2013年、松の内も明けたばかりのある夜、私は都内の某飲食店で数人の仲間たちと、ある男の話を聴いていた。
プライベートな会合であったが、男はスーツをかっちり着こなし、しかし、しかしそれでいてリラックスした口調、柔らかい物腰で応じていた。
男はボクサーとボクシングとボクシング界について語っていた。
ボクサーの経験もレフェリーの経験もあるというこの男は、以前「ボクサーが一番大切なんです。」と語っていた。
* * * *
「以前」というのは、この会合に先立つことおよそ1月前、西暦2012年12月某日のことだ。私はこれも都内の某喫茶店で、この男に会っていた。
「ボクサーが一番大切なんです。」
「だから、判定はしっかりしてやらなければならない。」
「レフェリー、ジャッジの研修は厳しくやりました。」
「といっても、ジャッジの難しい試合、際どい勝負はあります。そういう試合のことではなく、どう見てもその判定はないだろう、そういう試合は無くすよう徹底したんです。」
「試合後の反省会で、3人のうち他の2人が赤につけているのに、なぜあなたは青につけたのか、どこをどういうふうに見てそうつけたのか。それをはっきりさせる。そこを徹底してやったんです。」
レフェリングやジャッジの公正性を期すことに関して、男はこうも言っていた。
「ドン・キホーテと言われてもいい。」
「世界から見て、そこまでしなくても言われるかもしれない。でも、日本が世界を変えるぐらいのつもりでやらないといけない。海外は―」
「海外は―」の後、男は同じ言葉を二度言った。それはここには書けない言葉だ。
私はこの男の話を聴いて、JBCがWBCから表彰された理由が分かった気がした。CであれAであれ、ボクシングの世界タイトル認定団体にしてファミリービジネスという意味不明の取り合わせの組織であるにしても。
ちょうど報道でAIBAが日本の村田諒太選手にAPB(AIBAプロフェッショナルボクシング)への参加を呼びかけたことが話題になっていた頃だった。私自身は、ロンドン五輪で見たアマチュア・ボクシングが非常に楽しめたという話をした。プロの試合では、ラウンドごとの優劣の積み重ねが必ずしも試合全体の印象に合致せず、それが見る側にとってフラストレーションになることがある。アマの試合は有効打のポイントを積み重ねてゆくので、その決着が非常に明快で、集中して試合を見ることができる。どこでリードしているか、どこでひっくり返されたかがはっきりしている。(実際には不可解な判定も多く、銅メダルの清水聡選手の場合は試合結果が覆るという前代未聞の事態も生じたが。)
そのアマボクシングがプロ化することについて、私はある期待を抱いていた。それは黒船理論のようなものだ。
現在のプロボクシング界について私が最も強く感じる不満は、レフェリー、ジャッジの不公正である。ホームとアウェーをはじめとして、人気選手やプロモーターに配慮したと思しきレフェリングやジャッジが横行し、それが当たり前と受け止められている。本来ならば少なくとも建前ではフェアでなければならないレフェリングとジャッジが、むしろ、アンフェアであることが建前であるかのような観を呈している。倒錯した世界である。ファンは試合を見る際に、下手をすると選手よりレフェリーやジャッジがどのようなバイアスで職務を遂行しているかに神経を使わなければならない。そうして時として、実際に出た勝敗とは別の勝敗表を自身の中に作らなければならない。他の採点競技でも同様のことはあるだろうが、その頻度の高さは他競技の比ではなく、それを改善する意欲の無さについては断然他の追随を許さないものがある。結果、このスポーツは面白いと気軽に人に言える状況ではなくなり、見る術をある程度心得ている人同士でのみコミュニケーションをとることになる。このようなものはスポーツと呼べるのか、見るに価するのか、そんな疑問に抗しながら観戦しなければならない。
そんな現状のプロボクシングに、ポイント加算式で試合全体の流れと結果に齟齬が生じにくいアマボクシングが参入し、そこに従来のプロ選手も自由に参加するようになればどうなるか。しかも、そこで例えば長谷川vsモンティエルの再戦が行われたら、…なんて妄想はともかくとして、ジャッジの公正なプロボクシングが登場して人気を博し、プロボクシングのパイのそれなりの部分を奪うことになれば、従来のプロボクシングサイドも、レフェリー・ジャッジの公正性について是正を図るのではないか、そういう期待である。つまり外圧による内部改革である。
私は男にその話はしなかったが、男はAPBについてこう言っていた。
「難しいですね。興行のセンスが一番のネック。ワールド・シリーズ・オブ・ボクシングも成功しているとは言い難い。」
「ヘッド・ギアを外して、採点法も(現在の)プロと同様にする方向です。」
このあたりを聴いて私は落胆した。採点法はもちろん、ヘッド・ギアを外すというのもそうである。ヘッド・ギアをつけているメリットは、カットによるストップのリスクが少ない点だ。これまでプロボクシングの試合では、カットによるストップで何度も消化不良の試合を見せられた。そうなる前からヒヤヒヤして見なければならなかった。それがなくなるのは安心だと思っていたのだが。
それでも、APBが新しいプロボクシングとして発展することを私は期待している。AIBAもスキャンダルが絶えないが、採点の公正化への努力をしているだけでも評価できる。チャンピオンは各階級一人であり、オリンピックという強力なブランドもある。参加基準を緩和すれば既存のプロボクサーの参加は増えるのではないだろうか。
男は、現代におけるスポーツの価値と可能性について力説した。
「これからはスポーツの時代です。」
「かつて肉眼で数えられるほどの観客の前でプレーしていた日本のサッカーが、Jリーグができたことによって現在では日本のトップのプロスポーツとなっています。かつてその可能性を信じた人間がどれだけいたでしょう。ボクシングが可能性を捨ててはいけないんです。」
* * * *
男との正月の会合で、仲間の一人がこういうことを言っていた。
「元ボクサーのボクシング関係者Sさんが、あの男は問題あるでしょ、と言ってたんですよ。Sさんはかなり客観的に物事を判断する人物なので、そのSさんまでそういう見方をしているのかと思って、ちょっとびっくりしました…」
私はこの話を聴いて、男についてのSさんの心証は、おそらく報道やネット上で流れた情報が、その真偽が糺される前に一般化したものであるだろうと思った。つまり、これだけ報道されているんだから、何もなかったことはないだろう。何かしら問題があったから、ここまでの騒ぎになったんだろう。そうでないと、ここまで人が動いたことが説明できない、と。
