唇に押しつけられたやわらかな感触が、神経節の全てを支配した。 目の前の少女の睫毛の長さとか、手で直に触れたくなるくらいなめらかな頬とか、初めて間近でかぐ異性の匂いとか、身にまとったモノクロームの制服の衣擦れ音だとか、そういった全ての情報が唇の神経に集約して僕の中を圧倒的な存在感で埋め尽くす。 これが……この少女の感触なのか。すごい。 まるで体中のアンテナがこの小さな接点に向き直ってしまったかのようだ。 唇で他者を感じるという未知の衝撃に、僕は軽く陶酔する。 「んっ……」 軽く、熱い吐息と共にその感触が失われる。 どれくらいの時間だったのか。長かったのか、それともほんの1、2秒だったのか。 まるで白昼夢を見たかのように断絶した意識が視力を取り戻す。 ゆっくりと離れていく……そして少女が瞼を開く。 「……ど、かな?」 「……ん?」 「思い出せた?」 その質問で、僕はようやくこの行為の意味を思い出した。口の中で笑いを噛み殺す。 そう仕向けたのは僕だとはいえ……本当に、信じ込んでいるのか。 「……ああ、思い出した」 嘘だよ。 「本当、久しぶりだよな」 「思い出したんだ」 花が開くような笑みをこぼす。その華やかな印象は、制服の粛然としたなイメージからはかけ離れている。僕も不自然ではないよう、注意しながら笑みを浮かべた。 「キスのおかげだよ、サンキュ。思い出せた」 「ううん、なんでもないよ。キスくらい」 なんでもない……ね。教師や親が聞いたらなんと言うだろうか。少女がその修道服みたいな黒い制服を着ているのは、そんな台詞を口にするような躾教育を受けるためではないはずだ。むしろその逆。 だがしかし、今だけはその常識は覆っているのだ。 この少女の持つ常識は、今だけは破壊されている。 キスはただの挨拶だと、この僕が書き換えたから。 『──3年5組 達巳郁太(たつみいくた)、3年5組 達巳郁太。至急職員室まで──』 昼休みの喧噪に割り込んできた校内放送に、クラスに残っていた連中が一斉に反応してこっちに首を向けた。 (ちっ──) 心の中で舌打ちしながら僕は食べかけのパンを袋に戻して鞄に入れ、席を立つ。 「何やった?」 「さあ?」 声をかけてきたクラスメイトに目を合わせず、そのままクラスを出た。廊下にいた顔見知りの何人かは、僕に気付くとなにか意味深な表情で僕を一瞥する。 これだから嫌だ。もう少し体面を考えてくれ、と僕は口に出さずに無遠慮に呼びつける教師へ文句を呟いた。 「──達巳、来ました……けど」 職員室のドアをスライドさせて中に入る。ドア付近のホワイトボードを見ていた若い教師が僕に気がつき、奥の方に向いて声を上げた。 「山辺先生。達巳、来ましたよ」 山辺というのは僕のクラスの担任の名前だ。見れば、一番奥まった席から少し白髪交じりの中年教師がこっちに大きく頷き、片手で手招きしている。反対の手は受話器を耳に当てていた。 (マイク一つで呼びつけたと思ったら電話中かよ) だが、僕がその席まで教師達の机の間を縫ってたどり着くと、山辺はその受話器を突き出してきた。 「来ましたけど……なんですか?」 「お前にだ」 「はぁ?」 「親御さんの知り合いの方だそうだが、お前の親父さんのことで緊急の用があるらしい」 「はぁ」 「早くしろ!」とせっつかれ、受話器を受け取ってしまう。 親父のこと? 緊急の? 今更? 「はぁ──」 仕方なく、受話器を耳に当てた。 「もしもし?」 『──、あぁ、君、達巳郁太君なのかな?』 ……呼びつけたのはあんただろ。 「……まぁ、そうですけど」 『私は君のお父さんの仕事仲間の草薙という者だ、とりあえずはよろしく』 「あぁ、はい、まぁ、よろしく」 『急に電話してすまなかったね。君の携帯番号も知らなかったし、家に電話しても誰も出ないものでね』 そりゃそうだ。あんたに教えた覚えはないしな。 「そうですか、すみません」 『いやいや君があやまることじゃないよ、郁太君』 「はぁ」 『そうとも』 「……家の電話、誰も出なかったんですか?」 『ある日を境に、ね』 なんだ? 何を言いたいんだ。 「親父、出なかったんですか?」 『それについて、ちょっと君に確認したいことがある』 「はぁ」 『君、お父さんが今何処にいるか知らないか?』 「え?」 なんだって? 「え……いや、家には……いない?」 『いない。君のお父さんは、少なくとも10日前から家には帰っていない』 「えっと、それは……」 『君も行き先を知らないのか?』 あの親父が……いなくなった? 「知らない……です」 『そうか。息子さんが知らないとなると……行方不明、か』 「行方不明?」 草薙と名乗る相手の最後の呟きに、僕は過敏に反応してしまった。思わずオオム返しに呟きが漏れる。 『いや、その可能性もあるってことだよ。すまなかったね、時間をとらせて』 「いえ……」 『いやいや、貴重な休み時間を削ってしまった。なんのお詫びも出来ないが勘弁してくれ。それじゃ』 「え、あ、あの!」 明らかにもう電話を切ろうとしている相手に、僕は急いで声をかける。 『なにか?』 「あの、あなたは……誰なんですか?」 『……』 急な沈黙。なんだ? 何か……まずいのか? 「あの」 『……草薙。君のお父さんの古くからの仕事仲間だ。他に質問は?』 「え、いえ」 『それでは、がんばって勉学に励んでくれ』 今度は問答無用だった。声をかける暇もなく電話は向こうから切断された。 