脚本を書くのはどのくらい難しいか。


うまいオリジナル脚本を書くってのは世界一難度の高い仕事じゃないかと思うことが良くある。
世界一の脚本家とうたわれる橋本忍でさえ、自分ひとりで書いた優れたオリジナル作品は 切腹 しかない。
映画監督では、チャップリンや宮崎駿が自らオリジナル脚本家で自分だけで脚本を書き上げている。
チャップリンは、その絶頂期に 独裁者 の脚本を書くのに2年もかかっているし、宮崎駿も 魔女の宅急便 以降は4年に1本しか書いてない。自分監督作品意外では20年で2本しか脚本を書いてない。黒澤明が全盛期に監督しながら書いた脚本はことごとく凡作で、彼は自作以外に脚本を書くのを止めてしまっている。現役巨匠のキャメロンだって一人で書いたのは4本しかない。

だから、私がオリジナル脚本を書こうとして地獄の苦しみを味わうのは当たり前である。
このページを作ったわけ。


脚本の書き方を知っていれば書けるという甘いものではない。
が、知らなきゃ書けない。少なくとも書き続けることはできない。優れた脚本家でも、得てして基本を忘れてしまって大失敗している。
だから、ここに基本中の基本だけ、書いておいて、自分で忘れないようにしようと思う。
基本、大切なのは二つだけ。


T
主人公がかわいそうだと、観客に思わせる。

U
主人公は、なぜ、それをしたいのか?をしっかり描く。


この2点。
ストーリーのパターン


大きく分けて

T ドラマ
U 危機回避
V ミステリー
W サスペンス
の四つ。

T ドラマ

主人公が元来何らかの問題を抱えているのだが、映画が始まった時点では、その問題はまだ水面下。映画が始まって事件が勃発するのをきっかけに問題として浮上。主人公は自らその問題と戦って打ち克つ。
名作映画はほとんどが、このパターン。主人公を追い込んで自分で自分と戦わなければならないようにする。
例 カリオストロの城。後で詳しく説明する。

U 危機回避
主人公はなんら自らのうちに問題をはらんでおらず、目の前に降ってわいたトラブルを回避するために苦戦する。このパターンのストーリーはネタのアイデア性がものを言うので成功させるのは非常に難しい。
例 天空の城ラピュタ  となりのトトロ  北北西に進路をとれ  

V ミステリー
”犯人は誰だ?””動機はなんだ?”とか”こいつの正体は?”みたいな謎でストーリーをラストまで引っ張る。
これはミステリーを書く才能が必要なので、普通のストーリーを書く才能しかない人には書けない。
例 オリエント急行殺人事件  切腹  白い恐怖  

W サスペンス
”この事実を知ったら、この人はどうするんだろう?” みたいなので最後まで引っ張る。
例 めまい


基本的には映画ストーリーはTのドラマであるべきで、客を引きつける為にUからWのテクニックを駆使する。
シナリオが書けるとはどういう人を指すのか?


それは、映画用長編シナリオを書ける人を指す。長編とは1時間20分以上の作品をいう。
だから、私の言う長編映画は1908年の 戦士の季節 という映画で始まった。今年でちょうど100年である。(2008年現在)

映画シナリオが書ける人とは、書き続けられる人のことを言う。
嘆かわしいのは1本だけ書けて、あと全く書けない人が多い点だ。監督で見ても、最初の1本だけ良くて、2本目でいきなりつぶれる人が多い。これは小説家にも言える。
だから、映画会社などがコンクールで新人を発掘するのはナンセンスである。コンクールで賞をとった1本だけでつぶれる可能性が高いからだ。コンクールで新人を発掘したいのなら3本くらい送らせるべきである。
実力のない人でも1本だけ、まぐれ書けることがあるのだ。
2本3本と書ける人と1本で終わる人の違いは何か?


