コメントに答えて

ポラリスさま、コメントありがとうございます。

こういうことを言うと、多くの会員から叱られるかもしれませんし、顔色を変えて反論されるかもしれません。わたしが考えていることは、創価の命脈、師弟不二からの離脱です。

池田先生を尊敬し、その著作から学び、血肉として、現在のわたし自身があることは否定しようもありません。わたしはそのことを誇りにしていますし、後悔もしていません。また、これからも時代を開く思想を先生から学んでいきたいと決意していますし、わたしの人生の指針であることも変わりありません。それを師弟というのであれば師弟なのでしょう。
わたしは今までの経験から、師弟不二を、さも当たり前に言う人を信じていません。検証もなしに何ごとも当然とする人間を信用していません。
妙法という建物に入るためには、信という手札が必要です。御書にあるとおりです。しかしこの建物には堅牢な門があると教えられ、それが師弟不二という門であると言うのです。建物に入るためにはまずこの門を通り、師に誓いを立て、信という通行札をうけとらなければなりません。師を信じることがすなわち、妙法の当体を信じることであり、それより成仏の直道はないと教えられました。
創価ほど師弟を強調する教団はないでしょう。男女青年部は、世代が変わるたびに師に誓いの言葉を語ってきました。法華経のなかの菩薩たちが誓願の菩薩であることとおおいに関係があるでしょう。法華経のなかで最も価値あるところは、法を書写し読誦し自他の区別なく語ることを説いた部分です。法華経はまさに本因妙なのです。誓い語ることが仏道の究極なのです。しかし、誰に、何を誓うのでしょうか。
会員にとって、師は絶対であり、あらゆる困難の防波堤であり、ときには迷える者の灯となり、限りない慈悲で励まし、導いてきたと考えられています。
今回の支援活動でも、半世紀前の大阪の戦いが何度も引用されております。師は模範であり、その戦いの反復が正しいとする意見を否定しませんが、わたしが疑問を感じるのは、手段が目的化していることです。時代も社会情勢も変化しているのに、先生の方法論の再現から決して逸脱しないことです。そしてそれが師弟不二だと言う。師弟とは師を越えることではなかったでしょうか。いつまでたっても変わらない師弟関係。弟子の依存する姿。また師は弟子の成長を望まない。自分より偉大になることを望まないようにも見受けられます。

あげくのはてに、わたしのような支援を躊躇する人間を、同志を惑わす者として魔呼ばわりする。あるいは退転扱いする。議論しても勝目はないと恐れて近づこうとしない。わたしの回りはそんな情けない幹部ばかり。師弟こそ仏道の始まりであり、終点であると考えていても、わたしは盲目的に賛美する人間ではありません。
面倒くさい書き方をしましたが、つまり強力な師弟の原理が創価の命脈です。これって、宗祖と法主を同格とする日顕宗の論理と同じではないでしょうか。自己矛盾であるがゆえに、気づきにくい自己撞着。
一体であるという安心感が信仰を深めることは否定しませんが、師が偉大であるがゆえに、師に異議を唱える罪悪心から無意識のうちに矛盾を封印しているのではないでしょうか。
現実は陽炎のように揺らぎ、夢のように儚い。そのなかで信じられるのは、妙法への、自分自身の強い確信よりありません。

会員が共有するひとつの思想、師弟不二に支えられた信仰論、行動論は、師弟一体の間にしか法は流れない、伝わらないとするものです。本当でしょうか。
わたしの直感から申し上げれば、創価の実質的運営者である会長をはじめ中心者が、その力不足と求心力を補うために、師弟のあり方を強調し利用している――仏道と師弟は不可分な領域であること、功徳は信仰者万人に与えられるのではなく、師の功績を宣揚し、忠実にその戦いをたどり、苦難を克服する方法を知る人間の間にしか、妙法の真の理解はないとする――門から入り玄関へ到達するまで、なんと長いアプローチでありましょうか。もったいぶった信仰論でありましょうか。直達正観は師を介して行われるのでしょうか。
先生のご真意は、わたしにはわかりません。また実像もわかりません。しかし、偶像崇拝の拒絶は「紋切り型」反応を抑制する唯一の方法なのではないでしょうか。
わたしは著作のなかの先生をご尊敬申し上げているのであり、その思想にかぎりない希望を見出す一仏教徒です。

現在の日本では、殉教という命をかけた布教はありませんが、そのかわり創価のような使命感に立った宗教団体では、精神的、経済的、物質的生活のすべてが信仰を中心とした生活規範で成立っています。何をするにしても、まず創価という題目があり、その中心に向かってすべてを関連づけます。殉教にかわるものとして生活のすべてを捧げる献身的考え方が支配しているわけです。
話はそれますが、チベットでは焼身自殺が相次いでいます。大変痛ましいことですが、仏教徒と自殺の関係についてはいろいろな意見があるでしょうが、中国支配に抗議してのこれらの行為は、殉教と考えることもできます。
切実な問題として考えられないチベット問題、人間性と自由を侵害した支配と被支配という過酷な社会を厳しく非難し、抗議する姿勢が平和な創価には見られないということです。同じ仏教徒でありながら、殉教精神という信仰の極限を問うことはありません。
それでいて支配者である中国とは国交回復以来友誼を結んでいますが、一度もチベット民衆がおかれた不条理な立場について同情し、支配者を諫める言節はありません。これはまったく政治的配慮からの政治的行為と考えるです。
以前、このブログのコメントで、なぜ先生は公明党の創立者でいらっしゃるのに、政治的発言をされないのか、政策や政治的問題に批評やアドバイスをされないのか、との疑問を書きました。ガンジーやキング牧師、アウン・サン・スー・チー女史、ダライ・ラマ14世などの、非暴力主義者は思想家でありながら、現実では政治闘争に身を置き、また生涯を貫かれました。わたしたちが信奉する大聖人もまた、鎌倉幕府と対決されました。牧口先生、戸田先生も同じだと思うのですが、過酷な政治状況のなかで、現実変革の行動を起こしたのです。
具体的問題に賛否を表していくのが、現実変革の一歩なのではないでしょうか。それが指導者ではないでしょうか。
勝利しろと何度も叱咤激励される支援活動で、なぜいつも、先生は陣頭指揮をされないのだろうか。
正義を訴え、精神変革を目的とする宗教団体らしからぬ行動ではないでしょうか。
菩薩の生れ変りと信じられているダライ・ラマ14世が、チベットから脱出して53年の歳月を経ている現在、波乱のなかを敬虔な信仰を貫いているチベット人には、なにより同じ仏教徒のメッセージが重要なのです。さらに世界から多くの名誉称号と名誉市民を先生が代表して受賞され、平和・人権団体としての名が定着している創価のメッセージは、どれほど大きな力になることでありましょうか。
チベットにかぎらず世界で起こる問題に無関心でいては、どんな立派なことを言っても、展示物同様の役立たずの宗教的使命にしか過ぎません。

堅実、現実的な政策を掲げ、バランスよい中道政党でありながら、なぜ公明党はいつも懐疑的な目で見られ、国民からは評価されないのか。
簡単に言えば、それは創価と公明党のつながりが、国民に支持されないからです。創価に対しての嫌悪感が理屈や理性を越えて、感情的な拒絶反応に終止しています。情報化時代のなかで、宗教団体と政党という微妙で神経質な関係において、透明性が確保できないジレンマがあります。なぜ党と創価の連絡協議会をもっとオープンにしないのでしょうか。誰がどのような発言をしたか、詳細に報道すべきなのですが、一向に改まる気配はない。会員もまたそれでよしとして、組織と党に丸投げし、疑問も抱かない。
政党にとって必要なのは、主張とともに公平性です。どのような身分、階級、また組織に所属していようと、政治は国民に対し公平でなければならない。一団体の利益誘導の政党と誤解されない行動をとるべきなのです。
他者からの批判を嫌うのは、教義の真実性に強い確信を抱いている宗教に特徴的なものです。寛容を説きながら排他的なのです。内部から言えば独自性ということであり、外部から言えば独善性というものです。

