女子部の嘆き

「復興予算きちんと精査」 平野復興相、「使途に問題」認める(産経)

2012.10.7 21:27

東日本大震災の復興予算が、被災地の再建とかけ離れた事業に使われている問題で、平野達男復興相は7日、NHKの番組で、「きちんと精査し、来年度は、できるだけ被災地に特化した予算を作りたい」と述べた。衆院決算行政監視委員会(新藤義孝委員長)でも連休明け以降、予算検証のための国会閉会中審査が行われる見通しだ。
番組で、平野復興相は「いかがなものかという予算がないわけではない」と述べ、復興予算の使途に問題があることを認めた。
問題になっている事業は、被災地以外の工場への投資にも適用される経済産業省の「国内立地推進事業費補助金」(2950億円)や、文部科学省の「国立競技場災害復旧費」(3億3千万円)など。政府が昨年7月に決定した復興基本方針で、産業空洞化や全国各地の防災対策などを復興施策に含めたことで使途が拡大した。
復興予算は5年間で19兆円の予定だが、平成24年度当初予算までに、すでに18兆円を計上した。25年度概算要求では、各地の防災事業がさらに増えた。
政府の復興構想会議検討部会の専門委員、五十嵐敬喜・法政大教授は「一般予算で計上すべきものを、省庁が復興予算として便乗して計上した。国民感情から離れている」と批判。衆院決算行政監視委員会の平将明理事(自民)も「復興予算の趣旨が拡大解釈されており節度を求めたい」としている。

 

以前このブログで、復興庁について、いくら立派な建物を作っても、中身が問題で、官僚のオモチャにならないようにしてくださいと指摘しました。わたしが危惧した通りになったのは悲しんでいいのか、喜んでいいのかわかりません。
厳格に、その一方で柔軟なチェック機能を付加するのは常識と考えます。また官僚の寄せ集めにすぎない復興庁が、自らが所属した元省庁に緩くなるのは人情というものです。そういう機微にも無関心でいるのは、多くの議員が人情の機微には疎いという証拠です。感性を磨き鋭く反応するような瑞々しさも兼ね備え、国民の負託に応える準備が整っているかどうか。つまり議員は能力以前に庶民感覚を併せ持った人格者でなければならないということ。鈍感な人間に議員はつとまりません。
公明党は復興庁新設の主導的役割を果たしたとさかんにアピールしていましたが、予算を決めるのが議員の仕事なら、その執行を監視するのも議員の仕事なのです。
今までこれと同じようなケースを何回となく経験してきましたが、議員がそこまで頭がまわらないとは、わたしのような素人より能力がないのでしょうか。これはもちろん公明議員だけに言われることではありませんが、少なくとも他党がどうあれ、公明党の政治センスが錆つき、力量低下がはなはだしいのではないかという疑念を抱いてしまいます。大衆政党のスローガンが色褪せます。
政治主導をうたいながら、議員はいつも官僚に操られる。将来、3党合意で成立した消費税増税を悔やむ日が来ても、創価や支援者の間では、公明批判は封印されるのでしょう。すでに、民主党の国民会議設置の単独提案さえ出ている。山口代表、しっかりしてください。


現在の政局について一言いえば、野田新内閣での田中真紀子文科相の登場に、この内閣ははじめから終わっていると思いました。口だけは達者で、教養も女性らしい品もないヒステリー。どんな言葉遣いで子どもたちを教育するというのでしょうね。金権政治の親方だった父親からDNAを授かり、その強引な手法で有無を言わせない人格を受け継いだらしい。政治とは自己弁護であると勘違いしている。国を憂いて今まで何をやったというのでしょうか。生まれ持った口と喉で汚い言葉を吐きながら、辺り構わず喚きちらすように攻撃するだけではないか。同じ新潟県人であることが恥かしい(わたしも真紀子おばさんに負けず劣らず口が悪い )^_^;
それに同じ名字の田中法相は、大臣の仕事をする前に辞任する予定です。事実上、クビということです。閣議も参院決算委員会も欠席し、入院したという。民主党にはこんな議員しかいない。程度の低い議員がそもそも大臣になること自体が、上と下を間違えるような大問題です。しかも法務大臣だという。このブラックジョークは、歴史上で数々あったトンチンカンな人事のなかでも、堂々のランキング入りを果たす面白さがあります。
責任をとっくの昔に投げ捨て賢そうに擬装しているから、国民から選ばれて権力を行使する慎ましい謙虚さも、議員に相応しい人間性も持たず、追い詰められると浅ましい姿を晒すことになる。国民に対し果たさなければならない責任は、そんな軽いものだったのでしょうか。議員にとっての責任は、死に等しい覚悟をしながら背負うような重いもの。つまり必死になれば道は開かれると言いたいのですが、そのような気概を持つことを推奨しても、もうご老人ですから無理ですね。無理ならサッサと国会という舞台から退場されるのがよろしいと思います。生恥をさらし、強欲という老醜ほど見るに耐えないものはありません。

 

 

。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚




松下幸之助氏は、長らく政権にいた保守・自民党の政権争いに憤りを感じ、政治を変えるために信念熱き議員を自ら育てようと政経塾を作りました。池田先生との往復書簡では、政治の話題の多くを松下氏が先生に質問している。そのなかの一つをここに引用するのは決して無駄ではないでしょう。これは公明党にも当てはまるからです。

松下幸之助氏松下幸之助氏と池田先生の往復書簡「人生問答」から、

『議員と政党との関係
松下:国会議員とその所属する政党との正しい関係とはどういうものでしょうか。国会議員という立場と党員という立場にもし矛盾が生じたとき、どちらを優位に考えるべきでしょうか。

池田:国会議員という立場と党員という立場に、矛盾が生じたような場合に、その議員がどのような選択をするかは、その国の政治の実情によって、ずいぶん違ったものになります。
たとえば、アメリカなどの場合は、共和党の議員が党の政策に反対して民主党の提案に同調したり、民主党の議員が共和党の政策を支持したりという姿は、比較的多いようです。これは、個々の議員を選出する基盤である州が独立性の強い地方自治であることから、党の統制力も、それほど強力なものになりえないということも、その要因の一つとして考えられるでしょう。
この点、日本の場合は、地方自治の確立がなされておらず、党に対する個々の議員の自立性が弱いこともあって、党で打ち出された政策に国会審議の場で反対することは、非常に困難なようです。また今日の政党政治の場にあっては、政党から離脱して個人として動いて政治の方向を変えることは期待できないということも、党の指導性を強めている原因の一つといえるでしょう。
さらには、政党政治にあっては、選挙のさい、選挙人は、候補者の人々と同時に、その所属する政党の基本政策をも、選択の基準としています。したがって、政党の政策にのっとっていくことが、選挙民の意思を代弁する正しい道であるという見方も、大事な点であります。
しかし、そういったさまざまな背景はあるにせよ、より根本的な原則論をいうならば、党の決定した政策であっても、それが国民の福祉に反すると考えるなら、国民の信望を担った国会議員としての公的立場を第一義として、毅然として党と対決し、国政を正しいと信ずる方向へ導くために努力することが正しい在り方であると信じます。そのような勇気ある戦いが、日本の政党政治を、より一歩前進させていく原動力となっていくことでしょう。
つまり、国会とは国民のための国会であって、政党のための国会ではありません。国会議員は国民のための国会議員であって、政党のための国会議員では絶対にないはずです。この国民のための議員としての責任を全うし、国民のための国会という機能を果たすために、その手段として党があるわけです。党は、この立場をわきまえ、責任を全うしてこそ、みずからの存在価値を高めていくことができるのではないでしょうか』