「なんだ、これ」 「おい、どうした? 親父さん、何かあったのか?」 脇から山辺が眉間にシワを寄せて声をかけてくる。その瞬間、僕の脳裏に「チャンス」のランプが灯った。受話器を戻してきびすを返す。 「あ、はい。なんか急いで戻らないといけないみたいで」 「お、おい! 親父さん、怪我でもしたのか!?」 「その可能性もあるってことで! あ、早退します!」 僕はそう言い残すと、鞄を取りに戻るべく駆けだした。 (久しぶりだな) 下宿への帰り道にいつも降りる駅を乗り越し、僕は律儀に実家に様子を見に行くべく、ここ2年余りご無沙汰だった道筋を辿っていた。 そのまま帰ってしまっても良かったのだが、明日山辺に尋ねられるかもしれないし、たまには繁華街で遊んで帰るのも悪くない。それに……あの親父が行方不明かもしれない、という状況にも興味がある。 (行方不明……ね。今更かよ) 親父がかつて何の仕事をしていたのかはよく知らない。若い頃どうだったのかも聞いたことはない。 だが、過去をほとんど語らない親父から聞けた断片的な情報をまとめれば、かつて親父に何があったか、ほんの少しだけ知ることが出来る。 20年近く前、親父はどうも身分違いの恋愛をしたらしい。相手は筋金入りのお嬢様で、そして2人の間には子供まで出来た。 だが、相手側の家の事情で、2人は一緒になることはできなかった。それどころか、生まれてきた双子の赤子は1人しか受け入れられず、もう1人は親父と一緒に放逐された。 やんごとなき家柄に男児が増えることは、相続問題が絡み非常に危険だったからだ。 親父は慰謝料口止め料もろもろ含んだ家と貯金を受け取り、その女の前から姿を消すことを選んだ。それ以来、職にも就かず、怠惰に何もせず、家にこもりただ生きるだけの生活をずっと送ってきた。 その親父が、行方不明?……今更? 僕はそんな堕落の権化となった親父を嫌悪している。金と物につられ、家柄に押しつぶされた負け犬。死ぬことも出来ず進むことも出来ない浪費だけの命。いてもいなくても何も変わらないくせに、僕の神経を逆撫でする。 2年前、家を出て下宿を借りて一人暮らしを始めたのも、家に親父がいたからだ。 僕は嫌だ。あんな干涸らびていくだけの人間にはなりたくない。 僕は……。 ふと、足を停めた。見れば、かなり前から始まっていたコンクリートののっぺりとした塀はここでいったん途切れ、そして錆び付いた黒い門を挟んでさらに向こうに続いている。 門の中は草木が伸び放題に繁殖し、僅かに覗く石畳は緩やかに蛇行しながら奥へと続いている。 その奥、終着点には、この荒れた庭の様子に相応しく壁面を蔦が這う洋風の2階建ての屋敷が圧倒的な存在感で居座っていた。門の脇を見上げれば、そこにはかつては白かったであろう「高原(たかはら)」の表札がかかっている。 つまり、それは、ここが日本に並ぶ者無き名門高原家の幾つもある別居の一つであり、そして、ここにかつて住んでいた僕が、高原家現当主の長女の息子でありながら放逐された双子の片割れであることを象徴しているのだ。 (何も……ない、な) 屋敷に入った僕は玄関に近い部屋から順に一つ一つ中を確認していった。 そのほとんどが2年前に出て行ったときのまま、埃まみれ蜘蛛の巣だらけで放置され続けていた。かつての僕の部屋も、2年前から誰も立ち入ってはいないようで絨毯の上に出て行ったときのままの靴跡が残っていた。 「後は書斎か」 書斎は親父がほとんど一年中閉じこもっていた場所だ。初めから、何かあるとしたらそこしか無いだろうと思っていた。 それでもまず屋敷の中を見て回ったのは、単に暇つぶしがしたかったからだ。 書斎の鍵はかかっていなかった。中に入ると明らかに他の部屋と様子が違う。 絨毯には人の足跡が乱雑に往復し、机の上もペンや書籍が出しっぱなしになっている。そこに積もった埃も指で擦れば跡がつくとはいえ真っ白になっているわけではない。 確かに、親父は数週間前まではここにいたのだろう。 だが同時に、その後数週間はここを訪れていないことをも同時に証明している。 (手がかりは……) 僕は机の上の電話に目をやる。この古めかしい屋敷にはあまりにも不似合いな留守番機能付電話。その留守番ボタンは赤く点滅していた。 「ふむ」 推理小説などではここに残されたメッセージが事件解決の大きなヒントになることもある。僕は躊躇無くそのボタンを押した。 <留守中のメッセージを 5件 預かっています> <メッセージを 再生しますか?> 5件……か。電話が鳴ることがほとんど無いこの家にとって、その数値は異常だ。僕は電話機のボタンを操作し、最新のメッセージを再生した。 『──草薙だ。どうしたんだ? なにかまずい事態にでも陥ったか?……連絡をくれ』 これは、さっきの電話のヤツか。聞き覚えがあるし、本人に間違いないだろう。日付は……3日前か。 それから順に留守録を遡って再生していくが、全てがこの草薙という人物からの電話だった。 内容もほぼ一緒、名前を言い、連絡をくれと言いながら電話番号は言わない。親父が草薙を知っているか、少なくとも連絡先を知っているのは間違いないのだろう。 「なんだよ、お前じゃ手がかりになんねーよ」 そう言いながら、最後の、つまり一番古いメッセージを再生する。 『──高原の百形(ももなり)です』 「!?」 突然、今までとは全然違う女性の声が再生され始める。