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「南京大虐殺」、
その背景と経過を
NHKスペシャルより探る

その9

青山貞一

2006年8月22日


(1)はじめに
(2)盧溝橋事件の勃発と陸軍作戦本部の突出
(3)蒋介石と中国の戦略
(4)第二次上海事変に備える蒋介石軍の実態
(5)顧問団助言の作戦とその展開
(6)上海攻防戦と日本への経済制裁の失敗
(7)現地軍の暴走と参謀本部の追認による南京への進軍

(8)蒋介石のソ連援軍要請と日本軍の南京郊外での行状
(9)南京陥落と陸戦法規適用の判断
つづく(現在執筆中)

南京陥落と陸戦法規適用の判断
 
 12月10日、日本軍は総攻撃を開始した。

 日本軍の猛攻を受けて南京防衛軍の司令長官が逃亡、残された中国兵は、指揮系統を失い、退路も断たれ、大混乱に陥った。

 攻撃開始から三日後、南京は陥落した。


12月13日、南京陥落


歩兵第七連隊の戦闘詳報

 南京の城内に入った日本兵は思いがけない光景を目にする。 


城内の思いがけない光景

 「昨夜それほど気づかなかったが、皆あたり一帯に正規兵の被服、兵器等が多く散乱、放置してある。やつら便衣を着たらしい。」 

 便衣とは、民間人の平服(普段着)のことである。


便衣

便衣兵(べんいへい)

戦争のルールを定めた「ハーグ陸戦条規」等では、本来兵士は戦闘服などを着用し、一般市民と見分けのつく服装をしなければならないとされているが、一般市民と同じ私服・民族服などを着用して敵にあたかも非武装の市民だと思わせ、不意に攻撃に入るなどの戦術をする兵士のこと。近年、一定の交戦法規を遵守するレジスタンスは区別されるようになっている。

便衣とは、本来中国語の「長い服」を意味する。戦闘など活動的な仕事に従事する場合は、「短い服」を着用すべきところであるが、昔の中国では、肉体労働をしない者が「長い服」を着るとされるため、一般市民にまぎれての行動につき、実際に長くなくても「私服」と云う意味でこの語が使われる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 


 城内に脱ぎ捨てられた膨大な中国兵の軍服。

 日本軍は民間人の服に着替えた多数の中国兵が城内に潜んでいると考えた。

 南京陥落を祝う入場祝典を四日後に控えた12月13日、歩兵第七連隊に城内掃討の命令が下る。

 青壮年はすべて敗残兵または便衣隊とみなし、すべてこれを逮捕、監禁すべし。


当初出た城内中国兵等への逮捕・監禁指令

 老人と幼児以外すべての中国人男性を対象とする掃討命令。その命令が下った元第七歩兵連隊の鍋島作二さん。


元歩兵第七連隊の鍋島作二さん

 「城内に10万か20万か知りませんが、敵がいて全部脱いで一般の住宅などに逃げ込んだ。それを逮捕してこれは正規軍人、これは非戦闘員と、どうですか分けれると思いますか? ねぇ。」

 当時、城内には戦火に巻き込まれた人を保護するための難民区がもうけられていた。


城内の難民収容所

 日本軍はこの難民区の中にも、中国兵が潜んでいるとして、掃討活動の対象とした。

 難民区を運営する国際委員会は日本軍に対し、とらえられた中国兵は、捕虜と認められるため国際法に照らし、人道的に扱うよう求めた。


南京安全区国際委員会

南京安全区国際委員会

The International Committee for Nanking Safety Zone)とは、日中戦争初期の南京攻防戦に際し、避難できなかった中国市民を、南京城内の一部を安全区として保護するために設けられた委員会。主に、南京に残留した欧米人が中心となって結成された。南京大虐殺の時に日本軍から多くの中国市民を保護したことで知られる。

以下を含め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

  • 1937年11月17日 ベイツ、スマイス、ミルズの3人は、アメリカ大使館員ウイリヤ・R・ペックに、南京に安全区を設置する計画を説明し、中国政府、日本政府に認知させるための仲介役を依頼する。同日、ミニー・ボートリンからも、同趣旨の手紙を受け取る。このことを受け、ペックは、国民政府立法院委員長・孫科、抗戦最高統帥部第二部長・張群、南京市長・馬超俊らに非公式に伝えた。
  • 11月22日 南京安全区国際委員会が結成される。委員長は、ジーメンス南京支社の総責任者であるジョン・H・D・ラーベが就く。
  • 安全区の設置を開始する。安全区を非武装地帯にすることが日本当局の要望であったので、中国軍側に安全区からの軍事施設の撤去を依頼する。
  • 12月8日 「告南京市民書」を配布し、安全区への市民の避難を呼びかける。
  • 12月13日 南京陥落

 日本は当時、捕虜の扱いについて定めた国際法、ハーグ陸戦法規を批准していた。


ハーグ陸戦法規


陸戦法規適用の判断

 そこでは、兵器を捨て自衛の手段が尽きて降伏する敵を殺傷することは特に禁じられていた。


降伏者への殺傷を特に禁ずるの記述

 捕虜にした場合も人道的に扱うよう求めている。

ハーグ陸戦条約(ハーグりくせんじょうやく)

関連:ハーグ陸戦法規

1899年にオランダで開かれた第1回ハーグ平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(英:Convention respecting the Laws and Customs of War on Land、仏:Convention concernant les lois et coutumes de la guerre sur terre)」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。1907年第2回ハーグ平和会議で改定され今日に至る。ハーグ陸戦協定、陸戦条規とも言われる。

日本においては、1911年11月6日批准、1912年1月13日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約として公布された。他の国際条約同様、この条約が直接批准国の軍の行動を規制するのではなく、条約批准国が制定した法律に基づいて規制される。

云わば「戦争のルール」で、日露戦争等のごく限られた戦争ではルールに沿って整然と行われていた。だがその後スペイン内戦から第二次世界大戦、ゲリラ戦術や途上国の戦闘などで凄惨な戦争が生じ、ハーグ陸戦条約の精神は破られてしまった。

ハーグ陸戦条約では交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されている。現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多いが、最も根源的な戦時国際法として、基本ルールに則って正々堂々と戦争を行うよう規定している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 


 俘虜という名称も国際法上の戦争と見なされるおそれがあるため、その使用はつとめて避けるよう指示している。

 明治以来の戦争で、国際法の遵守を天皇の宣戦詔書に記されてきた。しかし、宣戦布告なき日中戦争では、その宣戦詔書はなかった。


天皇の宣戦詔書

 日中戦争において国際法をどう考えるべきか、陸軍省が現地軍の参謀長に出した通達である。

 「日中両国は、国際法上の戦争状態に入っていないため、陸戦の法規をことごとく適用して行動することは適当ならず。」

 上海から南京に至るまで日本は宣戦布告をせず、日中2国の「事変」としたまま戦線を拡大した。


 捕虜の取り扱いなどを定めた国際法(ハーグ陸戦法規)が十分機能する状態になかった。


つづく