これは情報が十分に行き渡らない場合の世間一般の人間の極めて普通の反応である。火のないところに煙は立たない。実際私にしてもそうだった。
そうしてその一方で、騒動の際にあまり自分からは情報発信をしなかったことで、「有罪」の世論が広がったことに、この男自身幾許(いくばく)かの責任はなかったのだろうか、そんな疑問を抱きつつ、私はその夜、男の話を聴いていた。
男は、自分が属していた組織でしてきたこと、組織がいかに男を陥れたかということ、現在組織がいかに運営されているかということ、現在裁判では何が争われているのか、そしてもちろん、現在のボクシング界、未来のボクシング界について語った。
あまりに多くを語ったので、ここで一度に全てを書くことはできない。ゆえに、ここではその一端を紹介するにとどめるほかない。
男は組織が提出した不正疑惑についてはすべて真っ白だと証明できると断言した。また、組織がこれまで内部留保として蓄えてきたもの(億単位のお金)は、今後数年で消費し尽くされそうになっているとのことだ。彼の任期にとどまらず先人たちが半世紀以上に渡って積みあげてきたこのお金について、男はこう言っていた。
「そのお金を元手に、ボクサーのために病院を作ることもできる。」
男は引退後のボクサーのセカンド・キャリア支援のために、警察への就職の道を開いた。結果的に成功を収めたとは言い難いとは彼の弁だが、それを実現させるために彼がしたのが暴力団排除である。それがボクサーに警察への就職の道を開くために必要であることは自明であろう。それがいかに困難であったかは想像しにくい。しかし、それがいかに危険なことであるかは容易に理解できる。誰のためか。ボクサーのためである。
男が情報発信しなかったのはなぜだろう。男の話を聴いていて、そんなことはどうでもよくなっていた。
少なくとも男は自分が正しいことが分かっており、その裏付けもあり、「有罪」の世論・風評に動ずることなく、また芯の部分がいささかも傷つくことなく今に至っている。そしてこれまで信を得ていた内外のボクシング関係者から今も変わらぬ信頼を得続け、ビジョンを描き、そして何よりもボクサーとボクシングへの愛と熱を持ち続けている。ボクシングを語る男の姿からそう私は感じた。
裁判に訴えたのも、それが一番の近道だと判断できたからであろう。ネットを使っての反論をしなかったのも、そういうことだったのではないか。
Sさんが男に持った心証は、2011年6月から私が持ったものと同じである。そしてそれは2012年12月、男に会って話を聴く日をもって終わった。
リセットされたのである。
欠席裁判ともいえる状況で社会的に抹殺されようとしているこの男と話したことによって、偏った情報を基に持っていた印象を私は一旦脇に置くことができた。そしてこれから彼の言葉をもう一度精査し評価をし直す必要がある。(もう一つ偏りを是正するためには、現JBCスタッフに直接話を聴く必要もあるだろう。)
ところで、私が男と会うのは、ボクシングへの関心からである。その関心とは、2011年6月の騒動での関心、つまり、「安心してボクシングを見たい」、それである。私の目的はこの男ではないが、この目的のためには、この男が必要ではないかと思っている。少なくとも男は、ボクサー、ボクシングのために全身全霊を傾けて働いてきた。そう感じるからだ。
私が市民団体(笑)に参集したのも、正常に試合運営されるボクシングを見たい、そのためには運営組織が正常化されるべきだ、そのためには疑惑が生じている人物について完全に独立した第三者機関による調査を行うべきだ、そういう考えからだった。それは今も変わっていない。
それは今、裁判という形で実現しようとしている。日本の司法あるいはそもそも裁判そのものがいかに信用ならないとはいえ、現在望みうる最も公正な機関・手続きだと私は思っている。まずはその結果を待ちたい。
私が男に最初に会った時、男はここに書けない言葉を二度繰り返した。この男にしては珍しく、吐き捨てるように。いやそれも彼の本当の姿なのだ。それは怒りであり、呻吟であった。
その言葉は私の胸に響いた。
先に店を辞した私は、帰宅後仲間にメールを送った。以下はその一部である。
もう5年以上前になると思いますが、どこかのサイトで安河内氏のインタビュー記事を読んだことがあります。たしかボクシングのルールについてだったと思いますが、その説明の分かりやすさと誠実さが強く印象に残っていました。ファンの素朴な疑問も決して侮らない、そんなところがありました。あの騒動の際にも「そんな人ではないと思っていたが」という思いもありましたが、「権力の座にいて変わってしまったのでしょう」という4時起き氏の言葉に「そういうことも確かにある」と思うしかありませんでした。そうではなかったことを私は心から喜んでいます。
byいやまじで
追記
男の印象はどう言ったらよいのか。話で、「頭は切れるが人望がない」と聞いていたが、それとはちがう。「頭が切れる」人間は怜悧さを感じさせるものだがそれはない。「人望」については長い時間を過ごさないとわからないからノーコメントだ。私は仕事柄、事務次官クラスの人間まで話をしたことがあるが、その落ち着きに近いものがある。明快でブレがないが、色や当たりを感じさせないスムースさがある。世界中の魑魅魍魎とネゴシエートしてきたその練磨ぐあいがこの男のクセのなさ、つかみどころのなさに結びつくように思われる。しかし、それでいて熱い。ちょっと茶目っ気もある(笑。これがこの男の私にとっての像である。
このブログのメンバーが集まった経緯は、既に各人の記事で述べられている通り、拳論主導で結成された市民団体(笑)がきっかけでした。
そして、その後起こった様々な出来事について説明してきたわけですが、では、そもそもその市民団体(笑)が出来たきっかけとなった「JBC問題」とは、一体なんだったんだろうか?という疑問が当然に浮かんできます。
それまで、色々な業界の方と会うことで、真に実になる情報を集める作業をしていましたが、ことJBC問題に関しては、直接的な情報や証言というものに触れてはおりません。と言うのも、普段私たちが接しているのはプロモーター・会長・トレーナー・選手といった、いわば「業者サイド」の方々である為、JBC問題についてはほとんど語られることがなかったからです。
そういう方々は、いい試合・いい興行をするべく努力しているわけですから、そのような話題の流れで「コミッションの役割」といった話になることはあっても、「いつだかの揉め事」についてわざわざ語る必要もないというところでしょう。
そういう時の当ブログのスタンスは「とりあえず当事者に会っちゃえ!」なんですが、さて誰に会ったらいいものか?