議員でなくても、党員や支援者でも同じことでしょう。
「党と毅然と対決していく」
そんな党員なり支援者を大切にしてくださいと、公明党には言いたい。政党にすれば、そういう姿勢があらゆる階層の意見を吸い上げるチャンスにもなり、国民政党として成長していく必須条件になるのではないでしょうか。

現在の民主党政権を松下氏はどのように嘆いているでしょうか。野田首相をはじめ松下政経塾出身者が多い民主党には、政権維持能力が全くないことに、塾を作ったことを後悔しているのではないでしょうか。国民に進退を問うことを恐れている政治家とは最悪の保身の姿です。国民のために最後は潔く散れと言いたい。

また民主主義と投票率の関係についての松下氏の質問に、先生は次のように答えています。
『(中略)まず、第一の投票率がなぜ低いのかという点ですが、その根本原因は、人びとの間にある、ぬぐいきれぬほど深い政治不信です。このなかには、ほんとうに自分が一票を投じたい人がいないから投票しないという棄権者もあるでしょうし、今の政党や行政体制のままでは形だけ民主的な選挙を行なっても、実質的には、国民の真の意思が反映されないといった批判者もあるでしょう。長年の国民不在の政治が、人びとを政治不信に迫いやったというのが、問題の真相ではないでしょうか。
もちろん、なかには投票がめんどうくさいとか、政治がどうなってもかまわないといった無責任さから棄権している人もいるでしょうが、私は右にのべたような意識から棄権する人がきわめて多いのではないかとみています。
票を投ずるということは、代議制の民主主義政治においては、自身の政治的権利をその候補者を信任して、ゆだねるという行為になります。しかし、現実の政治家の動向をみて、ほとんど信任するに値する人がいないとしたら、棄権するという手段によって、自己の政治的意思を消極的に表明する人もいるでしょう。
また、なかには、あるていど妥協して、誰かに一票を投ずる場合もあるでしょう。しかし、ドイツのナチや、イタリアのファシストが民衆の票によって政権を握った例などからすれば、民主主義を破壊するものは、民衆の投票率の低さではなく、むしろ無批判な投票であり、民衆の支持を得ながら民衆を裏切る政治家です。
したがって、まず棄権することを責めるより、やむをえず棄権をするという状態をつくりだしている政治家こそ、糾弾されるべきだと訴えたいのです。
もう一点、民主主義の根本精神は何かということから、棄権の意味を考えなければならないという点に触れたいと思います。
民主主義とは、その基本精神は、一人ひとりの国民の強制されない自由意思ということです。そこには、政治的にも成人し、さまざまなかたちで自主的に関与していく社会人が予定されていることは当然です。したがって、選挙が国民一人ひとりの積極的意思表示の場となって、投票率高いことが望ましい姿であることはいうまでもありません。
しかしながら、その"社会人"が選挙にさいして棄権するということも、国民としての一つの権利であり、自由意思の表明です。信任できる候補者が一人もいないという意思を、棄権というかたちで表現できるように、もともと留意してあるのが現代民主主義というものです。"棄権者を罰する"という発想こそ、まさに"民主主義でなくなってしまう"考えです。
(中略)』


公明党だからすべておまかせとする姿勢は大変問題があると思う。それではまるで票取りロボットです。批判する側も批判される側も、お互い議論を通じて意思疎通をはかるべきです。支持拡大を訴える現場の会員が自分の意見を持たないなどありえないことです。わたしは部員さんによく質問するのですが、なぜあなたは消費税増税に賛成なのですかと。尋ねられた人でまともに答られる人は稀です。信仰で自分を見つめる習慣を課していながら、選挙では自分の意見を持たないなんて、わたしには信じられないことです。 
また投票率の低さを喜ぶ会員や幹部の方がおられます。組織票が有利に働くことばかり考えて、健全な民主主義を志向する公明党理念をお忘れになっているのではありませんか。投票率の低下は、国会に議員に、強いては公明党にレッドカードがつきつけられているんですもの。国を富ませ、国民に奉仕するのであれば、どの政党でも、どの議員でもよいのです。

 

近くに住む未活動の婦人部と偶然道端でお会いしました。いつもなら挨拶程度ですれ違うのですが、わたしが愛想よく微笑んだせいかどうかわからないけれど、近寄ってきて、「女子部の方ですよね」と確認するように話しかけてきました。
以前は会合に参加していたらしいのですが、今は全くの未活動。70才前後と思われる婦人部員は、現在、夫と二人暮し。アパート住いで、夫婦で病院通いが日課ですと言いながら、次のようなお話をしてくれました。
昨日の昼、4~5人の婦人部が突然訪ねてきて、玄関先で、予想される衆院選の情勢や、公明党の福祉政策、消費税増税について長々と話していったこと。あまりのしつこさに腹が立ち、「もう来ないでください、公明党は支援しません」と言ったら、「罰を受けますよ」と脅していったというのです。その後、気分が悪くなり、しばらく寝込んだことなどを話してくれました。話しているうちに興奮が蘇ってきたのか、過呼吸のような症状になり、「落ち着いて、ゆっくりお話してください」と語りかけなければならない始末。
聞き終えて、婦人の言うことは本当だろうかと、わたしは信じられない気持ちだったのですが、ありえないことでもないと思い返しました。
事実がどうあれ、このことはそのままにしておけないと考えて、婦人部本部長に電話をさしあげました。本部長は、わたしが苦手とする唯一の方で、というよりできれば話をしたくない方です。以前、女子部の会合で、わたしが女子部のあまりのだらしなさと社会的問題への無関心さを詰問した経緯があり、そのときたまたまいた幹部を泣かせてしまったことがあります。いじめとか無理難題を押しつけるとかそんな感情的な議論ではなく、あくまでも論理的な信仰上の話題なのに、泣かせた方が悪者になるのは決っている。議論のやり方も知らないお嬢様育ちの幹部を持つと、潤んだ瞳はお上品かもしれないけれど、下っ端は苦労する。いくら悔しくっても女の涙って、恋人の前では流しても、こういうシチュエーションで流すべきでないと思いましたが、そのことで会合出席をしばらく控えたほうがよいなどと注意を受けた方です。創価内ではわたしは異端女子かと落ち込み動揺した時期がありました。好き嫌いで判断することは信仰上、あるいは組織上で最も戒めなければならないことですが、嫌いな食べ物は敬遠しがちになるように、嫌いなものは好きになるように努力する以前に嫌いなのです。人間という美味しくない食べ物は特にそう。
婦人の話を聞き、知ってしまった以上そのままにしておけず本部長にお話しましたが、正確に事情を伝えることができるか心配で、わたしとしたことが、思わず電話に向かい三唱していました。婦人部のことでどうして女子部が悩まなければならないのか。でも先生ならそんなことにこだわらないと思うし、わたしもそういうところは真面目過ぎる性格もあって、見て見ぬ振りができない。
本部長とのやり取りは、また頭にくるものでした。話すべきではなかったと後悔しましたが、もう遅い。
まず相手の婦人部員の名前は出さず、わたしが聞き取ったお話を、わたしの推測を交えず、そのままお話しました。一応の説明を終えたのち、本部長はその婦人のお名前をしつこく問い質すのです。名前を言えないのなら、なぜ言えないのか理由があるでしょうと、まるでわたしの話を検察官が容疑者を問い詰めるように、信用していない雰囲気が伝わってくる。わたしは個別の特殊な例としてお話しているのではなく、注意すべき一般的問題としてお話しているのに、そういう意図をわかっていただけないご様子。それとも女子部から指摘されてプライドが傷つけられたと考えたのでしょうか。
同じ信仰を、生活や人間関係の鑑としているのに、問題意識を共有できない不幸とは、つまりは深いところで広がりつつある創価の病なのではないかと、スピリチュアルな心のざわめきが聞こえ始め、ため息を何度もつきました。なんなんでしょうね、この意思疎通の欠落は。創価の発展は、高度なモチベーションの意義づけとヴィジョンを共有できたからであり、それは問題解決へのプロセスを全員が自分の問題として考えたからです。
できることなら一番に事実確認が大切でしょう。でも個人名を上げたわけではないのでそれもできません。また、わたしを呼び止めて、わざわざお話してくれた婦人のお話がすべて正しいとは断定できない。そのぐらいの冷静さはわたしにもある。でも、本当にそのような熱心過ぎる押し売りのような訪問者がいたとしたら、味方を作るというより、氷解しない敵対感情を植えつけるだけなのではないでしょうか。そのことを言いたかったのに、どうしてわたしが言うとこじれるのかしら。誰かに責任を押しつけて解決するという問題ではなく、ありえないことではないと考えるから、「気をつけましょうね」とお話しているのに、たまたまそういうこともあるかもしれない程度のご返事では、貴婦人だけが持つ真に人間的な高貴さも包容力もない。高貴さを責任感と言い換えてもよい。学会婦人部って妙法の貴婦人なのでしょ。反省の繰り返しが、人間らしく行動できる哲学の要諦です。もちろん、年上の高貴なご婦人に向かい、そのような生意気なことを、わたしはけっして申し上げませんが。
わたしにしてみれば、言うべきことを言うという行為が、とても後味悪いものになりました。ため息がひとつふたつ出るのは、わたしの理性と意志の力に逆らうかのように、感情脳に電流が走り反応しているだけ。ですから、嫌いというイメージがまた一つ、脳のなかのメモリーに、いつでも引き出せるように規則正しく格納されるのです。

