ヒバクシャ広島/長崎:’13冬/1 見えない恐怖、2度も
毎日新聞 2013年02月18日 東京朝刊
◇移住した南相馬で原発事故 自分が黙ってはいけない
国際社会の警告とヒバクシャに背を向けて、北朝鮮が3回目の核実験を強行した。核拡散の脅威に包まれた中で、3月11日に東日本大震災から2年を迎える。東京電力福島第1原発事故後、福島の人々は見えない放射能におびえながら暮らしている。記録報道「ヒバクシャ’13 冬」は、原発事故で一時避難を余儀なくされた福島県在住の被爆者の声に耳を傾けることから始めたい。
東京電力福島第1原発の北24キロにある福島県南相馬市原町区に、長崎で被爆した男性がいる。原発事故が起きるまで周囲に被爆者だと明かすことなくひっそりと暮らしてきたという。私は1月中旬、男性の自宅を初めて訪ねた。
「40年近く住んでいるのに、働けなかったから友達もいない。原爆のことは思い出すだけでつらくて、家族にもほとんど話さなかったんです」。居間のこたつで体を起こし、永尾大勝(だいかつ)さん(79)は静かに語り始めた。一年の半分はベッドで過ごすという。
11歳の夏だった。爆心地から4・5キロの自宅でパンツ一枚になり「のらくろ」の漫画を読んでいた。異変を感じ外に出た時、青い光が走り、体が吹き飛ばされた。家族は一命をとりとめたが、近所の人たちの行方が分からない。父と一緒に残留放射能に満ちたがれきの街を歩き、遺体を見つけては荼毘(だび)に付した。
戦後上京し妻マサ子さん(72)と出会う。東京は高度成長を迎えていた。タクシー運転手として働き、子にも恵まれた頃から、下痢や手足のしびれが強くなる。「俺は負けない。家族を守る」。休んだ分を取り戻そうと必死にハンドルを握った。
「仕事もあるし、空気もいい」と知人に誘われ、75年に南相馬へ移り住んだ。だが就職面接を受けても、長崎でのことを詳しく聞かれては不採用にされた。歩くのもままならなくなり、マサ子さんがスナックを始め、自身は炊事や洗濯を担った。家計が苦しく、成績の良かった長女を大学に行かせてやれなかった悔いは今も残る。
2人の子が巣立ち、還暦を過ぎてから小さな中古住宅を手に入れた。ようやく静かな時が訪れたところに、東日本大震災が起きた。