そのようにしたのはもちろん創価の責任ですが、創価ではほとんど反省はありません。法が正しいゆえに、反対され罵られるのが当然と考えており、広布の道程も幅広く賛同を得ていく時代に入ったのに、現場は旧態依然としています。他者への関心、関与が、創価の利益になるための関心であり関与なのです。
これからは一層の社会貢献に真に価値ある人間関係を求めていかなければならないでしょう。それが弘教にも連動することなのですが、そのような社会に開かれた創価の姿を想像することは難しいと思います。悲しいことですが、内部からは変わらないでしょう。外部からの強い圧力がないかぎり変化はないものと考えます。自律とは個人に求められるだけでなく、組織にも求められるのですが、自浄作用は言うは易く実行は難しい。その意味で、今回の選挙を、わたしは公明党の敗退を望んだのですが、戦後最低の投票率のおかげか、自民党とともに勝利しました。
先生は今まで、公明党の独立を何度も言われてきましたが、結局公明党を手放したくないのは先生ご自身なのではないかと思います。これからも真の国民政党への脱皮は難しいものと考えます。
宗教者が手にする伝統的権威は権力と重ねあわせです。そのための悲劇が、歴史上数多くありました。ブッダが否定した根源的悪でもあります。

安倍政権の誕生は確定しましたが、わたし自身期待するものもあります。「戦後レジームからの脱却」というスローガンを、ぜひ飾り物に終わらせないでいただきたいと思います。
気になることといえば、脱原発へのタイムスケジュールですが、公明党の公約を曲げないようにしていただきたいということと、政権にとどまることばかり考えて、政権維持の悪い補完政党になっていただきたくないということ。かつてのイラク問題の轍を踏んでは、国民の期待を裏切ることになるでしょう。

 

まとまりのない話になってしまいました。仕事で考えることが多すぎて、ブログ更新へ頭が回りません。
独自の貢献とは、各自がそれぞれの立場で考えることではないでしょうか。

わたしは創価の根幹である広布部員制度の廃止を求めます。
本来の感謝をこめた献身的行為は財務がなくても十分可能です。とにかく宗教団体が有り余る金銭を集めてはならないと考えます。不祥事の元です。会館に窓口を開設し寄付を募る方法で十分と考えますが、財務のようには集まらないでしょう。ご供養であればどのような制度であろうとその役割を果たすものと考えますが、実質的に減額になることでしょう。つまり、会員のご供養についての認識が、喜捨というような仏法本義の崇高さを共有していないからです。
創価執行部も十分わかっていることですが、若い職員の改革意識、尊い財務を無駄遣いしているのではないか、というような疑念を封じていることを、大変残念に思うのです。これは先生の意向でもあるように思えます。
柔順であることは信仰の一つの財産ですが、柔順であることを強制する信仰は悪です。また、法に柔順であっても、人間に対して柔順であるとは限りません。人間は必ず間違いをおかし、正当化する理由を常に考えているのですから、その行動をよく吟味しなければなりません。

会員の良識ある分別ほど頼りないものはありません。分別はどこまでいっても個人的生活の範疇を出ないのですから、身近な平和が保たれていれば不満は生じないのです。

わたしには創価の未来は明るいとは感じられません。きっと冬の時代が来るでしょう。根拠もなく自分は強信と思っている人ほど墜ちていくでしょう。仏法の道理からも、永遠に発展するものなどありません。
『御勘気の時千が九百九十九人は堕ちて候』
大聖人ご在世のことではなく、創価の現在、未来のことなのだと考えております。すでに形ばかりの会員に、わたしは毎日出会っております。

 

The Magic of The Night
Enya

 

 

強い自分を主張してください。負けないで、強く、くじけることなく。

今日の「新・人間革命」から

『皆さんは、ご主人の月給がもう少し高ければとか、もっと広い家に住みたいとか、子どもの成績がもっと良ければなど、さまざまな思いをいだいているでしょう。
その望みを叶えようと祈り、努力して、実現させていくことも大切です。しかし、最も大事なことは、どんな試練に遭遇しても、決して負けたり、挫けたりすることない、自身の境涯を築いていくことです』

改革はそれぞれの試練なのです。

 

soka

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11 Responses to “コメントに答えて”

  1. アンナ より:

    ワードプレスにはブログを訪れるビジターの分析を総合的に行うプラグインがあります。わたしも最初から導入しております。
    今までほぼ一定のビジター数だったのですが、最近、顕著な異変がありました。それは、ページビューが1000~1200で、3~4倍にも増加していることです。今まで一日平均300~400であることを考えると異常です。この傾向は年末から続いており、わたしには始めての経験です。ビジター数に変化がないのですから、なかにジックリ読んでいただいてる読者がいるということです。150ページよりないブログですので、コメントを含めて丁寧に読まれている方がおられるのでしょうか。
    それと最近目につくウイルスがトロイの木馬。既知のトロイでしょう。アンチウイルスソフトでブロックされていますので実害はありませんが、頻繁なので不安になります。


    高校生のとき、わたしの祖父母から戦時中のことについて、何回か話を聞いたことがあります。祖父母は太平洋戦争前後に青春時代をすごしましたので、その体験談は大変興味あるものでした。その話のなかで、おかしいと思ったことがあります。
    それは外米といわれる東南アジアからの輸入米が日本米に較べてまずかったという話を聞いたときです。戦時下の食糧事情の悪さは、わたしにも想像つきますが、そのまずい外米がどのような経緯で輸入されたのか。輸入といってもほとんど掠奪同然に国内にもちこまれ、そしてそれが原因で多くの餓死者を出したこと。つまり、十分に立派な加害者なのですが、その加害者意識を全くと言ってもよいほど持っていないということを、祖父母の話し振りから感じたのです。
    祖父母にかぎらず国民の多くがそんな意識はないでしょう。戦争犠牲者としての被害者意識はあっても、加害者としての意識は希薄なのです。なかには厳しくその責任を自ら問う人もいますが、そのような誠実さを逆に嘲笑する人もいます。そもそも罪悪感がありませんので、罪の意識は薄いのです。
    チベット問題を考えているとき、知らず知らずのうちに創価は加害者になっているのではないか、ということに思い当たりました。会員は正義を主張し実行していると思い込んでいますが、その正義なるものは実は、中国の暴力を容認し、承認し、賛意を与えて、あるいは巧妙に利用されて、知らず知らずのうちにチベット迫害に荷担させられているのではないか。

    先生の中国での講演は、トインビー対談でも指摘されていましたように、中国の世界への影響力の大きさを評価し、平和と人権を強調したものです。仏法の普遍的人間像の哲学的考察と言い換えてもよいでしょう。また歴代の指導者にも賛辞を惜しみません。しかし、彼らが目標として掲げているのは世界制覇なのです。そのために武力で争うことも躊躇しません。どこに先生の思想が活かされているのでしょうか。

    会員の皆さまの善良さと言ったら、まるで無垢な白雪のごとくです。その雪の下に汚泥があることを考えもしなければ、勇気を持ち見ようという姿勢すらありません。考えることも検証することも他人に預け、善と信じているものは善の衣服をまとったただの無力な傍観者同様の無責任さであることを、知る努力も、疑いも持ちません。自分は仏になる種子を持った菩薩であると自信たっぷり語りながら、その行為が悪を助長する結果になることを思いもよりません。「気づかなければ許される」妙法にそんな法理はありません。

    「悪とは徹して戦え」との指導は、先生の核心部分にある永遠に変わらないご指導なのではないでしょうか。悪と戦わない善人は、善人といえるのでしょうか。武力という脅威を今すぐにも実行せんとする中国は悪ではないのですか。チベット民衆を苦しめている権力者は悪ではないのですか。チベットの文化、言語、伝統、貴重な歴史財産を破壊することをどうして容認できるでしょうか。領土拡張をなにがなんでもやり遂げようとする覇権主義者は悪ではないのでしょうか。そのような悪を賛美することがどうして正義と言えるのでしょうか。
    PM2.5の環境汚染にしても、周辺諸国にばらまきながら決して謝ろうともしない。共産主義の悪臭そのもの。礼節の国は礼節を失って国家倫理も喪失し、世界の嫌われものに成り果てた。物欲という際限なき習慣によって、やがて亡国へとたどる宿痾に襲われることは明らかだ。