 

訪問は一人でする。それが基本です。1対1の対話が対等の立場であり、自分を磨くためにも、また相手の考えを聞くにも最良ですが、創価では2~3人のグループを作って訪問するのを常とします。集団で行動すれば、渡る世間も恐くない。責任も分散される。でも正しくない。
また、アポイントをとり訪問するのが常識。訪問相手が困ろうと嫌がろうと、良いことなのだから許されると考えるとしたら、妙法で戒める増上慢の謗りを免れないでしょう。昔と今は違うのですが、そのような社会常識に対しての認識が甘いことをよく反省しなければ、いずれ創価は迷惑集団として社会から阻害され排除される。そしてその原因を作ったのは自分に他ならないのですが、反対や非難に会うと、魔や難だと騒ぎ立てる愚かしさ。わたしはそんな愚かな一員にはなりたくないし、どうか仲間にも誘わないでください。
会員の、また菩薩の聡明さとは、手段の選択にかかっていることをよく思慮しなければならないでしょう。目的は正しくてもその手段を行ずるときは細心の注意が必要なのです。
相手を気遣う心と節度ある礼儀こそ、誤解を招かない円滑な人間関係を築くための基本です。



行進曲<威風堂々>第1番/エルガー
Land of Hope and Glory
Sir Edward William Elgar

 




Soka.Vc

 

 

罰などとよく会員は自虐的に口走るけれど、これは仏法破壊の極悪人に支払われる代価です。宿業のバランスシートで言えば、自己否定の根源的負債から現われるプロパティーです。また複雑な蓋然性の影響が大きいことから、多くの信者を大御本尊さまから遠ざけた日顕という悪人が罰を受けないで人一倍元気でいるのはこのためです。しかし、正法による行為(人生)の再構築がなければ、生命に刻まれた因果の傷は消え去ることはありません。
妙法との出会いという稀にみる幸運を、幸運と感じられないところに不幸があるのかもしれません。
創価では絶対的幸福とよく言いますが、これは絶対的幸運の意味なのではないか。
もちろん、絶対的なものがあると仮定してのことよね☆彡(「アンナの日記」から)

You can leave a response,or trackback from your own site.

15 Responses to “女子部の嘆き”

  1. ポラリス より:

    各の個人の独自の貢献とは具体的には何を示しているのでしょうか、しかし、組織はそれを認めないと思います。組織が求めているのは、新聞啓蒙、選挙活動、財務だけでしょう。それを率先する人が活動家で人材とされ、役職を与えられ幹部に登用されるのです。
    なんとつまらない組織でしょう。私も二度と活動者会には行かないでしょう。
    今年、最後の座談会て゛「宗教的権威」について研究発表をするつもりです。

  2. アンナ より:

    ポラリスさま、コメントありがとうございます。

    わたしは退く気持ちなどありません。退いたら負けです。
    味を確かめるために創価レストランに立ち寄っているのです。メニューはバラエティーに富んでいるので楽しくなりますね。口に合わないお料理もありますけど。


    聖教啓蒙の地区目標は、他のどんな要件より優先すべき事項であり、無理な啓蒙も目標達成という美名のもとで正当化される。何ごとも勝利することが信仰であり、幸福への道であるという、きわめて明快な論理が、信仰活動のノルマ化を引き起こしているのです。
    ここでも知らず知らずのうちに紋切り型の反応が正しいとする誤解があり、他の解釈が入る余地はありません。企業の営業目標と似かよっていますが、達成されなければ存続自体が危うくなる。
    信仰は営利ではありませんが、宗教運動にはお金が必要との言葉にどれほど惑わされているでしょうか。必要最低限の経済的裏づけが、いつのまにか、最高の宗教は最高の集金団体でなければならないとする見栄っぱり団体に変化しているのです。外面を飾り見栄をはる仏法は非妙法ではないでしょうか。末法にも読誦多聞堅固や多造塔寺堅固があるのですね。また集まったお金を無駄遣いしていないという保証もありません。


    そもそも疑わないことが正しい信仰者の姿勢ですので、善良な会員は、善良さのなかには必ず醜悪さや愚かさが含まれていることに疑問を抱かないのです。疑わないことを疑わないのです。自分の足が鎖につながれているのに、わたしは自由だと宣言しているのですから、とても滑稽ですし、悲しいですよね。

    世のなか、きれいに着飾った建て前論ばかりです。その最たるものが政治家の公約です。選挙で棄権しようとする人の気持ちもよくわかります。創価のなかにも立派な信仰公約がありますが、未活動の方々は、選挙で棄権する人と同じ気持ちなのではないかしら、なんて、とんでもないことを考えるわたし…


