ヒバクシャ広島/長崎:’13冬/1 見えない恐怖、2度も
毎日新聞 2013年02月18日 東京朝刊
原発事故の深刻化で政府に屋内退避を求められ、夫婦は窓を閉め切った部屋で身を寄せ合った。マサ子さんは地震で転倒して太ももを骨折していたが、町から人が消え、電話も通じない。「原発のある町に連れてきた俺のせいだ」。痛みをこらえきれず泣く妻を前に、頭を下げることしかできなかった。1週間近くたって食料が底を突きかけたころ、近所の人に助けられ、県外に避難した。
再び放射能におびえる暮らしが始まった。少年だった夏の光景がまた夢に現れる。やけどをした学徒兵が「水をください」と足にしがみついてきた。水筒の水を飲ませると、息を引き取った。
半年後、東電の補償説明会に行った。被爆者手帳を携え「精神的に参っている。心から謝ってほしい」と訴えたが、「原発事故と原爆は別です」。通り一遍の答えが許せなかった。「目に見えないものへの恐怖に、なぜ2度も苦しめられなければならないのか」
事故から間もなく2年。避難した子供たちが徐々に町へ戻り、線量計を持って暮らしている。「自分がこのまま黙っていてはいけない」という。
そんな折の2月12日、北朝鮮が3回目の核実験を強行した。私は改めて話を聞いた。「放射能の恐ろしさは体験していない人には分かってもらえないものなのか」。少しいらだっているようだった。
取材の度に、永尾さんは訴えかけるように言う。「私の話、あなたには伝わっていますか? あの日パンツ一丁で『のらくろ』を読んでいて……」<文・竹内良和/写真・宮間俊樹>=つづく