小田嶋:桑田さんが高校を出たばかりの18歳のとき、石川好さんというノンフィクションライターが書かれた『シャドウ・ピッチング』というすばらしいインタビュー本があって、「高校出たばかりのピッチャーがこれだけ物を考えられるんだ」と本当に驚かされた。
桑田投手はその本の中で、「教えられたことをやるのではなくて、自分で考えて野球をしたい」といった趣旨のことを語っていたわけですが、「自分でものを考える」姿勢を見せると、どうやらそのこと自体が生意気だと言われてしまう。
そういう意味では、スポーツ界には「指導というのは、指導者の言うことを無理やり聞かせることだ」という信念があって、それをまた、スポーツマスコミが応援しているという構図があるんじゃないかと思うわけです。柔道に限らず。
「練習や稽古は不快なもの」という前提
甲野:「指導とは相手に何も押し付けず、相手が自発的に向上するように導くことである」というのは、私が稽古法で最も影響を受けた整体協会の野口晴哉先生の名言ですが、それこそ、ライト兄弟が寝食を忘れて飛行機の開発に没頭したような情熱がなければ、さっきから言っている、革新的な、常識外の技は生まれません。
逆に言えば、生徒なり、選手なりが、指導者と一体となってその競技の技術を追求していれば、体罰をしようなどという考えすら起こらない。「明日稽古なんだ」と明るく言うか、沈んだ声で言うか、その差は大きいですよ。つまり、柔道を本格的に稽古している者のほとんどが「明日稽古が休みだったらうれしい」と思っていることが、問題の根本にある。
小田嶋:体罰が求められる背景には、痛みなり、不快な刺激によって人を引っ張らなければいけないということがある。それは端的にいえば「練習や稽古は不快なもの」が前提になっているということ。練習が楽しいのであれば、恐怖心によって人を引っ張る必要はない。こういう事を言うとまた「きれいごとを」ということになるんだろうけど(笑)。
甲野:きれいごとだろうと、上達するにはそれが一番ですよ。熱意がある人にとっては、練習や稽古は楽しみで仕方がありません。さらに言えば、練習時間以外でも、生活の中でも四六時中、工夫しています。「こうすればどうなるだろう」と常に考えている。
そうでなければ、本当に高いレベルの技ができるようにはなりませんし、そういう状態の人には、体罰で無理に言うことを聞かせる必要など全くないのです。
「こんなこともできるのだ」を示すのが指導者の資格
甲野:私は、武道の指導者の、何に一番存在の意味があるのかというと、習う人に「あんなことが本当にできるのだ」という実例を示すことだと思います。習う人が想像もしていなかった技を実際にやって見せることで、「現にこんなことができる人がいるなら、自分もできるかもしれない。そうなりたい」と思わせることが何より重要なのです。
指導者は、指導する者達から「憧れられるような技」が出来ることが何よりも大事なことなのです。技ができないからといって、代わりに怒鳴って言うことを聞かせようとするのは、まったく指導の本質から外れています。
小田嶋:言い換えると、先生が手取り足とり教える必要は必ずしもない。理系の研究者を考えても、人気のある先生は、「教え上手」というより、自分自身の研究に没頭して、周りを顧みないくらいの人だったりする。
甲野:その人の技が抜群に切れるとか、その人自身の技が選手を引退しても、なお向上しているということが一番です。少なくとも武道の場合は、指導者が「そこそこ」ではなく「抜群」に技ができることが重要でしょう。
小田嶋:そう考えると、柔道の代表監督のように、選手に金メダルを取ってもらおうという場合には、指導者には金メダリスト以上の技量が求められるわけですよね。しかし残念ながら、ほとんどの指導者にはその力はない。だから権力的に威圧するしかなくなって、結果、暴力を振るっていると。
甲野:そうでしょうね。「この年で今さらオリンピック? 気恥ずかしいから出ないよ」と言って、実際に立ち合えば代表選手よりも技が切れる、というのが本来の武道の指導者だと思います。
小田嶋:でも、実際にそういう人っているんですかね。
甲野:フランスの馬術界は層がものすごく厚くて、金メダリストよりも上手な壮年の選手がごろごろいるそうです。それが自然な状態だと思います。日本の武道の指導者の例で言えば、仙台で空手の指導をしている長田賢一師範は、もう20年前も前でしょうか、「ヒットマン」の異名をとったフルコンタクト空手の有名選手ですが、現在の方が技が上です。人との接し方も含め、現在の武道の指導者としては本当に頭が下がる珍しい人物です。