「ニュースを斬る」

「オリンピック選手に体罰」が行われる謎を解く

甲野善紀×小田嶋隆 アウトサイダー対談

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2013年2月14日(木)

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小田嶋:「かつて金メダルを取った」とか「好成績を上げた」という「過去の実績」が指導者のパスポートになっている現状がそもそもおかしくて、指導者に求められるのは「今、目の前でズバ抜けた技を見せられるかどうか」である。それなら、選手も、普通の人も納得できる。

素振りを1000回やろうが、気づけない人は気づけない

小田嶋:私、「侍」「武士道」という言葉が大嫌いなんですが、「武道」というのもありますね。武「術」と武「道」、これはどう違うんでしょう。

甲野:確かに「侍」「武士道」は、建前と本音が最も乖離している代表的な言葉でもありますからね。「武道」に関しては、私は一昨年『武道から武術へ』という本を出しました。このタイトルの意味は、「武道」というと、「道」が大事だ、精神が大事だ、という建前によって、自分の技の未熟さをうやむやにしてしまうからです。

小田嶋:ははあ。実力じゃなくて心構えだ、と。

甲野:「術」と呼べるほどの技は、単に数を繰り返せばできるようになる、というようなものではありません。「『術』と呼べるほどの領域まで達する技を目指そう」という願いを込めて、私は自分の取り組みを「武道」ではなく「武術」と呼んでいるのです。

 そして、そういう「術」と呼べるほどの技を行えるようになるには、結局、身体の「気づき」を積み重ねるしかないのです。気づきがなければ、質的転換などは起きません。ですから、脅かされて嫌々繰り返し稽古や練習の量を重ねたところで、何もいいことはないんです。

小田嶋:でも、よく「型が重要」と言いませんか。よけいなことを考えず、素振りを1000回もやれば、おのずとなにかが見えてくる、とか。

甲野:まあ、回数をやれば、そこそこの効果はあるでしょう。でも、それでは「術」には届かないということです。「術」と呼べるほどの技というのは、単なる反復練習の延長線には現れない、動きが質的に転換したものです。そういうものを身につけるためには、自発的な研究心が絶対に必要だということです。そして、本来の型はそういうものを会得するためにあるのですが、今ではまったく型の意味が失われてセレモニー化していますね。

 私が武術を通して追求しているのは、「人間にとっての自然とは何か」であり、そのために「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」ということを把握したいと思っています。そうした事から導き出されることの一つとして、武術には「人間にとって切実な問題をもっとも端的に取り扱うもの」という面もあります。

小田嶋:切実な問題を端的に。

武術とは「人間にとっての切実な問題」を取り扱うもの

甲野:一対一で戦うという武術的状況が、さまざまな切実な問題を扱う能力を上げてゆくのです。ただ、人間にとって切実な問題というのは人それぞれですからね。例えば夏の終わりには女の子から失恋相談がよく舞い込んできたこともありました。まあ、たしかに彼女らにとって、これほど切実なものはなかったわけですから。

小田嶋:わはは(笑)。

甲野:イジメも体罰も、それぞれの人が抱える「切実な問題」なわけですが、それらの根本解決は、「人間にとって生きるとは何か」、また「人間にとって自然とは何か」という人間にとっての本質的問題と根本的に向き合うことが必要で、それを頭だけで考えるのではなく、体感を通して考えるために、「武術」は他に較べるものがないほど優れたものを内蔵していると、私は思います。

(構成:井之上達矢・夜間飛行編集長)

<甲野善紀氏出演イベント>
今、武術を問いなおす―日本柔道は復活するのか―」甲野善紀×松原隆一郎、
奏でる身体―心の音をそのままに―」甲野善紀×白川真理(フルート奏者)×阪口豊(電気通信大教授)、

<参考記事>
私が現役であることを思い知った夜」甲野善紀

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小田嶋 隆(おだじま・たかし)

小田嶋 隆 1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。近著に『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)、『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)、『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)、『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』(駒草出版)『1984年のビーンボール』(駒草出版)などがある。ミシマ社のウェブサイトで「小田嶋隆のコラム道」も連載開始。

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