八十八話 壺の中身は 1
悪魔。
それは人のそばで囁くものと言えるのではないだろうか?
いつも思い悩む我々の隣で優しく囁き、甘美な罠に誘い込む自らの心、そう言う解釈もできるという話だ。
だが……もし本当に悪魔がいるとしたら? そしてあなたの望みをかなえてくれるとしたら。
あなたは何を望むだろう?
きっと何も考えずにと言うわけにはいかないはずだ。
人と言う生き物は普通、欲を抱かずにはいられないんだから。
そう……普通なら。
「ねぇ……なんかタロおかしくない?」
「うむ……副作用があるとは聞いておったが」
カワズとトンボはその信じられない光景を目の当たりにして、二人そろって目をこする。
タローが窓辺に腰を掛けている。
そして……どういうわけか小鳥と戯れていた。
しかしその表情は穏やかで、むしろ穏やか過ぎて気持ちが悪いくらいだった。
一切の穢れがなく、どこか輝いてさえ見えるというのだから理解不能である。
何か魔法を使った形跡もない。
もちろん小鳥を飼い慣らしていたという話も聞かない。
「アハハハ。すいません小鳥さん。今は何も持っていないのです」
多分エサか何かの話を本人はしているのだろうが、小鳥に餌をねだるつもりもないらしい。
ただ小鳥達は、また一羽また一羽と増えていき、タローの肩や頭に止まっているのである。
本来ならば決して動物の類は近寄ってこない体質と言っていいタローに動物が群がる。
はっきり言ってこれは異常であった。
「体の調子はいかがですか?」
今日も様子を見に来てくれたナイトさんが、俺に心配そうに声をかけてくれる。
ナイトさんはあれからずっと看病しに来てくれていた。
警備もかねてという事だったが、昨日まではまるで動けもしなかったのだから、お世話になった筆頭は彼女で間違いないだろう。
だから俺は自然に笑顔になって、お礼を言った。
「おかげさまで絶好調です。それも貴女のおかげですね」
「……! そんなことはありません。当然のことをしているまでです!」
ナイトさんはものすごく謙遜しているようでぶるぶる頭を振っていたが、そんなことは決してない。
実際、感謝している俺がここにいるのだ、この気持ちは間違いなく本物である。
「そんなことはないですよ。実際看病に来てくれてずいぶん助かっています。みんなの気持ちがとてもうれしいのです」
今回の事もだが、ナイトを含めてどれだけ迷惑をかけたか知れない。
それでも調子が戻るまで、非常識な俺に付き合ってくれたのだから、俺が感謝のあまり、思わずナイトさんの手を握ったのは必然だった。
「あ、あの……それはよかったです」
謙遜するナイトさんだが、俺の感謝がちゃんと伝わっている証だと思うととてもうれしかった。
だがこんなものでは、俺の感謝を伝え切れたとは言えないだろう。
「うん。本当にありがとうございます。ナイトさんがいてくれて本当によかった。今度是非日頃の感謝も込めてお礼をしたいものですね」
「い、いえ! その様なことは必要ありません。ええ、まったく」
だがやはり謙虚なナイトさんは、きっぱりと拒否していた。
しかし、これは俺の頼み方もよくなかったのだと気が付いたのだ。
俺自身はあまりその事を気にしたことはないのだが、彼女はエルフの長、ハイエルフのセレナーデ様から、俺に仕えるようにと言われてここにやって来たのである。
生真面目なナイトさんが気にしないわけがないじゃないか。
「ああ、そうでした。君はこういう公私を混同するのはあまり好きではないと言っていましたね。俺としては……主従なんて言うのはいまいちピンと来ないのですけど」
「そう言うわけにはまいりません! 私は貴方に仕えるためにここにやって来たのですから! そう言うけじめは大切だと思います」
やはりそうだった。
しかしこういう真面目な所は俺が見習わなければならない所だろう。
反省しつつ、だけど俺はちょっとした閃きでこんな提案をしてみたのだ。
「なら今度、適当な日を休日ということにして、お礼をする日を作るのもいいかもしれませんね。俺が個人的に、今回のお礼もしたいですし」
うん。これならば日頃の感謝をこめてちゃんとお礼が出来る。
きっちりお休みを決めておけば、ナイトさんもいつでも羽を伸ばせるはずである。
クマ衛門もそういうのがあれば気分が違うだろう。
これは名案なのではないだろうか?