    宗教だから理想論が許されるとしても、平和や人権に対する宗教者としての責任倫理とは一体何だろうか。正義とは何だろうか。孤立しても、世界に対し善を説き実行する者が、差別や暴力や虚栄や不条理な現実から、真に自由な者として称賛されるのではないでしょうか。創価はその役目を果たしているのでしょうか。権力悪に抵抗しているのでしょうか。個々において精一杯の小さなチャレンジがあっても、異体同心の創価は、総体として、厳しい現実と戦っているのでしょうか。わたしには疑問に思えて仕方ないのです。


    世界を救うプロジェクトはゴッサムシティーの夢物語なのでしょうか。
    バットマン、たすけて~(^O^)


  3. ポラリス より:

    今の組織はノルマ主義と功徳主義の権威によって、活力が失われていると思います。ノルマを肯定する為に、折伏は難しいからノルマを達成する事も折伏だとのたまう、戸田先生は「世界の人に読ませたい」と宣言されたのであって、「世界の人に取らせたい」とは言っていない。
    中には自分では読んでいないのに取らせる人もいる。これでは先生の人間主義も分かっていないのも当然である。
    特に婦人部は自分の功徳の為に活動しているように思える。我々の究極は「心こそ大切なれ」と「振る舞い」ではないのか、今の組織にはそれが感じられないから、私やアンナさんや未活動家、脱会者が増えているのではないかと思います。先生とウィルソン教授の対談を読み、より今の組織に必要なものは「人間主義」だと確信しました。アンナさん感謝します。

  4. アンナ より:

    ポラリスさま、コメントありがとうございます。

    B・ウィルソン教授との対談「社会と宗教」のなかで、宗教と権威主義について、先生が問題提起されています。
    会員の方々はあまり認識されておりませんが、教義の真実性を不動のものと信じているがゆえに、超越的権威が潜在的に包含されるという問題を解決しなければなりません。これは宗教史から学ぶ教訓なのですが、あらゆる宗教の根本的問題として、民主的組織運営を誓っていても避けることができない問題です。

    先生は次のように言われております。
    『宗教はその教義に関して権威を主張することから、その組織のあり方も、権威主義に陥りやすい傾向をもっています。そして、そのため、多くの宗教において、個人の救済を目的としながら、実際は、権威主義的組織の中に個人は埋没し、圧殺される場合が数多くあったように思われます。この宗教組織のもつ権威主義的傾向というものを解決する方法としては、どのようなことが考えられるのか、それについてお聞きしたいと思います』
    と、教授の意見を求め、また次のように言われています。

    『権威主義を生み出し、支えているのは、大多数の人々の中にある秩序正しさへの欲求や、服従への欲求等であるといえます。そうした人々にとっては、権威は好ましいものであって、否定される必要はないでしょう。しかし、権威を保持した人間は、たんに、そのような支持者に対してばかりでなく、権威を嫌う人に対しても、権威への服従を求め、その力を行使しようとします。そこに非人間的な圧迫がしばしば生じます。
    そればかりでなく、自己の権威を守るために、自由な論議や、創造的な思想や行動に対しても、これを抑圧しようとします。その結果は、その教義の硬直化を招き、自由な、自発的な信仰心が生み出す、宗教の活力ある生命を奪い去ってしまうことになります。
    その意味から、私は「人々が権威を求め、それに服従することに喜びを感じているなら、そのことを非難したり、改めようとしたりする必要はないではないか」という考え方は、誤りであると思います。権威主義的傾向に陥りやすい宗教団体にあっては、それに陥らないよう、絶え間ない自戒と、人々の意識の啓発、また組織機構の改善が行われるべきであり、それが、生きた宗教としての躍動力を保っていく鍵であると、私は考えるのです。
    その点で、私自身、組織を率いてきた経験からも、いま教授が挙げられた、責任を分散し、人々に参画と相互作用を促すこと、それによって、個人の経験や個性的能力を、全会員のために役立たせるようにすることは、きわめて、大事であると思っています。
    また、それ以外に、会員のもつ力を有効に組織化していく道はないというのが、経験上の結論でもあります』



    長い引用になってしまいましたが、先生が「結論」と述べられていることに注目しなければならないでしょう。
    詳しくは実際に本にあたってください。

    これに対するウィルソン教授のコメントは大変示唆に富むものです。

    『宗教運動にあっては、権威主義的な傾向を取り除くことは、他の場合よりも困難です。批判的精神を培うことは、たとえば純粋に知的な状況の中では、明らかに奨励されうるものですが、しかし、それは宗教運動においては、調和を妨げかねません。宗教運動では、一心同体であること、同一の目的に献身することがそれ自体、貴重なこととされているのです。
    宗教において、権威主義を防止するためには、たぶん運動内の各レベルの指導者が、自分に直属する輩下の人々に参画を求め、即応的な相互作用を促すべきことに、気付かなければならないでしょう。責任の分散は、それ自体、権威主義的な傾向の助長を阻む、一つの方法です。命令された仕事の中でだけでなく、より積極的な率先行動が要求される場面においても、各個人が果たすべき独自の貢献の道があるという考え方は、活動の分化を促進しますが、これは、すでにそれだけで、権威主義の特徴的パターン――統一的な支配と人々の紋切り型の反応――が形成されるのを防ぐものです』



    25年前の対談ですが、問題の重要性はますますクローズアップされているでしょう。
    わたしは、遠い将来のことを心配しているわけではありません。先生がご高齢であることを思うと、直近の未来に両賢者が指摘した権威主義への対処が必要になってくるということです。きっと原理主義者がはびこるでしょう。釈尊滅後もそうでした。大聖人滅後も天台宗という母胎に帰ろうとした原理主義者たちがいました。法を体現し、実践面で信仰者の手本となる一人の稀有な指導者がいなくなると、権威をかさにきた原理主義が横行し、それに対抗する勢力もまた生まれるということです。

    このような対立を防ぐために、ウィルソン教授が指摘しているように、各個人の独自の貢献をまず認めなければなりません。現在の選挙支援活動にも見られるように、「紋切り型の反応」に価値を置かないこと、信仰活動は多様であることを認めること、貢献の仕方は個人の考え方、裁量の範囲で適切に判断し、対応しなければならないこと、それが権威主義への対抗措置であることに気づかなければならないのです。創価ルネサンスと喜びながら再出発しましたが、まだその始まりを駈け出したにすぎないのです。

    過去をさかのぼり、歴史のなかから良き手本を探すことも必要でしょう。しかしそれだけではいきづまり、現在進行の人間の行動から、信仰者の正しいあり方を示す指導者が不可欠なのです。人間革命集団と定義される創価にあって、一人一人の英知と実戦力が試されるのです。
    先生が数十年前からたいへん危惧されている問題を、無垢で素直な会員の皆さまはどのようにお考えなのか。わたしは師弟不二ってなんだろうと思うのです。楽観主義を勘違いされているのではないでしょうか。


