■鷺沼、たまプラ、あざみ野…急行停車が3駅続く理由
田園都市線が開通したのは1966年(昭和41年)4月。当初は溝の口駅まで走っていた大井町線の延長線だった。まずは鷺沼まで4両、鷺沼より西は2両の編成でスタートし、じきに全線4両となった。1968年(昭和43年)には朝のラッシュ時に通勤快速を導入。以後、次々と本数を増やしていく。
快速や急行は通常、駅を飛ばしてスピードアップを図るのが定石。しかし田園都市線では鷺沼、たまプラ、あざみ野と3駅連続で急行が停車する。なぜか。そこには東急と横浜市の長い確執があった。
横浜市青葉区にあるあざみ野駅は、田園都市線開通時にはまだ設置されていなかった。開業は1977年(昭和52年)と他の駅より11年も遅い。
「駅の設置自体は計画にありました。しかしあざみ野駅周辺は土地の権利者が多く、合意形成に時間がかかったのです」(西山さん)
1968年に田園都市線が快速運転を始めたとき、停車駅は溝の口、鷺沼、たまプラ、青葉台、長津田だった。
鷺沼は同社の車両基地(当時)がある拠点駅で、たまプラは田園都市の中核駅。このため、その隣にあざみ野駅ができても快速は停車しなかった。こうしたなかで浮上したのが横浜市が進める地下鉄計画だった。
■横浜市営地下鉄、接続駅巡り横浜市と東急が対立 議論に20年間費やす
東急が記した「開発の記録」によると、横浜の地下鉄と田園都市線の接続計画が浮上したのは1965年(昭和40年)。このときは現在のあざみ野駅での接続を横浜市は想定していた。
その後、たまプラ、江田、市が尾、鷺沼などが候補に挙がり、東急はたまプラを強く推したという。快速停車駅であること、駅前に社有地が多いこと、将来的な発展が見込めること、が理由だった。
これに対して横浜市はあざみ野駅を主張。横浜市営地下鉄の他の路線から延ばしたときの最短ルートとなり工事費が安くすむ、小田急方面への延伸に好都合、東名や国道246号との交差が容易、というのがその理由だ。
協議は平行線のまま推移した。地元のタウン紙「たまプラーザ」によると、住民の署名活動なども活発化した。東急はあざみ野を経由してたまプラまで延ばす折衷案なども提案したが、横浜市の主張は変わらず、東急が折れる形で決着。1984年(昭和59年)に合意し、開通は1993年(平成5年)となった。
あざみ野が急行停車駅となったのはそれから9年後の2002年(平成14年)。改良工事によって藤が丘駅で急行の待避ができるようになり、ようやく実現した。3駅連続の急行停車には、40年近いドラマがあったのだ。
ちなみに、横浜市が1987年(昭和62年)にまとめた「横浜市高速鉄道建設史」は、この間の経緯には全く触れていない。横浜市営地下鉄の小田急方面への延伸は、現在も見通しが立っていない。
■独立した「衛星都市」から東京の郊外へ
首都圏屈指の人気路線となった田園都市線。推進者の1人でもあった西山さんは現状をどうとらえているのだろうか。
「田園都市構想の原点は、『自立した職住近接型の緑豊かな都市』を提唱した英国の都市計画家、ハワードの思想にあります。我々も当初は4つほどの独立した中核都市が鉄道で緩やかにつながる『衛星都市』をイメージしていました」
「1960年に入社したとき、部署名は『衛星都市建設部』でした。しかし外部から招へいした都市計画の専門家の多くは、衛星都市ではなく郊外をイメージしていたようで、部署名も1963年には『田園都市建設部』に変わります。結果的にこの地域は『横浜都民』と呼ばれるように、東京の郊外として発展しました。ハワードの思想からは離れたものの、鉄道と街を同時に開発する手法は有効だったと思います」
一筋縄ではいかない都市開発。次回は新玉川線の謎を追う。(河尻定)
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東京急行電鉄、田園都市線、たまプラーザ、あざみ野、横浜市、青葉区、都筑区、五島昇
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