初の女性大統領か、それとも黒人大統領の誕生か、ヒラリー対オバマの大統領予備選挙がデッドヒートを繰り広げる一方、サブ・プライム問題に端を発するアメリカ経済の減速が深刻に懸念されている。世界の目は今やアメリカに集中していると言っても良い。
私はアメリカ問題の専門家ではないが、日米経済摩擦がピークに達した1981年から9・11が起こる2001年まで、取材者として或いはアメリカのケーブルテレビ局C-SPANの配給権を持つ人間としてアメリカ社会に関わってきた。その経験からメディアが報じるアメリカ像に隔たりを感ずる事がある。同時に日米関係の変遷についても報道に欠落した部分があると思っている。今回はそのことを書いてみたい。
日米経済摩擦という言葉も懐かしいが、かつては日の出の勢いの日本経済とアメリカとの貿易摩擦が二国間の最大問題だった。その象徴は自動車である。摩擦がピークに達したのはレーガン政権が誕生した1981年で、日本製自動車をハンマーで叩き壊すデモンストレーションや、バイ・アメリカン(アメリカ製品購入)運動の様子などが連日報道され、自動車産業の中心地デトロイトには反日の火の手が燃え盛り、デトロイトに行くと「日本人は石をぶつけられる」と伝えられていた。ところが私がデトロイトに行ってみるとどこにも反日の火の手などなかった。
デトロイトの空港を一歩出るといたるところ日本製自動車が走り回っている。自動車労働者までが燃費の安い日本製自動車を欲しがり、「百年も王座に胡坐をかいてきた」アメリカ自動車会社の経営を批判していた。ハンマーで日本製自動車を壊した男は市民から批判されてその後は沈黙を守っている。反日の火の手を上げていたのはデトロイトではなく労働組合とそれに支持されたワシントンの政治家達だった。
最終的には当時の伊東正義外務大臣が訪米して自動車輸出の自主規制案を提示し摩擦は沈静化した。日本の自主規制でアメリカは集中豪雨的な自動車輸出に歯止めをかけ、自動車会社は再生に必要な時間的余裕を得ることが出来た。一方の日本はアメリカを追い込むことなく、しかし一定の利益は確保することが出来た。こうして日米の危機は回避された。取材を通して日米交渉のありようを知ると同時にメディアによって伝えられるアメリカ発の情報がいかに管理され真実とは程遠いものであるかを思い知った。
アメリカは農業大国であり、農業輸出国である。そのアメリカが80年代初頭に水田面積を増やしていた。主食でないコメをなぜ増産するのか、コメを生産しているアーカンソー、ルイジアナ、テキサス、カリフォルニアの各州を取材して回った。理由は二つあった。一つは第二次世界大戦後の戦争が主にコメを主食としている地域に起きたという戦略上の理由である。つまり朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争でコメはアメリカにとって効果ある支援物資であった。
もう一つは地域統合を進めていたヨーロッパが域内の関税を撤廃して自給自足体制をとり、アメリカからの農産品輸入を減らそうとしていることへの対抗措置である。
ヨーロッパで作れない作物は何か。そこでコメに目がつけられた。コメはイタリア南部とスペインでしか作れない。アメリカ産のコメをヨーロッパの食卓に送る作戦が考えられた。その際お手本となったのが戦後の日本人にパンを食べさせた成功例である。日本では学校給食で児童にパンを食べさせ、そこからパン食を普及させてアメリカ産小麦の輸出を拡大させた。普及のため日本人学者や教師を動員してパン食がいかに優れた食品かの宣伝もした。我々の世代は子供の頃「コメを食うと頭がぼける。パンを食べろ」と本当に教師から言われたものだ。アメリカはそれと逆の事をヨーロッパでやろうとした。
スイスのチューリッヒに出先機関を作り、「子供の健康にはコメを」、「コメは完全栄養食品です」という標語をヨーロッパ中に広めようとしていた。ライス・サラダ、ライス・スパゲティ、ライス・ピザなどの料理も考案された。やっている主体は民間なのだが、その背後にはアメリカ農務省の国家的農業戦略がある。まさに官民一体となった農業振興策、農産品輸出策であった。
そしてこの取材でアメリカがダブル・スタンダードの国であることも知った。取材当時のアメリカはパーレビー国王を追放したイランと断交状態にあったが、実はルイジアナ州の港からイラン向けにひそかにコメが輸出されていた。表で断交しながら裏では食糧を輸出している。どのような目的かは知らないが、アメリカという国は表で主張している事と裏でやっている事とがまるで違う。国益になると考えれば相反する事を同時に平気でやれる国なのである。
