電子レンジ猫訴訟

「訴訟社会アメリカ」という神話

神話

訴訟大国アメリカの異常性を示す典型的なエピソードが、この「電子レンジ猫訴訟」(猫チン事件)である。

事の起こりは、ひとりの老婦人が、子供たちから一台の電子レンジをプレゼントされたことだった。彼女はある雨の日、外に出てずぶ濡れになってしまった愛猫を、電子レンジで乾かすことを思いついき、実行に移した。そして、当然の結果として、彼女が再び電子レンジのふたを開けたとき、気の毒な猫はすっかり内側から調理されていたのだ。

このことにショックを受けた老婦人は、あろうことか、電子レンジのメーカーを相手に訴訟を起こす。「猫が死んでしまったのは、電子レンジの取扱説明書に『動物を入れないでください』という注意書きがなかったせいだ」というのだ。

そして、驚くべきことに、裁判所はこの常識では考えられないいいがかりに近い訴えを認め、電子レンジのメーカーに、多額の賠償金の支払いを命じたのである!(現在、電子レンジの取扱説明書に、「動物を乾かす目的で使用しないでください」という注意書きがあるのはこのためだ)。

この一件は、「マックコーヒー訴訟」(コーヒーをこぼしてやけどした老婦人が、「マクドナルドのコーヒーが熱すぎたからだ」と訴え、勝訴して多額の賠償金を得た事件)と並び、訴訟社会アメリカの病理を示す象徴的な出来事として、わが国においてもよく知られている。

真実

この話、なんでも、テクニカルライティング(技術的内容を正確にわかりやすく表現する文章技法。電気製品の取扱説明書などに応用される)の教科書にも出てくるのだそうである。確かにこの哀れな猫(と、電子レンジメーカー)の物語は、取扱説明書の書き手にとっては貴重な教訓を含んでおり、教科書に採用されるにふさわしい内容と言ってもいいかもしれない。

実はこの話が、一から十まで作り話であるという点を、考慮しなければの話だが。

起源はアメリカの都市伝説

人々の間で、「これは本当にあった話」として広く流布しているものの、実際には真実ではないうわさ話の類を、「現代の伝説」あるいは「都市伝説」と呼ぶ。「口裂け女」や「四本足のチキン」、「ディズニーランド誘拐団」などの話を思い出していただけるとよい。

アメリカの都市伝説を多数収録した『消えるヒッチハイカー』(ジャン・ハロルド・ブルンヴァン著、新宿書房)という本の中で、この「電子レンジに入れられたペットの話」が紹介されている。

あるおばあさんが、子供たちから電子レンジをもらったそうです。彼女は自分の犬を洗ってやったあと、乾かしてやろうとして電子レンジの中に入れました。当然、レンジを開けたときには、犬は内側からすっかり調理されてしまっていました。(103ページ)
子供が偶然ホースで猫に水をかけてしまった。そこで、乾かしてやろうと思って電子レンジに入れた。猫はその中で破裂してしまった。(同)

これ以外にも、流布している地域などによって様々なバージョンが存在し、犬や猫ばかりでなく、小鳥、亀、濡れた髪を乾かすために自分の首を突っ込んだ人間など、いろいろなものが電子レンジによって調理されているという。

著者のブルンヴァンは、都市伝説を専門に扱うアメリカの民俗学者。都市伝説の専門家が様々な例を挙げながら「都市伝説です」として紹介している物語を、「そうではなくて、これは真実なのだ」と信じる理由はないように思われる。

つまり、今でも多くの人々が本当にあった話と信じている「電子レンジ猫」の物語は、「口裂け女」や「四本足のチキン」と同類の、「本当だったらコワいけど、実は本当でない話」のひとつに過ぎないのである。

PL法と猫チン事件

しかし、この本に収録されているいずれのバージョンにも、この物語の肝ともいうべき「裁判に訴えた」という後日談の部分がない。私は最初、この後日談は、日本に輸入された際に日本側でつけ加えられたものではないかと疑ったのだが、都市伝説を扱ったアメリカのウェブサイトにも、この後日談のあるバージョンが収録されている例があり、原著書の出版年(1981年)以降にアメリカで生まれたバリエーションと考えるのが妥当なようである。

電気製品の取扱説明書に、PL(Product Liability=製造物責任)法対策のため、どうでもいい注意書きがやたら長々と書かれていることに、辟易した方も多いだろう。『動物を入れないでください』という電子レンジの注意書きが、昔ながらの都市伝説と出会うことで、伝説に新たなバリエーションを生んだというのは、十分想像できることである。

