ジリリリリリリ。 目覚ましが鳴る。 俺は諦めたように目を覚まし、スヌーズ機能を4回ほど使って繰り延べしてきた睡眠を、ようやくストップさせる。 ・・・今日も遅刻だな。 俺の通う高校は中高大と一貫の私立高校だ。全員がエスカレーターというわけではなく、自分は高校からの入学組。一応名門のミッション校らしく、学費は教会からの寄付とやらでそれなりにリーズナブル。通う生徒も坊っちゃん嬢ちゃんが多いらしいが、少なくともうちの家計も家柄も、その中では底辺を彷徨っていることは確かだ。 学校の最寄駅を出てしばらく歩くと・・・というかもう明らかに遅刻なので開き直って走りもしないのだが・・・、途中の四つ角に奇妙な女の子が立っていた。丁度こちらから見ると横顔が見える。 うちの学校の制服を着ている。おろしたてなのか、色味が鮮やかでのりが効いている。サイズが合わないのかちょっとぶかぶか気味だ。柔らかそうな栗色の髪の毛を後ろで束ねており、手には大きなかばん・・・。 別にそれだけなら普通のうちの学校の生徒だ。 奇妙な理由はまず背が小さいこと。中学生が制服を着ているみたいに見える。うちは中高一貫だからこれくらいの子もいるだろうが、それにしても小さい。更に奇妙なことに、彼女は手に紙切れを握り締めて道の真ん中で唸って動こうとしない。どう見ても道に迷っているように見える。 ・・・そしてもう一つ、奇妙、というよりむしろ人目を引くのは、彼女が美人ということだ。いわゆるお人形さんみたい、といわれる部類だろう。ハーフなのか、色素の薄い肌と髪の色もあいまって、独特の雰囲気を醸し出している。その手の趣味は無いが、それでも明らかに成長が楽しみ、という評価は与えても良いだろう。 これは道に迷っているというやつだろうが、こちらから声をかけるのも下心があるようで気がとがめる。あれこれ考えていると、向こうがこっちを目ざとく見つけて歩み寄る。 その迫力に気圧されて動けずにいると、目の前に来た彼女は開口一番、 「そこのお前、ちょっと道を尋ねたいのだが、構わないか?」 「・・・・・・・・・ああ」 これが男のガキなら蹴倒してやったところだが、あんまりにその無愛想な表情や不作法な口の利き方と、整った顔立ちのミスマッチにかえって毒気を抜かれてしまった。 彼女はやはりうちの学校の生徒らしい。もっとも今日転校だとかなんとかでやってきたものの、道に迷って何回も駅とここらあたりをうろうろしていたという。 「・・・しかし、この国は道路に名前もつけないのだな。不親切極まりない」 「・・・・・・はぁ、申し訳ない・・・」 どうやら彼女は海外に長いこと住んでいたらしく、あまり日本のことをよく知らず、日本語もそれほど得意ではない、とのことだ。俺はひとしきりこの国の問題点を彼女から指摘され、そのたびにあれこれ弁解するのだが最後には彼女に言い負かされて、なぜか日本代表として謝っていた。 「・・・お前、変な奴だな」 突然彼女がくるりとした瞳で俺の目をまじまじと見つめ、言ってきた。 「・・・というか、お前も十分変だ。・・・とりあえず敬語は使えんのか?日本では目上の者には敬語を使うのが礼儀だぞ」 俺はせめて一矢報いようとする。 彼女は指を口にあわせてしばらく考えていたようだが、一言。 「お前は何年生なんだ?」 俺が自分の学年を答えると、 「なら同級生だから、問題ない」 彼女はにやっと笑った。 なわけないだろ、このちんちくりんが、と突っ込む間もなく彼女は矢継ぎ早に、 「お前、名前は?」 「・・・四門勇男」 「ふーん。それでは、運があればまた逢おう。ヨツカドイサオ」 彼女は学校が見えると一人で校舎に向かって走り出した。コンパスは短いくせに回転力はある。あっという間に校舎の中に彼女の姿は消えた。 「・・・というかお前は誰だ?」 俺は一人その場に取り残された。 「シモン君、また遅刻なの?