1985年、戦後復興を成し遂げた日本はついに世界一の債権国となり、アメリカは世界一の債務国に転落した。「強いドル」を基本政策としてきたアメリカが国家戦略を転換する必要に迫られた。対日貿易赤字を解消するため「プラザ合意」によって円高ドル安への誘導が図られた。
このようにアメリカは自国の赤字を他国の犠牲によって解消する事が出来る。今回のサブ・プライムの問題でも原因と責任がアメリカにあるにしても、アメリカだけが落ち込むことには絶対にならない。各国は自分を犠牲にしてでもアメリカ経済を守らなければならない仕組みに組み込まれているのである。
プラザ合意による急激な円高は日本の輸出産業に打撃を与え、円高不況から脱するために採られた低金利政策によって不動産や株への投機が加速された。バブル経済の始まりである。プラザ合意を決断したのは中曽根総理と竹下大蔵大臣だが、この二人はその後「民間活力」の名の下に意図的にバブル経済を作り出した。すると地上げなどを通じて闇の勢力が日本経済の中枢に入り込み、それが金融機関からの資金でアメリカの不動産を買いあさるようになり、アメリカは日本人ヤクザの入国を厳しく監視するようになった。
この頃からアメリカは日本経済をソ連に代わる国家的脅威と捉えるようになる。私は冷戦崩壊直前の1990年にアメリカの議会中継専門テレビ局C-SPANの独占配給権を得て、アメリカ議会の審議を日本に紹介する事業を始めたが、最初に見たアメリカ議会が「日本経済の挑戦にアメリカは如何に対抗するか」という議論だった。当時の日本はアメリカにとってソ連に匹敵する「仮想敵国」だったのである。議論の中にはソ連封じ込め戦略を作ったのと同様のチームを作って日本に当たれと言う議論もあった。日米関係は世界で最良の二国間関係と言いながら、同時にアメリカは日本をソ連と同等に見ていた。日本という国を様々なジャンルから解明する公聴会が議会で開かれ、その分析は分厚い報告書にまとめられた。
しかし日本脅威論も長くは続かなかった。1990年8月、イラクがクエートに侵攻して湾岸危機が勃発すると、各国が議会を開いて対応を協議しているのに対し、日本は10月まで国会を開かず、ひたすら橋本大蔵大臣がアメリカ側に支援の金額を問い合わせていた。そのためアメリカの中から「日本は大国になったと思ったが、所詮はジュニア・パートナーだ」との声が上がった。先日NHKで、国会で野党が反対したためお金だけの支援が決まったかのような特集番組が放送されていたがそれは嘘である。国会を開く前に日本政府の方針は決まっていた。またアメリカが日本を馬鹿にした理由は、速やかに国会も開かず、従って何の国民的議論もせずに政府が金だけの支援を決めたところにある。
ブッシュ大統領に代わって戦後生まれのクリントンが大統領に就任すると、新政権は経済の復興を目標に掲げ、日本経済に「追いつき、追い越す」ことを急務とする。しかし「系列」という日本独特のタテの仕組みと、「政官財」というヨコのつながりが複雑に絡まりあった構造は、「とても理解できないジャングルのようなもので、どの枝を切れば問題が解決するのかが分からない。問題を解決するよりも、結果だけ出してもらおう」ということになり、日米経済関係に数値目標が設定されることになる。このため日米関係は著しく冷え込むことになった。
その後もクリントン政権の辛らつな日本批判は続いた。そしてついに日本の三悪は「大蔵省と通産省とそこに人材を送り込む赤門(東京大学)」という結論になる。アメリカの中には「大蔵省に強い権力を与えたのはGHQの占領政策である。アメリカの政策が日本を悪くした」との意見もあったが、日本の役所をアメリカ政府が公に批判したのはこれが初めてだった。そして不思議なことはそれから間もなく大蔵省の「ノーパンしゃぶしゃぶ接待」というスキャンダルが明らかにされ、通産省も組織の内部対立が明らかとなって、それまで戦後日本を復興させたエリート集団としてマスコミは勿論、誰も批判出来なかったこの二つの役所の権威がもろくも崩れていったのである。
折からバブル経済が闇社会の跳梁を許したことへの反省から、大蔵省は金融機関に対して不動産業者や建設業者などへの貸し出しを一斉に停止するよう通達し、日本のバブル経済は一挙に収束することになる。当初は一部の業者だけを対象にした措置だと思われていたものが、それだけにとどまらずやがて日本経済全体に波及して、日本は長く失われた不況の時代に突入していく。このときアメリカの経済学者は「なぜ大蔵省はソフトランディングを図らなかったのか」と首を傾げたが、それ以来日本はアメリカにとって「仮想敵国」でも何でもなくなり、今度は戦後日本人が蓄積した巨額の金を如何に吐き出させるかの対象となっていった。(続く)