急いでディスプレイを確認するが、発信先は非通知となっていた。 (モモナリ……? 誰だ? 日付は……4月19日か、ちょうど3週間前だな) 『本日何度かそちらに電話させていただいたのですが、お留守のようですので急ぎの用件につきメッセージを残すことをお許し下さい──』 なんだ、これは……? 高原って言ったら、あの高原だろう? そこから、緊急の電話? これが、もしかして……原因なのか? 『…………』 電話主はそこで一端言葉を止め、口を噤む。それはもったいをつけているのか、それとも口にするのがはばかられる内容なのか。 (……さっさと言え!) 数秒のはずの沈黙が、この屋敷自体の停滞と相乗効果となって僕にのしかかり始めたとき、ようやく電話主が軽く息を吸い込む音が聞こえた。 『──昨日、那由美様が……亡くなられました』 高原那由美(たかはらなゆみ)──。 親父と、高原家の長女との間に産まれた双子のうち高原家に引き取られた方。つまり、僕の双子の妹だ。 僕たちは二卵性双生児だった。性別も、血液型も違う双子は、しかし育てられる環境すら違っていた。 片方は全てに絶望した父親の元で失調と病気に苦しみながら成長し、義務教育を終えた後は、かろうじて3流に落ち込まない位置で踏みとどまっているだけの学校に進学。父親を憎み、一緒に生活する家族もなく一人暮らし──。 もう一方は物心つく頃から完全に調整された環境ですくすくと育ち、英才教育を受けて小学校から名門学校に進学。家族に囲まれ、ゆくゆくは高原家の一員として立つべく現在は超名門お嬢様学校で勉強中── ──の、はずだった。 「……っ……ぷっ……くっくっ……」 欄干を掴む両手がぶるぶると震えている。内側からわき出る衝動が押さえきれない。っていうか無理、絶体ムリ! 「……あっはっはっはっはっはっはっはっは! っく! ひぃぁははははは! ぎゃはははははは!!」 歩道橋を渡る人達がみな気味悪がって途中で引き返していくが関係ない。だって、考えてみろよ? 死んじゃったんだよ? もういないんだよ? 意味無いじゃん! 家も名門学校も関係ないじゃん! たんなる無駄じゃん!! 「──ひぃ〜ぁはぁ、はぁ、くっ……ぷくくくくく……」 だめだ、ねぇ、転がり回っていい? ちょっと、腹ねじ切れそう。 ──どれくらいそうしていたのか。 歩道橋中を転げ回ったり、欄干を両手でガンガン叩いたり、酸欠で苦しいのに笑いが止まんなくて泡吹いたり、そんなこんなでようやく発作が治まったときにはあたりはもう夕方の気配が漂い始めていた。 ……よく、警察呼ばれなかったな。いや、救急車か? 世間の風は生暖かいねぇ。 まぁ、でもほんっっっっとこんなに笑ったのは久しぶりだ。上を向けば青い空。なんて爽やかな気分なんだろう。 妹が死んだってのに不謹慎だって? それは一般の家庭の話だからね、言わせておくよ。 親父を捜さないでいいのかって? あ、それはちょっと気になるけどね……でも、もうどうだっていいよ。むしろ、見つからない方が僕的にはベターだし。 ただ、ちょっと残念な事もある。 僕は、妹──那由美のことをほとんど知らないんだ。 名前と、誕生日と、血液型と……当たり前だけど性別。 どこのお嬢様学校に通っていたのかすら知らない。 それは僕が親父や、親父の匂いのする存在を毛嫌いしていたからでもあるんだけど……でも、こういう結末が待っていたのなら全然オッケーだよね! いやー、僕の妹かー。どんなヤツだったんだろう? 僕なんかと全然反対で、真面目で、思いやりがあって、家族思いで、公正で、立派なヤツだったんだろうなー。 いやー、惜しかったねぇ! 「ん?」 僕の足の裏に、奇妙な感触があった。というか、なにか厚みのある物を踏みつけた感触だ。 視点を下に向け、僕はしゃがんでそれを拾い上げる。 「なんだ……これ」 それは黒い本だった。いや、厚みからしたらノートと言ってもいい。だが、持ち上げたときの感触はズッシリと重く、それが相当頑丈な作りであることを伺わせた。 表紙は一面黒色で何も書いていない……と思ったが、どうやら左開きの本だったようでひっくり返すとその中央に金で英語のタイトルが描かれていた。 「BLACK DESIRE……ブラックデザイア?」 もう一度ひっくり返す。しかし、どこを見ても描かれているのはその一文だけで、表からは値段も、出版社も、作者もうかがい知ることはできなかった。 「あれ、この本……?」 試しに中を開いてみると、一面真っ白な未印刷の頁が連なっているだけでページ番号すら存在しない。 「ちょっと凝ったメモ帳、なのかな」 首を捻りながらもう一度表紙を調べ、今度は最初のページを開いてみた。 「あ!?」 表紙の裏にはタイトルと同じく金色の文字が連なっていた。しかも、上から隙間を埋めるかのように細かい文字でびっしりと箇条書きされている。 「なんだ、これ……HOW TO USE……使い方?」 ──これは、人の欲望を実現する本である ──使用者は、自らの生命よりも重要な欲望を持つ者に限る ──使用者は魔力と引き替えにこの本の力を使用する ──叶えられた欲望は、この本の効果範囲外では効力を失う ──他者の欲望を実現する場合は…… 「……はっはーん……」 これはあれだ、ほら。あるでしょ、名前を書くと死ぬノートの漫画。それのパクリなわけよ。ただ、イタズラするにしても人を殺すようなノートに騙されてひょいひょい使うような危ないマヌケがそうそういる訳ない。 