市民団体(笑)がまだ存在していた頃、私たち(団体メンバーのみならず、拳論の読者も)は主に拳論サイドからの情報を基に「安河内はけしからん!」と息巻いておりました。
思い返せば、亀田一家についても、ランダエタ戦までは各メディアがこぞって持ち上げている状況の中で異を唱えていたのが拳論であり、「本質を鋭く突くジャーナリスト集団」という信頼感から、これはきっと何かが隠されているに違いないと思いこんでおりました。
しかし、市民団体(笑)結成後間もなく、安河内事務局長の降格が発表され、その頃から雲行きが怪しくなっていきます。
まず、安河内氏の降格という結果を出した「改革派」ですが、当然 益々気合が入ってるかと思いきや、その後伝わってくる声は「ファンの皆さんは、今はとりあえず見守っていてください」なんていう元気のなさ。
このおとなしい発言のことは、4時起き氏の口からも、また他の人経由でも聞きましたが、しかしそうなると「それじゃあ我々は当面何をすればいいんだろう?」と戸惑ってしまい、そうこうするうちにボク愛さんの除名騒動があり、なし崩し的に市民団体(笑)の活動はフェードアウトしていきました。
ちなみにこの当時、私たちの行動の根拠となっていたのが、安河内氏に対する「20項目に及ぶ告発」と呼ばれるものです。
これは、正義に燃えるJBC職員・試合役員たちが、氏の悪行を詳細に調べ上げたものということでしたが、私たちは現物を見ていないので、どういった内容かわかりません。
ただ一度だけ、市民団体(笑)の第一回会合の前日に、K記者・4時起き氏・ボク愛氏・私・オマケもう一人、というメンバーで会合を持った晩に、その告発文のコピーを少し見せてもらったことはありました。
私はその時点で、これが翌日の会合でテーマになる為、その前に自分に見せてくれたものと思い、何なら持って帰っていいのかな?くらいに考えていたのでノンビリ斜め読みしていたら、K記者から「あ、じゃあ一旦返してください」と言われて取られちゃったので、ほとんど内容を覚えていません。
翌日の会合でも「こういった内容の告発がされました」という発表のみで、現物の提示はなし。
その時は「やはり外部のファンにおおっぴらに見せちゃまずいんだろうな」と納得するしかなかったですが、結局その後、告発の内容も、その調査の結果もわからないまま、「ファンの方は見守っててね」状態になってしまい、出てきたのは結局「(不当に入手したと思しい)フグの領収書」のみという結末でした。
それからは、これも各人の回想にある通り、ドタバタとしたことが続いたんですが、これまで「彼ら」がやってきたこと(それはJBC問題に限らず、それ以外のことも含めて)に関する情報や証言を集めていくと、見事なまでに同じパターンの繰り返しで、もはや「様式美」のレベルに到達しているといってもいいでしょう。実際このブログにも、かつて「彼ら」と関わったことのある方々からメール等をいただいております。
そう考えると、あのJBC問題で私たちが「彼ら」に刷り込まれていた事柄の大部分は、もうその時点でかなり怪しいと言わざるを得ない。
ならば、星の数ほども挙げられていた疑惑について、まずご本人に聞いてみよう、ということになりました。
皆さんご存知、安河内剛さんです。
かつて「日本ボクシング振興会」という仮面を勝手に被らされて、好き放題叩かれていた勝又会長にお会いしたのと同じパターンです。
真偽の判断は冷静にしなければならないですが、少なくとも肉声による生の情報は、それだけで一定の価値を持ちます。誰かさん達の大好きなネット上の噂や都市伝説の類は、真剣な議論にはまったく不要です(というか、自らバンバン嘘っぱちを流布するから余計にタチが悪いんですが)。
そんなわけで、以前から私たちは「一度、安河内氏からも直に話を聞きたい」と思っていたものの、すでに業界から離れた方ですし、そう簡単に会えるとも思えないので、特段その為に努力をしたわけではありません。
そんなある時、安河内氏とつながりを持つ方とご縁ができ、その方のご尽力で会う約束をしていただきましたが、当日を迎えるまではかなり緊張しました。
勝又会長の時も、それまでネット上で散々悪党だという刷り込みをされてましたが、私が会う前にすでにボク愛さんがお会いしており、その時の様子を予め聞いていたので、個人的には安心して(笑)会うことが出来ました。
しかし安河内氏の場合は、まったく想像がつきません。
よく写真で見る表情は、眉間にしわを寄せた厳しい顔つきが多く、ウソかもしれないとはいいながらも、あれだけの悪事を遂行したという話を聞かされているので、「現時点で、何の足しにもならないファン風情と会うなんて、何か企んでいるんじゃあるまいな?」なんてことまで考えてたりして。
まあ企み云々は冗談にしても、互いに慎重に言葉を選び、「先に口を開いた方が負け」的な、緊張感バリバリな会談を想像していました。しかし…
人はみかけによらないとはよく言ったものです。
待ち合わせた店に入ってきた安河内氏の第一印象は、「愛想と調子だけはいい車のセールスマン」といった感じ(笑)。いや、あえて想像とのギャップを表す為に失礼な書き方をしてしまいましたが、一気に場の空気が緩みました。
お酒は飲まない方なんですが「いや、僕はコーラだけでテンション上げられますんで!」とか、すすんで料理を取り分けながら「いつもこんなことばっかやらされてるんですよ、ええ。もうホントにキャバクラとか連れてってもらったことなんかないんすから(笑)」といったキャラクター。
自らの性格を「超楽天的、楽観主義者で、胃が痛くなったことがない」と言う安河内氏。
そんな方ですから、今まで4回お会いしてますが、いずれも時間を忘れてボクシング談義に花が咲きます。そんな氏の人物像やボクシング観等についても記事を書きたいと思いますが、まず今回私が書くのはあくまでも「あの頃のJBC問題について」です。
といっても、氏にかけられた疑惑はハンパな数じゃありません。
お会いした計4回で、(普通のボクシング談義や雑談も含めて)お話した時間はトータルで20時間をゆうに越えていますし、地裁へ行き公判資料も調べました。
それらすべてを書いていたらいつまでかかるかわかりませんので、詳述するのはいくつかに絞って書きたいと思います。