よく飽きないわねぇ」 職員室で担任の清水先生にお叱りの言葉をもらう。清水先生は英語担当の先生で、若くて元気なお姉さん、という感じだ。生徒にも人気がある。 「はぁ・・・、眠くて・・・」 「眠いのはみんな一緒でしょうが・・・ったく。もうちょっと早くきなさい。このままだと卒業できないわよ?」 「・・・努力します」 「・・・相変わらず朝から元気ですわね。清水先生」 「はぁ・・・副担任として何とかいってやってくださいよ、石塚先生・・・」 「四門君・・・、あんまり遅刻していると、明日から解剖した蛙の処理、あなたに全部やってもらうけど、いいかしら?」 「・・・今日、目覚まし買って帰ります」 石塚先生は清水先生とはうってかわって落ち着いて大人びている。いや、先生に大人びている・・・というのもなんだが。生物教師で、ちょっと変なところもあるが、ちゃんとした先生だ。二人がこの学校で1、2を争う美人教師だろう。 職員室で一通り叱られてから教室に入った。 「おぉ〜、毎日重役出勤とはいいご身分ね〜、シモン」 ショートカットの女の子、松田朱美が話し掛けてくる。運動神経が良く、元気が取柄の娘だ。 「うるさいなぁ、ほっとけ」 「・・・ほっとくわけにもいかないです。わたしがなぜかおこられるんですから」 静かな声で棘のあることを言ってくるのは学級委員の藤谷碧だ。このクラスはおろか、学校でも指折りの成績を修めている。 「それが委員の仕事でしょうが・・・。寝かせろ・・・」 そのまま机に突っ伏すと、二人は呆れて離れていった。 「・・・ばかみたい」 ボソっと呟いたのは俺の斜め前に座っている青木遼子だ。どこかの財閥のお嬢様か何かでこの学園にも出資しているらしい。ツインテールがトレードマークで、あまり人付き合いがいい方ではなくツンツンしているが、そのクールさがまた堪らない、というマゾっ気の多い奴がファンクラブを結成している。・・・まぁ、自分には全く関係ないことだが。 ・・・俺は苗字は四門(よつかど)だが、どっかの野球マンガか何だかの影響からかシモンというあだ名が奉られている。先生も含めて大抵の奴はこう呼ぶ。ガキのころは嫌だったがこの年になると受け流せるようになってきた。勇男、という名前はどうも勇ましすぎてあまり好きではないから、丁度いい。 そのまま授業は俺の上を通り過ぎていき昼休みになった。 皆が弁当を広げて食べていると、突然、清水先生がドアをガラガラと開けて教室に入ってくる。 「あ〜、諸君、席につけい。今から転入生を紹介する」 バンバンと出席簿をはたく先生の言葉にクラスが「お〜」とどよめく。 「はい、入って来て」 後ろから見てると前の生徒の頭に隠れてよく見えない。転入生はそのまま壇上に上ったが、壇の上に立っても教卓の後ろに立つとふわふわした栗色の髪の毛しか見えない。 「教卓の脇にいってもらえるかな?」 「はい」 ・・・あの声は・・・。 「みんなに紹介するわ、今日からこのクラスで一緒に勉強することになる子よ、そうしたら自己紹介してもらえるかな?」 清水先生に促された彼女は、壇上に上るとくるりと黒板に向かい、なにやら書き付け始めた。 Далиа Зеркаловна Петровска 「何、あの文字」 「ハングル?」 「バカ、ロシア語だろ?」 「え、そうなの?」 クラスがざわざわとざわめく。 そんな反応をするクラスの連中をちらっと見て、彼女は更にチョークで書き足した。 Далиа Зеркаловна Петровска Dalia Zerkalovna Petrovska クラスが更に「おおーっ」とどよめく。 ・・・ヲイヲイおまえら、バカにされてるんだって。ちょっとは気づけ。 俺の心の中の突っ込みをよそに、清水先生の紹介は続く。 「はいはい、皆さん、ダリア・ゼルカロヴナ・ペトロフスカさんよ」 おお〜、とクラスが一層どよめく。 