    今回のSGI提言、一読してよく理解できました。十分睡眠をとり、頭脳をスッキリさせ、集中したうえでの思索が肝心と思います。
    部員さんには、池田思想の精髄と思索の跡を追体験してもらいたいし、わかりやすく解説するのが、わたしの役割と考えております。

    毎回の提言もそうですが、現実把握の確かさと洞察の深さ、広さにうなずくばかりです。あるいは一つの理想論として、その実現を後世に託されているようにも感じます。どれだけの会員が真剣に読まれるのか心もとない気もしますが、難しいというのであれば、信頼おける人にその理解をたずねてみるのも求道のあらわれと思います。求道心は乾ききった吸い取り紙みたいなもの。しかしいつまでも乾いていては求道者とは言えません。心を潤すこと、それが信仰の功徳であり、慈悲もまた求道の証明であることを気づくべきです。

    ゲーテが嘆いている「速さ」は、当時の保守的知識人の一般的な見解でしょう。血塗られたフランス革命を懐疑しその早急さを呪いました。日本では無条件にフランス革命を賛美するのが特徴ですが、近代史から学ぶとすれば、多数者としての反省なき大衆への批判と自己懐疑でしょう。
    実存主義の祖と言われるキルケゴールは、大衆の「会話」の衰退を指摘しました。歴史と伝統から学び、理想に近づこうとするコミュニケーションの衰退は、人間の情熱や決断を無視した「原理」の奇怪な流行にあります。「原理」の前で言葉を失い、批判が封じられてしまう。この「原理」は、無限に続く生命論だったり、目に見えない宿業だったり、正義は必ず受難に会うといった信仰論の悪辣さだったりします。美麗のもののなかに醜悪なものが含まれており、真正な相貌の人間に虚偽が隠されていることを、精神の暴力というのだと、わたしはザックリと断定する。卓越したものは自己のなかにあることを、またその信仰と感受性を信じなければなりません。敵などどこにもいません。いるとすれば、自分のなかで絶えず攻撃をしかけてくる醜く黒い塊のことです。
    ガンジーの漸進主義はこのような西洋の歴史の反省から生まれたとも言えますが、体制が一夜にして変わっても人間自身は一夜にして変化することはありえず、漸進主義の中心はまさに人間自身の変革にあります。変革は崇拝者を作ることから真逆の思想です。

    SGI提言での中国問題では、一般的理想論でガッカリしました。先生も歳をお取りになったのですね。もう以前のように注目されませんが、哲学なき者は、かつての先生の鋭利さから解放されて喜んでいるかもしれません。優れた価値への願望の喪失も、イノベーションへの想像力の欠如も、組織のクライシス。暴力と廃退が知的な風体をまとっていることを認識しなければなりません。
    ポラリスさま、大局を見てまいりましょう☆彡


    風の姿・中島みゆき



    わたしのことを歌っているようで、深く心に響いてきます。


    『そんな人だと思わなかった、と言われて
    どうして涙が出たの
    どんな人だと思われたくて
    どこの誰の真似をしてきたの

    嵐が近い 嵐が近い
    折れた小枝が窓を叩いているわ
    だから
    風の姿を誰か教えて
    愛の姿を誰か教えて
    数えきれない数の定義じゃなくて
    たった一人の愛の言葉で
    私をうなずかせて

    「らしい」と言われて付けてたブレス
    鎖の角が本当は痛かった
    悪く言われて破って捨てた
    シフォンのシャツが本当は好きだった


    嵐が近い 嵐が近い
    思いがけない私かもしれないわ
    だから
    風の姿を誰か教えて
    愛の姿を誰か教えて
    数えきれない数の定義じゃなくて
    たった一人の愛の言葉で
    私をうなずかせて』


    なんと秀逸な比喩でしょうか。

  2. ポラリス より:

    先生は法規56で「たくさんの人が集まれば意見が異なるのは当然ではないですか」と言われ「それなのに皆が全く同じ意見であったら、むしろ不気味ではありませんか」とも言われています。まさしく今の組織が不気味なのです。協議会は名ばかりで、上から流れて来る事をこなすだけ、数に追われ、歓喜はありません。それでも、それが功徳だと欲深い婦人部は、無理な啓蒙をしています。私が新聞啓蒙された方を座談会にお誘いしょうと提案しても、誰一人参加させる事が出来ません。私は、協議会と座談会へ行くのを止めました。なぜなら、不気味でつまらないからです。本幹は先生の指導を最前列で学んでいます。
    本幹後の幹部の挨拶はもう止めたほうが良いでしょう。話す事が決まっていて、幹部の威厳を示す場が、逆に信心の無さを露呈しています。協議会で、常識豊かに新聞啓蒙をしましょうと発言したら後日、ゾーン長が来て、そういう事を言うなと言われ、言うなら協議会へ来るなと、釘をさされました。あげくの果てに、無理な啓蒙も本人が納得しているから良いではないかとのたもう始末、さすが、花束禁止令をだした御方、それも幹部の出費が負担との事らしい。私は守る会です、そこには未活動家の壮年が多いです。幹部はほとんど来ません。幹部が犠牲者的気持ちでいる限り組織の変革は望めません。同志であるアンナさん、今の組織はリセットしないとダメだと思います。若き先生のような青年が必ず立ち上がる事を期待しています。残念ながら今の組織には人間主義はありません。成果主義はありますが、私は日々日常のなかで周りの人々に先生の人間主義を広めて生きます。

  3. アンナ より:

    みかん。さま、長いコメントをありがとうございます。

    その後、少しきつい言い方だったのではないか、と、みかん。さまのことが気にかかり、ネットで調べましたら、菊川さんのブログに多くのコメントを残されていることを知りました。わたしは他ブログをあまり見ませんので、どのような方がネットで活躍されているのか、よくわかりません。

    わたしのコメントが原因で落ち込まれないようにと考えておりました。再びコメントをいただき少しホッとしています。
    どうかマイ講師の方から、妙法の素晴らしさを学んでください。そしてその感動をまず家族のなかで話しあってください。家族と共有できれば、願いはほとんど叶ったようなものです。家族こそ、社会へ飛び出すわたしたちの前線基地。家族の理解と協力があれば何も恐れるものはありません。
    創価でも最近、未来部を含めての家庭像のあり方に焦点をあてております。家庭が盤石であれば広布も盤石なのです。わたしもそろそろ自分の家族を持ちたいと考えていますが、結婚を目標にずっとおつきあいしてきた男子部の方と最近別れました。広布への情熱はあっても、それだけでは家庭を維持できないのは当然のことですよね。仕事をはじめ社会に実証をしめさないかぎり、どんな立派なことを言っても通用しません。女子部もそんなにバカではありませんし、むしろ堅実に着実に人生プランを描いているのは女性だと考えております。頼りない男子部が多過ぎます。


    わたしが異端と見えるのですか?
    実はわたしは異端であろうと努力してきたのですから、そう見ていただいてありがたく思います。
    大聖人も当時の社会では異端でありましたし、牧口、戸田先生も戦中はそうだったのです。池田先生も宗教人として型破りであり、それまでの宗教常識から抜け出せない古いタイプの組織人から見れば異端でありました。したがって、内部から批判も浴びたのです。
    創造的であろうとすれば異端視されます。価値転換はいつも非常識と思われる発想から生まれます。そもそも妙法ほど、今までの常識や価値からの転換を迫る法はありません。難信難解とはこのことを言うのです。
    でも、常識豊かな社会人であることを推奨しているのが創価の指導です。社会との接点で対立や亀裂がおこらないように融和的であろうとすれば、事理をわきまえた摂受が必要です。穏やかな説得が必要なのです。多様性が尊重される時代にあって、個性的な会員がこれから力を発揮し、創価を主導する時代背景が整いつつあると思います。

    みかん。さま、わたしたちは求道者であると同時に、ただの兵士ではないと自信を持って言えるような、個性的な勇士でありたいと思います。現在の創価にはそのような人間が求められていると考えるからです。その他大勢に数えられ、可でもなく不可でもないような会員は、大きな荒波にもまれれば、砂粒のように海底に沈んでいくでしょう。確固とした揺るぎない信仰とは、確固とした自己を築くことに他なりません。