だから、欲望、つまりデザイアってことね。 これなら拾った何百人のうち1人くらいはシャレのわかるヤツで、何か書いてくれるかもしれない。そういうイタズラでしょ? で、そのシャレがわかってかつ気分のいい僕がその1人になっちゃうわけ。やれやれ、この本まだ真っ白けじゃないか。栄えある一人目が僕ってのも嬉しいんだか、やるせないんだか。 「さってー、な・に・を・書・こ・う・か・な?」 思いつくのなら直ぐだけど、後々これが人の手に渡る可能性がある以上あんまり恥ずかしいのや意味不明なのは書きたくない。例えば、さっきの <那由美の事をもっと知りたい> なんてのは他人には全く理解不能だろう? 偶然那由美の事を知っている人が来てくれるならともかく…… 「あれ?」 「……え?」 突然、背後で聞こえた声に僕はどきりとして振り返った。やば、この本を見られたか?……ってまだ何にも書いてないけど。 振り返った先にいたのは黒い制服を着た少女だった。シスター服にもよく似た黒一色に襟と袖口の折り返しだけが白。なんというか、粛然としすぎて面白味に欠けるデザインではある。 しかし、その制服を着ている少女の方はそんな印象と真っ向から対立する顔つきをしていた。 くせっ毛なのかところどころはねてるちょっと茶色がかったショートカット。同じくブラウンの瞳は好奇心の光をたたえてこっちを覗き込んでいる。顔つきは少し幼い感じだが、制服の胸元の膨らみは十分な成熟を感じさせた。 「ねえねえ?」 「え……え?」 そのちょっとアンバランスな少女が、やけになれなれしい感じで僕に顔を寄せてくる。必然的に僕は歩道橋の欄干に背中を預ける形で顔を逸らした。 「あのね? 間違ってたらごめん」 「は……?」 なにが? 「あのね……もしかして……イクちゃん? だよね?」 少女は源川 春(みながわはる)と名乗った。その説明によると、僕は幼馴染みで、小学校の途中で源川家が引っ越すまでは一緒に学校に通っていたらしい。 「──だけどね、またこっちの学校に通うことになって、2年前にまたこっちに戻ってきたんだ。同じ家じゃないんだけどね」 そう言って話を終えた少女は、溶け始めていたバナナシェイクにようやく口を付けた。 「ふーん……じゃ、小学4年生まで一緒だったんだ。僕と源川さんは」 「昔みたいにハルでいいよ、イクちゃん」 「あ……うん」 全然記憶にございませんよ? 「イクちゃん」なんて馴れ馴れしい呼び方されたこと、あったっけなぁ……。 「イクちゃんはいまどこ通ってるの?」 「え? 別に聞いたっておもしろくないところだよ」 「いいじゃない、教えてよ」 「肩に書いてあるだろ」 「……ごめん、どこにある学校?」 「……ほら、おもしろくない」 3流落っこちかけのしかも隣の区なんだから知ってる方がすごいぞ。 なんだかシュンとしてしまった源川を見かね、仕方なく僕の方から尋ねてみる。 「で、み……ハルはどこなの?」 「……え?」 「学校。珍しい制服だから目につくはずなのに、知らないしさ」 「あ、うん。そうだね、生徒数少ないし、実際にこれ見たことある人あんまりいないかも」 「だから、どこ?」 「へへーっ! 聞いたら絶対イクちゃん驚くよ!」 おうおう、もうテンション上げてきたよ。こいつ、基本的にノリがいいな。 「なんと! あの星漣(せいれん)なのでーっす!」 「!? マジ!」 「うん、マジマジ。イクちゃんも名前は知ってるよね」 「当たり前だろ」 星漣……私立星漣女学園。6大学の名前を言えない日本人はいても、この星漣の名を知らない者はいない、超スーパーお嬢様御用達の名門女子校だ。 どれくらいの名門かと言えば、東大卒であることと星漣の卒業生であることが政界において時に同等のステータスとなり得るということからもうかがい知ることが出来るだろ? 遠方出身者の為に寮を完備、独特の制度による躾教育を施し、学問のみならずスポーツや様々な社交能力の育成にも力を入れる、現代最後かもしれない本物の乙女の園。 それが星漣、星漣女学園。 「……お前が?」 「え?」 「あの星漣の生徒?」 「そうだけど?」 「夢はやっぱり儚かった……」 「ちょっとぉ!」 おお、むくれた。 「そりゃ、今はイクちゃんと久しぶりに会えたからはしゃいでるけどね……学校ならちゃんとしてるんだから」 「それじゃ意味無いじゃん。それに星漣の生徒はマクドナルドに寄り道してもいいの?」 「あ、あう〜」 今度は凹んだぞ。なんか、おもしろいな、こいつ。 こんなのもいるってことは、案外星漣も普通の学校なのかもな。高嶺の花だとか、スーパーお嬢様養成学校だとか、名門だとか、色々言われてるけど……。 「……」 「? どうしたの?」 「……あのさ、ハル」 「なぁに、イクちゃん?」 「もしかしてだけど……」 そう、もしかしてだ。 名門。 お嬢様学校。 政界でのステータス。 「……もしかして、同学年に……高原那由美ってやつ、いなかった?」 それを口にした瞬間、ハルの目がみるみる丸くなった。 「どうして那由美さんのことをイクちゃんが知ってるの!?」 やっぱり……。 「ああ、ちょっと那由美とは知り合いで、前、その制服着てたの思い出した」 「そうなんだ……」 「那由美のこと、風の便りに聞いた……3週間前に、ほら」 「うん……残念だったよね、那由美さん」 間違いない。ハルの言う那由美は僕の妹の那由美のことだ。 