    創価系ブログはいっぱいありますが、読んでみると、「紋切り型の反応」記事が多いことに気づきます。それでも必要性が認められるからなのでしょうが、自分の言葉で語らない悲しさが、わたしには憐れにうつります。つまり信仰は創造的行為なのです。信仰の奴隷は、自力信仰を目指していながら他力になっている自己なのです。
    当然のことですが、信仰は自己責任であること。自由意思から選択した行動は、すべての責任を自分が負わなければならないことはあらためて言うまでもありません。したがって、一様な型を作り、流し込むことではありません。行為の責任を負いながら、自分の力で、悩める自己を救済していくという自力性、言い方を変えれば、自己変革は、自立した自己完成でなければならないということです。


    創価に対して、よく批判的に、あるいは過大に問題を指摘する人がいます。わたしもその一人と見られているかもしれません。信仰は強制でできるものではありませんから、わたしの批判的行為は純粋さにより近づこうとする、わたしなりの努力であることをご理解ください。先生が言われる自戒なのです。わたしは創価を否定しているわけではありませんし、ただ、一般会員の方々のような反応はしないというだけです。良いことなのか、悪いことなのか、今は結論を出せません。
    客観的になればなるほど結論は遠ざかり、冷静であろうとすればするほど、活力が満ち満ちている組織のなかで、一人取り残されたような寂しさを感じてしまいます。わたしはそもそも、集団活動が苦手なのかもしれませんが、会社やその他サークルでは、人間関係も正常に楽しくやっているのに、なぜ創価のなかだけに、意見の対立や疎外感を感じてしまうのか、わたしにもよくわからないのです。


  5. ポラリス より:

    人は楽しい処へ集まるものです。私にとって今の地区はつまらなく苦痛なので当面行かない事にしました。別に信仰を止めるわけではありません。信仰に純粋で師弟を貫くなら今の組織には従順ではいられません。結論すれば今の組織は人間主義ではないからです。
    妻が泣いて帰ったとき、アンナさんの「組織から祝福もされないで嫁いだ姉がかわいそうでなりません」「涙がポロポロ溢れました」の一節が思い出され胸が痛みました。
    私は自分に正直に信心を貫いていきます。アンナさんも組織とは一線を画された方が良いと思います。「敵は外部ではなく内部」とは戸田先生の御指導です。

  6. アンナ より:

    ポラリスさま、コメントありがとうございます。

    B・ウィルソンとの対談「社会と宗教」において、宗教の神秘性について論じられた部分があります。

    ウィルソン博士は次のように言われています。
    『高度に発達した宗教は、すべて合理的な論述の体系を備えています。ちなみに、ここでいう高度に発達した宗教とは、その聖職者たちが、学究的な性向を身につけ、教義の解明と体系化への知的な構造を発達させ、自己批判の受容力を形成している宗教を指します。そうした合理的な論述の体系は、ときにはますます整頓された、合理的に行われる討論や探究の過程によって発展します。そうした過程で、教義の中心的な争点が矛盾を免れ、洗練され、整合されて、合理的な正当化への基礎的構造がもたらされるのです。
    しかし、このような傾向にもかかわらず、説明できない神秘的な要素は残ります。それを把握するためには、信者は”信仰の飛躍”を行い、精神を傾倒し、知性や経験の制約を棄て去り、中心的原理・存在・遂行に自己を一体化させる、主観的精神を獲得することが求められます。そうした宗教的体系の核心にこそ、救済が見出されるとされるのです』


    ここでいう主観的精神とは、一般的に「悟り」あるいは悟りに近似したものを言うのではないかと思います。しかしこの主観的精神は、主観的であるがゆえになかなか説明できないというジレンマに陥ります。当人でも説明できないものが他人が説明できるはずがありません。たとえば戸田先生の悟りを、同じ境涯でない者がわかったように説明する。言葉で説明できない神秘体験を合理的に解釈し、結果として神秘的な信仰の飛躍を否定することになる、ということに気づかない。
    言葉で説明できないところに仏はいるのですから、抽象的概念にならざるえないのですが、何事も早急に結論を出そうとする現代人には、修行と言われる宗教的錬磨は大変忍耐力がいることに相違ありません。そもそも、自己否定と自己肯定が布の糸のように錯綜する現実世界で、諦めないで希望を見出すことの困難さを、わたしたちはいつも体験しています。自己をアクティブに肯定することは全く宗教的精神を源泉としています。信念が堅固であればあるほど、たゆまない修行者であり、宗教でいう求道者そのものです。

    畏怖であるから逆に、崇敬される事象は信仰にかぎらずよくあることです。人間の力ではどうすることもできない自然に対しての素朴な崇拝もそうでしょうし、社会の統治者に対する、つまりは権力と統治能力への畏敬の念は、宗教的感情を源泉としていると考えることもできるでしょう。過去に宗教儀式と政治が一体のものであったことを考えればうなずけます。
    トインビー対談でも汎神教への回帰が話題になりましたが、世俗的であるがゆえに神聖であるというパラドックスは、在家仏教としての大乗にみられる思考です。人間であれば誰にも仏性があるとするのもそうでしょう。人間を含めたすべてに神聖を認めるのは多様な価値観の受容と寛容性ということですが、その最も深い哲理を説いた法華経の精神を、実際に社会に実現する段階には至っていません。
    選挙活動に我を忘れてる暇はないのですが、このようなエネルギーは熱心であるがゆえに、宗教ナショナリズムと見られるでしょうし、排他的狂信ナショナリズムと世間の目には映るかもしれません。もちろん会員はいっこうに気にする気配はありません。自分の生活を犠牲にしても、使命感が人生の最上位に位置しているのであり、必ず精神的充足とともに世法が仏法に転換すると考えているからです。つまり神聖な戦いと信じて、妙法の守護者たらんと誓願している姿です。
    尖閣領土問題にみられたようにナショナリズムは感染度が高く、特に創価のような頻繁な内部啓発が行われている団体では、広布に関わる戦いのすべてが信仰活動になります。そしてその一つでも疎かにすると功徳が得られないという印象を与えて鼓舞します。
    団結は全員が心を合わせるというだけでなく、互いを励まし、互いを監視することなのです。監視という言葉はあまり適切ではありませんが、わたしのような批判者をすぐアンチなどとレッテルを貼り、除外しようと試みるではありませんか。アウトローを排除しようとするのは宗教組織の宿命です。選挙活動に功徳はないと主張するわたしを師弟不二を持ちだして蔑むわけです。師弟を知らない者が師弟を強調するのですから、わたしは平気な顔をしていますが、落胆ぶりを言葉にしないだけ。

    政治という社会変革を期待する選挙は、国家のためだけでなく国民のために行われるものですが、創価ではその動機に純粋な仏教的信念を堅持しています。しかし支援の動員方法にはよく注意しなければなりません。組織ナショナリズムが行き過ぎると個人の権利や生活、人間性や倫理道徳まで抑圧することを容認するハメになることを思い知らされます。自由であることが限定された自由に変貌しても違和感を覚えないのですから、狂信とは理性を欠くことであることをあらためて思います。
    自己批判の受容・・・ウィルソン博士が言われる高度な宗教の条件です。
    わたしは、組織加入者の一人として自己批判を繰り返しているのです。
    会員も独立し、自己責任を果たす大人にならなければと思っています。


    わたしが好きなこの歌は、なにか象徴的ですね。
    自分を見失うということは他人とのつながりをも見失うということなのですね。
    もちろん、その逆もまた言えますが、人間関係が抱える不信の境界線を越えるために、絡まった結び目を一つ一つ解きほぐしていきたいと思います。