ただしおことわりしておきますが、いくら人間的な部分で好感を持ったからといっても、安河内氏にとって有利になるほんの一部のことだけを大きく取り上げ、その他大部分の都合が悪いところは省く、なんてことはしてませんので。
普段自分がそういうことばっかりやってる人ほど、そういう難癖つけてきそうですけどね。
また現在、安河内氏含め数名の方の裁判が進行中ですので、事実認定等に関して安易に断言はいたしません。あくまでも「この人はこう言ってる」「このことはここに記録されている」といった書き方に留めます。
ただ当然、それに対する「私はこう思う」「それは信じられない」といった自分の意見は書いていきます。
今まで色々な業界の方とお会いしましたが、私にとってこの安河内氏との出会いはインパクトがケタ違いにデカいです。
上にも書いた通り、ご本人について勝手に抱いていたイメージとのギャップもそうですが、その口から語られた数々の出来事には圧倒されっぱなしでした。
今は書けないこと、今後書けるかもしれないこと等たくさんありますが、まずは第一弾を次稿でお届けします。
(ウチ猫)
桜宮高校の自殺事件は高校の部活のあり方、スポーツ指導現場の旧弊、相も変らぬ教育関係者の隠蔽体質などなど日々様々な問題を投げかけるとともに、橋下市長の存在もあって国民的議題の様相すら呈して来ております。朝毎のようなリベラルから産経や文春・新潮と言った保守系まで横断的に入試中止の判断を総批判してますが、大阪市民でもある私は市長の対応は極めて妥当なものであると思います。学校内で指導の名の下に体罰が常態化していたならそれこそが異常事態であり、自浄能力が期待できないと断ずるのは当然の事です。まして進学や就職の為に体罰への忍従が求められていたとすればそれこそ教育の自己放棄であります。右も左もメデイアの寵児である橋下氏を批判せんが為に「体罰はいけないがしかし」と言った没論理的な批判を繰り返していますが、それこそが事件の政治利用であり死者への冒涜であることをまず知らねばなりません。そもそも大手メディアは野球=朝日・毎日、サッカー=読売、バレー=産経、ラグビー=毎日とすべて高校の部活でビジネスをしています。彼らには「勝利至上主義が問題」などと言う資格はもとよりない、どころか勝利至上主義の元凶はメディア自体にあるとさえ言えるのではないでしょうか?
そんな高校生相手でも論外と言われる体罰事件が柔道のオリンピック女子代表チームでも行われており監督・コーチがトップ選手たちに連名で告発されると言う情けない事件まで発生するに至ってはもはや脱力するしかありません。聞けば園田監督の暴力は現場取材していたスポーツ記者には周知の事実であったようで、なんのことはないお馴染みのメデイアとの共犯関係の構図であります。柔連に告発をもみ消されかけた選手達は体罰事件で騒然とする世情の中上部団体であるJOCに告発する事で初めて事件を明るみにすることが出来ました。柔道連盟が徹底的に隠蔽した結果、露見するタイミングが内柴政人選手の実刑判決とバッティングしてしまい間抜けの二乗とは…。ヘドロのように滞留した腐敗を現役のトップ選手に告発されているようでは柔道連盟の国際舞台での発言力の一層の低下も避けられそうにありません。学校体育での必修化という『利権』作りに腐心するよりも先にやる事があるんじゃないの?と感じざるを得ません。
事件の原因を個々のコーチの資質のみに焦点する気は毛頭ございませんが、報道においては必ず桜宮高校のバスケの監督や豊川高校の駅伝のコーチ園田監督まで「熱心な指導者だ」という世評がOBや父兄の声として『両論併記』と言う形を取って紹介されます。「熱心だから手が出る」「真剣にやっているから指導の延長として殴る」「期待の表れとして叱咤激励する」と言う論法であります。往時の青春ドラマなどでも家族の愛情に飢えた不良学生が教師に殴られて「先生みたいに真剣に怒ってくれる人初めてだよ!」と感激するシーンがあったりしましたが、シリアスに向き合えばこそ暴力が肯定されると言う短絡な思考にこそ実は重大な陥穽があるのです。一連の体罰問題で積極的に発言されているスポーツライターの玉木正之さんの日記に重要な指摘があります。以下に引用します
『スポーツとは何か?ソレは暴力的な営みをルール化して非暴力化したゲームであるということ…つまりスポーツとは反暴力で暴力から最も遠く離れた世界にあること…ということを日本の柔道(スポーツ)指導者が全然勉強してこなかった証拠』
この簡潔にして至当な一文を読んで感じたのは私が過去記事で書いた榎洋之さんの見解と全く同じだと言う事です。バイオレンス、戦争の技術であったものをゲームへと昇華した格闘技の世界でも「真剣にやっていればこそ」というエクスキューズをつけて暴力への短絡な回帰が肯定されているという現状は憂慮せざるを得ません。スポーツが現状「戦争」であるからこそ戦死者が出てしまうのか?オリンピック招致を控えてスポーツの再定義が必要だと思います。
橋下市長は好き嫌いを超えて認めざるを得ない点が多々ある(旧徳山と長谷川が好きです)
補論 その後の体罰問題
バスケの推薦で体育大学に行った職場の同僚G君に色々高校バスケ事情を教えて頂きました
私「週刊文春で自殺した彼は『桜宮でキャプテンをやっても推薦で大学に行けるわけじゃない』という現実を知ってショックを受けてたって報道があったけど」
G君「県代表のキャプテンやったくらいではなかなか推薦は取れないですよ。大体全国ベストエイトでレギュラーになったくらいの選手からが対象です。バスケは結構狭い世界で中学卒業の時点で高校→大学→実業団というコースが学閥や人脈で決められてしまうんです。なかなか本人の希望で大学や社会人チームが選べない。しかも一回コースをそれると他のコースに入りにくい」
私「じゃ転校して続けると言うのも大変なわけだ」
G君「相当うまければ別ですけどまあ無理ですね」
私「バスケ界の人脈主義が問題ってこと?」
G君「トップリーグがBJと日本リーグで分裂してるくらいですからね。派閥争いが凄いんです」
私「あのコーチはU-16の代表コーチで優秀だって報道もあるけど」
G君「本当に優秀なコーチは学校や実業団の自分のチームに集中したいから代表のコーチは受けないんです。やりたいという人がやってるのが現実じゃないですか?