「気を落とさないでよ。ハルのせいじゃないんでしょ?」 「うん、そうなんだけど……あの時から、星漣は……今、ようやく戻ってきてるけど、ね」 弱々しい笑みを浮かべるハル。なるほど、那由美の死はそうとうお嬢様達には堪えたんだな。そりゃそうか。一緒の学園で昨日までいた人間が突然いなくなるんだもんな。 「あのさ、僕はあまり学校での様子を知らないんだよ。良かったら教えてくれない?」 「那由美さんのこと? いいよ」 ちょっと酷な質問かと思ったが、ハルはにこやかに笑みを浮かべて頷いた。 「なるほど……ね」 今、僕はトイレにいる。そこでブラックデザイアを広げて内容を確認しているのだ。 不思議なことに、僕は何もしていないのにいつの間にかブラックデザイアの白紙ページの一つに、新たな記述が書き込まれていた。 ページのトップには源川 春……つまり、ハルの名前が書き込まれ、そしてその下にはいくつかの数値と、そして「インサーションキー」という項目が追加されている。 インサーション……差込み? 改めて使い方のページを確認する。 ──他者の欲望を実現する場合は、その対象が使用者に対して一定以上の好意・興味を持っていなくてはならない ──他者の欲望を実現するには、特定のキーワードを含んだ内容の言葉を使用者が対象に認識させることで実現する/これをインサーションキーという ──インサーションキーは実現する事象自身か、対象でなくてはならない 再び、ハルのページを確認する。 インサーションキーは……「那由美」、そして現在実現した欲望は……「那由美の情報を郁太に提供する」…… つまり、ハルは現在「那由美」という言葉が特別な単語になっていて、それを口にして頼んだことはこの本の力で実現してしまう……そういうことらしい。 先ほど、那由美の学園での姿を聞くとハルは驚くほど穏やかにそして細部に渡って那由美の様子を語ってくれた。 那由美が何事に対しても真面目であったこと。 周囲が感動するほどの思いやりを持っていたこと。 母親や家を誇りに思い、何よりも大切にしていたこと。 しかし必要ならば私情を挟まずに判断する公正さをもっていたこと。 そしてだからこそ、星漣の女生徒達の憧れであったこと。 これらを全て、ハルは当然のように流暢に喋り終えたのだ。 ……もう一度、ページの先頭まで戻る ──インサーションキーは使用者の意志でいつでも消去できる ──インサーションキーはその単語を対象者が理解していて、かつそれを強く意識しているときに使用者の意志で設定できる 次のこれは、こっちの都合で相手をコントロールするキーワードを変更できるって事だ。もう那由美に関してハルから得られるものは無いだろうから、消去しよう。 ……と、思うだけでインサーションキーの項目が空欄になった。どうやら、この本は使用者が操作しようと思うだけでコントロールできるらしい。 さて…… これだけの偶然が起こりうるかどうかの確率を考えてみれば、この本は信じがたいことだが……「力」を持っている。それも、他者を思い通りに操るような力を。 だが、もう一つ確証が欲しい。 本当に、僕の意志でこの「力」を使うことができるのか、確信を持ちたいのだ。 手順通りにこの本を使ってみよう。 本当に、このブラックデザイアは本物なのか。 使う相手は……ハルしかいない。今現在、僕に興味を持った知り合いはこの場にあいつしかいないからだ。 次にキーの設定だ。これをどうするか。 制限がある以上あまり突拍子もないキーを設定するとおもしろくない結果しか出せないだろう。何にするか……。 その時、店内にかかる曲が変わった。 恋を歌うポップスだ。ボーカルの甘えるような癖のある歌声は僕的に好みじゃないが、世間では売れている。 ! これだ! 僕は本を閉じると、急いでトイレから出た。 「や、おまたせ。混んでた」 席に戻ると、案の定ハルはふくれていた。 「遅いよ〜、イクちゃん。もうシェーキべたべた」 「これくらいの方が飲みやすくていいよ」 座って、そしてたった今気がついたかのように口を開く。 「あれ? この曲なんかのCMでやってたよね?」 「うん、マクドナルドのでやってたよ」 「ああ、そうそう。なんだっけ、サビの部分。なんかキスキス言うの」 「そうそう、だってこの曲『スウィートキッス』っていうんだし」 「へえ、知らなかった」 これくらいでいいか? 今店内ではちょうどそのサビの部分にさしかかり、甘ったるい声が響き渡っている。 「キスキスキスキスだ〜い好〜きよ〜 あなたを感じていた〜い〜♪」 「……歌うなよ」 「キスキスキスキスア〜イラ〜ビュ〜 2人だけのミーティン♪」 「歌うなって」 歌うならカラオケでも行けって。今の話題はハルに特定の単語を意識させるのが目的なんだから。 横目でちらりと隣の椅子に広げたブラックデザイアに視線を送る。そして、心の中で「<キス>をキーに設定」と呟いた。 即座にインサーションキーの項目に単語が浮かび上がる。 「よし……」 「ん? 何か言った?」 「準備が出来たって言ったんだよ。もう出ようか」 「あ、うん。あ! 待って今全部飲んじゃうから」 「別に急がなくていいよ」 あたふたと残り物を片付けるハルを見ながら、僕はキーワードを言うタイミングを思案する。効果があったとき、あるいは効果が無かったとき……どちらであっても一番問題の無いタイミングはいつだ? 店を出て、一緒に先ほどの歩道橋の方へ歩いていく。 