    Lose Yourself/エミネム

  7. ポラリス より:

    先日、ゾーン長とお話する機会があり、ゾーン長が「組織活動の新聞啓蒙と選挙活動に皆を巻き込んで行く」と、のたまったので、私は「だから活動家が減ったのです」と答えてあげました。何事も行き過ぎると破綻します。人は居場所を求めています。今の組織はそれに答えていないと思います。組織が活動として会員に求めているのは新聞啓蒙と選挙活動と財務しかないと思います。それが目的と功徳と思える人はやっていけるでしょうが、私のように手段としか思えない人にとっては苦痛になりますし、おれなくなるでしよう。そうやって未活動家が増えていくのです。組織に人間主義を根本にアンナさんの組織改革五項目を実践すればどんなに楽しい組織になる事でしょう。

  8. アンナ より:

    ポラリスさん、イプシロンさん、コメントありがとうございます。
    ご返事遅くなり申し訳ありません。
    最近ブログも放置ぎみなのです。


    組織の衰退は、いつも青年層の支持の喪失から始まります。現代日本の少子化も反映していますが、創価のなかでも女子部は一つの勢力としてのインフルエンスを持たない。それは末端に行けば顕著で、ほとんど女子部員の姿を見ることができないという現実に直面します。少ない活動家は役職を兼務し、その忙しさのなかで打ち出しをこなすのが精一杯。およそ信仰の喜びや向上について語り合うといった当たり前のことが置き去りにされがちなのです。
    幹部はよくそれがあなたの宿命なのよなどと、無責任なことを軽薄な口調でおっしゃいますが、菩薩の絶対条件は、同苦、共感と言われる他者への思いやりなのではないでしょうか。補佐もなく、ただ報告さえ上げてくれれば組織が回っていると考えて満足している幹部のなんと多いことでしょう。
    わたしは時々、創価の未来を悲観的に考えてしまうのですが、未婚の女子集団が、明るく希望に燃えていてこそ、組織は発展するのではないでしょうか。わたしはそのことを強く確信していますが、現状は理想と程遠い。こういうことを言うのは気が引けますが、男子部は群れてばかりいますので自立している人は少ない。また一人立つという独自のプランを持つ人もいない。


    総本部建設もどうでもよいのです。わたしにとって、一人の部員さんをどのようにしたら励ますことができるか、ということが最大の関心事です。他者の人生に深く関与し続けることは強い責任感がなければできません。それは同時に、自分の人生に対しても、諦めや不誠実な態度であってはならないということ。
    心ないリーダーは実績の強調をしたがります。それが建物といった箱物であることが問題です。女子部の衰退を考えれば、総本部やその他の建物の維持が、将来重荷になるだろうということを危惧します。会員への無制限な善意の要求が、創価崩壊の引き金にならないことを祈るばかりです。

    聖教をはじめ次から次と情報が溢れ出るなか、限られた時間内で読むだけでも大変ですが、こういうときこそ指導のカテゴライズが必要と考えています。思索しなければ何事も深まりませんし、目的も成就されません。崇高な行動理念は学ぶことから始まります。
    したがって、補助的な役割を担う女子部用手引きを作りたいと考えています。題材や資料はいくらでもあるのですが、まったくわたし好みのチョイスですし、そもそも長続きする保証もありません。
    志がある方の思索の手引きになればよいぐらいの気持ちなのですが、小学生のときから整理整頓が苦手なわたしがやるべきことなのだろうかなどと、最初から足踏みして躊躇してしまいます。実際、膨大な資料を前にヤワな意志も挫かれてしまいますね。わたしの部屋は本で埋まっているのです。でも情報を取捨するためには知性が必要です。


    大学を卒業してから今まで、仕事以外の時間をほとんど学活に費やしてきました。信仰活動は真面目であろうと務め、自分の時間さえない毎日です。
    昨年は200万遍に挑戦。12月に入り仕事に追われ180万遍でマス目も終わりました。今年は150万遍に目標を下げて挑戦していますが、まだ100万遍を過ぎたばかりで黄色信号が点滅しています。
    昨年は友人に本流もできましたが、今年は新しい友人関係の進展はまだありません。昨年から続けてきた聖教啓蒙3部は幸い継続中ですが、しんどいことに変わりありません。会社の上司をはじめほとんどの方に啓蒙しました。もちろん断られた方もそれ以上いますが、創価の女子部であることを宣言し、自分の信仰を追い込むために、また律するために、わたしはいつも崖っぷちに立ってもがいているのです。

    わたしたち創価の会員は、常に師である池田先生から宗教人あるいは社会人としての行動規範を学んでいます。つまり、いかに価値ある行動を生み出し社会に貢献していくかということを絶えず自問自答しながら、妙法で説く倫理基準に照し回答を探し求めているのです。

    組織のなかで自分の居場所がないと感じ、また方向性の違いから、共感を得られないと考える会員は次第に増えていくものと思います。一口でいえば形骸化という、組織がたどる道を創価も歩むのです。先生が一番危惧していることですが、問題は置き去り同然にされています。これにはいろいろな理由が考えられるでしょうが、煩雑になるので今ここでは言いません。
    そのための組織改革の提案を要約すれば、
    1)組織のなかでの緊張感や危機感に対する自覚をあらゆるレベルにおいて啓発し共有すること。
    2)指導的立場にある人は、会員の悩みに敏感であること。
    3)権威主義的傾向に陥りやすい宗教団体にあって、絶え間ない自戒と意識の啓発、組織機構の改善が行われなければならないこと。
    4)個人の経験や能力を全会員のために活用すること。そして人々の参画と相互作用を促すこと。
    5)権威を守るために、教義的にも人間関係のうえでも服従の強要をしないこと。非難の抑えこみをしないこと。改善の努力を否定しないこと。そういう人を抑圧しないこと。

    信仰は深い自覚なのです。わたしはこれからも種々の抱える問題に意識的に自分なりにその回答を求めていきたいと考えています。


    自然災害について。
    三世を見通す仏や菩薩でもこのような災難は避けがたい。なぜなのか?
    未来に対しての完全な予測は不可能だからです。未来の確定などありえないからです。
    であれば、因果倶時とは単なる哲学上の命題に過ぎないのでしょうか。一の因に対し一の果があると説くのが正しい仏法なのではないでしょうか。因は同時に果であるとするならば、仏因は仏果という形で報われるはず。それは開目抄にあるとおりです。それも現在であるはず。確定しない未来を言うのは正しい法ではない。未来記別にどんな意味があるのでしょう。どんな価値があるのでしょうか。わたしは現在を生きているのです。その現在に仏果を得たいのです。幼い龍女が即身成仏したのになぜ末法の女人にはそれができないのでしょう。
    ブッダ生誕以来約2500年、この地上に戦火が絶えたことはありませんでした。また凶暴な暴力がいつも支配してきました。自由自在の境涯が仏であるなら、なぜ恒久的平和を実現できないのでしょうか。仏にできないことが迷える凡夫にできるわけがありません。
    理論として正しくても仏の境涯に到達した人は稀だということです。強信者は星の数ほどいても、誰が因行果徳の二法を獲得したのでしょうか。わたしには難信難解という言葉ほど重い言葉はありません。