    師を尊敬することと神格化することは全く違います。前者は冷静で理性的な自己があり、後者は盲目の信仰のなかに自己を見失った姿があります。

    日興上人は諌言の必要性を認められております。人間は必ず間違いを犯し権力の虜になるからです。どんな優れたリーダーになれたとしても野心や嫉妬は決してなくなることはありません。このことに気づき反省し、他者の諌言に耳をかたむける賢明なる姿こそ、仏道修行者が求める智慧だと思います。ブッダが求めたのもこの透徹した智慧でありました。

    わたしの小さな反乱も、すべてご本尊さまの大きな命の一部に過ぎません。自分の信念を貫くことこそ、わたしの信仰と考えております。

    また、ご訪問してください☆彡

  4. みかん。 より:

    続きを書きます。

    池田先生についてですが、前回のコメで私のズレた師弟観を率直に書きましたが、先生の事は大好きでとても尊敬していて、今回付け足すなら、大事な事・正しい事を教え導いてくれる人生の先生そのものといった感じです。
    しかし、前回も書いたように、「師匠」と思った事がなく、「弟子」と自覚した事もない、「師弟不二」が心で理解できずにいる迷子のような自分です。

    また、先生をパーフェクトな人だとか、絶対的だとか思った事は、私もないかもしれません。
    過去の、言論問題でしたっけ?先生も普通に間違いや失敗はあるでしょうと考えています。
    先生はご自分の間違い・失敗を潔く認め、誠実に謝罪されますから、そういうところも余計にかっこいいなあという印象です。
    お年を召して、喋りにくくなったり、病気をされたりも、フツーの当たり前の事ですよね。
    それにそもそも「生老病死」は自然の摂理。
    どんな状態でも、先生は先生。思いは何も変わらないです。
    (むしろ、「先生はお元気です!」の一点張りのほうがなんだか不自然に感じたりしていました)

    とにかく、自分は、先生の事を尊敬し大好きなまま、純粋に生涯信心をしていきたいと願っています。

    あと、私は執行部や本部にも疎いので何もわかりませんが、「納得いかない事至極」と思う事はままあります。
    例えば、これはポラリスさんも書かれていますが、選挙の時期に座談会がなくなるのはなぜか、とか、なぜ「広布部員証」なるものがわざわざ存在するのか、とか、なぜいつも「学会本部に”千客万来”」と表現するのか、とか。
    (「千客万来」って、主に商売繁盛を意味しますよね?学会本部は商売じゃないでしょう。「客」を「仏」に変えてほしいと本気で思っています)

    でも、こういうのも、先生が決めてる訳ではないと思ってますけど。

    ちなみに、選挙の時に座談会がなくなるのは自分も凄く疑問で、地区の人達に聞いても「そういう風になっているから」と言われる訳です。
    そこで、県外の信頼する先輩に聞いてみたところ、「二兎を追うものは一兎も得ず」(合ってるでしょうか?汗)だからある意味仕方ないとのお返事でした。
    選挙も座談会も、両方大勝利・大成功させるのは難しい的なお返事。
    内心あまり納得しませんでした。
    (例えば県外にも足を運んで投票依頼する人も出てくるので、座談会に参加できない人が多くなるとか、そういう理由もあるのかなと思いましたが)

    これをマイ講師に聞いてみたところ、「全国的には選挙の時にも座談会はするんじゃない?だって、選挙の時期でも大白に座談会御書が載ってるでしょ。これは、各都道府県のトップがやるかやらないか決めてるんじゃないの?」と最初はおっしゃっていましたが、選挙の時に座談会がないのは、どうも全国的な流れですよね。
    「全国的に、ないみたいです」と言ったら、「だから、そういうふうにしちゃったんだろうね、本部が」との事でした。
    「それでも、やるところはやってると思うよ。そういう組織は、どんどん発展するよ」ともおっしゃってました。
    その通りだと思いました。

    でも、私は、座談会の主催者ではないし、積極的に運営に関わっている立場ではないので、無責任に「やったほうがいい」と言えないし、言わないでしょう。
    ただし、自分のグループは選挙も関係なく毎月グループ会合開いてます。何の支障もありませんので^^

    再び長文になってしまい、いいのかどうかわかりませんが、とりあえずすみません。

    最後に。
    アンナさんって、私なんかからすると、本当に頭の良い、キレる人だなという印象です。
    思慮深く、頭脳派のイメージ。恐らく、本も沢山読まれているでしょうし、勉強もよくできる人なんだろうなと。
    こうして、様々な物事を自分の頭で深く考え、判断し、また論理的に文章に表現できるところも、本当に素晴らしく、素敵です。
    それが少しだけ原因しているのか、学会組織の事で疑問や不満を持つ事も多いのかもしれませんが・・・実際に日本の組織が肌に合わない人は沢山いると思います。
    聞いた話では、そういう人は海外に行くと、海外の組織ではのびのび活動されるそうです。

    私は、頭の悪い、不信と疑心の塊みたいな学会員だったので、組織の中では単なる問題児でしたが、アンナさんは異端ですね。
    私は、アンナさんみたいな人を邪魔?に感じる組織であるなら、そっちの方が大問題だと思いますよ。

    私の身内に、何年か前に「私は異端児だから学会組織が合わないの」と言って、御本尊を返された人がいます。
    個人的には、「本当の異端児ならば組織の中で戦うでしょ」と思いました。

    アンナさんは・・・記事やコメを読むにつけ、私が個人的に考える異端児だと思っています。

    私は、不信と疑心の塊だった頃、「あなたみたいな人は教学がないと退転します。御書を1行でもいいから、毎日読んで下さい」とある人から言われ、すぐに御書の全編拝読をスタートしました。
    今、3回目になりますが、私みたいな奴は、生涯全編拝読を続ける必要がありそうです。
    でも、きっと、ずっと、毎日御書を読み続けるのだと思います。
    今まで自然にそうしてきて、1年8カ月前に素晴らしい講師に出会い、毎月御書を真剣に勉強させて頂ける事が最高に幸せです。
    御書を読んでいなければ、いつまでも不信と疑心の塊の問題児だったと思います。

    無疑曰信。
    そうですね、これは、疑って疑って、疑い切り、疑い尽くした末に、もうこれ以上疑いようがなくなった時に初めて「信」が生じるという事ですよね。
    初めから何も疑わない事、最初から疑いが一切ない事ではないんだと思います。
    だからこそ、その末の「信」が揺るぎない大なる確信になる訳ですから。

    ゆっくり考えながら打っていたら、すっかり遅くなってしまいました。
    長くなり、本当に申し訳ありません。

    追伸)
    私の「みかん。」というHNですが、「。」は、単に着地がいいという理由です(笑)

  5. みかん。 より:

    こんばんは。
    「正直好きではない」私みかん。に、長文のお返事ありがとうございます。

    人にQしておいて自分の考えを述べない姿勢を指摘され、ただただ反省しています。申し訳ありませんでした。
    このような姿勢がアンナさんに相当嫌われたのでしょうか。私のコメが公開されていない事でわかります。

    (また、普段よく使う「~っす」という言い回しなど不真面目に聞こえる文章は今回排除して、真面目な文章で書こうと思います。長くなりすぎたら、すみません)

    まず、私がアンナさんにQした「師匠を超えるとはどういう事か」という事について、先に私自身の考えを述べなかったのは、「もったいぶった」という訳でもなく、純粋にせっかちな部分が前面に出てしまったのだと認識していますが、それがもったいぶった態度や失礼な態度にうつったなら、失礼致しました。

    更には、私は私自身の考えを当然正しいとは思っていない事も付け加えておきます。ただ、思索の末に辿り着いた自分なりの「答え」を持っている、というだけの事です。

    私の意見は何の参考にもならない、とのアンナさんの言葉を見て、私が先に考え(自分なりの答え)を書く事によりミジンコでもアンナさんの回答に影響を与えるかもしれない・・などと心のどこかで感じていたかもしれない可能性に気付き、ハッとしました。同時に、アンナさん鋭いなあと思いました。

