労動員された工場で、休み時間に、こっそり英語の本を読んでいたんです。すると、女学校の先生に見つかって「何を読んでいるのか」と聞かれた。ドキリとしましたが、その先生は私が持っていた本を見て「英語の本だね、しっかりやんなさい」と言ってくれました。学校の先生の中にも、国に抵抗し、制度の枠を破ろうとしていた人はいくらでもいたということです。
学校や社会のせいにしてはダメなのです。「これはおかしい」と思ったことには、たとえ一人であっても抵抗する。それができるかどうかは個人の意志の問題で、制度はあまり効果的でないでしょうね。
しかし、戦後の日本人は、自分が正しいと思うことを貫き通す勇気をなくしてしまいました。私も、少し前までは「確かに戦後教育は失敗したけれど、海外に比べれば日本人には善意もあるし、これはこれでやっていけるかな」と楽観していたところがあった。でもどうやら、このままでは立ち行かなくなるということがわかってきたように思います。
名もなき英雄たち
私は毎年アフリカの途上国に行き、少し働いています。しかし、一緒に行きませんかと誘っても、男性は8割がたが尻ごみしますね。「マラリアは大丈夫ですか」とか「危なくないですか」とか。そりゃアフリカですから、マラリアもあるし、危険も少しはありますよ。リスクを勘案して、それでも行くから価値があるんです。
今回アルジェリアで亡くなった日本人は、言うまでもなく立派な方々ですね。「彼らは亡くなって英雄になった」と書いていた新聞がありましたが、それは違います。彼らは生前に、危ないということは十分にわかっていながら、それでも自分の意志でアルジェリアへ行くことを選んだ。ですから、もともと英雄なのです。
私は昔、『無名碑』という本を書きました。これは戦後、困難な状況の中でダムや高速道路を造った技術者たちの話です。私は、彼らがいまの日本を築いたと言っていいと思いますが、彼らに対して日本人はあまり感謝を述べませんでした。それどころか「彼らは自然を破壊した」「大手ゼネコンはみな悪者だ」と、日本人は長年この人たちに、いわば石を投げてきた。
ところが今回、アルジェリアで大きな事件が起きると、とたんに彼らは立派だったと称えられ始めた。これはおかしいでしょう。これまでも日の当たらないところで、ずっと頑張っていたのですから。その間、全く目を向けようとしなかったマスコミは軽薄だと言わざるをえません。
戦後の日本人は勇気をなくしたと言いましたが、だらしない人が増える一方で、こういう確固たる意志を持った人もいらしたんですね。どんなに冷遇されても、苛酷な遠い辺境の地で、日本や現地の人々のエネルギーのために働き続ける人がいる。
たとえばアフリカの途上国で医療活動をするにも、インフラがなければ何もできず、治安も守れません。そういう大切なもののために異国で頑張っている人たちは、確固たる意志を持って未知の領域へ挑んだ人たちです。理不尽なこと、予想外のことがいつ襲ってくるかもわからない中、自分の頭で考えて、教育や制度が作った枠をはみ出して生きた。そんな方にこそ、立派な人が多いと私は思っています。
人間はみな平等ではないし、悪い心も持ち合わせています。子どもも大人も、このことをよく理解する。そのうえで、逆境に陥ったとしても、個人として何ができるかを考えられる気力、体力を育てる。善人も悪人も、いじめられている人もいじめている人も、みなそれぞれに、その人にしかない役割が必ずあるはずなのですから。
「神は人間ひとりひとりにボケーション(使命)を与えている」んです。それを個人個人が見出せるようにすることが、教育の本当の役割ではないでしょうか。
「週刊現代」2013年2月16・23日号より