「わたしここから向こうだから」 「え!? あ、そうなんだ?」 歩道橋の直前で立ち止まったハルが脇道の先を指さした。 は、はえ〜よ! まだ、タイミングが……と言うか、心臓バクバクしてきたぞ! 「じゃぁね! イクちゃん、電話してね」 「う、うん」 バイバ〜イと言いながらハルがそちらに歩き始める。素早く周りを見回す僕。 い、今だ。え〜い! 今しかない! 行け! 行け、僕! 「ハル!」 「え?」 足を止めたハルに駆け寄る。良い具合に通りからは死角になったな。 後は……言うだけだ、キーワードを。 「き……」 「?」 「き……キスを、しよう!」 「え!?」 あが〜っ!! なんだそりゃっ! 「ち、違った。ほら、僕たち、子供の頃キスなんて挨拶みたいなもんだったじゃん? 今でもさ、すれば、キス、いろいろその……」 「……」 「あのさ! さっきはああ言ったけど、まだホントはハルの事全部思い出したわけじゃなくて、でも、キス、すれば思い出せるかも!」 「……」 あうあうあう……ボロボロだ。もう少し、いい説明があるだろう、僕。 はぁう……ハルの顔をまともに見れないよ。 その時、ハルがすっと一歩踏み出した。俯いている僕の視線に会わせ、軽くかがんで顔を覗き込む。 「イクちゃん」 「……」 「キス、しよ」 「……え?」 「キスは挨拶だもん。バイバイの時はしないといけないよね」 「え?」 そして、ハルはそっと目を閉じ 僕の唇に、柔らかい感触が広がった。 辺りは夕焼けに染まっている。 歩道橋の欄干に両手と顎を乗せ、僕は家路を急ぐ車の流れを見下ろしている。 「…………くっくっくっ……」 僕の後ろを歩いていたサラリーマンがザザッと反対側の欄干側に寄った。別に僕は気にしないけどね。 「……くっくっくくく……あっはっはっはっはっはっはっはっは! あーっはっはっはっはっはっは!」 おお、折角階段半分上ったのにみんなUターンして帰って行くよ。あそこの交差点信号長いぞぉ? 僕の後ろ通ればいいのにさ。僕は一向に構わないよっ! それにしても……すごいよ、これ! このブラックデザイア! 本当に人間を操ることが出来るんだ! 世の中、科学じゃ証明できないことだってあるとは思っていたけど、なんかそんなのをいきなりぶっちぎったよ! これがあれば、これがあればっ……! 僕が他人の立つ場所の下敷きになることはないっ! 僕が他人を踏み台にして歩くことが出来るんだっ! ──その本が気にいったようだな── 「!!?!?」 ガバッと後ろを振り向く。 そこには、闇が……真っ黒な闇が……。 ──お前がそれを使えたということは、お前には死を賭してでも具現したい欲望があるということだ── 闇がささやく。 ……いや、違う。闇じゃない。 ──その本は欲望の持つ力に敏感だ。お前がこの時代の持ち主となることは、その本が決めた── 男、だ。 コートを羽織り、頭にはフードをかぶっている。 しかし、背後から差す夕陽が逆行となってその内部をすべて黒で染めているんだ。 ──お前は本に認められた。まもなく、お前のもとに『代行者』が訪れる── 「……だいこう……?」 男は、笑う。 いや、笑ったと、思いたい。 ──お前の住まうべき場所、選ばれし時間に現れる、進むべき道を代わって照らす者── 「……」 男のコートは、風のせいで大きくふくらんでそのシルエットを不気味に拡大する……いやまて、風? 西から吹く風が、どうして東を向いたその男のコートをふくらませている? ──全ては、ここから始まる── 「はじ……まっ!?」 その時、風が逆巻いた。 ぶわりと広がった男のコートが僕を巻き取ろうと伸張し、情けなくも悲鳴を上げて思わず目を閉じる。 「…………?」 そっと目を開けると、そこに見えたのは、沈みきって僅かに残滓を残す陽光の赤だった。 「あ……今の……は……?」 辺りを見回しても、歩道橋上には僕しか存在しない。まるで、風と共にかき消えてしまったかのようだ。 それとも、あの男はただの影で……夕陽と共にこの地上から消え去ったとでも言うのだろうか? 「……帰るか」 僕は夢から覚めたかのように歩き出す。 ただ、傍らにしっかりと持った黒い本の重みが、今の夕陽の男が確かに存在していたことを静かに主張しているように思えた。 そして、 「な……な……」 僕の家は、燃えていた。 「なんじゃこりゃっ!」 野次馬の海から覗き見ると、僕が下宿代わりにしていたアパートは全部屋見事に火の海だった。消防車が散水してるが、延焼を防ぐのが精一杯と言うところだろうか。 いったいどこから出火したのだろう。いや、どこから出たにしてもこんなに一瞬で全棟火に巻かれるなんてあり得るのだろうか? ガスに引火したか? どちらにしろ2階の真ん中だった僕の部屋は無事には済まないのだろうが……。 追加のポンプ車が到着して野次馬達が散らされる。 このままここにいても僕の部屋が復元する訳でもない。今夜の寝床を確保するには移動しなくては。 僕はもう一度古巣をふりかえり、今度はアクション付きで「なんじゃこりゃっ!」と決めるとトボトボと歩き始めた。 結局、また親父の家に戻ってきた。 そもそも一人暮らししている知り合いどころか満足に友達と呼べる相手すら存在しない僕にとって、無料の宿を提供してくれる相手を探すのは不可能に近い。 かような訳で嫌々ながらも高原別荘への道を辿ってきたのだ。 「……おや?」 門のところに、誰かいる。