    さて、おっしゃる通り、私は(一婦人部員になって10年以上経つので)アンナさんより年上でしょう。
    ですが、35歳という年齢にはふさわしくない未熟者で、人生経験は超貧困です。
    とにかく、スーパーでアルバイトをしながら、仕事と個展でイラストを描いて、音楽と映画が大好きな一グループ長です。

    自分には内面の未熟さがにじみ出ているのか、いまだに小学生の娘と姉妹に見られる事もあり、美術館の受け付けでは「小学生お二人で600円になります」とか、御書学の中継で会館に行けば「あなたの年で御書の勉強なんてえらいね」とか・・・唐突に来るこのような反応に、途方に暮れる感覚を覚える事もたまにあります。
    精神的にも恐らくとても未熟で、小学生の子供と本気で喧嘩をする事が多いのです。
    短気ですし、興味のない事には上の空ですし、こだわる事にはとことんこだわる。

    ですので(?)、当然ながら年の上や下は関係ありません。自分のように、年齢が上の婦人部でも心身共に「未熟女」(友人から言われた事があります)が存在する事を、この場を借りて書いてみました。(特に何の説明にもなっていませんが・汗)

    前置きみたいな文章が長くなり失礼しました。

    本題に入ります。
    私が前回のコメでQさせて頂いた「師匠を超えるとはどういう事か」という事についてですが、思索の末に辿り着いた私の考え(自分なりの答え)を、以下に書きます。

    目の前の一人を励まし、一人の為に祈り、また、師匠と同じ心で戦い、行動し、更なる人間革命、更なる宿命転換をし、全世界の人々を救う仏の大境涯を目指し、身近なところから幸福の波動を広げていくーーーこの信心と生き方を生涯貫き通していく事。

    補足しますと、アンナさんも書かれている「従藍而青(じゅうらんにしょう)」という天台の言葉がありますが、御書の個人講義で「上野殿後家尼御返事」を勉強した時、マイ講師からこの言葉の奥底(おうてい)の意味を聞きました。
    (大白や新聞の解説にも池田先生の指導の中にも載っていないのですが)

    マイ講師は、御書を学ぶ時、いつも思索に思索を重ねて、御文の文底・奥底の意味(大聖人はこうおっしゃっているのではないか、真意はこうではないか、という次元)を導き出すというか、それに辿り着くというか、そのような勉強の仕方をされている人なのです。

    奇しくも、ポラリスさんへのアンナさんのお返事の中にも似たような内容がありますが、大白蓮華や新聞の解説・先生のご指導の引用で済ます御書講義とは全く違う講義を毎月のように座談会でされている人です。

    ですから、アンナさんの講義のされ方は、きっと私がその場で聞いたらとても感動するものだと思います。内容もそうでしょうが、そのように、自分で思索して大聖人の真意を導き出し、自分の言葉で語る御書講義をされる事自体、私には大変心に響く事なのです。
    (講義で引用だけなら、各自が家で大白等を読めばいい事ですしね)

    講師についての詳細は省きますが、とにもかくにも、マイ講師が思索を重ねて辿り着いた「従藍而青」の奥底の意味は、「師匠を超えて弟子が成長する事」「師匠を超える弟子」だと聞きました。
    この「従藍而青」は信心を堅固にする例えで、妙法の修行を重ねて信心を深めていく事ですよね。常に「いよいよの姿勢」「日々発心」で仏法を実践し、それを生涯繰り返していく事。

    私はこの時、恥ずかしながら「師匠を超える」という言葉を初めて耳にし、衝撃を受けました。

    今回、大白1月号「種種御振舞御書」を勉強(予習)していた時、「迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし」とあり、この4人を「超えなさい」むしろ「既に超えているんだと自覚しなさい」と大聖人はおっしゃっているけれど、そもそも御書の中で「私(師)をも超えなさい」と明言されていない事を思い、大聖人は、この御文の底では「私をも超える弟子になれ」とおっしゃっているのではないかと考えました。
    そこから、「では、そもそも、師を超えるとは?」と考え始めました。

    ちょうどその頃、こちらのブログを読ませて頂いていたら、記事の中に「師を超える」という言葉があり、マイ講師も、アンナさんも、いとも簡単に(←語弊があるかもですが、すみません)「師を超える」とおっしゃっているけれど、どのような意味・解釈をこの言葉に抱いているのか、率直に尋ねてみたくなった次第です。

    「師を超えるとは」について自分の考えを前述しましたが、マイ講師は、こう説明して下さいました。「師と同じ心をどこまで保ちながら戦っていけるか」
    そして、「一時、一瞬であれば、師匠と同じレベルに達する事はあるけれど、それを永続させる事は並大抵のことではない」と補足もして下さいました。
    思索した自分の考えは、マイ講師の解釈に近からず遠からず。ただ、完全にはズレていない事は、安心できました。

    アンナさんの「師を超える」についてのお考えは、今までも記事の中で何度も書かれているとの事。全てを、また、すみずみまで読みこめていなく、申し訳ありません。
    今回のQは、愚問だったかもしれませんね。

    長くなっているので、申し訳ありませんが、一旦コメントを区切らせて頂きます。

  6. アンナ より:

    ポラリスさま、コメントありがとうございます。

    選挙のために座談会を中止する――本末転倒は仏法者が最も警戒しなければならないことです。「末」によって「本」が見失われるからです。手段が目的を駆逐するのと同じですね。ポラリスさまのように疑問を持ちながら、苦痛に感じながら、活動に参加している人は多いと思いますが、自分の意思を明確に表明できないのは、それを言うと会員として、また信仰者としてバッテンを押されるからです。役職があればなおのことです。誠実であろうとすればするほど、責任感との狭間で揺れ動くことになります。誰もがアンビバレントな感情と思考のなかで苦悩するのです。

    わたしたちはいつも負の動機を背負っております。これをわたしたちは「魔」と呼びます。強信であればそれに比例して「魔」も強情になります。自分のなかに生息する「魔」は、自分に悟られないように巧妙に擬装します。ときには正義や善の衣を着ているときもあります。生き生きとした「生」から遠ざけるマイナスの動機は、仏道から言えばすべて「魔」なのです。
    「魔が入って信仰の邪魔をする」などの言い方をして、妙に納得してしまいますが、宗教につきものの神秘的スピリチュアルな側面を元々受け入れやすい体質があるからでしょう。元を正せば、「魔」は脳のなかの物質、「正」に対してネガティブな働きをする物質のことではないかしら。科学者でないのでよくわかりませんが。

    「頑張ろう」と思っても、「そんなに頑張らなくていいんじゃない」、というような感情が必ずわき出てきます。なにかをやろうとしても、苦労して自分がやらなくても誰かがやってくれると考えます。
    わたしの毎日は、そのような感情の葛藤のなかにあります。アクティブであろうとすると、否定的な感情が一方でもたげてきます。何も考えず、疑問も持たず、言われたことを素直にやればどれほど楽なことでしょうか。でも素直さが信仰と考えるのは間違いです。信仰は疑うことから始まるのです。おかしな言い方ですが、無疑曰信は疑うことを疑わないことから生じる結果なのです。逡巡と決意、失意と再起の繰り返しのなかから、自然と生まれる確信なのです。
    自分の生き方に疑問を持たない人はいませんが、深く考える人は稀です。いつも既定の事実と既定の行動理論を支えに、自分を肯定する習慣が身にしみついています。まず、何が正しいのか、その根本から問い直す作業が必要なのではないでしょうか。

