カービィ誕生のエピソード

ある日、HAL研究所は倒産寸前の状態。そこで、生き残りを賭け、「誰もが楽しめるゲーム」を作ることになりました。
ということで、まずは社員から新しいゲームのキャラクターを募集しました。
その応募した社員の中に桜井政博氏(以下:桜井氏)がいました。

桜井氏は、「みんなが楽しめるキャラクターは、かわいいものでなければ」と思い、
体がまんまるで、一頭身で、単純で、愛嬌があるキャラクター、「ポポポ」を作りました。
その後のプレゼンで、新しいゲームにはこのポポポが使われることになりました。
そして、ゲームのタイトルは「ティンクル☆ポポ」に決まりました。

企画案を作るとき、桜井氏は『誰もが楽しめるゲーム』には、どんな人でも出来る『簡単な操作』が必要だと考えました。
そのとき、「敵を利用して攻撃する」というアイデアが、桜井氏の頭に浮かびました。
さらにチームのスタッフから、「空を飛べれば、難易度は下がる」「空を飛ぶにはふくらむ必要がある」「なら空気を吸いこまなければ」
「それなら一緒に敵も吸いこんじゃえば」といった発想が生まれ、今までにない、斬新なゲームの構想ができあがっていきました。
完成した企画案もすぐに通り、制作が始まりました。

ある日、広告用のカラーイラストを作ることになりました。
…が、そのとき問題が発生し、HAL研究所はちょっとしたパニック状態になります。
その原因はなんとポポポの「色」です。

当時のゲームボーイはご存じの通りモノクロだったので、
ほとんどのスタッフは、「白色」と思いこんでいました。
そして、広告のポポポも「白色」になりました。
しかし、のちに桜井氏のポポポのイメージが「ピンク色」ということが分かり、広告は修正されます。

ちなみに、海外版カービィの初代作のパッケージに描いてあるカービィが白い理由は、
「ピンク色」という情報が伝わるのが、遅かったために起きてしまったことです。

ところがそのころ、HAL研究所は倒産の瀬戸際にありました。
そのため、しかし、やはりHAL研究所の経営状態は厳しく、「ティンクル☆ポポ」は発売中止になってしまいました…。

そのとき、HAL研の開発技術を惜しいと思った任天堂は、HAL研究所に投資し、HAL研究所は九死に一生を得ました。
そして、「ティンクル☆ポポ」は再び制作されました。
しかし、このソフトがヒットしなかったら、HAL研に未来はないような状態でした。

発売直前、任天堂から「インパクトがないから名前を変えよう」と提案されました。
このゲームは、誰にでも、どんな人にでも楽しんでもらいたいゲーム。
ということは、タイトルに不満を持つ人が、いてはいけないです。
そして、海外(アメリカ)の任天堂で名前を考えてもらうことになりました。

その結果、「ギャスパー」などの名前の中から、桜井氏は「カービィ」を選びました。
ちなみにこの「カービィ」という名前の由来は、任天堂がお世話になる弁護士の名前、
あるいは、アメリカの掃除機のメーカー名から取ったらしいと言われているが、事実は不明です。
選んだ桜井氏本人も、「名前の由来は分からない」と言っています。

そして、「ティンクル☆ポポ」から、「星のカービィ」にタイトルは変わり、みんなが楽しめるゲームとして大ヒットしました。
その後、HAL研究所は任天堂の強力なセカンドパーティとなり、「カービィ」は任天堂には欠かせない人気キャラクターとなりました。


もどる
▲ページの上部へ戻る▲