まさか、親父……じゃないな。あんなに小柄じゃない。 果たして、近づいてみれば。 「おかえりなさいませ、郁太様」 「メイドかよっ!?」 小首を傾げるそのメイド。頭にはカチューシャ装備、黒ずくめの服に白いエプロン。 完璧だ。完璧に時代錯誤な趣味的メイドルックだ。 そのメイドはそのままの姿勢で僕の次の言葉を待つように動きを止めている。 「……あー、いや。何でもない。ちょっと色々あって突っ込みスキルがレベルアップ気味なんだ」 「そうですか、では中へどうぞ」 そう言って僕の言葉を流すと、そのメイドは門を開け僕を敷地の中へ招き入れた。 しんと静まりかえった夜闇に二人分の砂利を踏む足音が響く。 (あれ?……歩道が整備されてる?) ランタンを持って先導するメイドについて行きながら、僕は周囲を見回した。ほとんど見えなかったはずの道がきちんと草を刈られ、土を除けられて本来の姿を現している。 メイドに声をかけようとしたが意外に足が速く、気がつけばすでにその姿は玄関に辿り着いて僕の到着を待っていた。 少し駆け足気味に扉の中に飛び込む。 「うぉあ!? きれいになってる?」 屋敷に入って更に驚いた。 積もっていたはずの埃は跡形もなく、調度品なども完全に磨き上げられている。切れたまま放置されていたランプは交換され、ここで15年間生活していたはずの僕ですら見たことがないほど屋敷の中は輝きに満ちていた。 「夕食の支度が出来ておりますが、先に入浴なさいますか?」 「……」 「郁太様?」 「これ、全部君が?」 小首を傾げる仕草。 「……君が全部掃除したの?」 「屋敷が郁太様にとって快適であるよう維持するのも勤めです」 そう言って、そのメイドは一礼した。 夕食もまたすこぶる豪勢だった。ここは高級レストランか? という感じでさっきのメイドが説明をしながら料理を次々と運んで来て、僕はそれを平らげることに専念すれば良かった。 そして今は、紅茶を飲みながらまったりしているところである。なかなかブルジョワだろ? だけど、そろそろはっきりさせなくてはならないことがあるな。 「……ところで」 「はい」 「君、何者?」 改めて目の前のメイドを観察する。 見た目の年齢は幾つくらいだろうか。僕より年上にも見えるし、年下にも見える。 黒いおかっぱ頭に黒い瞳、典型的なメイド服に身を包み両手を前で併せていわゆる待機中ポーズをとっている。肌の色は白と言っていいほど薄く、しかしそれが黒ずくめの服装に合っている。 その少女は小首を傾げ、口を開いた。 「新しいブラックデザイアの使用者に仕えるために参りました」 やはり……ね。なぜにメイドかは知らないが、その関係者だったか。 「君があの男の言った『代行者』なの?」 「その呼び名で呼ばれたことはありません。しかし郁太様が望むのならば以後そのようにお呼び下さい」 「いやいや、そんなわけないでしょう! 君の名前は?」 「名はありません。お好きなようにお呼び下さい」 「好きなようにって……僕が決めるの?」 それは面倒だな。 僕が沈黙していると、少女は再度首を傾げた。 「……ならば、幎とお呼び下さい」 トバリ、ね……いいかも、妙にしっくりと来る名前だ。 「わかった。それじゃ、幎。早速だけど、僕はいったい何をすればいい?」 「はい。郁太様にはまず契約を行っていただきます」 「契約?」 「はい」 幎の説明によると、ブラックデザイアは本来魔術師が使用する為に作られたもので、使用者が魔力を注ぎ込むことで力が発動する。 ただし、現代の人間には魔力を操るなんてことは出来ない。だから、この本を使うことは不可能なはずなんだけど、そこには裏技があった。 それが幎だ。 幎はブラックデザイアの使用者と契約し、使用者に代わって本に魔力を供給する。 その見返りに、使用者は世の中の秩序を破壊する。「あり得ない可能性」を実現する……つまり、ブラックデザイアの力そのものを行使すればいい。 媒介になるのは使用者の身体の一部、または残り寿命の半分。奪ったモノの代わりにそれに擬態した魔力塊を埋め込み、幎自身と接続する。 契約期間は使用者が自分の欲望を叶え切るまで、または魔力が枯渇したりして本が使えなくなるまで。 ただし、欲望を叶える以外の手段での契約終了では奪われたモノは帰ってこない。もし、生命維持に不可欠な部位を契約していたら、即座に死ぬ。 なら指一本とか、足の爪とか、無くなっても良さそうなモノで契約すればいいと思うかもしれないが、そうはいかない。 契約部位の重要度はそのまま幎との繋がりの深さだ。 不可欠であればあるほど魔力の供給量は多くなり、逆にあまり重要でなければ本を使用するために必要な魔力も得られずすぐに枯渇する。 自分の命と欲望を天秤にかけ、差し出すモノを決めなくてはならない。 「……よくわかったよ」 説明を聞き終わり、嘆息した。 別に制限の多さにうんざりした訳じゃない。むしろ、魔力を貯めていけばブラックデザイアは更に強力になるということを聞き、今から期待に胸がふくらんでいる。 ため息をつきたいのは、そんなことではない。 「だけど、まだわからない事もある。君は本当に何者だ? 魔術師の現代の生き残りか? いや、秩序が嫌いで契約を好み、代償を求める──」 「……」 「──そんな存在を何というのか? ここまで色々でてきたんだ、今更何だって驚かないよ。もしかして君は……」 「……その通りです」 風もないのにランプが揺れた。