    仏教史は新たな解釈を試みた歴史の連続です。その意味からすると、大乗仏教は小乗に対するアンナテーゼとも言えますが、大乗のなかでも、権、実、種脱と命題の深化を繰り返してきました。創価のなかでも、価値論から生命論、そして人間主義へと中心思想の変遷があります。情報化とグローバルな時代を迎え、時代に即応した思想と哲学は、世界経済や政治という現実に直面する問題を切り離して深化はありえないと思いますが、より多面的な、より多様性を尊重する思想的背景がなければ、世界との対話は難しいと思います。
    はたしてそれに応える思想があるのか、と考えますと、わたしは必然的に人間主義思想に求めざるをえません。このことは今まで何度も書いたとおりです。わたしたちは、池田思想の深化と実践という難題を課せられているのですが、そのためにはまず仏教史の理解とそのなかの創価のあるべき姿を模索しなければならないと思います。
    わたしが読んだ本のなかから、次のようなものをチョイスしました。わかりやすい一般書ですので、読んでいただけたら幸いです。また既読であれば、どうか次のステップにむけて良書を選択してください。

    わたしは大学時代、トインビー対談を何度も読み返しました。多くの示唆と考えるヒントを与えてくれるトインビー対談はわたしの原点ですが、学ぶ意欲が旺盛な会員ならすでに古典とも言える必読書です。
    また御書への精通は会員であれば当然のことでしょう。なにごとも御書根本であることは信仰者の生活に欠かせないことですが、最近は座談会や会合等での御書解説や講義でも新鮮さが失われ、創価の出版物からの引用に終わるみじめなものが多いと感じられます。
    本当に思索しているのか、整然とした論理展開と情感溢れる大聖人の御心に感動しているのか疑問に思い、わたしは講義者の顔をマジマジと見つめて、その軽薄な心のなかを想像する癖がついてしまいました。言葉は真理を伝えるツールでもありますが、先生がよくおっしゃられるように自分の体験から得られる確信の言葉こそ最強のものです。

    わたしも時々、部員さんを前に御書講義をします。自分で自分のことを言うのはわたしは好みませんが、わたしの御書講義は大白や聖教の創価のオフィシャル講義から逸脱しています。自分が学び自分が経験し思索したことを自分の言葉で語ると自然とそうなります。想像力の乏しい言葉ほど虚しいものはありません。

    1.バウッダ(中村元・三枝充悳著「講談社学術文庫」)
    2.釈尊と日蓮の女性観(植木雅俊著「論創社」)
    3.日蓮仏法と池田大作の思想(松岡幹夫「第三文明社」)



    。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*




    放置同然の不真面目なブログに、真面目なコメントをありがとうございます。
    みかん。さま、変わったハンネなのですね。句読点をつけるのは何か意味があるのでしょうか。

    師弟について、今までの記事やコメントのなかで、自分なりの考えを書いてきましたので、折角のご質問なのに、ここであらためて詳しく書く気にはなれません。


    宗教にかぎらず、学術や芸術の世界でも師弟関係は存在します。師弟の絆は、師の人生も、弟子の人生も、左右するほど強い関係です。
    一般的に師は弟子より年上ですので、普通、師は弟子より早く亡くなります。また師は学びと経験を惜しみなく弟子に伝えます。また弟子はいつも師の期待を裏切ります。それでも師はどこまでも寛容ですが、ときには弟子は反旗を翻すことも厭いません。世界は広く深い問題を絶えず抱えているために、師はその構想と理想を半ばに、必ず去ってしまいます。その構想は弟子に託されますが、弟子の必死の闘争にもかかわらず、実現できることは限られています。
    人類の師・釈尊は不戦の理想を弟子たちに託しました。しかし弟子たちがしたことは正統をめぐっての争いとそれによる差別化でありました。正統を主張すればするほど民衆は離れていったのです。このジレンマの繰り返しが仏教史です。
    歴史はいつも解決不可能な問題に頭を悩ませ、仏教もその解決手段になることをほとんど放棄してきました。積極的に関与するためには、強い決意が必要だからです。聖人と尊敬される人は数多くいますが、この聖人の決意の度合いが聖人を聖人たらしめている根拠です。真理を得た者の決意は、その深い喜びとともにゆるぎなく不動です。
    決意が実行に移されるとき、世界は一時的に混乱に陥ります。根本から変える新しい価値観が台頭すると誰もが戸惑い、受け入れを拒み、その混乱を招いた者を罵ります。師はそのような過酷な戦いを送る人生を自ら選択し、弟子にも促しますが、臆病な弟子は決して受け入れることはありません。巧妙に体面を飾るだけです。それでも世間的に立派な人物として認められるのですから、世間の評価など当てになりません。

    でもいつか偉大な師を越える弟子が出てくるでしょう。今までの歴史はそうやって発展してきたのですから、未来もまた変わりありません。仏教は生命変革の法なのですから、誰にもその可能性があります。
    従藍而青という言葉がよく引用されますが、師弟は互いにその生命の尊厳性を認めあった者を言うのだと思います。崇高な使命の継承は、この尊厳性のうえにあることは疑う余地はありません。太陽が万物を育むように、師は万人を対象にその尊厳性を説きます。不軽の実践を見ればよくわかります。普遍的な真理です。
    しかし、そのなかでも求道者に心を寄せるのは自然の道理です。迷える者を励ます深い情感は、他者共存の世界観に立脚しています。迷える者も自分自身の一部だからです。迷いは自分の生命の一部でもあるからです。

    わたしは開目抄が好きです。開目とは大聖人ご自身の開目でもありました。悩みや迷いを克服した人間的な勝利宣言でありました。わたしはそのことを知ることができたとき、深い感動に襲われました。あらゆる思想の原点がこの書のなかにあります。釈尊が言いたかったことも、この書に凝縮されていることを知りました。
    でもわたしは、大聖人が喜悦はかりなしと言われたそのご心境に少しでも近づいているのだろうか、といつも憂慮してしまいます。

    その深い真理を、わたしに教えてくれたのは、池田先生です。わたしは結局、先生の手のひらで踊っている不肖の弟子にすぎないのです。わたしはあまりの自分の非力に愕然とすると同時に、なんのわだかまりもなく、なんの疑問もなく、弟子宣言をしている人を恨みました。でも師はどこまでも寛容であることをわたしは知っています。しかし師であっても決して無謬でないことも受け入れなければなりません。完璧な人間はいないのですから、弟子もまた寛容でなければならないのです。
    わたしの師に対する不満は、同時に創価全体に対する不満でもあります。先生は創価の管理者だからです。特に執行部に対する不満が強いのです。その一つ理由は、将来への展望がないからです。創造的なアプローチがないからです。師を越えられないとする原因はここにあります。

    まとまりのない文章になってしまいました。お許しください。
    みかん。さまはわたしより年上の方でしょうか。年上の方であれば、わたしより人生経験も豊富でいらっしゃると思います。ですから、あえて言わせていただきます。
    率直に申し上げれば、わたしはあなたのような方は好きではありません。
    あなたのコメントには、わたしに質問しながら、自分の意見を、わたしの返答を見て書きますとあります。わたしはそのようなもったいぶった方を好みません。なぜ、自分の意見を単刀直入に書いたうえで尋ねようとしないのでしょう。あなたの自信のなさが垣間見れます。自信がなくても、自分のお気持ちをそのままお書きになればよろしいのではないでしょうか。
    あなたのご意見は、きっとわたしには参考にならないでしょう。

    妙法を学び体験を通して掴んだ確信は、その人の財産であり、かけがえがない宝物です。信仰対象は同じでも、桜梅桃李の喩えがあるように、信仰経験から得られる教訓や人生観は同じものではありません。あなたの師弟の定義はあなたの人生経験から得られた、貴重で、代理がきかない唯一のものです。あなたの人格と密接に関係しているからこそ、人生の強い支えにもなるでしょう。
    信仰は、このように自分固有の確固な基盤を築くことに他なりません。いくら立派な他人の体験を聞いても、それが自分のなかで消化されないかぎり意味がありません。あなたが大切にする、あなたの師弟への考え方と確信は、辛いときでもきっとあなたの希望の力になってくれるにちがいありません。学び実践することが師弟の道であり、やがて師をも越えるような幸福の花園で、生きる喜びの実現も不可能ではないでしょう。なにものにも負けない人生の勝者になることが、師が望むことであり、師の恩に報いることではないでしょうか。

    「わたしは師を越えた」などと言えば増上慢の謗りを免れません。またいつまでも師を越えられないとしたら、師にとってこんな情けない弟子はいないでしょう。
    師の心はそれぞれの弟子の心のなかにあり、その継承は他人から強制されることでもありませんし、ただただ自分自身の深い自覚しかないのです☆彡