私「じゃ彼はコーチとしては日本のトップじゃないってこと?」
G君「全然。だって全国大会で勝ってないでしょ」
大変勉強になりました G君ありがとう
メールを送ろうとしてPCを開いたら、ヤフーのトップ画面に -「デスブログ」いじめの指摘- という記事を見つけました。
とあるタレントのブログに書かれた人や会社・団体などが次々に不幸になる為、「デスブログ」なる呼び方をされているそうで、この山口浩という駒澤大学の教授は、そうした風潮がいじめを生み出す温床であると考えておられるようです。
内容以前に、この文章を一読して、なんだか文章の書き方が私に非常に似てるような気がしちゃいました。
別に私が大学教授並というわけではないですよ。ただ、この山口教授という方は、ちょっとした言葉尻で誤解を受けたりしないように、非常に丁寧に書いたんだろうと思います。
「突っ込まれる隙を与えないように」というのではなく、「正確に意図を伝えようとして」という意味で、です。
ネット上の文章で意思を伝えるには、面と向かった会話より遥かに慎重な言葉の選択が必要だと思いますので。
※しかし実際のところ、私は製本という仕事の性質上、論文集や紀要等を多く扱ってるんですが、特に理系学生・エンジニアといった人たちの作文能力の低さは少し気になります。
で、肝心の中身ですが、文章に対して勝手に親近感を抱いたからということでもないですが、まあ言わんとするところは理解できますし、概ね賛成できる内容だと思いました。
ただ、もし自分がこのテーマで文章を書いて公の場で発信するとしたら、この山口氏のように「いじめの温床そのもの」と断じているところまでは書けないです。今初めてその「デスブログ」なる名前を知ったばかりで、そこまで考察を深めてもおりませんので、せいぜい「いじめの温床ではないだろうか?」と疑義を呈するところどまりでしょう。
その後、画面を下にスクロールしていきますと、一般の方々の意見・コメントが表示されているのに気がついたんですが、ここを読んでちょっと考えてしまいました。
多かったのが「ネタに対してマジレスすんなww」これに近いものに「ネットと現実を混同するな」あとは「このタレントだって売名出来て喜んでる」などなど。
コメンテイターの方々は、在籍してる高校や大学を書いたり(学生か教師かはわかりません)、会社名を書いてる人の中には社長さんも多くいるのですが、これが世間の普通の反応だとしたら恐ろしいですね(大学生だとか社長とかいうのがハッタリで、ただのネットオタクだとしたらまだ安心ですが)。
この山口氏の意見に反対する意見がバンバン出ることは一向に構いません。しかしそこで見た多くのコメントは、意見と呼ぶにも値しないものが多すぎます。
「ネタにマジレスすんな」については、お前のそういうコメントこそ不要だろ、と言わざるを得ないですね。
この山口氏の着眼点が、「ただのネタに過ぎない些細なことを、殊更大げさな問題にまで発展させている」というのであれば、それが「ネタ」であること、いじめの問題とは異なることを筋道立てて説明すべきです。
そもそもこの「マジレスすんな」ですが、私が見る限りこの言葉を使う人間は、「みなまで言わないが、マジレスする必要などないことが分かってる」というのではなく、単なる思考停止に陥っていると思われる場合が多いです(明らかに全員が、おふざけのネタとわかってやってる場合は除きます)。
「ネットと現実を混同してる」というのも意味不明ですね。あのタレントのブログを「デスブログ」と揶揄してるのはネット世界でのことだから、現実世界でのいじめ問題と同列に語るな、ということでしょうか?
だとするならば、これもやはり同列に語れないことを説明しなければ不十分、というか、反論になりません。
いやしかし、ホントに意味がわかりませんので、わかる方がいたら教えてください。
あと「タレント本人も売名出来て喜んでる」ですが、これは本人がそう公言してるんでしょうか?
仮にそうであったとしても、そこで扱われているのは実際に起きた事件や事故で、少なくとも関係者にとってはマイナスな出来事ばかりなんですから、そういうのを「ネタ」にすること自体不健全だと思いますがね。
よく、災害や刑事事件の被害者や遺族がテレビに出たりした際に起こる「被害者バッシング」に通ずるものを感じます。
ネット世界の住人たちの典型的な考えだと思ったのが、かなり多くの賛成(いいね!とかいうヤツ)を集めている意見で「もともとこの話題で騒いでるのは一部だけ。この記事が出てより騒ぎが大きくなる方が問題」という主旨のもの。
騒ぎが大きくなったら問題になるようなことだけど、一部でこっそりやってる分には放っておけばいい、という考えだとすればおかしいと思います。
実際に何人が見てるとか話題にしてるとかいうことに関係なく、インターネット上で発信する以上は、全世界で閲覧できるわけですから、匿名であっても「公共の場」での意見だと自覚すべきでしょう。
この方、いじめ問題を学級会で取り上げるのもよくないと言ってますが、これはその後の報復が激しくなることとかを指してるんでしょうか?