そして、1990年代のはじめ、この「電子レンジ猫」の物語は、大々的に日本に輸入された。その理由もまた、PL法だった。

PL法とは、製品の欠陥によって生じた被害から消費者を救済しようという趣旨の法律である。それまで、消費者が損害賠償を請求するには、メーカーに過失があったことを証明するという高いハードルを越える必要があったが、PL法は、製品に欠陥(取扱説明書の不備も「欠陥」に含まれる)があったことさえ証明すればいいようにそれを改めるもので、日本では1995年に施行された。

しかし、当時、主に生産者側の利益を代弁する人々はこの法律の制定に強く反対し、「PL法によって訴訟のハードルが下がると、日本もアメリカのように、くだらない訴えが乱発される訴訟社会になってしまう」と主張した。その「くだらない訴え」の一例としてさんざん引き合いに出されたのが、この「電子レンジ猫訴訟」だった。様々な論説や新聞の記事で、PL法が批判的に語られるときに、この話が持ち出されないことはほとんどなかった。

取扱説明書に『動物を入れないでください』と書かれていないことが不備とみなされ、多額の賠償金を支払わされるという、聞く者に強烈な印象を残すこの物語は、こうして日本人の心に、「驚くべき実話」として記憶されることになったのである。

「マックコーヒー訴訟」は神話か?

もうひとつ、アメリカ訴訟社会を批判する文脈の中で語られる物語に、「マクドナルドコーヒー訴訟」がある。マクドナルドでコーヒーを買った老婦人が、カップのふたを開けようとして、誤って中身をこぼしてやけどを負ってしまったのを、「コーヒーが熱すぎたからだ」と訴えて、多額の賠償金をせしめたというものだ。

よく「電子レンジ猫訴訟」と対にして語られるこの話は、はたして「猫チン事件」と同様に、単なる「よくできた作り話」なのだろうか? 結論から言うと、これは神話などではなく、ニューメキシコ州のアルバカーキで本当にあった話である。(Liebeck vs. McDonald's Restaurants, 1994)

ただ、この「本当にあった話」も、訴訟社会批判の立場から語られることで、かなり事実をゆがめられてしまっている。

被害者のやけどは第三度(皮膚の全層がやけて黒くなり、深い傷ができて、治るとひきつれになることもあり、半永久的に外観的な損傷が残ってしまう)という重いもので、八日間入院して皮膚移植手術を受け、その傷跡や運動障害を回復するために二年を超える治療を受ける必要があった、たいへんな重傷であった。

また、マクドナルドは熱いコーヒーを売り物にしていて、客に出されるコーヒーが、二秒から七秒で第三度のやけどを引き起こす熱さであることを認識しており、熱すぎるコーヒーに対して十年間に七百件を超えるクレームがあったにもかかわらず、対策を取らずに放置していた。

しかし、「アメリカ訴訟社会の異常」が語られる中で、これらの事実が指摘されることはない。

それに、被害者に支払われた賠償額についても、評決の下した「286万ドル」という数字が一人歩きして、「コーヒーをこぼしただけで数億円!」などと言われたりするが、これも事実とはかけ離れている。

判事の下した判決では、評決の認定した270万ドルの懲罰的賠償(損害そのものの賠償以外に、懲罰のための賠償金が加算される、アメリカ独自の制度)が48万ドルに減額されており、また、やけどそのものの賠償金20万ドルも、すでに評決の段階で過失相殺が認定されて、16万ドルに減額されていたのだが、もちろんこれらの事実も語られることはないのである。

事実をゆがめる紋切り型

日本より司法が身近な存在で、気軽に裁判所を利用しやすい社会のアメリカでは、非常識な訴えが起こされる確率は、当然日本よりも高いだろう。裁判所の敷居が低いと、「ダメでもともと」という考えからくだらない訴訟を起こすような人々が現れやすいのも確かだろう。

しかし、「どんなにばかばかしいことでも、高額の賠償金目当てに、次々にしょうもない裁判が起こされる」という、私たちの「訴訟社会アメリカ」に対する見方が、紋切り型のイメージであることもまた確かだ。

そんなイメージにあまりにもぴったりと合致するため、真実であるかろくに検証も受けずに喧伝され、信じられてきた「電子レンジ猫訴訟」。そして、真実であるにもかかわらず、紋切り型に合わせてゆがめて語られる「マックコーヒー訴訟」。

いったん紋切り型のイメージができあがってしまうと、私たちはそれに合わせて事実を大きくゆがめて見てしまうというよい例が、「電子レンジ猫訴訟」の神話、そして、「マックコーヒー訴訟」の真実である。

(2005年10月17日)

参考文献