一瞬部屋の中に闇が染みこみ、少女の影が踊るように壁を駆け上る。 「私はブラックデザイアに憑き契約を行い秩序の崩壊を望む……人間達の言葉で悪魔と呼ばれる存在です」 靴底がカツコツと堅い音を立てている。 下へ下へ、石作りの階段を下りた先はだだっ広い地下室だった。天井は高く、隅の方までは光が届かず影が澱んでいる。 長い間空気が動くことがなかったのか石と油の奇妙な混合臭が漂っている。これが据えた臭いってやつか。 ランタンを持った幎が部屋の中央で振り返る。影が僕らの周りをグルリと回り込んだ。 到着。ここが彼女の選んだ「契約の間」だ。 「僕の家にこんな地下室があったとは知らなかったよ。おあつらえ向きの場所だね」 単に忘れていただけなのだろうか。 屋敷の中央には2階まで吹き抜けのロビーがあるが、そこにある赤絨毯の階段の側面。一見ただの物置にしか見えない背の低い扉の奥には、ここへと続く石の階段が存在した。 地下だからか、空気はヒヤリと冷たい。照明はいくつか壁に設置されているが、そのどれもが弱々しくランタンの火が最も明るい光源だ。風もないのに揺れる炎に併せて2人の影も踊っている。 「……郁太様、契約を始めさせていただきますが準備はよろしいですか」 「それについてはジャストアモーメント。ちょっとまだ決めかねてることがある」 「はい」 決めかねていること……それは契約に差し出すモノを何にするか、だ。 「僕にだって自分の人生があるからね。あまりヤバいモノを契約して失敗したら目も当てられないだろ?」 「……」 「そもそも僕にはそんな大それた夢や希望なんてないし。せいぜい他人をうまく使って楽して生きたいってくらいだしさ。そうそう命までかけるような願望なんてないよ」 しかし、僕の軽口に幎はじっと僕の瞳を見つめて返す。 「……人は理性を持つ存在です。しかし、希にあらゆる理性を排除し自分を含めた世界そのものと引き替えにしてでも叶えたい唯一無二の欲望を抱く人間もまた存在します。ブラックデザイアが使用者に選ぶのは、そういう人物です」 なんだそりゃ。ひどい言い様だな。 僕は人間失格かよ? 「幎、それは違うよ」 「……郁太様、本の最終ページをご覧下さい」 「ん?」 言われて、僕は傍らに持っていたブラックデザイアを広げる。 最終ページまでペラペラとページをめくっていく。 「そこには使用者の持つ究極の欲望が記述されます。その本が深紅の魔力に満ちたとき実現する最後の欲望……何者にも代え難い、世界を破壊する……『黒い欲望(ブラックデザイア)』」 裏表紙に一番近いページが開く。 その中央に書かれた、一言の文字の羅列が網膜に飛び込む。 ──高原那由美を生き返らせる── 『ドクン』 え? 僕の中心で、「何か」が蠢いた。 それはドクドクと次第に鼓動を強め、回転を速くし、胸の奥底をぎゅるりと絞り上げる。 内蔵が逆転するような衝撃に、喉から熱いモノが吹き上がる。 「かはっ……は……ははっ……」 これが……こんなのが、僕の欲望? 「……はは……ははっ……ははははははっ! あはっ はっ!」 顔も知らない、名前しか知らない、産まれたとき以来一度も会ったことの無い妹を、命をなげうって生き返らせるのが、僕の、究極の欲望? 「あっははははははははははっ!! あはっ、はぁっ……!」 ……その通りだよ。 僕はお前の何も知らない。 お前の顔が僕に似ているか、似ていないのか。 お前がどんな体つきをしているのか、僕より身長は低いのか、高いのか。 瞳の色は何色だ? 髪は長いのか? 耳はどうだ? 福耳だったりしてな。まさかピアス穴は開けてないだろう? 唇はやわらかい? ハルと比べて違うのか? 同じくらいか? 爪は手入れが行き届いているんだろうな。むだ毛の処理もバッチリか? 下着は何色だ? お嬢様学校に通っているからって白しか着ないってことはないよな? お前もカップのサイズで悩んだりするのか? ダイエットしようとして胸が縮んでショックを受けるのか? お前は幸せか? 家族に囲まれて不満は無いのか? 父親の不在を嘆いたことは? まさか僕という兄貴がいることを忘れていたりはしないよな? 学校は好きなのか? 星漣で憧れの存在となって満足か? 周囲からちやほやされて天狗になっていないのか? いっちょまえにコンプレックスを持っていたりはしないのか? 趣味は何だ? 僕なんか想像もつかないような高尚なものか? 癖はないのか? 無いつもりでも7つはあるのが癖だぞ。 僕は知らない。 何も知らない。 お前のことなんか、これっぽっちも知らない。 死んだお前が無くしたものなど、全く興味無い。 だけど、お前の全ては僕が取り戻す。 お前の命も、腕も顔も唇も瞳も耳も髪も脚も爪も尻も胸も、人生も、魂も、内蔵も、骨も、意志も、夢も望みも、居場所も幸福も! 全て! 全て! 全て! 僕が取り戻してあげるよ! この僕が……お兄ちゃんが、生き返らせてあげるよ! だから お前は お前の全ては この僕のものだ!! 地下室に引きつれたような笑い声がこだまする。 笑いすぎで喉から血が吹き出そうだ。 かまうもんか。 祝え、笑え、踊れ、狂え! 心臓の奥から吹き出すものに酔い痴れろ! 欲望の灼熱に脳を灼け! 僕は今日、悪魔と契約し、この世界に反逆する──。
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