被爆体験を踏まえた我が国の役割
−唯一の原子爆弾被災医科大学からの国際被ばく者医療協力−
平成12年2月29日長崎大学山下俊一

チェルノブイリ原発事故後の健康問題



 1986年4月26日未明、人類史上最悪の原発事故が旧ソ連邦ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子炉4号炉で発生した。すでに14年が経過したが、数百万Ci(キュリー)の放射線降下物による環境汚染と一般住民の健康問題、さらに除染作業に従事した消防士や軍人の健康問題など懸案事項は今なお未解決のままである。むしろ経済状況の悪化や記憶の風化とともに、急性放射線被ばく問題から、晩発性障害に現地では論点が移りつつある。しかし、日本では、先の東海村臨界事故で再度急性放射線障害やその対策が、チェルノブイリ原発事故を教訓に問題となっている。現地の住民達は、事故後長年に渡り放射能の目に見えない影響に対して、不安を持ち続けなければならない被害者意識の中で、精神身体影響問題が大きな関心事となっている。それでは今一体チェルノブイリ周辺では何が起きているのか、著者らの10年にわたる現場での医療支援活動を元に、最近の知見について小児甲状腺がんの多発問題を中心に紹介する。

 1996年4月の事故後10周年では、IAEA(国際原子力機関)/EC(欧州委員会)/WHO(世界保健機関)の国際共同会議での報告どおり「チェルノブイリ周辺では1990年から激増している小児甲状腺がんのみが、唯一事故による放射線被ばくの影響である」、と世界中の科学者が合意している。

 すでに外部被ばく線量が低く、主に放射性降下物の内部被ばく影響を受けているチェルノブイリ周辺の一般住民では、血液疾患の頻度は放射線との因果関係は実証しにくい現状である。現地では貧血や好酸球増加が多く見られ、免疫不全を示唆するデータの報告もあるが、いずれも放射線に起因する確かな証拠は無い。当然白血病の増加も確認されていない。

 それでは何故小児甲状腺がんのみが注目されているのだろうか。幼少時期に体外からレントゲンなどの外部被ばくをうけると成人となってからの甲状腺がんの発生頻度が増加することが知られている。一方、検査や治療などで汎用されるヨード131では晩発性の甲状腺がんの発生報告は無く、一般に人においては内部被ばくによる発がんの証明はなされていない。ところが、チェルノブイリ原発事故では大量に大気中に放出された核種は大半が短半減期の放射性ヨード類であり、空気中や食物連鎖によるミルクなどを介して乳幼児に摂取されている。さらにチェルノブイリ周辺がヨード不足の地方性甲状腺腫の多発地域であることも、普段からヨード飢餓の状況にあったと考えられている。すなわち放射性ヨードの胎児や乳幼児、小児への影響とともに、慢性ヨード不足や事故後の不適切な無機ヨード剤の配布なども考慮される必要がある。

 この間、チェルノブイリ笹川プロジェクトが1991年5月から1996年4月までの5年間で現地周辺12万人の調査解析を終了し、その検診結果をすべて報告している。その後も著者らは本事業に10年間近く関わってきたが、現在、本プロジェクトの成果が最も信頼できる最大規模の臨床データを蓄積している。本活動の特徴は、@放射線感受性の高い子供(事故当時0-10歳)を対象とした健康調査を行い、今後の対策の基本となる正確な情報の収集と住民への正しい知識の伝播につとめ、A広島、長崎の原爆被爆経験と実績を元に、同一診断基準と統一された検診プロトコールを用いて、甲状腺と血液異常の診断に主眼をおき、B更に体内被曝線量の現状評価をセシウム137を測定し対応したことである。チェルノブイリ周辺では事故当時20歳以下の人工構成は100万人と推定され、広範な地域に居住地域が散在するために、ベラルーシ共和国では、ゴメリ州ゴメリ市、モギュロフ州モギュロフ市、ロシア連邦ではブリヤンスク州クリンシー市、ウクライナ共和国ではキエフ州キエフ市、ジトミール州コロステン市の5基幹センターを設置し、検診バスを用いて活動を行った。すべての対象者には、問診表とデータ登録が行われ、甲状腺超音波画像診断、血液学検査、血液スメアの保存、血清TSH,freeT4濃度の測定、血清保存が行われ、異常者は二次スクリーニングで超音波診断の再検査と、エコー下吸引穿刺針生検と細胞診が施行された。


1.甲状腺検診の結果
 すでに詳細は日本語、英語でまとめられているが、その結果を各種甲状腺疾患の頻度として表1に示す。12万人の検診は、統一された診断基準で行われたが、特にゴメリ州において高頻度な画像異常と甲状腺結節を見出している。その中でも60例以上の小児甲状腺がんを発見した。最も放射線汚染が深刻なこのゴメリ州における最近までの年次別甲状腺がんの発見数(手術で確認されたベラルーシがん登録BelCMT)は表2に示すが、その多くは事故当時0から5歳の年齢層に集中している。この事実は、今後もこの地域のこの年齢群を甲状腺がんのハイ・リスク・グループとして注意深いフォローアップが必要である。

2.小児甲状腺がんの特徴
 甲状腺検診で問題になるのは、発見されたがん甲状腺結節や異常甲状腺エコー所見の取り扱いである。これら結節患者にエコーガイド下吸引針生検と細胞診を試みると7%に甲状腺がん(大部分は乳頭がん)が発見される。すでにこれらの患者の半数以上が周辺リンパ節転移を認め、術後のヨード131治療を必要としている。中には肺などへの遠隔転移も認められている。病理学的には、硬化型、繊維化病変が多く見られ、砂粒状石灰化や浸潤傾向が強い。幸いなことに、術後のヨード131治療の効果が非常に良いのも特徴の一つであり、長年にわたる注意深い観察治療が必要である。

3.小児甲状腺がんの遺伝子異常
 正常甲状腺には発現しないret/PTC遺伝子再配列産物が、チェルノブイリ周辺の小児甲状腺乳頭がん組織に高頻度に証明されている。特にタイプ3のret/PTC3が高頻度に見出され、放射線障害との関係で研究が進んでいる。これら受容体型チロシンキナーゼ遺伝子類の再配列異常に関しては、他にもNGF受容体やAxl受容体などの遺伝子異常が注目されている。しかし、rasやp53などの遺伝子異常の報告はない。

4.今後の展望
 チェルノブイリ周辺住民の事故による直接外部被ばく線量は低く、白血病などの血液障害は発生していないが、放射線降下物の影響により、放射性ヨードなどによる急性内部被ばくや、半減期の長いセシウム137などによる慢性持続性低線量被ばくの問題が危惧される。現在、特に小児甲状腺がんが注目されているが、今後、青年から成人の甲状腺がんの増加や、他の乳がんや肺がんの発生頻度増加が懸念されている。長期にわたる国際協調の下での、協力、支援活動が必要であり、今後とも唯一の原子爆弾被ばく国の責務として、現地への貢献が望まれている。
 最後にチェルノブイリの教訓を過去のものとすることなく、「転ばぬ先の杖」としての守りの科学の重要性を普段から認識する必要がある。