それは、修正能力が有るか無いかである。
ストーリーってヤツは書き上げた瞬間には誰しも「素晴らしく上手く書けた。」と思うものである。しかし、それは錯覚だ。錯覚に気がつかない人にはシナリオを書くことはできない。
黒澤明はシナリオを書くとき常に2,3人のライターを使っていた。そのうちの一人は脚本を書く担当ではなく、見る 担当だった。シナリオの軌道修正役だった。その人のことを黒澤は「僕の航海長」と読んでいた。「ストーリーなんてのは台詞ひとつで違う方向へ行ってしまう。」と黒澤は言っている。

シナリオを書く技術の第一歩は軌道修正から始まる。まず、ざっとストーリーを書く。原稿用紙数枚でよい。それから書いたストーリーを自己批評し軌道修正して書き直すのだ。
「どこがどう間違ってるのか分からない。」
場合は1月くらい放っておくのが良い。

脚本の軌道修正の基本について。


軌道修正の基本は真っ先に挙げた2点である。
一つに要約すると
「主人公を○○させてあげたい。」
と観客に思わせることだ。
これがシナリオを書く上で一番難しい。
宮崎駿だってポニョで大失敗している。あの映画が面白くないのは
主人公たちは何がしたいのか?どうして、それほどまでしたいのか?「主人公たちが可愛そう……」
が、全く描けてない。宮崎駿がその点に気がついていないわけが無い。気がついていても、どうしても書けなかったのだ。そのくらい難しいところなのだ。
御大には締め切りがあったがアマチュアには無い。ここのところを乗り切る為に何ヶ月でもかけないといけない。ジェームズキャメロンが他に2人の脚本家と書いても ストレンジデイズ の脚本を3ヶ月で書けなかったと言う。一人にしたら9ヶ月だし、アマチュアなら、仕事終わってから書くわけだから何年もかかるのが当たり前かもしれない。その三分の一くらいは、この点、すなわち冒頭の30分に費やしてしまって良い。つまり、1年以上、この2点を上手く表現するためにスッタモンダ悩んでしまうだけの価値がある。
また、この2点が書けてないと、そのあと、どう頑張っても面白くならないので、最初のところが描けてないのに続きを書いても無駄である。真ん中辺くらいまで書いて、1ヶ月放っておくのが効率的だ。1月、何もしないのがイヤなら、その間、ほかのストーリーを書いていけば良い。30本、平衡して書ける。書きあがるまで5年かかっても5年で30本仕上がる。5年で30本!!史上最大の天才だ。君は手塚治虫を超えられるかもしれない。
冒頭部分について。


くどいようだが冒頭部分から、最初の30分までが映画シナリオの命である。そこが上手くかけていれば、後はそうとう脱線しても、ダレても、ラストの辺で再び盛り上げることができる。
30分までで、必要なのは上記の2点であるが、これを描くには
主人公の置かれている状況。
も書かないといけない。
はじめのところをミステリー仕立てにして引っ張ったり、面白いネタで客をひきつけたりしてみても、30分までに、これらが書かれてないと客は飽きてしまう。面白いネタでもストーリーとして続きになっていないダメだ。コント集とかなら見てもらえても、映画では飽きられてしまう。映画ではストーリーを展開しなくてはならない。客は映画を見に来ているのだから。そして、重要なのはそのスピードである。
初めのシーンで主人公周辺の人物関係を書き、次のシーンで主人公が可愛そうな様子を書き、次のシーンで主人公が、なぜそれをそんなにしたいのかを書く・・・こういう風にしていると、展開が遅すぎて、客は飽きてしまう。小説や漫画ではなんとかなっても映画ではなんともならない。だから映画脚本は小説や漫画よりも構成が難しいのだ。
上に挙げたことをストーリーを進めながら無駄なく織り込まないといけない。しかも、そこにミステリーの要素も入れたい。「こいつは誰なんだ?」って些細なな謎も映画の中ではミステリーとして生き、客をひきつけることができる。
客を引きつける手としては、もう一つ、サスペンスがある。「このことを、こいつが知ったら、どうするんだろう?」ってのがそれだ。
しかし、サスペンスやミステリーに頼りつつも最初の30分でストーリーをスピーディーに展開しながら、主人公の置かれている状況、主人公が、なぜ、それをどうしてもしたいのかを書かなくてはならない。
セオリーは無い。何回も、考えて必死に書くしかない。
最初の30分で上手くこれらを描くのは、どういうシーンから初めどう展開させていったらよいのか、頑張って答えを出してほしい。
ここのところがうまく書けたら、まぁ半分書き終わったようなものだ。
最初の30分が上手くかけている映画シナリオの例を挙げる。