「こ、個人的にですか?」
「そうですよ? 何かおかしいですか?」
「い、いえ! いやその、おかしいという事はないのですが……」
「ならよかった。いつも君と話す時は変に堅くなってしまって、申し訳ないと思っていたのです。その時はお互いに普通に話せたら素敵ですね」
「……! あ、あの! そういったお心づかいは本当に結構ですので! 今日の所は失礼させていただきます!」
「……あれ?」
すると何故かものすごく慌ててナイトさんがそそくさと出て行ってしまった。
そんなことはないと思うんだけど?
そして、周囲の視線が俺に集まっていることに気がついた。
「どうしたのですか皆さん? 俺の顔に何かついていますか?」
「……いや別にそんなことはないんじゃが」
「……うん、全然大丈夫」
「? そうですか? ならばいいのですが。しかし今日はとても気分がいい日です。
こんなにも静かな気持ちになったことは……たぶん今までの俺には一度もなかった」
言葉通りその日の俺は機嫌がよかった。
良すぎたと言っていいだろう。
ただ、帰ってきてからのみんなの視線が少しだけ気になったが、まだ俺の事を心配してくれているに違いない。
何度も大丈夫だと伝えているのだが、こちらの意図している感情が伝わらないというのは何とももどかしいものだった。
ともかく今の俺は体調も含めて絶好調と言っていい。
病気が治った反動か、普段よりも体が軽いくらいである。
薬を飲んだ次の日、すっかり体の調子が戻った俺は、魔女さんから退院の許可をいただくと急かされるように家に帰った。
きっと、家の方が落ち着けるし、養生しやすいだろうとの配慮だと確信している。
おかげで、自室でゆっくり出来た俺は、現在大事を取って家の中で療養中と言うわけだ。
だがもうそろそろ外に出ても問題ないだろう。
今日は薬を飲んでからだいたい三日目。
何時にもまして、その日は誰にでも優しく出来そうだった。
「そ、そうかの?」
「ええ。歌でも歌いたくなってきますよ。世界平和を祈ってもいい」
「そ、そうなんだ」
いつになく雲は綺麗だし、花は美しく、風が煌めいている。
お日様にありがとうと言いたくなる日があってもいい、俺はそう心から思っていた。
「……やっぱりおかしいよね?」
「……あからさまにおかしいじゃろ」
「あれだよ? さっきなんてナイトさんが来ても、胸とかおしりとか見ないんだよ?」
「うむ、あれだけ露骨じゃったのにな」
「それだけじゃないの! あれだけこまめにご飯だけは食べてたのに! 全然食べてないの!」
「まぁ……あいつの場合、魔法さえ使えれば食べる必要はないんじゃが、ありえんな」
「言動もおかしいし……やっぱこれって副作用だよね?」
「間違いなくそうじゃろ、それ以外の理由が見当たらん。……ならばどうする?」
「決まって……いるでしょう?」
「とりあえず動画でも撮っとくかの?」
「だね♪ なんかまた面白い予感がするよ!」
一体俺はどうしてしまったのだろうか?
世界のすべてが善意で満たされている。
己の内に穢れはなく、魂は清流のように清く澄み渡っているのである。
こういう時は家の掃除をしたくなる。
家の隅から隅まで、いつも以上に磨き上げるのだ。
そうすることで、この心の内がさらに磨かれるというものだろう。
部屋の中に花を飾り終え、汗をぬぐうとカワズさんとトンボが俺を笑いながら見ていることに気が付いた。
「はぁ、すがすがしい。ところでカワズさんもトンボさんもなぜ映像記録用の水晶などを持ち出してきたのですか?」
「いやー、なんだか記録を残したくなっての!」
「そうそう! 日常の何気ない一時こそ、真に残す価値のある映像なんじゃないかな!」
「なるほど……それは素晴らしい。それでは思う存分撮ってください。俺も掃除のし甲斐があるという物です」
「お、おう!」
「そうだね!」
俺はなんという尊い心がけだろうと感心してしまう。
確かに彼らの言う通り、日常の他愛ない一瞬こそ、保存する価値があるのかもしれない。
そして俺も見習おうと、日常の一瞬一瞬に感謝しながら雑巾がけすることにした。
「……でもこのまんま掃除を撮り続けるのってつまんなくない?」
「……そうじゃのぅ。なんかこう……もうひとひねり欲しいところか?」
「そうだ! あの魔女の人から何かお土産もらってなかったけ?」