予想通り、今日俺が道案内した女の子だった。・・・本当に同級生だったのか。ちょっと驚いた。 「ペトロフスカさんは外国の小学・中学と飛び級して高校に入った優秀な生徒です。あなたたちより少し年下だけど、多分ずっと頭いいわよ」 さらにどよめく。美少女、外国人、飛び級。もう3点セット揃い踏みだ。これで騒がないほうがおかしい。 「じゃあ、ペトロフスカさん。自己紹介して」 転入生・・・ダリアは、一通りクラスの連中を眺め回して、一言。 「お前たち、これから世話になるが、よろしく頼む」 静まり返るクラス。 「はいはい、ええと、ペトロフスカさんは日本語あんまり慣れてないから、細かいことは気にしないでね〜。そしたら、そこ、そこで沈没している男の脇の席があいてるから、そこに座っておいて」 「承知した」 フォローする清水先生、唖然とするクラスの連中を尻目に、大きなかばんを振って俺のほうに彼女が近づく。沈没している男、というのは自分のことだったらしい。 机に横向きに顔を伏せている俺を見てニヤリと笑う彼女。 「運があったようだな、イサオ」 一体どんな運だというのだ。 「・・・お前な、年相応な言葉遣いだけは覚えたほうがいいぞ・・・」 俺は身体を起こし、窓越しに空を見た。梅雨も終わりの青い空には白い雲がふわふわ浮いている。 もうすぐ、夏本番だ。 そもそも転入生、というだけで話題性としてはリーチタンヤオドラドラで満貫クラスだ。 それに加えて帰国子女、飛び級、美少女だから、リーチドラドラホンイツサンアンコくらいだろう。倍満だな。 ・・・自分で言っててよくわからなくなってきた・・・。 それはともかく転入生というのは大体クラスのお節介焼き女の子やどうしようもないヤローどもに囲まれる運命だ。当然のように彼女の周りに人垣ができる。 しかし、昼休みが終わる10分前には人垣が消え、彼女はぽつんと座るようになる。 それもそうだ。 あのつっけんどんなしゃべり方、高踏的な立ち振る舞い、アグレッシブでいてかつ隙の無いロジックで来られたんじゃ、話がうまくかみ合わない。 さすがのお節介女の子軍団も敬して遠ざける、という作戦をとることにしたらしい。 当の本人は・・・全くそんなことを気にした様子も無く、分厚い本をかばんから取り出し読み始めた。 うわっ、英語の本だ。しかも・・・医学書か?脳のイラストが表紙にある。 まあ俺は気にせず次の授業まで寝ることにした。 クラスの連中がさっき彼女から聞きだした情報によれば、彼女は名前のとおりロシア系ではあるが、2世3世の類で実際にロシアに住んでいたことはないらしい。ヨーロッパやアメリカを転々としていたが親の都合で日本に来ることになったそうだ。確かにその風貌は一般的なロシア系美少女によく当てはまるかもしれない。 ・・・俺が聞き出したわけじゃない。隣でガヤガヤしていれば漏れ聞こえてくるというものだ。 なんにせよ、自分には関係の無いことだ。 授業は午前中と同じように軽やかに流れていく。ただし、ちょっと違うのは、俺の隣にあの少女がいることだ。 5限目・・・数学の授業はテストの時間だった。彼女は配られたテストプリントを5分で片付けると、またその本を読み始めた。 数学の先生・・・禿げたじいさんだが・・・も見咎めたが、そのプリントに書かれた答えを見て沈黙した。 全問正解だったのだろう。 俺は頭をひとしきり掻きむしり、問題にひーこらいいながら取り組んだ。 ・・・結局彼女はそのテストを碧と並んで満点でクリアした。 帰りの会が終わり、一人帰ろうとすると、隣の席の少女に呼び止められる。 「おい、シモン、少し時間をくれ」 いつの間にかこいつまで俺のことをシモンよわばりする。まあそれは別に構わないんだが、もうちょっと言葉遣いというものはないものか。 「随分胸ときめく誘い方だねぇ。