1896年にドイツを訪れた清の権力者、李鴻章(1823-1901)に対し、ドイツの皇帝ウィルヘルム2世は次のような賛辞を送った。「あなたは『東洋のビスマルク』だ」
李鴻章は、清朝を揺るがした太平天国の乱から洋務運動(近代化政策)、清仏戦争、日清戦争、義和団の乱に至るまで、中国近代史の主な事件を左右した実力者だった。また、壬午(じんご)軍乱や東学農民戦争に介入して清軍を派遣するなど、李鴻章は韓国の近代史とも密接な関係がある。
李鴻章が1901年に世を去ると、その生涯を取り上げた評伝が書かれたが、李鴻章の政敵にして改革派の思想家、梁啓超(1873-1929)はこう書いた。「私とは政敵で、私的な交遊もまた深くはなく、弁護したいという気があるはずもない。しかし本書には、李鴻章を弁護したり、李鴻章のために釈明したりした部分が多い。歴史を書く人間は、必ず公正な心を持って書かなければならないと考えるからだ」
李鴻章に対する評価は、李鴻章が世を去った当時も二分されていた。中国を混乱に陥れた太平天国の乱を鎮圧した功績は評価されたが、対外交渉で屈辱的条約を結んだ点は批判された。しかし梁啓超は、1895年の下関条約と1901年の北京議定書締結をとがめる人々がもし李鴻章と同じ立場にいたとしたら、果たして李鴻章よりも良い仕事ができただろうかと問い返す。
梁啓超の評価によると、李鴻章は英雄だ。とはいえ梁啓超は「時代がつくった英雄というだけで、時代をつくり上げた英雄ではない」と語っている。李鴻章が傑出した英雄になれなかったのは「不学無術」のためだった。李鴻章は国民の本質が分からず、世界の大勢を洞察できず、政治の根本を理解できなかったという。
西洋の科学・軍事技術を受け入れ留学生を派遣するなど、洋務運動により国力を養おうとした李鴻章は、洋務には明るかったが国の事務を理解できず、失敗したという。梁啓超は「西欧の台頭を可能にした改革の原動力は、いずれも上からではなく下から出てきたもので、李鴻章が国民の力を理解できなかったのが失敗の要因」と分析した。
梁啓超は「李鴻章は伊藤博文より一枚上手だが、ビスマルクに比べると学識、権謀術数、胆力いずれも劣る」という人物評を、評伝の末尾に記した。一方で「宗主国の中国が朝鮮の対日外交を直接主管しなかったため、日清戦争が起こるに至った」という説明は、改革派の知識人、梁啓超もまた大国意識から逃れられないという限界を示している。312ページ、1万8000ウォン(約1500円)。