「おお! そう言えば! あのババアの事じゃ! ろくでもないもんに違いない!」
何故かよく理解出来ない事を囁き合って、二人は仲良く部屋を出ていくと、今度は何か見覚えのある壺を持って来てくれた。
それは、魔女さんの家でお土産としてもらってきたもので、とても前衛的な形をしていた。
表面にびっしり描かれた幾何学的な模様に、やたらリアルな顔が描いてあるのだ。
しかし模様はこの際問題ではない。
むしろまだ中身も確認していなかった事に、俺は自分の愚かしさを痛感していた。
「俺としたことが……なんてことを。せっかくいただいたものなのに中身も確認しておかなかっただなんて! 流石お二人です。俺も一緒に中身を確認させてもらってかまいませんか?」
なんだかんだ言って、ちゃんとお土産まで用意してくれた魔女さんにはいくら感謝しても、し足りないというのに……不覚である。
俺は二人の思慮深い配慮に感動してそう言うと、二人ともとても快く俺に壺を差し出してくれた。
「おおええぞ! むしろお前さんに見てほしい!」
「そうそう! なんだか怪しい壺だしね!」
改めて渡された壺をテーブルの上に置いて眺めてみたが、やっぱりとても珍しい形のユニークな壺でした。
「なにか……強い魔力を感じます。封印でしょうか? 封印という事は何かが閉じ込められているのかもしれません。開けましょう」
これは開ける事は急務だと考えたが、カワズさんの考えは俺とは違うようだった。
「いやいやいや、なんで封印されておるからと言ってすぐ出すことになるんじゃね?」
「何を言うのですか? 誰であろうとこんな狭い所に入れられて困っていないはずはありません。きっとこの封印をした方もされた方も並々ならぬ事情があったに違いないのです」
確証はないが、封印とは何かを閉じ込めるためにするものだろう。
ならば出してあげるのが人の道という物ではないだろうか?
むしろ世の中には悪人なんて存在しないのだから。
「そ、そうかのぅ?」
今一釈然としていない風のカワズさんには申し訳ないが、少しでも早い方がいいと思う。
「なんだか……おもしろくなって来たね!」
「うむ! 予想以上にな!」
「だけどあれって本当になんなんだろう?」
「さぁの? だが鬼が出ようが蛇が出ようが、大した問題じゃないわい」
「……そうだね!」
ただその後すぐに小声でトンボと楽しそうに話していたので、きっと開ける事にも同意が得られているはずである。
「それでは、さっそく出してあげましょう」
俺がキュポンと壺の蓋を開けると、封印らしき魔法が壊れて、煙が噴き出してきた。
封印の下から現れたのはこれまた複雑な魔法陣と、妙な魔力。
紫色の光が壺の中から漏れだし、黙々と煙が部屋中に立ち込める頃には、壺のすぐ上の空間に変化が起こっていた。
ただ俺は壺の中から人影が現れたのを確認してほっと安堵する。
それは徐々に輪郭をはっきりさせていった。
どうやら死んでしまっていたり、怪我をしている様子はないらしい。
その場所に現れ、大きく翼で体を包むようにして浮かんでいたのは、とても派手な格好の女性だったのだ。
薄い水色がかったミディアムヘアーを光の中で波打たせ、閉じていた瞼を開くと、琥珀色の透き通った瞳に俺を映している。
背中についた蝙蝠のような羽は珍しいし、頭に生えた山羊の様な角が生えていたが、とても美しい女性であることは間違いないだろう。
ただ、少し寒そうな格好なのが気にかかるくらいだろうか?
青を基調にしたとても豪華そうな衣装なのだが、どうにも生地が少なめなのだ。
特に胸元と肩の、そして太もも部分の露出はかなり露骨である。
これは風邪を引くと大変だろうから、暖かい服でも作ってあげた方がいいかもしれない。
彼女はゆっくりとテーブルの上に舞い降りると、にっこりと笑って、少し長い八重歯をのぞかせていた。
「はっはっはっは! さぁ! 我を称えよ! 我が拝謁の栄に預かった事末世まで語り継ぐがよい! 我は魔界の大公爵! 悪魔の中の悪魔! 我と出会った運命こそがこの世の誉れと知るがよい!」
だけど口を開いた彼女は、テーブルの上で仁王立ちすると、そのままものすごく王様のように叫んだのである。
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