    人生のこのような問いには誰人も答えることはできない。
    人間の英知を超えているからです。

    衆院解散の見通しです。狂乱と熱狂の社会現象に自分を見失わないように冷静でいたいと考えています。
    世界が終わらないように。
    世界の果てを見失わないように。


    The End of the World

  9. イプシロン より:

    アンナさん こんにちわ。

    いつぞやは私の稚拙なブログにコメントくださり、感謝しております。
    いつかお伺いして、お礼くらい言いたいと思っていたのですが、なかなか機会がありませんでした。

    私は、震災被災者のこと時々考えます。そういう自分になれた一因には、ある本との出会いがありました。『墜落遺体』飯塚訓 著です。もし未読であられるなら、一読をお薦めします。内容は日航123便のあの事故後のご遺体や検視に関して、また遺族の思いに関しての本です。涙なしには読めません。私はこれを読んでおいて本当に良かったと思っています。でなければ、事故・災害現場のことをいくら想像しようとしても出来ないとさえ、思うからです。

    また、アンナさんのコメント中に思想の乱れ云々を災害と結びつけるのはどうか・・・とありますが、残念ながらこれは事実かと思います。立正安国論で大聖人が仰っていることなので。鬼神乱れる=思想の乱れ、と。今回の戦いの中で、私は「法華経十羅刹助けたまえと祈りなさい」といわれた指導を心にとめて日々平和を祈っています。この御書は熱原の法難と蒙古襲来という凄まじい状況の中で大聖人が言われた言葉ですよね。今、政治を見ると、まさにそういう状況であると感じます。件の御文のあとには、「湿れる木より・・・云々」と続いていますよね。

    確かに、終末論を唱えて周囲を扇動するようなことは現に戒めていかなければいけないのですが、ネットなどで言葉にせずとも、1人1人の心の中にはしっかりと「なにが悪であるか」を見抜き、攻め抜いていく姿勢は必要かと思います。
    無論、我々が口にすべきこと、拡散すべきことは「希望」であることは、十分ご承知の上でかかれた文章だと察してはいるのですが。

    お礼のつもりで来たのに、お節介じみたことを書いてしまい、すみませんでした。
    また、機会がありましたら、寄らせて頂きたく思っています。

    ありがとうございます。

  10. ポラリス より:

    私は、恩家宝首相の蓄財は驚きませんでした。なぜなら、中国や韓国では金持ちは悪ではないのです。金持ちが貧乏人に施すのですが、今は施しがなく、その結果貧富の差が拡大したのです。ある女優がアフリカへいって栄養失調の子供達を励ますのですが、その女優の家はお城みたいな大邸宅でした。日本人なら考えられませんが、その国の人達はそれが普通なのです。
    話は変わりますが、地区の私に対する批判はどうも婦人部の人達だと分かりました。頭の固い人達に人間主義を説いても無駄なので相手にしません。とりあえず、協議会は行かない事にしました。婦人部の功徳主義の組織活動は必ず行き詰まると思います。

  11. アンナ より:

    きのうのニュースで、陸前高田市の震災ガレキ置き場からご遺体が見つかったと報道がありました。60才以上、性別はわからないと伝えておりました。
    深夜のニュースを見ながら、ひとり涙を溢れさせる女子とはとても寂しい風景ですが、疲れた体を引きずるように帰宅したわたしには、このような痛々しい事実を受け止める覚悟ができておりませんでした。どんな人生を歩んでこられた方なのか、全く想像できませんが、わたしはこのような不幸な出来事、事件や事故があると、どうか会員でありませんようにと祈るのが習慣になっております。
    新聞には毎日、身元が判明した方々のお名前がまだ掲載されておりますが、忙しい日々にわれを忘れ、震災のことなどすっかり頭の片隅に追いやってしまっていた日常を深く反省したのです。東北ではまだ悲しみが続き、幸せだった過去を引きずりながら立ち直れない人が多くいるのだろうと考えると、同情心とともに胸が苦しくなります。

    大聖人ご在世の鎌倉時代、立正安国論にもありますように天変地変が相次ぎ、民衆は途端の苦しみのなかにありました。立正安国論のテーマは、この苦しみの根本原因を過去の歴史と、聖人智者の普遍的言節から合理的に解明することでありました。現代科学の発達から言えば、多くの自然災害を予測し未然に防ぐことができます。気象情報を正確に知ることができれば、無謀な蒙古襲来もなかっただろうと考えます。あるいは圧倒的な軍事力で占領されていたかもしれない。
    現在でも地震予知は不可能ですが、科学技術が発達すればそれも可能な時代がくるでしょう。そうすればたとえ東日本大震災のような地震があったとしても、被害を最小限に防ぐことできる時代がくるでしょう。

    なかには、このような悲惨な災害の原因を思想の乱れに求める宗教者がいますが、末法の終末思想に犯された姿だと思います。また、1000年周期で大地震があることはすでに立証されていると思いますし、ここで安易に依正不二の原理を持ち出すのもどうかと思います。被災者のなかに多くの信仰者がいたのですから、宿命転換を成し遂げる信仰宿業論を持ち出すのも間違いです。死ほど重要なものはないし、幸せな、より良い死という願望こそ宿業論の根幹なのですから。また宿業からの解放がブッダの教えでもありました。
    以前から感じていたことですが、創価のなかにも神秘主義的な考えが残存していることに違和感を覚えます。これは目に見えないものに対する本能的な畏怖なのかもしれません。
    祈りも自然の前では無力です。自然は、何かに交換しうる等価物を持たない絶対的尊厳です。どれだけ人間が進歩しても、この自然と対抗できる高等倫理は持ちえません。
    祈りが必ず叶うなら、なぜ決して望むことがない悲惨な死があるのでしょうか。自分で設計し自分でその結果を負う菩薩の善なる能動的な人生が、なぜ一瞬のうちに破壊されるのでしょうか。良き生と死を保証するのが祈りなのではないでしょうか。仏は信仰者の身元保証人なのではないでしょうか。祈りとは何なのでしょう。
    十界互具といっても、仏性は時に非情な結末を準備して憚らないのですね。仏だって残酷な地獄の生命がちゃんとありますもん。

    鎌倉時代では大聖人の検証法が最も科学的であり合理的な方法でありました。しかし今はそのような考え方がそのまま適用できるとはかぎりません。

    法華経の精神は多様性を容認し尊重することです。妙法からみれば、あらゆる思想宗教は一断片に過ぎず、それは十方世界の分身諸仏が集合したエピソードに表され、妙法蓮華経仏に統一された宝塔に象徴されると思います。
    「法華経の智慧」の「見宝塔品」のなかで、次のように先生は述べています。
    『宝塔品では、釈尊の分身諸仏を十方世界から集めるために三変土田がなされ、四百万億那由侘という膨大な数の国土が、一つの仏国土として統一されます。
    夜の闇に光明が灯ったような、輝かしき無数の仏の集合。無量の宝石と花々で飾られた瑠璃の大地。連なる宝樹の繁り。めくるめくような黄金の光景です。その中心に宝塔が位置することになる』


    異質な他を認め寛容であることがすなわち仏の慈悲です。異質であると考えているものが、実は自分を構成する一つのピースであるのです。それを否定することは永遠に完結しえない作業を営々と続ける迷える衆生と同じです。迷いとは終点が観えないことです。