じゃあ見て見ぬふりをしていじめを放置しろ、というわけではないでしょうから、多分個別に相談や指導をした方がいいということなんでしょうが、それならそれで、その方法がなぜ優っているかを説明しなければ適切な反論になりません。
結局、「ちょっと気のきいたコメントを思いついたから書いてみただけ」じゃないの?と思ってしまいますね。
最後に「でも実際にそのブログと出来事が一致してる!」と力説してる方々ですが、大半が冗談で言ってるとは思いますが、もし本当にそう思ってる人がいるとしたら、山口氏が言うように小学校から行き直すか、しかるべき病院で治療を受けることをおすすめします。
ちょっと目にした記事について、こんだけのマジレス長文を書いてしまったのは、まさに私たちが今、ネットとの付き合い方や使い方についてあれこれ考えているからだと思います。
この山口教授、いじめの問題について興味深い着眼点から意見を述べてますが(いじめ「根絶」をめざしてはいけない)、このデスブログ騒動がいじめに相当するかどうかは、様々な意見があるでしょう。まさしく氏が言うように、明確に「いじめだ」「いや、いじめではない」という線引きは難しいかもしれません。
しかしネット世界の言葉であっても、機械が勝手に送信してるわけではなく、生身の人間が発信しているんですから、根本的な人間同士のコミュニケーションをおろそかにしてはいけないと思います。
ですから、友達との会話の中で「デスブログってホントに的中するなw」と話すのはいいと思いますが、それを公衆の面前で(=ネット上などで)堂々と話すのはちょいと品性に欠けてやしませんか?と思いますし、さらには、デスブログ祭りを批判する記事に対し、反論をするなら、多少なりとも根拠を示したものでないと、ただの難癖にしかならないと思います。
今年は、それぞれ自由に意見を発信しようということになったので書いてみました。ですから当然、我らがメンバーの中にも反対意見はあるかもしれませんが、もしそうであればそれも聞いてみたいと思いアップしました。
なんせネット初心者のオジサンですので、賛成・反対に関係なく、ご意見やご教授をいただければ幸いです。
(ウチ猫)
回顧録8の最後で、またも「とある出来事」なんて思わせぶりな書き方をしてしまいましたが、前回の「追記」の部分を読んだ方ならおわかりのように、私がお話しすることは、いずれも大したネタではありません。
ただ、もしこれまでの私の話を聞いて「ええーっ!」ともの凄く驚いたり、あるいは「次回がとても楽しみ」なんてことがあったとしたら、それはイコール「彼ら」の印象操作の巧みさやスケールの大きさ(それほどまでに、虚像と事実との乖離っぷりがハンパない)を表しているんだと思います。
ドンデン返しに次ぐドンデン返し…ミステリやコン・ゲームものの小説や映画みたいなものですね。私も大好きです(笑)。
さて、猫の件・ボク愛さんの除名・「Tさん発言」のトリプルコンボで、もうスブドコンビに用はなくなりました。
じゃあこれからどうするんだってハナシですが、私たちは彼らと違って、何の思惑も企みもありませんから、とりあえずは、相手の出方によって対応を考えようということくらいしかできません。
そこで、まずは私たちがリアルに接したことのある人たちと、膝をつきあわせて、お互いの顔を見てお話をしていくことにしました。噂がどうのとか、○ちゃんねるではこう書いてあった、とかいうのにはすっかり辟易してましたからね。
ただし、こちらは情報戦だとか印象操作などを仕掛けるつもりはなくても、あちらさんはその方面のプロですから、尻尾を掴まれることについては用心しなければなりません。
なんせ「一度直接会って話をしようじゃないか」という申し出をしたら、それが襲撃予告をしたということになってしまうんですから…いやはや恐ろしや。
ですから、会う人の人選や、何をどこまで話すか、といったことには、それなりに神経を使いました。
そんな中、○ちゃんねるを眺めている時に、あるコメントの中に信じられない言葉を発見したんですが、それが回顧録8の予告編にあった「とある出来事」です。
私の仕事は製本屋ですが、あの大地震のあった2011年の3月までは雇われの身でした。
もう10年くらい前になりますが、ちょうど前の会社を辞めて「さて、どうしようか」と思ってる時に、幼稚園からの幼なじみ(仮名・田中君)が、「まだ決まってないなら、ちょっとウチの工場(製本屋)を手伝ってよ」と声をかけてきたのです。
私の住む地域は、製本・印刷関係の小さな工場がたいへん多く、私の死んだ父親も同様の仕事を長くやってましたし、学生の頃には、その田中君の工場でバイトさせてもらったりしたこともあるので、「じゃあとりあえず」ということで受けました。
その後色々ありまして、その田中君は結婚を機に「やっぱりカタギの給料取りの方が固い」と工場を離れサラリーマンになり、田中君のオヤジさんが病気をしてからは私が仕事の大部分を任されるようになり、そしてそのオヤジさんが亡くなったのを機に、私は自分の名前を屋号にして、今に至ってます。
そして、驚いたことというのは、そのオヤジさんの会社名である「田中紙工(仮名)」という名前を○ちゃんねる上で発見したことです(「紙工」というのは製本関係の会社が屋号でよく使う言葉です)。
今であれば、何か変わったものを発見した時にはすぐ魚拓を取る癖がつきましたが、その時はまだ「師匠」の手ほどきを受ける前でしたので、どのスレだったかまでは憶えていません。しかし、拳論スレやJBCスレなどのボクシング板であったことは間違いありませんので、そんな名前が出てくるわけがないのです。
※その時、あまりに驚いたのであちこち調べたら、まったく別の板で「田中紙工」と「ウチ猫紙工(現在の私の屋号)」のことを書いたレスを一つ発見しましたが、それも前後の文脈に何の関係もなく、唐突にその言葉が出てきていました。多分彼らは、とりあえず色んなところに色んなことを書くのが習性になっているんでしょう。
彼らにとって、私たちは面白くない存在であり、大嫌いなんでしょうけど、直接関係のない人間の名前までポンポン出すということに、まったく抵抗を感じない、というのが本当に信じられません。
そもそも嫌われてるのだって、こっちはいっこも悪くないんですけどね。
前回でも話しましたが、敬愛さんやボク愛さんについては、毎日いろんなところで、平気で本名を晒した中傷が行われていて、本来怒るはずである私たちも、あんまり出過ぎて慣れてしまうような感覚になっちゃうほどでした。