おにいさん、涙が出てくるわ」 「学校を案内してもらいたいのだが」 「藤谷にでも頼めばいいじゃないか」 こういうことは学級委員の碧がやるものと相場は決まっている。 「フジタニさんは生徒会の用事があるらしい。お前は暇だろ」 「・・・・・・」 どうも彼女には逆らえない。仕方なく案内することになる。 それから彼女を引き連れて、体育館や講堂、学食など生活に必要なめぼしい場所は案内する。 「こんなところだが、どうだ」 「・・・この学校に生物研究室はあるか?」 「・・・生物実験室ならあるが・・・なんでそんなところ?」 「野暮用だ」 「・・・解剖?」 「・・・されたいのか?」 「・・・・・・遠慮する」 いや、本当にしかねない、この娘なら。 俺は別棟の生物教室に案内する。夕日が差しかけているこの時間には誰もいない。がらり、とドアを開けると、ダリアはテクテクと中に入ってジロジロ検分している。 一通り見て満足したのだろうか、部屋から出てきた。 「・・・満足したのか?」 「ああ・・・。いい設備が揃ってるな。実験動物も色々いるし、一地方私立高校にしては出来すぎだな」 「・・・細かいことはわからんけど、うちの先生マニアックだからな・・・」 「まにあっく?」 ダリアは目をぱちくりさせて俺を見上げる。 「副担任の石塚先生っているだろ。あの人、アメリカかなんかの大学院かに留学してたくらい優秀な人で、今でもちょろちょろ研究してるらしいぜ。俺たちにはさっぱりわからんけど」 「・・・ふぅん・・・・・・」 ダリアは口元に指を寄せて何かしら考えているようだった。 「他はどこへ行くんだ?」 「物理実験室、あと化学実験室もだ」 「・・・お前、そんなところばっかりだな・・・」 彼女の妙な興味に振り回され、その日は校舎内に西日が射すまでその調子だった。 彼女は相変わらずクラスで浮いたままだったが、浮いたキャラは浮いたキャラなりの居場所を見つけるらしく、クラスにも不思議な形で適応していった。要するに、クラスの連中は距離を置いて近づかず、という戦略。たまに彼女にアクセスをするのは委員長である碧だったが、それも事務の話程度のものだった。 俺は最初の縁というのか、席が隣の縁とでもいうのか、その次くらいには話すことがあった。とはいってもアホ話ばかりで、しかも毎回俺が言い負かされていたのだが。 ダリアは、放課後になるとすぐに教室からいなくなった。でも時々、学校の周りや校舎内をうろうろしたり、担任の清水先生や副担任の石塚先生と話している姿を俺は何度か見た。しかし、何をしているのかは、さっぱり見当がつかなかった。 ある日、ダリアは学校を休んだ。3日連続。 「シモン、あなた、帰りにペトロフスカさんの家に行ってくれない?」 「は?」 俺は帰りの会の後、唐突に担任の清水先生に言われた。 「明日までに連絡が欲しいプリント、渡してきて欲しいの」 「何で俺?」 「碧、ちょっと今文化祭の準備やら何やらで忙しいから。あなた、帰宅部でしょ?」 「電話で済ませればいいんじゃないんですか?」 「それが電話かけても出ないのよ。ちょっと心配でね」 「でも」 家知らないし。と言いかけた途端、清水先生は俺に封筒を突き出した。 「はい、地図と交通費。お釣りはお駄賃よ」 「はぁ」 なんとなく拒否するタイミングを失った俺は、プリントを抱えてダリアの家に行くことになった。 彼女の家は俺が降りる駅をさらに2つほど行ったところにあった。 「でかいマンション・・・」 見上げるような高さのマンションが彼女の自宅のある場所だった。入り口はオートロックになっており、鍵が無いと開かない。厳重警備だ。 俺は彼女の家のナンバーを押して開けてくれるのを待った。が、誰も出ない。 ・・・帰ろうか、と思ったら、そのマンションに出入りしている優雅そうなおばさんがドアを開けて入った。それに乗じて滑り込む。 12階のF。