「中国に染まれ」と言うは易し
当時、認可を受けるために国務院から要請されたのは、以下の3点だった。
1つは「POSシステムによる単品管理の導入」、2つめが「中流階級のニーズに合った品揃えとサービスの提供」。そして3つめが「先進国の社会習慣によるイベントを導入した活気ある店づくり」というものだった。
「要は『中国の小売業改革』を任されたわけだが、ただシステムを持っていけばいいというものではなかった」と、麦倉さんは振り返る。
赴任に際して麦倉さんは、当時の成都イトーヨーカ堂の董事長だった塙昭彦さんが飛ばした檄を心に刻んだ。それは、「中国に染まれ、だが染まりすぎるな」というものだった。
いくら日本の商品はすばらしい、日本の技術が優れている、といっても、中国事情を知らなければ受け入れてはもらえない。この言葉には「全体を知った上で個を論じろ」という意味が含まれていた。
麦倉さんはその後、徹底して「中国人目線」を貫いた。中国人目線に合わせるには、同じ釜の飯を食べる、そんなところから始めなければならなかった。だが、言うは易し、だ。
口から火を吹くほどに辛い四川料理は日本人の体には酷で、中には体重を減らした者もいたそうだ。街に出ればトイレはどこも汚く、ドアもない。「中国に染まれと言われても、そう簡単にできることではなかった」と語る。
当初、従業員の麦倉さんに対する評価は「怖そうな日本人」だった。麦倉さんの細かい要求に「そんなことまで私の責任?」と、思わず泣き出す女性従業員もいた。しかし、ほどなくして「怖そうな日本人」という見方は「声を掛けてくれ、自分に教えてくれる人」に変わった。