ボク愛さんたちの場合は、そもそもの発端となったのは、「彼ら」が個人情報をダダ漏らししたせいだと確信していますが、その後あれだけ乱舞した書きこみの一つ一つについては、もう誰によるものなのかはわかりません。
全部が全部彼らだったら、そのマメさ加減に敬服するとこですが、便乗した人間が面白がって書いた可能性も充分あります。それほどまでに、ボク愛さんたちの個人情報は晒されまくってましたからね。
では、この「田中紙工」というのを書いたのが「彼ら」だと断じている理由は何か?ということですが、それは以下の通りです。
まず私の周囲の仕事関係の人間は、当然その名前は知ってます。が、私がボクシングを好きなことくらいは話したことはあるかもしれませんが、そんな他人の趣味に関心を持つヤツなどいませんし、ほとんど仕事の話と天気の話(紙は一度濡れたら一発で終わりなので)しかしないので、○ちゃんねるのボクシング板でそんな名前出して喜ぶヒマ人などおりません。
では、ボクシング関係で知り合った人は…となるんですが、当時、その人たちの中で「田中紙工」の名前を知ってるのは二人しかおりません。K記者と、拳論の管理人のH氏です。
H氏には、Mジムのスパー大会に参加するべく手を上げた時に、連絡先として「田中紙工」の住所と名前をメールしました。
K記者の方は、2011年5月19日の「ボクシングの日」イベント(チャーリー×湯場戦があった時です)のチケットが余ってますから行きませんか?と声をかけてもらった時に、じゃあ郵送してくださいますか?と言って、やはり住所と名前を教えました。
これ以外の人、たとえばボク愛さんや敬愛さんですら、「田中紙工」の名前は知らなかったのです。私が勤めていた工場の大将が亡くなって、今は自分一人でやっている、という経緯は知っていましたが「田中」という固有名詞は、特に教える場面もなかったので、話したことはありません。
この時、○ちゃんねるでこれを発見した時に初めて、「いや、この田中と言う名前はこういう名前なんですよ」と説明したんです。
敬愛さんの時は、「敬愛」というHNを知ってて、さらにその敬愛なる人物が「二階」に住んでること、その両方を知ってるのは誰か…ということで犯人を絞っていきましたが、今回はその時より容疑者が少ない…というか、最初からそのものズバリのお二人しか残っておりません(笑)。
あまりに多くのことを短期間に経験したので、いったい何を信じたらいいのやら、と悩んだこともありましたが、ここに至って私は「彼ら」に関して、自分自身の心の中でスッキリとした着地点を得ました。
何かまだ、知られざる意図が隠されてたり、まだ見ぬ他の人物がどこかで関わってる…などというややこしい事情があったりすることも可能性としてはありますが、どんな理由があるにしろ、少なくとも「彼ら」が、平気で他人の個人情報を晒したりウソをつく人たちであるということは確信できた。
これにより私は、完全に彼らと決別する覚悟が決まったんですが、これが私の中で一つのターニングポイントとなった「とある出来事」です。
なんだ、やっぱり大した話じゃねーな、とおもわれたかもしれませんが、これってけっこう大きなことなんですよ。
私はまだまだ彼らのレベルには達していませんので、確たる理由もなしに他人を非難したり中傷したりして喜ぶことはできません。しかし、一向に収まることのない中傷・自演・成りすまし…もう疑心が暗鬼を、グレムリンの如くポコポコ生み出しておりました。
かといって、「彼らはそんな人間のはずがない!」というような、彼らを信じたいと言う気持ちもほとんどなかったので(そりゃあ、あれだけのことが起こればねぇ)、きっちり区切りがついたというところです。
もともと私については、彼らもどう扱うか迷いがあったのか、ボク愛さんや敬愛さんに対する時のような攻撃はなかったですから、皆さんがビックリするような「こんな酷い目にあったんですぅ!」という事件は別にないです。
それでも、その死んだオヤジさんのフルネームまで出したりして揶揄してるのを見た時は、さすがに趣味の悪さに呆れましたけどね。
その後、このブログがスタートしてからは、彼らの方としても「よし、これで迷いはなくなった」と思ったのか、私の名前もあちこちで見るようになりましたが、逆に急激な変化はさけたのか、やはり強烈な攻撃はありませんでした。
凄いですよね。今までが酷過ぎたもんだから、本名とかをバラ撒かれたくらいでは「彼ら、最近は何もしてこないね」と感じるちゃうんですから。
「息をするようにウソをつく」という言葉があります。これは多分、呼吸をするのと同じように自然にウソをつくという意味だと思うんですが、私は彼らについては別の意味で「息をするようにウソをつき、息をするように他人を中傷する連中」と評したいと思います。
つまり、呼吸が止まれば死んでしまうように、彼らはウソや中傷をやめると死んでしまうのではないか。生きて行く為には常にそうしてないといけないのではないか。そう思ってしまうくらいに、しょっちゅうそんなことばっかりやってる、という意味でです。
振り返れば、拳論を、というか、あのコメント欄を初めて見た時は感激しましてね。
当時の私がPC初心者で(いや、今もですが)、他の掲示板やブログをあまり知らなかった、調べなかったということもありますが、本当に楽しい場所で、また可能性も感じる場所でした。
活発な意見交換だけでも充分意義がありましたが、その後ネットの壁を超えて市民団体(笑)にまで発展した時には、小さいながらも画期的な一歩と期待していたのですが、本当に勿体ないと思います。
今でもたまに拳論は見ますが、今のコメント欄は本当に人材が乏しいと感じます。
しかし、あの頃とかなり顔ぶれも変わりましたが、ごくごく数人、個人的に好きな人もいたりしますし、意見を発信する読者の数で言えば、やっぱり一番多い部類なんじゃないでしょうか。
拳論の価値はコメント欄にあり、ということは自他共に認めるところだと思いますが、まだまだ熱心な拳論ファンは確かにいます。
私たちはもう戻ることはありませんが、せっかくの縁でこうしたボクシングファンが集っているんですから、そのことを大切に、真剣に考えて欲しいんですが…まあそれは無理なんだろうなぁという諦観がありますね。
K記者にしろH氏にしろ、また観戦歴は浅いものの4時起き氏にしろ、ボクシングを見るのが好き、見て楽しいというのは本当だろうと思います。
しかしたとえば、某ジム会長を貶める為に、その所属選手を中傷したり、あるいは「あの選手にストーカーされた」なんてウソをついたりしてる時点で、私は彼らを「ボクシングファン」とは呼びたくない。