呼び鈴を鳴らすが、やはり誰も出ない。 「すみませ〜ん」 ノックして呼びかけるが返答が無い。 鍵は開いていた。仕方ないので、俺は部屋に忍び込む。・・・いや、別に悪いことしてるわけじゃない、無いと思うが・・・やっぱ怪しいだろうか。 部屋は広い。3LDK、いやもっとあるだろうか?ベランダはテラスのようになっていて、床はフローリングだ。備え付けのソファーが何個も置いてある。 でも、この寒々とした雰囲気はなんだろうか。決まってる。積みあがっている引越し用のダンボールは2、3個乱雑に開けられているだけで、他はそのまま放置されている。備え付けの家具以外、ろくに家具は無い。食器もほとんど無い空っぽの食器棚。TVの乗っていないTV台にはうっすら埃が積もっている。 あいつ、引っ越してからずっと、何してたんだ? 玄関には彼女の靴、それも小さな革靴が一足だけ、残っていた。しかし、がらんとした部屋からは全く人気を感じない。 背筋に寒気が走る。 「ダリア?いないのか??」 俺は部屋を手当たり次第開ける。どの部屋も、うっすらと埃を積もらせたがらんどうの部屋。トイレにも・・・いや、最悪、手首を切った死体でも浴槽に浮いているかと思ったが、誰も居ない。 突き当たりの部屋を俺は開けた。これが最後の部屋だ。 真っ暗な部屋にはブラインドがかかっており、ベッドがおいてある。今までの部屋とは違い、生活に使われている雰囲気がある。一歩入るとぐしゃっと何かを踏む音がする。・・・カップラーメンのスチロールだった。近くには散らばった割り箸。食べかけのコンビニおにぎり。・・・およそ、病人には似つかわしくない食べ物ばかり。錠剤の薬瓶がごろごろちらばっている・・・風邪薬だろうか。 ベッドにゆっくりと近づく。毛布が少しだけ上下している。毛布からちょっとだけ出ている小さな顔は、ダリアだった。 はぁ・・・、と俺は柄にも無く溜息をついた。何はともあれ、生きているらしい。 と安心してみると、俺は妙に腹立たしくなった。 「おい、ダリア、お前、居るなら居るって言えって・・・」 俺は途中で言葉を止めて、彼女の額に手を寄せる。熱い。 「おい、ダリア、大丈夫か?」 俺は少し揺さぶる。ダリアがうっすらと目を開ける。顔色が、透けるように白く、それでいて熱で頬が紅潮している。 「・・・誰?」 「えぇ・・・っと、同じクラスのヨツカドイサオです」 思わず改まってしまう。 「・・・なにしに・・・きた・・・」 「先生にプリント渡して来い、って言付かって・・・、というかお前、大丈夫なのか?医者には行ったのか?」 「・・・・・・」 「って、普通の熱じゃないぞ、これ。救急車を呼ぶからちょっと待って」 電話をかけにいこうとする俺の腕を、ダリアの手がぐいと掴む。病人とは思えない力のこもった手。 「・・・いい、呼ぶな。・・・大丈夫だから」 息を切らして言うダリア。目は熱で潤んでいる。よくよく見ると、俺を掴む手は−−もともと華奢だが−−やせ細っている。 「大丈夫って、それで大丈夫なら、誰でも大丈夫だぞ?」 言ってて意味がわからない。自分でも動転しているのがわかる。 しかしダリアは、医者も救急車も呼ぶな、自分は大丈夫だから、の一点張りだ。 「わかった。じゃあ、代わりに少し面倒みてやるよ。・・・お前、今日、飯、食ったのか?」 「・・・まだ」 「あ〜ほ、お前、飯食わなきゃ治るものも治らんぞ。ちょっと待ってろ」 俺はダイニングに行くと、冷蔵庫を開けた。・・・ある程度予想していたことだが、空っぽだった。仕方なしにダッシュで近くのコンビニに行ってうどんと卵とリンゴと白菜と・・・あと、どうせダリアの台所には無いだろうから包丁やら何やら台所用品一揃いを買うと、再び戻ってきた。痛い出費だったが止むを得ない。 さすがにガスは通っている。俺は鍋に野菜を放り込んで煮込み始めた。病人といえばウドンだろう。