  7. ポラリス より:

    全国各地で座談会が開催されていますが、我が地区は選挙の為にありません。私はそれが不思議でなりません。座談会を開催する事により、票が減ったり、落選するとでも思っているのでしょうか、座談会よりも選挙が大事なのでしようか? これは一つの例ですが、誰一人今の事に疑問を持っている人はいないでしょう。そこが今の組織の問題だと思います。上からの打ち出しを実践することが信仰であるならば、我々の信仰とは、新聞啓蒙であり、選挙活動であり、財務であろう。しかし、それらは組織活動であり、信仰では無い、我々の信仰とは具体的には人間主義の実践にあるわけで、人間革命「法旗」37の中に先生は「人間主義とは、何か特別な生き方をすることではない。奮闘している人や苦労している人がいたら、声をかけ、励ます。喜んでいる人がいたら、共に手を取って喜びあうーその、人間の心の共有のなかにこそあるのだ」とはっきり断言されているではないか。
    今の組織にこの人間主義が脈打っているだろうか? それはNOである。あるのは、ノルマであり成果主義である。私は座談会こそか゜人間主義の原点だと思い、力を注いで来たが、今の組織は人間主義のない、つまらない集団に成り下がっているのです。

  8. アンナ より:

    ご返事遅くなり、もうしわけありません。

    ポラリスさま、本年もよろしくお願いします。

    わたしの両親は、基本的に子どもに不干渉です。幼いときは口やかましい一般的な親であったけれど、大学を卒業してから、自分の人生は自分で切り開いていきなさいと宣告されるように言われました。全部自己責任で、そういう基本スタンスは子どもとしては大変ありがたいと思う。もちろん信仰もそのなかに入ります。創価をやめる気など毛頭ありませんが、自分の使命を確信し、先生がおっしゃられるように、人間も組織も改革こそ妙法の本質であると強く自覚し、自分に課していく姿勢に、わたしは少しも疑いを抱いておりません。
    新陳代謝が行われなくなれば死があるように、細胞のエラーの修復と全体像の把握こそ活性化の秘訣と考えております。
    真理は完全無欠でも証明者はその実践過程でたえず間違いを犯します。また惰弱で意志薄弱で怠慢です。すぐ他者のせいにします。自分の正義を最上のものとして訴えて憚りません。このような人々を救済していくためには、勤勉でなにものにも動じない意思強固な人格でなければなりませんが、反社会的の烙印をおされる可能性もあり、今や不軽の実践は難しい環境にあります。今までの創価史のなかで普遍的正義の発揚を見たことがありますか。正義を主張するたびに、さらに大きな正義を葬ってきたのです。

    原理は不変でも、そのあらわれ方のバリエーションは多彩で、個人個人において無限の可能性があるでしょう。集団よりも個人の強調は近年の創価の指導にもよくあらわれていますが、人材を各界に送り出し、創価の仏教運動への賛同を幅広く得ていく方針転換がありました。人間革命思想は同時に社会革命思想ですが、世代を越えた、あるいは世代間に継承されなければならない戦略でもあるのです。その戦略は確実に成果を生み出し、社会に対し一定の影響力を及ぼす段階に入りつつあります。社会に対する有為な人材の育成は創価の大きな使命でもありますので、池田先生のご指導は多くの人々に希望と勇気を与えたということではないでしょうか。

    しかしその一方で、不満を持つ会員が増大しているのは、どうしてなのでしょう?
    統計的な調査では、創価に不満を持つ一世会員が比較的多いことがわかっております。
    その理由を列挙しますと、
    1.幹部の人間性に問題がある
    2.学活に費やする時間的負担が大きい
    3.組織中心主義的傾向に違和感を覚える
    4.聖教啓蒙に問題がある
    5.選挙支援活動に問題がある
    6.先生が特別視され過ぎる
    まっとうな常識ある人間が感じることは誰もが感じるのです。そしてこのような不満不信は将来、顕著なクレームとして顕在化すると考えられ、必然的に改革を余儀なくされるでしょう。

    未来部員への指導は、創価学園、創価大学への進学の奨励とリンクしています。未来部担当者は進学ブローカーみたいな役割を担っており、わたしが大学進学する以前から、「池田先生のもとへ」というスローガンが、未来部指導のメインでした。池田博正副会長が未来部の責任者であることは、副会長と未来部のつながりを強くするための人事です。将来を見据えた布石でしょう。先生にとって、心から信頼がおける人間が身内よりいないということでしょうか。師弟不二という立派な言葉が虚しく響いてきます。
    最近は、家族単位の勤行、座談会参加、本幹参加が特に強調されており、さらに未来部の未入会家族へ焦点を移し重点的に取組む姿勢が打ち出されています。未来部への信仰継承が危機的状況にあることを物語っております。親子間はデリケートな問題ですので、深く立ち入ることはできません。正しいからといって受け入れられるとはかぎりませんし、執行部には相当の焦りがあるものと理解しています。

    現在の女子部の実態をみれば、どうして楽観的に考えることができるでしょうか。わたしは、信仰継承がスムーズにいかなかった親の不幸な実例を何度か経験してきました。
    父子・母子一体の成仏が、そもそも妙法の基本法理ではないでしょうか。
    令法久住への熱い情熱とも言える「一人立つ」精神は、女子部にこそ求められているのです。どうか、誰かを励ますよりも真っ先に、健気に奮闘する女子部員を精一杯励ましてください。


    Beethoven Sonata Op 57 “熱情” Mov3

  9. ポラリス より:

    アンナさん「青年学会 勝利の年」おめでとうございます。私は娘が女子短出身なので、2日の創価同窓の集いから出発しました。アンナさん我々は池田門下生です。私は、学生部のころから「御本尊と先生にはどこまでも純粋に」で生きてきました。ただ、組織悪には断固戦ってきました。どんな組織でも100%はありえませんが、今の組織は-100%かもしれません。特に活動者会は苦痛でつまらない会合です。先生が参加される会合とは、雲泥の差です。ある会合で参加した高校生が「先生!地元に、ぜひ来てください」と先生は「私が行かなくても、君がやりなさい。君が”池田大作”なのだ。その心意気で、すべては”ボクが引き受けますからどうぞご安心ください”と言い切れる君になるのです。頼むよ!」との甚深の指導がありました。これが師匠の心だと思うのです。私は沖縄の出身です。先生ほど沖縄の心を理解されている方はいないと思いました。先生は沖縄の為に涙を流されながら題目をあげられていた事も知りました。私は組織において、先生の人間主義を貫き、たとえその結果、組織から除名されても、私の師匠は先生です。今年も宜しくお願いします。

      いつの世も いかなる時代も 師と共に生まれ 師と共に戦い 師と共に勝って
      誉れの広宣流布の大道を歩み抜くのだ!

  10. アンナ より:

    無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ
    佐村河内守


    佐村河内守の精神、そして音符にたくした動機は並外れて強固に思われます。芸術における強固さとは純粋さという意味です。苦難を乗り越えながら、さらに大きな苦難の渦中にあるのでしょう。
    なんて無垢な響きであろうか。あたりまえにさりげなく美しい。