    ポラリスさま、コメントありがとうございます。
    一つの信念に基づき結集した集団のなかでは、誰もが積極的に役割を担います。
    自主的に参加している創価のなかで、誰一人余分な人はいないし不必要な人もいません。たとえ批判的な人であっても、創価のなかではかけがえのない大事な人。根本は同じでも、考え方や見方が違うだけだからです。苦労や楽しみを分かち合う家族でさえ、時には意見の対立があるのではないでしょうか。同じように考えることを強要する社会や組織は大変に危ういものです。問題提起のあり方も解決へのアプローチもそれぞれの境涯や立場に応じて多様であるのが健全です。
    役職や役割分担、活動についても様々な考え方があって当然ですが、まず自分はどうしたいのか、素直な自分の信仰上の姿勢を考えてみてはどうでしょうか。一番理解してくれるのは家族だと思いますが、夫婦や親子の間でも冷静な対話こそ、先生が望まれることではないでしょうか。いろいろな意見は批判的になりやすいものですが、自分のための、考えも及ばなかった貴重な教訓が含まれていることもあります。
    身近な人の理解と応援が最も大切です。信仰の喜びは組織の勝利よりも、身近な人々の和のなかにあることを、わたしももう一度思い返してみたいと思います。


    Serenade/Schubert

  12. ポラリス より:

    今晩、妻が泣きながら協議会から帰ってきました。どうも座談会推進長の私に対する批判が原因みたいです。私の努力が皆に理解されなかったのでしよう。これで、推進長とブロック長を辞する事にしました。中には7年前に私に「そこのメガネ」と言われた事で、オンシツしている馬鹿な婦人もいました。私は人間主義の地区を目指して来ましたが、皆はそれを望んでいないのです。残念ですが、私の方から引かせてもらいました。しかし、私は、池田門下生であり、どこまでも人間主義で戦って行きます。ヨロシク!

  13. アンナ より:

    近頃、季節の変わり目を迎えたせいか、メンタリズムの反高揚期に入り、聖教で毎日掲載されている「勝利、勝利、勝利」の連呼に舌打ちしています。
    これは単なる体調の問題で、社会の毒素を集めやすいスピリチュアルな心の窓口を持つわたしに、時々現れる表情です。精神的負担です。以前は、そういうおかしい自分に幻滅感さえ抱き焦りもあったのですが、これはわたしの長所なのだと考えるようになりました。
    わたしには、対面する人間の善性が強く感じられます。だから悪性の感情も強く感じるのです。信仰とは無関係です。単に感受性が強いというだけです。ですから、感情的にならないように、メンタルマネージメントを怠らないように気をつけています。
    がんばるだけでなく、時には紅葉した木の下で、遠望のゆとりを持ち、静かな時間に委ねることも必要でしょう。聖教の鼓舞メッセージを時には遠ざけることも有効なときもあるでしょう。いつも沸騰していればヤケドしかねませんね。張りつめた弦ほど切れやすいものはないのです。人生という音楽を華麗に奏でる精神とは、まさに弦そのものです。


    ポラリスさま、コメントをありがとうございます。

    主義思想から学ぶ自己管理法は、迷いと不明、無知な部分という、誰も陥る窪みがあります。探求心はあっても限界があります。法では無疑曰信を説きますが、六難九易に示されたように、ほとんど不可能に近いのです。自己の信仰をとことん見つめれば、正法誹謗の罪悪を感じ、理解することができます。懺悔とは自己の生命をデフォルトにリセットすることです。
    自己変革の力とはどこまでも意志力です。この意志力を鍛えるためには、社会的制約があってもなんら関係ありません。他者が抱える問題へ勇気の塊となって飛び込んでいくしかないのです。理論的に妙法に矛盾はありません。したがって、生き生きした心の作用を最大限発揮できるように、ただ奮起するのみです。崇高に決心するのみです。
    わたしにとって自己管理ほど大切なものはありませんし、それがわたしが考える幸福概念のすべてなのです。


    人間主義って、人間を愛することから始まります。自己変革の力とはまた、愛の深さなのです。
    マンフレット対談(「潮」7月号)に次のようにありました。
    『ゲーテは「イタリア紀行」で述べています。
    「ぼくは相変らず同じ人間ではあるが、最も内奥の骨の髄までも変化したつもりである」
    「私を内奥から改造する再生の働きは、絶えず私に作用している」
    「私はほんとに生れ変り、新たにされ、充たされている」』


    政治家であり文学者であるゲーテほど、自分と社会の関係を考えた人はいない。自己発見と自己形成の旅はロマンに満ちています。ヒューマニステックな現実認識は、仏法で説く人間主義のベーシックな基盤をなすものです。つまり不屈の楽観主義に貫かれた不軽菩薩の行動こそ正しいのですが、その不軽にはなかなかなれませんね。不軽は人間愛に満ちた人格です。愛する行為は自由精神の発露です。ブッダが教えたのはつまり、自由であることの尊さと難しさです。万人を愛することは高度な精神の昇華が必要なのです。


    話は変わりますが、恩家宝首相の蓄財がメディアに流れました。わたしは別に驚きはしませんが、中国首脳のなかでは信頼できる方と考えていましたので、失望感は拭いきれません。他国のことですので関係ありませんが、翻って、創価のなかで信仰利用の蓄財に励む幹部がいたら問題です。政治指導者も宗教指導者も清貧であっていただきたいと願うばかりです。精神の富める者ほどシンプルで飾るところがないのです。


    華陽の誓い

  14. ポラリス より:

    アンナさんの組織に対する憤りは良く分かります。人はそれぞれ組織に対して、いや信心についても、思い、考え方が違うのです。組織は新聞啓蒙、選挙活動が主な目的になっていますし、それで良しとする方々が多いので仕方ありませんが、それらは手段に過ぎません。会員は新聞啓蒙、選挙活動が目的ではないと思います。私は新聞は読みたい人にとってもらえばいいし、読みたくない人に無理にとらせる必要はないし、選挙に関しても特別に支持していない人にお願いするぐらいです。組織にノルマ、成果主義を導入したのが、組織衰退の遠因だと思います。
    「地域広布の勇者」の中に第二は「温かな人間の交流」とありました。これがあるかないかで、今後の学会の命運がかかっていると言っても過言ではないと思います。
    「まず自分が立ち上がる、その一人がエンジンとなって、変革が始まる。これが広布拡大の永遠不変の方程式であると」ありました。私がそのエンジンになって人間主義を拡大したいと決意しました。

  15. ポラリス より:

    先日、エホバの方が会社に来られ「ものみの塔」の冊子を読んで下さいと言われたので、分かりましたと受け取り、その代わり学会の書物を薦めたら、読めませんと、のたまわったので、すかさず「そちらは、人に無理をお願いしていて、逆にお願いされたら断るのですか、矛盾していますね」と指摘して、なぜ、読めないのかを宿題にしてもらいました。宗教団体はどこもいっしょですね、洗脳されていると思います。やはり特に宗教団体は組織悪に染まりやすいし、官僚化しやすいと思います。そうならない為にも人間主義が絶対に必要だと確信しています。

Leave a Reply