後はお約束のすりおろしリンゴ。かつお節と昆布でダシを取り、醤油で味をととのえる。 「おら、できたぞ」 俺は湯気の立つ鍋とすりおろしリンゴを持ってきて、ベッド際でよそって丼を突き出した。 しかしダリアはそれをろくろく見もせず、ぼつりと一言。 「・・・いらない・・・」 こっちもそういうわけにはいかない。 「おいおい、医者にも行かない、飯も食わない、じゃ本当にくたばっちまうぞ。いいから、汁だけでも飲んどけよ。水分大事だぞ?」 俺がああだこうだ言うと、彼女は右手に丼、左手に箸を持ち、ちゅるちゅるとウドンを食べ始めた。危なっかしいので俺も丼を支える。 「・・・・・・」 ダリアは無言のまま一口、また一口、と箸をつつき、レンゲで汁をすすり、またちゅるちゅるとウドンを食べ、蒲鉾に手をつけて・・・加速度的に食べ進めていく。 「おいおい、そんなに慌てるなよ、ウドンは逃げないんだから」 よほど腹が空いていたのか、俺の言葉にも耳を貸さず彼女は箸を動かす。 食べ始めてからわずか5分、彼女はずずず・・・と一滴残らずウドンの汁を飲み干すと、丼を掛け布団の上に置いて、俯いた。 「・・・ん、どうだった?」 俺が何気なく感想を問うと、彼女はそれには答えずただ俯いたままで・・・体が少しずつ震えてきて・・・、 ぽたん、ぽたん。 彼女の白い手が支える丼に涙が落ちてくる。 思わず狼狽する俺。 「げ、不味かった?一応味見はしてつくったんだけど、醤油味、苦手だったとか?」 俺は慌てて鍋から汁をすくって味見してみる・・・。うーむ、一応病人だということで薄味風にはしてあるものの、それほど変な味ではないつもりだったが・・・。 そんな俺の慌てぶりを感じ取ってか、ダリアは顔を上げ、首を弱々しく振る。 「・・・違う。そうじゃない・・・」 彼女の目は真っ赤になっており、頬には涙で濡れている。 「湯気が目にしみただけだ・・・」 ずずっと鼻をすすって、目をごしごしとこする。 ・・・湯気が目にしみる・・・。結膜炎でも患ってるだろうか? しかし、俺はそれ以上、細かく尋ねることはできなかった。 その後はこのかつお節と昆布のダシが効き過ぎだの、醤油が薄いだの、さんざんっぱら文句をつけながら、ダリアはすりおろしりんごもきれいに食べつくした。 食器を片付けた後、熱のある状態で一人放っておくのも心配だったので、一緒にいてやろうかとダリアに提案したが、ダリアは白い目で俺を一睨みして却下した。・・・確かに、年頃の女の子の家に男が二人っきりでいるのも不用心であろう。俺は何かあった時のために自分の家の電話番号を書き留めて手渡すと、そのまま帰ることにした。 外はいつの間にかとっぷりと暮れている。帰り道、俺はとりとめもなくあれこれ考えていた。 彼女があんなところに一人で住んでいるのか。 彼女が何故泣いたのか。 「かつおダシ、苦手だったのかなあ・・・」 しかし、いくら考えてもその理由はわかりそうになかった。 次の日の昼過ぎ、机の上に寝伏している俺に向かって、突然、 「おう、シモン、相変わらず沈没してるな」 俺は声のする方を向くと、何時もどおりのダリアがバックを持ってニヤリと笑って立っている。 どうやら遅出のご出勤らしい。すっかり血色も良くなっている。 「・・・お前こそ、相変わらずだな」 俺はそのまま再び寝伏した。 隣の席の椅子がぎぎーと引かれて、彼女が座る。 この季節にしては爽やかな風にのって、ほのかな香りが鼻をくすぐる。 別に二人の関係は何の変化も無かった。 なんとなくそのことに安心して、再び眼を閉じる。 遠くで気の早い蝉がジージー鳴き始めている。 ・・・梅雨が明ければ、もうすぐ夏休みだ。 俺は引きずり込まれるようにそのまま眠りに落ちていった。
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