    会社においてはリスク管理に多大の労力を傾注しています。一つの事故やクレーム発生が会社の存続にかかわる重大なダメージになる可能性もあり、必要以上に神経質になるのも仕方ないかもしれません。いつ頃からかは断定しかねますが、創価も組織維持という目的で、リスク管理を徹底してきたものと思われます。それだけ安定期に入ったとも言えますが、冒険はしなくなった、または必要がなくなったということかもしれません。かつての強引な折伏も何万人も集めるような大会合もなくなりました。多くの人間を一箇所に集めると、危険なリスクが比例して増大するからです。一つのクレームが社会問題化する傾向もあります。また反逆者を整理し執拗に葬り去りました。リスクを排除したのです。
    最近は一般会員のクレームが頻繁にあるようです。これらは社会常識の範囲内ですが、将来の一律な打ち出しの困難さを予想させるものです。しかし、細部にわたっての対処の仕方は定まっていません。およそ宗教団体において対応マニュアルを作ること自体、おかしなものですが、現場を知らない職業宗教人はその実情に精通していないことから、会員の悩みに的確に応えることができない。クレームや苦情、相談事は無視できない切実さを含んでおり、十分なフォローとサービスが必要なのですが、鈍感な幹部はやがて創価の名誉が傷つけられる事態に至るまで気づかない。
    昭和32年、夕張炭労事件がありました。労働者地域共同体とも言うべき労組と、生命次元での救済を使命と信じている宗教団体との対決は、その行動動機の深さにおいて、はじめから勝敗は決っていたようなものです。「小説・人間革命」や関連する随筆などの行間を想像して読めばわかりますが、池田先生は自らの責任を自覚し、深い決意で困難に臨まれました。菩薩の誓願は、信仰による自己責任の再自覚と言い換えることも可能です。
    労働運動の衰退とともに労働貴族という言葉は死語になりましたが、反対に宗教貴族という言葉がその勢力拡張のなかで息をふきかえしました。宗教貴族は再自覚が苦手なリスク名簿の筆頭格です。
    強く主張することを控えて、組織に埋没する性向をその遺伝子に持つ日本人は、宗教貴族の格好の餌食です。現実を正視できずに矛盾を放置して、善のなかに悪があり悪のなかに善がある、その人間の二面性を認識できない幼児性に原因があると思う。善をなそうとすると苦悩が生まれ、その苦悩に負けて傍観者に甘んじ、賢い大人を演じて責任を放棄する。責任感の強さが人間性の大きさなのに、確信の強さが現実変革の手段なのに、弱さのなかで自己嫌悪に陥り、後悔しても反省はない。現在は自己責任という輝かしい言葉ほど虚しい響きはないでしょう。

    肯定的な見方をすれば、創価の指導は社会への適合性を含み、順応性に富み、柔軟な思考があり、個人の変革は決して社会に脅威を与えないということ。信仰とともにたゆまない努力を強調すること。また平和行動や社会参加も漸進的であり、早急な社会変化を望みません。仏教は本来、保守的な思想なのですね。「革命児」という会員が好む言葉を、最近見かけましたか? 激しい言葉は消えゆく運命にあります。
    宗門と決別したとき、創価では聖的な信仰のシンボルを池田先生という「師」に求めました。「学会精神」「信心の継承」というキーワードで学会史を振り返ってみれば、「師」がその間に介在しています。学会精神も信心の継承も、すべて先生という中心から必ず生まれるのです。さらに学会史を貫いてきた「勝利」という成果主義も、ことさら強調されるようになりました。わたしたちは幸せを求め信仰に励んでいますが、幸せと勝利はほとんど同じ意味です。また人生の成功者でありたいという願望、サクセスストーリーを歩むイメージは、現世的、世俗的、現証的な創価の指導と合致しています。現証的であるがゆえに結果を重視し、それにともない、主観的な認識に左右される功徳と諸天の加護の強調もあります。その勝利への原動力としての先生のご指導は、政治的な支援活動での数量的結果主義に代表されるように、常にノルマとして会員の肩にのしかかってくるのです。功徳や唱題行為がすでにノルマ化している会員をよく見かけます。それをMCというのであれば、MCなのでしょう。
    また矢野裁判和解問題にみられるように、徹底した悪との対決を叫んでいながら譲歩する理由は、会員に知られたくない事実があり、先生の威厳を傷つける恐怖があるものと思います。和解を最終的に指示したのはもちろん先生ご自身と思われます。創価の理念から言えば、「会員のため」という論理ほど、ご都合主義があらわになる自分勝手な言い訳はないでしょう。正義とはいったい何だろうか?
    スキャンダラスな裏面史を知りたくないと考えるのは、真に信仰者の姿勢なのでしょうか。臭いものにフタをする行為は日常でもよくあることです。師弟の大切さを訴えながら本当に師を求めているのか、わたしは懐疑的です。真実を恐れなく観ることが、ブッダ以来の仏道修行だからです。
    和解はリスク管理の一つの選択肢ですが、本当の問題は別のところにあります。なにものにも代替できない宗教信念にも本音と建前があることです。表と裏があることです。世の中、きれいごとばかりではありません。
    『組織は大きくなればなるほど歪みが生じるものです・・・だから間違っていることを、間違っているとハッキリ言える人が必要なのではないでしょうか』
    (TVドラマ・ラッキーセブン)


    SGI提言は、アメリカの単独行動主義への非難と理解していますが、同時に国家の普遍的理念との整合性の問題です。これはそっくりそのまま平和を求める創価と公明党の関係と重複してきますので、断固たる行動をとれなかった会員にも問題があります。そもそも問題意識があるのか、疑問です。
    このたびの政権でも、さっそく消費税の軽減税率の導入が見送られる可能性があり、公約違反という裏切り行為を目の当たりにする日も近いかもしれません。


    jupiterさま、コメントをありがとうございます。
    現役幹部さんということですが、もっと詳しく書いていただけたら、真実味が増したでしょうに。
    信仰は無上道、真実の道を探し求める旅です。わたしはアジテーターではありませんし、混乱を期待する者でもありません。わたしは自分の人生に責任を持ちたいだけです。
    わたしの部には30人以上の部員さんが名簿上在籍していますが、活動家は4分の1よりおりません。それでも他の部に比べたら多いと思います。未活の部員さんは二世三世会員ですが、創価が最重要課題と位置づけている信仰の継承がスムーズに行われていません。いわゆる「学会っ子」をとりまく環境の大部分は、家庭のなかの親子関係にあると理解していますが、親が信仰に熱心であっても子どもには理解されない部分が多いものと思います。成人してからの再動機、再決意が必要と考えますが、数多い選択肢のなかから、特に信仰を選択しなくても十分に人生は生き生きと回っていきますので、心の問題である信仰上の深刻な悩みは敬遠されがちになると考えています。
    多くの未活メンバーをかかえる組織も大変深刻ですが、現在の中心世代である50代60代が現役引退をむかえる100周年はその深刻さもピークをむかえると考えております。そのとき、現在の創価がそのままあるのか、誰にもわかりません。

    やっと今日、年賀状のプリントアウトできました。
    楽しい年末年始をお迎えください(^_-)-☆

  11. jupiter より:

    アンナ様
    初めまして。時々拝見しております。
    私は現役幹部ですが、上を見ても下を見ても危機感のない者達が、ただ自己の功徳を追い求めるばかりの姿に、これが学会信仰の成れの果てかと失望するばかりです。
    アンナ様の思いに深く共感すると同時に、宗教事業と化した学会が自力で再生することはあり得ず、更に困難な末端からの革命の機運を待つことしか出来ない現実を再認識しているところです。
    今回のエントリーを拝見して、聡明で純粋な一方で頑ななアンナ様がとうとう聖域に一歩踏み込んだことに対して多少の驚きと共に、解かなければならない呪縛の一端を捕まれたような気がしました。

    先生が政治的発言をされないとのことですが、先生は「第28回 SGIの日 記念提言」でイラク戦争の前段としてのテロへの軍事力を容認する提言を行っております。
    これは逆の意味で宗教者としては全く馴染まない正に政治的な発言であると、今でも大きな疑問として私の心に引っかかっています。

    学会の三大悪である「新聞・選挙・財務」は、「師弟不二」によって活動家の冷静な判断力を奪い、鼻先にぶら下げられた幻想の「功徳・福運」をニンジンとして大勢の馬を走らせます。
    これが果たして最高の思想・宗教なのでしょうか。
    こんな現状を先生は何もご存じないのでしょうか。

    巷では人材不足と叫ばれて久しいですが、いないわけではありません。
    旧態依然とした無反省な組織運営に辟易して、聡明な人たちが潜在化しただけなのです。
    MCにかからない人たちを組織に牙する反逆者として排除してきた結果なのです。
    学会の中でアンナ様のような逸材が埋もれてしまうことは残念でなりませんが、世間から見れば活躍の場を間違えただけと言われるでしょう。

    ご自身の心の叫びを見つめながら、更に枠を超えたご活躍をされることをお祈り申し上げます。

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