シェーン

古い西部劇だ。こういうのが一番オーソドックスで脚本の勉強に向いてる。
この映画のファーストシーンは・・・

荒野を一人、馬に乗って・・・放浪しているのか・・・一人のガンマン=シェーン。
その行く手に、ぽつんと西部開拓者の家。10歳くらいの子供がオモチャのライフルで
鹿を撃つマネをしている。オヤジ(ジャガイモのような顔)=西部開拓時代の入植者……は家の前の畑に残っているデカイ切り株を引っこ抜こうと
悪戦苦闘している。
そこへシェーンがやってくる。いかにもガンマンチックなカッコいいスタイルだ。
オヤジはシェーンがものを言う前から
「胡散臭いヤツが、また、血のにおいをかいでやってきた。」
と睨み付ける。シェーンは少し、消沈する。「馬に水をやりたい。」と言うと
「やって、とっとと行ってくれ。」
と言われる。
シェーンが家の裏手に回っていくのを親父の息子(10歳くらい)が興味津々の目で見送っている。シェーンの腰にピストル。
ママ(もちろん若くて美しい)が現れて、家の中に入っているようにと言う。
そこへ、人相の悪いヤクザガンマンが4人、現れる。
「オヤジ、いつ出て行くんだ?ここは俺の土地だぜ。出て行かないと・・・」
「ここはもう、誰の土地でもない。いや、俺の土地だ。俺たちはここに、もう10年も住んでいる
・・時代が変わったよ。おまえらがインディアンを殺して奪った土地はもう、お前等のものじゃないんだ。」
オヤジは震えながら、必死で勇気を出して言っている。
「うるせぇ!出て行かないと殺すぜ。○×の家族みてぇになりてぇか!!」
と、ピストルに手を伸ばしかけて、その手が止まる。
裏から、シェーンが現れる。超カッコいい。シェーンはクールにヤクザガンマンに視線を注ぐ。
ヤクザガンマンたちは、オヤジが強そうなガンマンを雇ったのだと思い込み、急におとなしくなる。
その様子を家の中からママと少年が見ている。少年は既にシェーンに憧れの視線を注いでいる。シェーンと目が合いう。
シェーンは少年に微笑みかける。
ヤクザガンマンは「まぁ、今日のところは・・・」
と言って帰っていく。
オヤジは、シェーンがいることの効果に気がつき
「しばらく、ここにいて・・・開拓を手伝ってくれないか?」と言う。
次のシーン
シェーンが泥まみれになって、オヤジと二人で切り株を抜いている。
……シェーンは、危険なガンマン生活から足を洗って、平和な生活をしたいと望んでいたのだ。


脚本家はこのシーンを思いつきでササッと書き上げたのだろうか?
今まで私が語ってきた脚本作法を読めばそうでないことを理解していただけると思う。
このシーンで色んなことが凝縮していっぺんに説明されているのだ。しかも、ストーリーを進めながらだ。
@主人公がかわいそう。
A主人公がナゼそこまでしてそれをしたいのか。

主人公のカッコよさにばかり目が行きがちだが、大事なのは@とAだ。
更に
Bこの先、ヤクザガンマンはどうでるのか? ママはシェーンを好きにならないか?(サスペンス)。
C少年のシェーンへの気持ち。
Dシェーンの置かれている状況
E一家の置かれている状況
Fヤクザガンマンの置かれている状況

こういったところまで一通り説明できている。
このあと、ヤクザガンマンたちの行動をエスカレートさせつつ、@からEの説明を補強していく。
@とAが重要であるがそれを描くにはDEFを描く必要がある。
最初の30分くらいで、ここまでシッカリ描くにはどういうシーンを持ってきたらよいか・・・
はやく説明しないと客は飽きてしまう。映画ではそうなのだ。だから、いっぺんに、たくさん説明する。
シェーンのこのファーストシーンは
色んな要素がキッチリ収められたパズルのように非常に計算された冒頭部分なのである。
こういう風に冒頭を書くには、ラストまでのながれが出来上がってないと無理である。
何となく書いたらうまく書けちゃうようなシーンではない。


ファーストシーンで全部説明する必要はない。上手に説明をあと伸ばしにして、客がその部分を早く知りたいと思うように工夫する手法もある。が、初めの30分くらいの中に、こういう濃厚なシーンが1箇所は必要である。
主人公のすり替えについて。


主人公と主役は一致しない場合が多々ある。
たとえば椿三十郎。
主人公は加山雄三扮する若侍で主役は三船扮する浪人。
主人公はのび太で主役はドラえもん。

主役=主人公にこだわることはない。
主人公にうまく@Aができなかったら、主人公を主役にしてしまって、別に主人公を作る手もある。
先にあげたシェーンも、シェーンは主人公というより主役で主人公はむしろオヤジである。
話を練っていく段階で上手くいかずに行き詰ったりする。そしたら思い切って視点を変え、主役はそのままでも敵役を主人公にしてしまおうとか、子分役を主人公にしてしまうとか
あれこれ試しているうちに、うまくストーリーに嵌る設定ができたりする。