興奮したいから試合を見る・仕事のネタにしたい時はいい加減な記事でも出しちゃう・ネット上では都合のいいように持ちあげたり叩いたり…これではボクシングをエロビデオの代わりにしてるだけだとしか思えません。
勿論娯楽ですからそういう付き合い方でも大いにけっこうです。
私もお笑い番組を見ている時に、そこに出てる芸人さんの社会的地位について考察したり、有馬記念くらいは馬券買おうかな、とWINSに行った時に、国内の生産牧場の行く末を案じたりはしません。
そういう風に、ただ面白いから見てるけど、その業界がどうなろうと知ったこっちゃないし、その分野にリスペクトもない、というような人間は、ちゃんと分をわきまえて、「あくまで外から見てるだけ」「ヘタに口を開かない」というのがオトナの態度です。
客としての立場で、妥当な範囲で物申すのはもちろん構いませんが、口先三寸・ウソ八百並べ立て、面白半分に顔を突っ込んで引っ掻きまわすなんてもってのほか。選手やジム関係者はもちろんのこと、試合役員や協会・コミッションの職員だって、人生の大部分の時間をボクシングに費やしているんですから。
彼らはまだボクシング界の一員のつもりでいるのでしょうか。
「一人になってもやる覚悟があるかどうかですよ(ニヤリ)」とまで啖呵を切った4時起き氏は、今も頑張って市民団体(笑)をやってるんですかね。いや、一人になったら「団体」じゃないからただの「市民」か。
ちなみにこの方、2011年の11月に突然メールを送ってきまして、中身を見たら、清水智信選手の休養王者問題について書いてありました。清水が休養に追いやられ、テーパリと亀2号の試合が正規タイトルマッチになるのは許せん!というわけです。
この期に及んで私にこんなメールを寄越すとは、ちょっとネジが30本くらい抜けちゃってるんじゃないかと思いましたが、どうやら複数の人に同じメールを送っていたようです。
その後も元気で頑張ってらっしゃったようで何よりですね。盟友K記者に言わせれば、行動を起こすなら何か成果を上げなきゃ無意味ということらしいですから、そのうち新聞やテレビのニュースで「市民団体(笑)がボクシング界に革命を起こす!」なんて報道がされるでしょう。あー楽しみ楽しみ。
K記者も相変わらず多方面でご活躍のようですね。私らがこんなブログを始めて、さぞやご立腹じゃないかとヒヤヒヤしてたんですが、ある日彼からもメールが来ました。
要約すると、これまで色んなことがありましたが、ウチ猫さんにはお話しできなかったこともたくさんあり、まあとにかく今まで拳論ではお世話になりました…といった、なぜ今こんなメールを?という内容(その他固有名詞もいくつか書いてありましたが、もちろんここでは触れません)。
返事をしようにも、別に私は感謝されるほど拳論で活躍しておりませんし、その他のことについても、何があるか知らんけど「お話しできない」というなら、それ以上話が進まないので、そのまま放置しております。
さてさて、たかだか全9回で何カ月も引っ張った割に中身の乏しい我が回顧録でしたが、今回を以って一応終わりとさせていただきます。
もっと書きたいことがあったような気もするんですが、「完璧なものを!」と力んでズルズルここまで遅れてしまったので、とりあえず過去のことはこれで一区切りということにしましょう。
「彼ら」がやらかした色々なことを書こうと思えば、まだしばらくブログ更新のネタには困りませんが、上の方で書いた通りそんな趣味はありません。
勘違いされてる人がいるかもしれませんが、これまで書いてきたことは、別に彼らを中傷してるわけではないですからね。ただ一点だけ、敬愛さんのことについては許せなかったので、糾弾口調・罵倒口調になりましたが、あとのことに関しては、あの頃起こったことをありのままお伝えしようとしたにすぎません。
もしこれが中傷に見えるとしたら、これまたこの文の冒頭で書いたように、それほど彼らのやってきたことが酷いということですので仕方ないですね。
「A容疑者はBさん宅に押し入り、100万円を奪い取った上に、家に火を放って逃走しようとしたところを現行犯逮捕されました」というニュースを読み上げたキャスターに対し、A容疑者の父親が「俺の息子を強盗呼ばわりしやがって!酷い中傷だ、ぷじゃけるな!」と怒ったところで、誰も相手にしないのと同じです。事実を言っただけですから。
今のこのブログのメンバーは、自分たちのことがネット上で面白おかしく、ウソまみれで書かれたこと等については、もう怒るというレベルはとうに過ぎました。
先日も、回顧録8をアップした数日後、あちらさんは早くもビミョーな記事をあげたり、ご自身のブログのあちこちをひっそりと修正したりしてましたが、そんな風にネット上で右往左往したり、またはこそこそと陰口を叩くことに終始しているのを見ていると、本当に哀れに思えます。
ですから、ボロクソ言われた腹いせに…という気持ちはもはやありません。
ただ、彼らに踊らされた面があるとはいえ、あの頃市民団体(笑)に積極的に関わり、参加を呼び掛けたりもしましたから、少なくともその時の読者さんたちには説明する必要があると感じたことが一つ。
あとは、とりあえずブログの形式で発信していくとなったのですが、いざ始めてみて、様々な人たちとお会いして話をしていくうちに、あれやこれや色々やりたいことが出てきました。
その時、やはりこれまでをきっちり総括して区切りをつけておかないと、これからの一歩は踏み出せないと思ったのがもう一つの理由です。
どちらかといえば、このようなことはすすんで明かしたいことではないですからね。みっともないので。
今後おいおいお話ししていくことになるかと思いますが、ボクシング界の現状は決して明るくない…というよりも、お先真っ暗と言っても過言ではないような、厳しい状況が待っていると思われます。
たかが数人のファンの集まりではありますが、なかなかどうして「やってみたらできた」ってことがけっこうありまして。また、利害関係がないゆえの強みというのもあり、少しでも何か力になれないか、その方策を色々模索しております。
皆さんにも何かお願いや呼びかけをすることもあると思いますが、その際は是非ともお力をお貸しいただければと思います。
回顧録について、もし何かに訊きたいことがある方は、コメント欄にお書きいただくか、メールでお願いします。答えられる限りにおいては何でも答えますし、「これは答えられない」「このコメントは承認できない」という場合には、その理由をきちんと明示して答えとさせていただきます。
長らくのおつきあい、ありがとうございました。
(ウチ猫)