この連載が目指したのは教諭(50)の体罰の告発ではない。
なぜ理想に燃えた教師が、体罰をふるうようになったかを、検証することだった。
われわれは教諭の理想が高すぎたことが、体罰にも関係したのではないかと考えている。
365日、早朝から深夜まで働き、選手1人ひとりの競技力、人間性に目配りして育成の計画を立てる。
合宿や競技会では他校選手にもアドバイスを送り、豊川市の陸上競技場の老朽化がわかれば、ときの市長に疎まれながらも「子どもたちのために」と先頭に立って改修に取り組む。
長期合宿には、自らハンドルを握って選手を引率。遠距離の選手のためにと自宅に寄宿舎を建て、全員の心が1つになれる場をと、市内アパート1棟を改築して合宿所もつくった。
これらすべてをほとんどを1人で行った。「実績づくりと名誉欲」と言い放つ部員OBの保護者もいたが、われわれは、その考えは採らない。
名誉欲などで、365日終日、身を粉にすることはできない。まして全部員の入学以来のベストタイムの変遷をすらすらと口にすることなどは。
われわれは、理想が高すぎたゆえの、愛情が深すぎたゆえの、一種のDVだと考える。
教諭は決して、精神が強じんな指導者ではない。自分の弱さを知っていたからこそ、ときに体罰に落ち込んだのだと確信する。
報告された教諭の体罰には、言葉は悪いが愛情を受け入れてもらえなかった子どもの絶望的な爆発がみてとれる。
ある年、熱心に勧誘した中学生が最後に、名古屋の私立に志願変更した。教諭は言った。「お前は、絶対に全国高校駅伝を走れないぞ」。
私は、この言葉に、教諭が描いた理想の裏面をみる。極めて人間的な感情だと思いながら。「理想に殉じすぎてしまった」。そう考える。
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