伏線の張り方について。


「伏線の張り方なんて、簡単じゃないか。」
と皆さんが言うだろうから、もう一つ添えてみようと思う。
伏線の張り方は、まず、ざっとストーリーを書きさえすればなんでもない。コツはむしろ、ノートの使い方。私はノートに横書きをする。その際、ノートをいっぱいに使わず、真ん中あたりにだけ字を書くようにしている。そうすると、右と左に余白が残るので、張るべき伏線に気づいたら、そこへ書き込んでいく。もっと別なエピソードに移し変えようと思ったら、書いた部分にバッテンをし、余白の部分に書く。
自分で試行錯誤してこうなった。非常に書きやすい。
黒澤明はカット&パッチ方式だった。シーンごとにハサミで切ってしまい、順番を入れ替えたり伏線を入れたりしてテープで貼って繋げていった。私も、適宜そうしている。
さて、伏線について、もう一つ、別な角度からも見てみよう。
ストーリーを書いていく過程で、細かいところの設定を一々決めながら書いていくか、後で決めるか?たとえば主人公が誰かに叱られて悩むシーンが必要だったとする。何で叱られるか、決めてしまうか、後で決めるか?書いてるときにパッと決められるようなら、決めてしまっても良いが、悩んだら、どんどん後回しにしたほうがよい。ストーリー全体が出来上がってきてから考えたほうが良い。「ストーリーができてから、そこに都合のいい理由を嵌めるなんて無理だ。」と思うかもしれない。が、それは間違いである。ストーリーがある程度できてくると、伏線の張り忘れが見えてくる、そのときにストーリーの設定の空きの部分にスポッと伏線が嵌ったりするのだ。パズルのようなものだ。最後に数ピースしか残ってないとスポンと嵌るものなのだ。逆に最初から細かいところまで決めて言ってしまうと、ストーリーに制約が多くなりすぎて行き詰まってしまう。
張るべき伏線を、前に前に持ってくると自然に前半部分が濃くなってストーリーにスピードが出るのである。

ドラマ的クライマックスとアクション的クライマックス


映画脚本というものは余分な話は一切書かず、必要なところだけ書いて一気にラストまで飛ばしていくべきである。プロットを進めていく段階で「どうも短い。」と感じて引き伸ばしをしたりするとつまんなくなってしまう。短い話は短いまま、まとめたほうがいい話になる。どうしても長くしたかったら一通り書き上げてから戦闘シーンなどを入れていくのがよいだろう。
さて、ストーリーは始まったらどこへ向かって一直線にいくのだろう。それは
自分との決着
である。
ストーリーの中で主人公が誰かと戦っているとしても実はそうではなく、本当は自分と戦っている。例えばローマの休日の主人公たちは警察や政府の要人から逃れるために戦っているように見えるが、実は自分たちの恋と戦っている。バックトゥーザフューチャーのオヤジはビフと戦っているのではなく自分の気弱な性格と戦っている。クラリスは伯爵と戦っているのではなく、やはり自分の恋と戦っている。加山雄三ら若侍は家老たちと戦っているのではなく椿三十郎に対する疑念と戦っている。
あまり、品の無い言葉は使いたくないが、使ってしまえば「踏ん切り」である。映画ドラマとは、主人公が踏ん切りをつける瞬間を描き出すものである。
ストーリーは始まったらじきに、自分自身との戦いが生じ、その決着に向かって一直線に進んでいくのである。だから、映画というのはそれが決着したシーンが一番良いシーンである。つまりドラマ的クライマックスだ。その後に来るアクション的クライマックスなどはメッセージなんか含んでないし、どうでもよいのでアルバイトでも雇って書かせておけばいいくらいだ。

ストーリーを練るには、主人公にピンチを与えればいいのではなく、主人公自身との戦いを与えなければいけないのだ。そしてストーリーの展開とは「どう展開したら、主人公が自分との戦いの深みに嵌り、どう展開したら自分自身と対決せざるをえなくなるのか?」を紡ぎだしていくものである。それは多くの場合、敵との戦いを媒介にすることになる。
偶然によらず、よい映画ストーリーをコンスタントに書きたいのなら、この留意点を忘れてはならない。

映画脚本の書き方

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